草原である。
現代社会ではもはや見られなくなった草原である。
はるか遠く地平線を見渡せる草原で、少女は感慨にふけっていた。
立てる。歩ける。走れる。
四年間、ずっと出来なかった。いくらあこがれようとも叶わなかった望みが、今こうして叶えられた。
それだけで、もう満足だった。このゲームをやってよかったと、少女は心から思った。
「さて、頑張ろうっ!」
少女はぐっと気を引き締めてショートソードを構える。さすがソードアート・オンラインというだけあって、最初の装備はSword(剣)のみである。以降は何種類か装備が増えるらしいが、どれも刃があるものばかりらしく、ファンタジー世界を舞台にしたゲームにありがちな魔法や弓、あるいはスチームパンクを舞台にしたゲームにありがちな銃火器などは一切出てこないらしい。
草原の奥にフレンジーボアが現れる。中立属性を持っているのか、出た瞬間に少女を狙うことはなかった。少女は猪に恐る恐る近づき、剣を構えて振り下ろした。
緑のHPゲージは少しだけ削れた。敵対状態になったのか、猪は少女に敵対のまなざしを見せる。少女は剣を向けて少し弱腰になりながらも対峙した。
猪はすぐに動いた。猛烈な勢いで少女に突進して突飛ばそうとする。あまりの勢いに恐ろしくなって、少女は咄嗟に脇に避けつつ適当に剣を振るう。咄嗟のことで狙いも何もなかったが、運のいいことに見事に鼻頭を捉えていた。そしてそれが猪の弱点だったようで、一気にHPゲージが削れた。
少女は少し漏れていた悲鳴をだんだんと笑いに変えた。最初の突進には面食らったが、考えてみればこれはゲームだから大丈夫だ。それに"あれ"に比べたらあんまり怖くない。
「こうやって――こうっ!」
少女はそのまま剣を振るって猪を倒した。一度回避にミスをして直撃してしまったが、痛みはそこまででもなかった。せいぜいが少しぶつけたなあという程度で、確かに痛いには痛いのだけれども現実で起こるだろう痛みよりはいくらかマシだろうと思った。
インベントリを開いてみると、アイテムドロップといくらかのコルがあった。コルとはソードアート・オンラインにおける通貨単位で、これを使えば色々と買い物ができる。ドロップしたアイテムのほうは売却してコルに変えてもいいが、生産系のスキルを取得して別のアイテムにしてもいい。なるほどと少女は小さくうなずいた。
ゲームによって序盤の雑魚モンスターは違う。例えばスライムだったり、例えばウルフだったり、例えばゴブリンだったりする。それがこのソードアート・オンラインではフレンジーボアなのだろう。手に入ったアイテムはありがちな『獣の毛皮』で、コルもあまり多くない。色々なゲームをやってきた少女はなんとなく分かった。
しばらく猪を倒してこのあたりの草原を歩いていると、色々なプレイヤーを目にした。さすがゲームというだけあってどれも美形ぞろいだった。その中でも特に目を引いたのは二人組のプレイヤーだった。
単純にコンビを組んでいるというよりは、片方が片方に教えているという感じで、とても興味深かった。
少女は彼らに少し近づいてみると、彼らもちょうど戦闘が終わったのか少女に気が付いた。
さて何から話すべきか。少女は彼らと話せる距離まで近づいて、ぼーんぼーんという鐘の音に遮られた。
彼らにも同じような音が聞こえたようで、二人とも戸惑っていた。
その時である。少女の耳に鐘の音以外の音が聞こえた。何の音か。
ぶちり、と。
何かが断ち切られるような音だ。断線したかのような、不思議な不思議な音。
見ると、少女の前にいた二人のプレイヤーは、何らかのエフェクトに包まれていた。少女自身もそうであった。
何が起こるのかわからないまま、そのエフェクトは次第に強くなった。
少女の頭が激しく痛んだ。それはフレンジーボアの攻撃とは比べ物にならないほどで、あの時の事故以上にも感じられた。
次の瞬間、少女は『はじまりの広場』に転移していた。あたりには、同じように転移されたのだろう、戸惑った顔のプレイヤーたちが集まっていた。その数は数え切れないほどで、おそらくプレイヤー全員が集められたのだろう。
「――何が起こって……」
少女は不安げにつぶやいた。
すぐに状況は動いた。広場の空に巨大な人影が浮かびあがった。それは自らを茅場晶彦と名乗り、このゲームの製作者であると自己紹介をした。続けて、このゲームはもはやゲームではないと告げた。いわく、今現在の状況がソードアート・オンライン正式版の仕様であるという。ログアウトも出来ず、HPがゼロになったプレイヤーは復活せずに死ぬ。それこそが正式版の仕様なのだと告げた。それは当然ながら誰も信じたくはないことで、少女にとってもそうだった。
茅場晶彦は素知らぬ口調で現実世界のニュースを空に映し出した。それはナーヴギアを着けた状態で死亡しているものが発見されたという緊急のニュースで、全国各地で起こっている現実らしい。
茅場晶彦は続けた。現実に帰りたいのならば、このアインクラッドを100層まで攻略してみせろと。もしも最後まで攻略されたのならば、その時点で生きている者すべてを現実に還してやろうと。
「最後に君たちにとっておきのプレゼントをあげよう。インベントリを開いてみるといい。そこに特別なアイテムを送っておいた」
プレイヤーたちは慌ててインベントリを開いてアイテムを取り出した。それは手鏡だった。少女はそれを覗き込んだ。移っているのは少女のアバター。何もおかしいところはなかった。
「なんだよこれっ!!」
叫び声がした。見ると、先ほどまでの美形ぞろいのアバターが消え去り、ごく普通の日本人顔が周りにあふれていた。少女はどうしてだろうと思い、改めて手鏡を見た。そこには自分の現実の顔が映っていて、先ほどまでの美形は消えていた。
どうしてと唖然としながら手を顔に当てる。鏡の中の野暮ったく幼さもまだ残っている少女も同じように手を動かしていた。
「それでは諸君の健闘を祈る」
茅場晶彦は最後にそう言って消え去った。少女たちプレイヤーは現実の顔を突き付けられて広場に残されたままだった。
我に返った少女は、まずはじめに現状を認識することから始めた。ステータス画面を開いてログアウトの項目がないことを改めて確認する。あわせてレベルや所持品も確認したが、これについてもあの手鏡が増えた以外に変化はなかった。すべて転移前のままである。
「――」
辺りを見ると、まだ唖然としているプレイヤーもいれば、移動を始めている者もいた。少女は痛む頭を押さえながら――そう、まだあの痛みは残っていてずきずきと少女を苛んでいた――深呼吸をして心を落ち着けて考える。このままここに残っているべきかと問えば、違うと即答出来た。確かにこのまま待っていれば現実から助けが来るかもしれないが、あくまでそれは可能性の一つでしかない。
幸い少女のレベルはこの転移前に少しだが上がっている。この町付近の敵ならば問題なく倒せるだろうし、もしかしたらもう少し先まで進めるかもしれない。
それに少女は、不謹慎ながら面白いと思ってしまった。
ゲームの世界に閉じ込められた? 思う存分動ける世界で一日中過ごせるのだ。
死んだら現実で死んでしまう? そんなことは現実でも同じだ。死んだら死ぬ、当然だ。
要はソードアート・オンラインが現実であるということ。それだけだ。
「――大丈夫、私はこの世界で
少女は冷静ぶっていて、その実冷静さのカケラもなかった。ゲームが現実になった。それはなんとも悲惨でなんとも恐ろしいことだろう。だが少女にとっては違った。心のどこかでこの世界が現実ならと思っていた。こうして両の足で歩ける世界が現実ならと願っていた。それが突然降ってわいたのだ、興奮しないはずもない。
ああ、なんと皮肉なことか。少女はこの世界で生き抜くことを誓ってしまった。少女が少女であるというのにもかかわらず。少女は戦い抜くと誓ってしまったのだ。少女が少女であるというのにもかかわらず、だ。なんと勇ましく、なんと悲しいことだろうか。
親愛なる読者諸君。これは滑稽な喜劇でもあり、同時に絶望が彩る悲劇でもある。
私は親愛なる諸君らに伝えておきたい。この物語は終わりに続く物語であるということを。少女の始まりから終わりまでを描く物語であるということを。
今ここに少女の始まりと終わりは為された。願わくは諸君らが少女の想いを、少女の願いを、少女の偉業を目にすることを。どうか最後の最期まで少女を見守ることを願おう。