絶望は希望無きが故絶望である。
僅かの希望さえあれば、それは絶望ではなくただの苦境でしかない。
絶望とは望み無き事。すなわち未来への展望が見えず、未来への期待が一切無き事。
強大な敵など絶望には程遠い。たかが強大でしかない敵など、絶望ではない。
真の絶望は運命。逃れえぬ運命こそ真の絶望なり。
青年は少女の
第一層、はじまりの街。ディアベルの目的の《生命の碑》はここにある。
《生命の碑》とは黒鉄宮と呼ばれる大きな宮殿の中にある、『蘇生の間』に置かれた巨大な石碑である。本来であれば死亡したらこの間で復活するようになっていたのだが、今はぽつんとこの石碑が置かれている以外、何も起こらない。
この石碑には、アインクラッドに閉じ込められた一万人のすべてのプレイヤーの名が記されている。今も戦っているプレイヤーであればただ名前だけが、既に死亡したプレイヤーならば横線が引かれ、脇に死亡原因が記されている。
第十層のフロアボス戦で亡くなった彼らの名前はすぐに見つかった。あの時もこうしてここに来て確認したのだから、すぐに見つけることが出来た。
彼らの名前と死因を見て、ディアベルはあの戦いを想起した。彼らの奮闘、彼らの気迫、彼らの無念、彼らの絶望――。
彼らだけではない。見れば無念のままに散ったものが数多いた。何が始まったのかわからないまま、一抹の希望を捨てきれずにアインクラッドから飛び降りた者がいた。第一層で誰よりも先んじようとして、無謀なレベリングを行なった者がいた。βテスト時代との仕様の違いに潰されてしまった者がいた。
彼らに思いを馳せてディアベルは黙祷を捧げた。彼らだけではない。まだ事情を知らぬときに、外部からの回線切断によって死を遂げた無念の者もいる。何が起こったのか分からないまま死んでしまった彼らへも、静かに祈りを捧げていた。
暫くしてディアベルは彼女に思いを馳せた。彼らが死んで、彼女が攻略組を去るようになって。一体あの間に何があったのだろうか。ここに来てあの戦いを鮮明に思い出したが、それで何かわかったかといえば否と答えるしかない。
「――ん?」
ふと何かがディアベルの目に映った。それはただのプレイヤー名であるはずで、何もおかしいものではないはずである。だけれども何か、妙な違和感を抱いた。
既にその名は視界から消えて、他の文字に埋もれてしまっていた。どこにあったか、何に違和感を抱いたのか、一瞬のことで分からなかった。
それから暫く、ディアベルは何も情報を掴めていなかった。調査は完全に行き止まりに突き当たってしまった。それは単純に彼女の情報が少ないことも大いにあったが、ディアベルの場合、同時に攻略を疎かにはできないという事情があったからだ。彼女のことだけにかまけては攻略組失格である。
それでもディアベルは空いた時間を使って彼女のことを探していた。直接会って話さなければこのことについて何も進まないだろうということは理解していた。どうしてもそれは叶わずにここ数日は徒労を繰り返していた。
ディアベルはふと、もう一度第一層に行くことに思い当たった。あの時の《生命の碑》が脳裏から離れなかった。きっと何かがあって、でもそれは前回は気づけなかった。もう一度見に行くべきだろう、ディアベルはどこか強迫じみた思いで決心した。
幸いというべきかどうか、攻略組の再編はまだ滞っており、ディアベルが一日空けていても問題は少ない。第二十五層の攻略はいまだ本格的に再開は出来ていなかった。
ギルドメンバーにレベリングの指示を出して、ディアベルは転移門を使い第一層の地に降り立った。
思えばこの第一層もいろいろな思い出が詰まっていた。茅場明彦のデスゲーム宣言にトールバーナまでの道のり、トールバーナでの攻略会議に第一層の攻略戦。最初のころこそβテスト時代の知識を生かして最前線で戦いたいという意識しか無かった。そのために第一層のフロアボス攻略戦で無理をしてでもラストアタックボーナスを取ろうともした。
もしもあの時に仮にその企みが成功して、そのままこの城を上っていたらどうなっていただろうか。あの時の自分はただ前に前にという意識しか無かった。ゲーマーとしてこの城を誰よりも先に攻略したいという欲望ばかりだったと思う。確かに他のプレイヤーの救済というお題目はあったし自分でもそう思っていたのだが、改めて思うとそんなもの建前でしか無かったようにも思えた。
「【----】のお陰なのかな、こう思えるのも」
ディアベルのいる《青龍連合》はギルドメンバーの数が非常に多い。それは攻略組ばかりではなく下の層のプレイヤーたちへの窓口も大きく開いているからだった。
攻略ばかりがソードアートオンラインではない。下層での生活も下層での努力も、この世界に生き甲斐を見つけることも、すべて含めてソードアートオンラインだ。《青龍連合》の掲げるモットーである。攻略は重要だが、下層の支援はもっと大切。その一心に活動するギルドになっていた。だからこそ攻略のメインは《アインクラッド解放隊》などの攻略を掲げるギルドに譲っていたのだ。
あの時に【----】がディアベルの命を救ったことで、ディアベルは改めて自分のこれからについて強く考え直すことになったのだ。あの時に死んだ命をどうやって使うべきか。彼女のように自分も誰かを助けたい、その思いがディアベルを動かしていた。
「だから今回は俺の番、だな」
ディアベルはくすりと小さく笑って、彼女と話したいという思いをさらに強くした。
黒鉄宮は変わらず静けさに包まれていた。ディアベルは静かに蘇生の間へと歩いていった。あの時抱いた違和感はなんだろうかと思い出しながら。
そこには先客がいた。誰かが《生命の碑》の前で静かに黙想をしていた。
邪魔にならないよう足音を立てずにその人の隣に立って、《生命の碑》に視線を落とした。
「――ディアベル、さん……」
隣にいても聞き逃しそうなほどの細い声は、存外にこの蘇生の間に響いた。彼女の声は久しく聞いておらず、けれども昨日聞いたかのように思い出された。ディアベルにとってその声は非常に懐かしく、ここしばらくの間ずっと待ち望んでいた声だった。
「【----】」
何から言えばいいのか詰まり、小さく名前を呼んだ。彼女はどこか怯えたようにどこか諦めたようにディアベルを見ていた。彼女の瞳は変わらずに一切の希望を映してはいなかった。ただひたすらに黒に塗れていた。
彼女がここに来ていたのは一体どうしてだろうか。今日までの数か月間、彼女は一体何をしていたのだろうか。そしてどうして彼女は第十層で攻略組を離脱したのだろうか。一体何が彼女をあれほど絶望させたのだろうか。
ディアベルの聞きたいことは多々あれど、言葉にすることは叶わなかった。ただ一言だけ、「久しぶり」とだけしか言えなかった。
「――」
ふいと目をそらして、ただ静かに《生命の碑》へ視線を向けた。何かを言おうとして、けれども躊躇ったようにも見えた。ディアベルは彼女の視線を追うようにして《生命の碑》を見る。
「……聞かないんですね」
永遠にも思える一瞬の沈黙の中、ぽつりと小さく彼女が言葉を漏らした。彼女の言葉の意味は一瞬のうちに消化された。その時には、あの違和感の正体も理解できていた。今まで浮かんでいた疑問がすべて解凍し、新たに一つだけ、絶対的な疑問が浮かび上がった。あらゆるすべてが解凍された中で、一つだけあまりにも巨大で強固な疑問が力強くのしかかってきた。
ディアベルはなんと言うべきか詰まった。何も言えずにただ《生命の碑》を見るだけだった。
ディアベルは気づいてしまった。彼女の抱えた
「気付いたのはたった今だけどね」
ディアベルが口にできたのはこれだけだった。これ以上の言葉は出なかった。
あまりにも重かったのだ。彼女が背負い続けていた絶望は、ディアベルの想像を遥かに超えていて、あまりにも重かった。