帝国歴1177年、レスター諸侯同盟領を南北に貫く街道を行く隊列があった。
隊列の中央を進む豪華な装飾が施された馬車には、特徴的な三日月形の紋章が彫り抜かれている。それはこの国で最も影響力を持つ貴族家のもの。
フォドラ十傑の子孫にしてレスター諸侯同盟盟主一族、リーガン家の人間が乗っているという証だった。
馬車にはリーガン公とその夫人、そして翡翠色の髪と瞳を持つ少女が乗っていた。
少女の名は、ユニティ=フォン=リーガン。
現リーガン公ゴドフロアの一人娘である。
ユニティは大きく背筋を伸ばして車窓から外を眺めていた。
そんなユニティを彼女の両親であるリーガン公夫妻は温かな眼差しで見つめている。
「ユニティ、今からそのように張り切っていてはグロスタール領に着く頃には疲れ果ててしまうよ?」
「お気遣いありがとうございます、お父様。しかし私はこの風景をしっかりと目に焼き付けておきたいのです」
「この街道沿いの? デアドラに比べたら随分殺風景だと思うけれど……」
「ええ、そうかもしれませんね。お母様」
リーガン領都デアドラは色彩豊かな港湾都市で、その美しい景観から水の都と呼ばれている。
フォドラの吟遊詩人ならば一生に一度は訪れたいと希うデアドラと比較したら、この街道沿いの風景は退屈極まりないだろう。
リーガン公夫人が疑問に思うのも当然であったが、ユニティには別の考えがあった。
「確かにこれといって目立つ物はありません。しかし一見何の変哲もない風景から見て取れることはあります」
「ほほう。それは何かね?」
ゴドフロアの問いにユニティは微笑む。
「街道がきちんと整備されていれば商業が活発であることが分かります。道ゆく民の表情が良いものであれば領主の統治が上手くいっている証拠です」
「ふむ……」
「そういった事柄は実際に自らの目で確認しなければ理解したことにはならないでしょう? 私もお父様の跡を継ぐ者としてこの国のことを知っておかなければなりませんから」
はっきりと答えたユニティを前に、リーガン公夫妻は互いの顔を見つめあう。
「これは驚いた。我々の可憐な姫君はいつの間に立派な貴族になっていたんだろう」
「そうですわね。ついこの間までお人形遊びが大好きな子でしたのに」
「もう、お二人してからかわないでください……」
まるで幼児に対するような両親の物言いにユニティは顔を赤くする。
今年で15歳になる彼女からしたら気恥ずかしくなる扱われ方だった。
「私はまだ立派な貴族などではありません。自らの未熟をよく知っているからこそ、此度の旅路に同行させていただいたのですから」
「確かにグロスタール伯爵との対話はユニティにとって良い経験になるだろう。彼はどこまでも貴族らしい貴族だからね」
レスター諸侯同盟は明確な王を戴かない貴族連合である。
各諸侯は自領の統治に関してかなり自由な裁量権を持つ一方で、国家としての方針を決定するための場として『円卓会議』が存在する。
円卓会議で議決権を有するのがいわゆる五大諸侯――リーガン公爵家、ゴネリル公爵家、コーデリア伯爵家、エドマンド辺境伯家、そしてグロスタール伯爵家である。
それ以外の諸侯は議決権こそ持たないものの、政治的に無力かといえばそんなことは決してない。
彼らは五大諸侯のいずれかと関係を構築し、その派閥に加わる見返りに自らの要求を円卓会議で取り上げてもらっていた。
一方で多くの諸侯を派閥に引き入れた五大諸侯は円卓会議で主導権を得て、国政に大きな影響力を持つことができる。
レスターの各諸侯は自領の利益を最大化するため、その勢力の大小に関わらず日夜政治的闘争に明け暮れているのだった。
それゆえレスター諸侯同盟の貴族は同じ国に属するからといって、必ずしも仲間意識があるわけではない。
むしろ対立する派閥の貴族に対しては他国のそれ以上に敵愾心を抱く例も少なくなかった。
そしてユニティの属するリーガン公爵家にとって最大の対立派閥がグロスタール伯爵家である。
北部の大貴族として同盟を牽引するリーガン公爵家と、南部の諸侯に多くの伝手を持つグロスタール伯爵家。
仲が良いはずがなかった。
「グロスタール伯爵といえば、隙あらばお父様の邪魔をしているように思います。この前の円卓会議だって、お父様の提議した新しい商業政策に終始反対の立場をとって、最終的にはエドマンド辺境伯とコーデリア伯を抱き込んで棄却に追いやったではありませんか。あれは南部の貴族にも大いに利があるものでしたのに……」
「ははっ、あれには私も参ったね。グロスタール伯が私の提議に強硬に反対したことで私はそれに対する抗弁に必死にならざるを得なかった。その裏で伯は他の諸侯に外交を仕掛け、同盟屈指の論客として名高いエドマンド辺境伯までもを味方につけてしまったのだから。完全にしてやられたよ」
ゴドフロアはやれやれと首を振る。
ユニティは段々と怒りが沸いてきた。
「思うにグロスタール伯は国家全体の利益など二の次で、リーガン家の持つ影響力を削げればそれで良いと考えているのではありませんか」
「うん。そうだろうね」
「私たち貴族の役割とは領民を善く導き、その生活を保証することにあるはずです。権力はそのために行使されるべきもので、派閥争いの道具にするなど言語道断です! 私は一人の貴族としてグロスタール伯の考えを受け入れることはできません」
「そうか……」
ぷんぷんと怒りをあらわにするユニティに、ゴドフロアは考え込む仕草をする。
それを見て自分の考えが好意的に受け止められなかったことを察知したユニティは、その訳を父に尋ねることにした。
「お父様。私は何か間違っているのでしょうか……?」
「……そうだな。一人の貴族の価値観としては間違っているわけじゃない。だがレスター諸侯同盟の盟主になる者としてはそのままの考えではいけないだろう」
「……はい」
「ユニティも知っている通り、レスター諸侯同盟は300年ほど前にファーガス王家の干渉を良しとしなかった東部の諸侯が武力を以て独立した国だ。そしてその気風は今も受け継がれている。地方を顧みない国王を持たない自由な貴族たちの共同体……それこそがレスター諸侯同盟の存在意義であり、我々の誇りでもある。だからこそ――」
ゴドフロアは一拍置いて話を続ける。
「たとえそれが気高いものであったとしても、この国では個人の価値観を他の貴族に押し付けるようなことは控えるべきだ。盟主一族である私たちは特にね。私たちが強権をもって他の諸侯を押さえつけるようなことをすれば、必然彼らは反発し、レスター諸侯同盟は自壊の道を歩む。そうなればレスターの地はアドラステアとファーガスの草刈り場と化すだろう」
「……コーデリア伯爵家、ですわね」
「ああ、彼らには悪いことをした」
リーガン公夫人の言葉にゴドフロアは気落ちした声で相槌を打った。
10年前、五代諸侯の一つであるコーデリア伯爵家はアドラステア帝国に内政干渉を受けた。
コーデリア伯爵家は自領の南に位置する帝国貴族フリュム家の反乱に加担したことを咎められ、軍隊の進駐を要求されたのである。
そして、他のレスター諸侯の協力を得られなかったコーデリア伯爵家はその要求に屈した。
「アドラステアの連中がコーデリア伯爵家に好き勝手するのを、我々は指を咥えて傍観することしかできなかった。当時のレスターの諸侯たちが別の議題に関して激しく争い、一丸となって外敵の干渉を跳ね除けられる状態になかったからだ」
「お父様。コーデリア家の件は風聞には聞いていますが、その詳細まではよく知りません。一体何があったのでしょう?」
「そうだろうね、諸侯たちの間ではあの件を持ち出すことは半ば禁忌となっている。これまでその詳細を教えることはなかったが……、ユニティも15歳だ。そろそろ知っておいてもいいだろう」
「はい。お願いします」
話題に出すことが禁忌となるのも当然の話だった。
五大貴族コーデリア伯爵家がアドラステア帝国の圧力に屈するしかなかった。
これはつまり、レスター諸侯同盟という枠組みには傘下の貴族を守る力などない、と言っているようなものである。
何しろレスター屈指の大貴族ですら見殺しにされたのだから。
それよりも小さい諸侯が守られることなどどうしてあろうか?
結果的にこの事件により、レスター諸侯同盟の威信は大きく失墜した。
一時はその存続が危ぶまれるほどに。
「あの事件よりも少し前、東方のパルミラの大侵攻があった。多くの竜騎兵を含む数万の軍がフォドラの首飾りに押し寄せてきたんだ。侵攻そのものは察知できていたから、主力として戦うゴネリル公爵家に各諸侯は兵と物資を供出し、多くの犠牲を払ったもののなんとかこれを撃退することには成功した」
「はい」
「基本的に防衛戦では領地など得られるものがないから、一方的に出費が嵩む。だからパルミラの襲来は天災のようなものだと割り切って、出費は必要経費として受け入れるしかないんだが……」
「奪うことしか能にない東方蛮族ども。全く忌々しい限りですね」
「はは……」
ユニティの物言いにゴドフロアは苦笑した。
かつては自分も、そして敬愛していたあの人も同じように考えていたな、と思いながら。
「問題となったのは戦後処理でね。まあ要するに、どの諸侯がどれだけの負担をするかについて大いに揉めたんだ。恥ずべきことに私もその論争に参加してね、グロスタール伯爵などとやり合ったものだ」
「あなた、あれは致し方なかったでしょう。グロスタール伯の主張はあまりにも厚顔無恥なものでしたわ」
「いや、普通の貴族ならともかくレスターの盟主として取るべき行動ではなかった。私が論陣を張ったことで諸侯を調停する者がいなくなったんだ。そのせいで円卓会議は紛糾し、結果として他国に隙を見せた」
「あなた……」
後悔を滲ませるゴドフロアと悲痛な表情をするリーガン公夫人に、ユニティは何も言うことができなかった。
当時ユニティは5歳、ぼんやりとした記憶があるだけで両親の苦労など知らなかった。
「実のところ、コーデリア家が内乱へ加担したというのはほとんど言いがかりに近いものでね。フリュム家から救援要請こそ受け取ったものの、コーデリア家が実際に何かを援助した訳ではなかったんだ。本来ならアドラステアの干渉など一笑に付して拒絶すべきものだった。だけど先程言ったように、その時レスターの諸侯の結束は乱れていて団結して外国の干渉に抗うことができなかった。円卓会議の主導がなければ諸侯が日和見的な態度を取るのは当然だ。コーデリア家は孤立した」
「そんな……」
「情けない話だろう? たかが戦費の負担ごときで揉めたばかりに、私たちは五大諸侯の一角をみすみす他国に差し出したんだ。自由な貴族の自立を謳ったレスター諸侯同盟が……」
ゴドフロアにとってかの出来事は今も悔やむに悔みきれないものだった。
内政干渉を受けたコーデリア伯爵家では代々仕えてきた重臣が尽く殺され、コーデリア伯の子息は長女を除いて皆命を落とした。
ゴドフロアがコーデリア伯爵の顔をまともに見れるようになったのは、ごく最近のことだった。
「もう二度とあのような過ちを犯してはならない。レスターの盟主一族たる私たちはリーガン公爵家ではなく、レスター諸侯同盟全体の利益のために動く。そして諸侯同盟が維持される限り、この姿勢はどんな時でも貫かれるべきだ。たとえ他の五大諸侯がどんなに自分本位の主張をしようともね」
断固とした決意を秘めた言葉に、ユニティは自らの浅慮を恥じた。
彼女はグロスタール伯に強くものを言えない父の態度を内心もどかしく思っていた。
だが事実は違ったのだ。
ゴドフロアは言えないのではなく、自らの信念に従いあえて言わないことを選択していたのだった。
「ごめんなさいお父様、私はお父様のお気持ちも知らずに……。私はお父様が優しい心根をお持ちだからグロスタール伯に何も言わないのだと、とても失礼な勘違いをしていました。此度の同行もグロスタール伯爵に文句の一つくらい言うつもりで参ったのです……」
「ユニティ……」
己の不明を詫びるユニティに、ゴドフロアはかける言葉が思いつかない。
別に大事な愛娘を落ちこませたくて長々と話したわけではなかったのだ。
(あらあら)
先程までの堂々たる話ぶりとはうってかわってオロオロしだしたゴドフロアを見て、リーガン公夫人は心の中で笑ってしまった。
このままだといつまでも娘は落ちこみ夫は困ったままなので、助け舟を出すことにした。
「まあまあユニティ、そんなに落ち込むことはないわ。私から見ても普段のこの人は盟主と言うには優しすぎるくらいだもの」
「お母様……」
「大事な一人娘にはついつい優しい面だけを見せたくなるものよ。私の父様もそうだったわ。そうですよね、あなた?」
「そ、そうだとも!」
夫人の寄越したフォローに、ゴドフロアは透かさず乗っかる。
だてに20年近く夫婦をやっていない。
「それにユニティは私のためを思ってグロスタール伯に憤ってくれたのだろう? そのこと自体はとても嬉しいんだ。だからそう落ち込まないでくれ」
「お父様……」
両親の気遣いにユニティの心は温かくなった。
そう、まだ15歳の自分が未熟なのは当然である。
むしろ大事なのはこれから。
ユニティは将来ゴドフロアの意を汲み、その統治を支えられるような貴族になることを強く決意した。
「お二人とも、ありがとうございます」
それから暫くの時が経ち、隊列は林道に差しかかっていた。
いつしか車内の話題はデアドラにて活動する新進気鋭の服飾職人に移っている。
もちろんこの話を主導するのはリーガン公夫人とユニティの二人。
ゴドフロアは完全に蚊帳の外だった。
何度か話題に入ろうとするも失敗しその度に妻と娘から邪険な目で睨まれたゴドフロアは、女という生き物の理不尽さと政治以外の話題における家庭内での自らの立場の弱さを痛感する羽目になった。
すっかり意気消沈した彼は視線を窓の外に移し、ぼんやりと風景を眺めていたのだが、あることに気付く。
「隊列がほとんど進んでいない……?」
思わず口をついたその言葉に、夫人とユニティは会話を取りやめて何事かとゴドフロアの方へ顔を向ける。
「そういえば先程から馬車が動いていませんね……」
「何かあったのかしら?」
いかに趣味の話で盛り上がっていようとも彼女たちも盟主一族の女性。
若干の緊張を含んだゴドフロアの言葉に反応し、意識を切り替えるのは早い。
「分からない。特に悲鳴や怒声は聞こえないから賊の襲撃ではないだろうが……。おーい、何か問題でも起きたのか?」
「いえ、ここからではなんとも……」
ゴドフロアは御者に尋ねるも、返ってきたのは要領を得ない返事だけだった。
「ここにいても埒が開かないな。少し様子を見にいって来よう」
「お父様。私も行きます」
「あら、それなら私も行こうかしら。一人で車内に待っているのも退屈だもの」
リーガン一家が揃って馬車から降りると、ちょうどそこへ隊列の前の方向から馬に乗って駆けて来る一つの影があった。
「公爵様!」
馬上の主は三人の手前で馬を止めるとすぐに馬から降り、その場で跪いた。
「ミヒャエル。一体何があったというんだ」
ゴドフロアに声をかけられた金髪の男は名をミヒャエル・キルステンという。
彼はデアドラに本拠を構える商人であり、今回グロスタール伯爵がゴドフロアに紹介する美術品の目利きをするために夫婦で隊列で同行していた。
本来この役目はこれまたデアドラに本拠を構える豪商であるヴィクター家に依頼されたものであったが、ヴィクター夫妻には別の仕事があったため、ヴィクター家の薦めでキルステン夫妻が代行することになったのである。
キルステン夫妻とはまだ出会って間もなかったが、誠実な仕事ぶりからゴドフロアは早くも彼らに信を置き始めていた。
「なんと言いますか、厄介な客に道を塞がれまして……」
「厄介な客?」
キルステンの言葉にユニティは首を傾げる。
他国ならいざ知らず、レスター諸侯同盟領内でわざわざ盟主一族の隊列を遮って不興を買いたい者などいるのだろうかと考えていると、一人の人物に思い当たった。
(まさかグロスタール伯爵……!)
本当にこれがグロスタール伯の仕業なら、伯は自分からリーガン公爵家を呼んでおいてその進行を妨害するというあまりにも子供じみた嫌がらせをしていることになるのだが、ユニティはグロスタール伯ならやりかねないと思った。
先程のゴドフロアとの会話を経てもなお、ユニティの中でグロスタール伯爵に対する評価はどん底である。
まあ、貴族としての心構えと個人に対する好悪は別の話なので仕方がない。
それはそれ、これはこれである。
とにかくここにいても何も始まらないということで、ミヒャエルの先導で隊列の先頭へ向かったリーガン家の一行が目にしたのは――。
「ペガサスの子ども、かしら? 酷い怪我ですわね」
「ああ、天馬だ。ただしあれに生えている角は上位種の証」
「――ファルコン、と言うのでしたね。どうしてこんな所に……」
そこにいたのはファルコンの子どもだった。
ペガサスやファルコンといった天馬は、純白の体毛で覆われた神々しい外見が女性に人気を博していると同時に、人を乗せて宙を滑るように移動できる性質から軍事面でも重宝されている生物である。
それゆえ天馬のほとんどは各国で厳重に管理されており、フォドラ大陸で野生の天馬を見かけることは稀だった。
眼前のファルコンには人が管理していることを示すものを身につけていないため、珍しいことではあるが野生の個体らしい。
そしてそのファルコンの様子だが、神々しさよりも痛々しさが際立っていた。
本来は美しかったであろう純白の体躯は血で汚れ、あちこちに何かで切り裂かれたような傷跡が見受けられた。
野生ではまず見かけないファルコンの子どもが血塗れになっているというのは、確かに異常な事態であった。
「こいつが街道のど真ん中に寝そべっておりまして。妻がなんとか治療しようと試みてはいるのですが、この通り怯えて近づけさせてもくれんのです」
ファルコンの目には怯えや不信といった感情がありありと見て取れた。
這いつくばった姿勢ながらも角を出して包帯を持つキルステン夫人を威嚇している。
これではどかすのも容易ではないだろう。
さてどうしたものかとゴドフロアは腕を組んで思案するも、そこで躊躇なく前に出る人間が一人。
「キルステンさん、包帯を貸してください。私が何とかしましょう」
「お嬢様!? ですが……」
「大丈夫です。さあ」
ユニティは自信満々に宣言すると、当惑するキルステン夫人から半ば奪い取るようにして包帯を受け取り、大胆にも地面に横たわるファルコンに近づいていった。
「ユニティ!?」
「……ググ!?」
突然の娘の蛮行に父親が驚愕する一方で、突如近づいてきた新たな存在にファルコンは鼻息荒く警戒の音を鳴らす。
「大丈夫、落ち着いて。私は敵じゃない」
「ググググ……!」
ユニティはファルコンの目を真っ直ぐに見つめ、両手を前に広げゆっくりとだが着実に近づいていく。
「ユニティ、何をしているの………戻ってきなさい!」
「お母様、お静かにお願いします。この子が怯えてしまうので」
リーガン公夫人の制止もどこ吹く風という感じでユニティは更に歩を進める。
キルステン夫妻の顔は真っ青だ。
リーガン公爵の一粒種にみすみす怪我を負わせることにでもなったらどう責任を取ればいいのか――。
「ほら、私の目を見て。あなたを傷つけたりはしない……」
「ググ…ブブブ……!!」
「あなた、なんとかしてください!」
「……今私たちが近づけば、それこそファルコンを刺激しかねないだろう。事ここに至ってはユニティがうまくやってくれるのを祈るほかあるまい」
「ああもうっ。あの子の大胆すぎるところは誰に似たのかしら」
「はは……」
力なく苦笑するゴドフロアには思い当たる節しかなかった。
やはりユニティは外見だけでなく、気性もあの人によく似ている。
さて、いよいとあと数歩で触れられる場所まで来たユニティに対してファルコンの警戒心はピークに達する。
次の瞬間にその角がユニティに突き刺さっていたとしてもおかしくはない。
息を呑むギャラリーの面々をよそに、ユニティはそこで立ち止まると地面に膝をつきファルコンと目線の高さを合わせる。
「大丈夫、大丈夫よ……」
「グブブブブ……!!!」
右手を開いてゆっくりと差し出し、穏やかな翡翠の瞳がファルコンの目に向けられること数秒――。
「ググッ……ブ……」
(――ここね)
ファルコンの目に映る警戒心が僅かに和らいだ瞬間をユニティは見逃さなかった。
すぐに手を伸ばしファルコンの首にそっと触れる。
「よく我慢したね。えらいえらい」
「ブル……ブル……」
抵抗を受けることもなくファルコンの首筋を優しく撫で始めたユニティの姿を見て、ギャラリーからは安堵の溜め息が漏れ出た。
「ではすぐに治療してあげましょう。大人しくしていてね」
ユニティは慣れた手つきで傷を負っている箇所に包帯を巻き始める。
淀みない動きで必要以上に圧迫せずに傷口を精確に塞いでいった。
披露された技術の高さに、ゴドフロアは思わず感嘆する。
「驚いた。ユニティ、医術の心得があったのかい?」
「ふふっ、実は以前アデレードに馬の包帯法を教わったのです。この子は天馬ですけれど似たようなものでしょう」
「……似たようなものかしら?」
「まあ上手くいっているならそれでいいんじゃないかな」
「お嬢様の器用さは大したものだ。確かラファエルと同い年だったよな?」
「ええ。ラファエルにはあれ、真似できそうにないわね。あの子かなり大雑把だし……」
キルステン夫妻はデアドラに置いてきた我が子に思いを馳せる。
大雑把なところがあるゆえ商人には向かないかもしれないが、おおらかで優しい性格ながら芯の強さを持っている我が子の将来を二人は楽しみにしていた。
「さて、とりあえずはこんなものかしらね。お疲れ様」
「ブル」
ひととおりの手当てを済ませたユニティはファルコンに労いの言葉をかけ、しばらく無言でその背中を撫でていた。
ユニティは自らの胸中に一つの望みが生じてきたことを自覚する。
「お父様。この子のことですけれど、私が育ててもよいでしょうか」
「このファルコンをかい?」
唐突な願いにゴドフロアは驚く。
「はい。この出会いには何か運命のようなものを感じるのです」
「運命か……」
大人しくユニティに撫でられているファルコンを見てゴドフロアは考え込む。
野生の個体ゆえ引き取ったとしても揉め事にはならないだろう。
そうなると問題となるのは、彼女がファルコンという一つの生命を責任を持って預かれるか否か――。
(ユニティも15歳、自らの選択に責任を持ってもよい年頃か……)
しばしの思考の末、ゴドフロアは問題ないと判断した。
「良いだろう。その代わり、きちんと育ててあげるんだよ」
「もちろんです、お父様」
父親の承諾にユニティは喜びを露わにする。
やはりユニティも年頃の少女、天馬種を手に入れたことが嬉しいようだ。
そんな娘の姿を見て、リーガン公夫人は微笑んで声をかける。
「良かったわね、ユニティ。ところでその子には何て名前をつけてあげるのかしら」
「名前ですか?」
考えてもみなかったとばかりにユニティは聞き返した。
「そうよ、あなたがその子の主人となるのだから」
「そうですね…………それでは、『アストラル』と」
「アストラルか……良い名前だ」
「ありがとうございます。あなたはそれで良い?」
ユニティに問いかけられたファルコンは心地よさように撫でられている。
特に不満はないらしい。
「ではこれからよろしく頼むわね、アストラル」
「ブルッ」
「さて、これで再び出発できそうだな」
「ええ。少々足止めされてしまいましたわね。グロスタール伯爵が待ちくたびれていなければ良いのですけれど」
事態がひと段落つき、各々もとの位置に戻って旅路を再開しようとする。
ユニティもアストラルを引き連れて馬車の方向へゆっくりと歩き出した。
アストラルは傷が痛むためか動きが鈍く、そんなアストラルをユニティは心配そうに見ていた。
「それにしても誰がこの子にこのような怪我を……」
ユニティが疑問の声を上げた、その時だった。
『グヴォオオオオオッ!!!』
突如その一帯に恐ろしい声が鳴り響いた。
その大音量に周囲の空気はビリビリと震えている。
「きゃあっ!」
「な、なんだ!?」
「あわ、あわわ……」
悲鳴を上げて縮こまる者がいれば、驚愕しつつも状況を確認しようとする者、そしてあまりの衝撃に腰を抜かしてしまう者もいた。
反応は人それぞれだったが、共通していたのは誰も今の声を予期していなかったこと。
そしてそれはユニティについても同じであった。
「い、今のは一体何……?」
これまでの人生で一度も聞いたことのないほど大きな鳴き声にユニティは戦慄する。
間違いなく生き物の鳴き声であったが、それは尋常の生物が出していい代物ではなかった。
しかしユニティに呆けている暇はなかった。
側にいるアストラルの様子が急変したからである。
「グフーーー!! グフーーー!!」
「アストラル!? 落ち着きなさい!」
突然暴れ出したアストラルをなんとか落ち着かせようとすると同時に、ユニティは一つの確信を抱いた。
(アストラルを負傷させたのは、この声の主に違いない! まさか――)
地鳴りとともに近づいてくる存在が鳴き声の主であることを、そこにいる誰もが感じ取れた。
その方角をユニティが注視していると、木々を薙ぎ倒して巨大な影が現れる。
灰色の鱗に覆われた恐ろしい形相に輝くのは黄色い眼球、一軒家の大きさにも達しようかという巨躯を持つ怪物を、ユニティは見たことはなくとも知識として知っていた。
「魔獣………!!」
『グヴォァアアアァァ!!!』
魔獣は牙がずらりと並んだ大口から涎を撒き散らしながら、最も近くで無防備な姿を晒している者――キルステン夫妻に襲いかかった。
二人とも魔獣の咆哮によって、身体が硬直してしまっていた。
「キルステンさん!」
「あっ―――」
最後に発しようとした言葉は何だったのか、顔一杯に恐怖を浮かべたキルステン夫妻の立っていた場所を魔獣の大顎が通過する。
先程まで話をしていた人間が、一瞬のうちに下半身だけの血みどろの肉塊と化した。
「ひっ………」
「お嬢様っ!! お逃げください!!」
「―――わ、分かったわ!」
凄惨な光景を目の当たりにしてユニティは一瞬固まるも、急いで駆けつけてきた護衛の声で正気を取り戻す。
取り敢えず元いた馬車のある場所へ戻るべく、暴れるアストラルを何とか牽引する。
だがすぐに足を止めざるをえなかった。
なぜならーー。
「ぎゃあああ!!」
「―――ッ!」
ユニティが目にしたのは、自分たちの乗っていた馬車が馬や御者もろとも魔獣によって破壊されるところだった。
そう、この場に出現した魔獣は一体だけではなかったのだ。
「か、囲まれているの……!?」
林道を進んでいる最中であったがゆえに隊列は縦に伸びきっていた。
それに合わせて護衛兵が分散していたことから、それぞれの箇所における戦力は少なく防備は脆弱になっていたのだ
。
そして今、その弱点を突くような形で複数の魔獣が同時に襲いかかってきている。
「ユニティ!」
「お父様!」
夫人の腕をとったゴドフロアがユニティのもとに駆けてくる。
二人はユニティより一足先に馬車へ戻っていたが、乗る直前に咆哮を耳にし、間一髪襲撃から逃れていた。
両親の無事を確認してユニティは安堵するも、すぐに息苦しいほどの絶望感がその身を襲う。
この状況で一体どこに逃げればいいのか――。
「もうここは駄目だ! 急いでここから逃げるんだ」
「ですが、どうやって……」
力なく聞き返したユニティに答えることなく、ゴドフロアはその隣のアストラルに目を向ける。
近づいて体の具合を確認すると一度頷いた。
魔獣に対する恐怖で冷静さを失っているアストラルの頭に、ゴドフロアは手を乗せると力を込めた。
想いを伝えるように。
「アストラル、よく聞いてくれ」
「ブルッ……! ブルッ……!」
「頼む。もうこの子を救えるのは君しかいないんだ、だから――!」
「ブルッ………ブル……?」
「ああ。怪我で辛いだろうが君自身も生き残るためだ。どうか、飛んでくれ」
強い想いが届いたのか若干の落ち着きを取り戻すアストラル。
言葉は分からずともゴドフロアの目を見て、その意思を受け止める。
しかし一方で冷静でなくなったのはユニティだった。
「飛ぶ………とおっしゃられたのですか、お父様?」
「ああ」
「飛ぶって……」
改めてアストラルの姿をユニティは見る。
流血こそ包帯で止めたものの体の状態は万全からは程遠い。満足に飛行できるかどうかも怪しい。
そもそもアストラルはまだ子どもで、人が乗れたとしてもせいぜい一人が限度――。
ユニティはゴドフロアの意図を察した。
「私だけっ……私だけ、アストラルに乗ってこの場から離脱しろと言うのですか!?」
「そうだ」
必死な表情で尋ねるユニティに返ってきたのはどこまでも冷徹な答えだった。
それを到底受け入れることなどできないユニティはリーガン公夫人の方へ視線を向ける。
が、彼女もあくまで毅然とした表情でこう言い放った。
「乗るのよ、ユニティ。ここでリーガンの血筋が絶えることなどあってはならないのですから」
「しかし! お母様たちを置いてなどいけません! それに私には天馬の騎乗経験などないですし――」
「さっきユニティは馬も天馬も似たようなものと言っていたじゃないか。馬には乗れるんだ。しがみついて振り落とされないことだけに集中すれば、後はアストラルがどこかへ運んで行ってくれるだろう」
「そのような屁理屈を……!」
「ユニティ。聞き分けのないことを言わないの」
抗弁しようと母親の顔を見たユニティは、うっ……と言葉を詰まらせる。
「貴族たるもの、いかなる時にあっても責務を果たさなくてはなりません。戦争や疫病で命が失われたとしても、その意思は残された者が引継ぎ、次代に繋げる。そうして私たちはフォドラの守護者として血脈を紡いできたのですから。わかるわね?」
リーガン公夫人の表情は、この状況にそぐわぬほど穏やかなものだった。
ユニティの両目から涙が溢れ出す。
直感的に悟ってしまったからだーーこの人はここで死ぬことを既に受け入れていると。
「……っ、嫌です! 私はまだお父様やお母様と……!」
「私たちも同じ気持ちだよ。だがそれはもう叶いそうにない。ならばせめて、私たちにとって何よりも大切な娘だけには助かってもらいたい」
「そんなっ……」
ゴドフロアが優しく説くほどにユニティの感じる絶望は大きくなる。
足腰から力が抜けて、その場にへたりこんでしまう。
悲痛さのあまり嗚咽を上げ始めた彼女にリーガン公夫人は歩み寄り、優しく包み込むように抱擁した。
「すまないね、ユニティ……」
娘の姿を見て申し訳なく思うゴドフロアだったが選択に迷いはなかった。
全てを失う結末だけは許容できない。
そして何を捨て何を拾うかという話ならば、容易に決断は下せた。
(この子は強く、賢い。私たちがいなくとも立派に育ってくれるだろう。父上には負担をかけてしまうな……)
最後のひと時を過ごすリーガン一家だったがそれも長くは続かない。
魔獣たちはあらかた隊列を蹂躙し終わったようで、徐々に彼らのいる場所に集まってきていた。
「旦那様っ、もう持ちません!」
「……ッ。ああ、分かった!」
「突撃して時間を稼ぎます。その間に、どうか!」
最後まで生き残っていた護衛兵たちがそれぞれ捨て身の特攻を敢行する。
仕える主を守りきれなかったことを悔やみつつも、せめて最後の意思だけは叶えるために。
そんな彼らの献身にゴドフロアは心から感謝し、へたりこむユニティに近寄った。
「時間がない。乱暴になってすまないが、許してくれ」
「お父様何を………きゃっ!」
ゴドフロアは強引にユニティを抱え上げるとアストラルの上に跨がらせる。
日頃弓術で身体を鍛えているだけあって、少女一人を持ち上げるのは簡単だった。
「じゃあ頼んだよ、アストラル」
「ブル」
任せろと言っているようなアストラルの鳴き声に、リーガン公夫妻は大きく頷く。
そして最期の言葉をかけるべく跨がるユニティの側に近寄った。
「ユニティ、あなたのことを愛しているわ。これまでも、そしてこれからもずっと……」
「無理に私の後を継いでレスターの盟主になる必要はないんだ。君は君の信じる道を進んでくれ」
「待って、待ってください―――」
そんな言葉は聞きたくない。自分もここに残る。
いくつもの言葉がぐるぐるとユニティの頭の中を駆け巡ったが、なぜかうまく口に出てくれなかった。
「さあ行け、アストラルッ! この子を魔獣の手の届かない場所まで運んでくれ!」
「ヒヒーーン!!」
「だめっ!」
ゴドフロアの掛け声でユニティを乗せたアストラルは甲高く嘶くと宙に浮き上がり、そのまま滑るようにして低空を駆け出した。
「ぐっ……」
空中に浮いた状態で加速する感覚はユニティにとって未知のものだった。
この速度で落馬したら無事ではすまない。
アストラルの背中から振り落とされないように顔を伏せてしがみつくので精一杯だった。
『グヴァアアア!!!』
その場から逃げ出そうとする獲物を喰らうべく、一体の魔獣が滑空するアストラルの横から襲いかかる。
「ヒヒンッ」
しかしアストラルは魔獣の一撃をひらりと躱すと、その勢いのまま一気に空へ飛翔した。
「うっ……、飛んだの……?」
突然浮上した感触にユニティは何とか顔を横に向けて状況を確認する。
そのまま全速力で離脱するのかと思ったら、どうやら速度を落として旋回を始めたらしい。
それは苦しいながらもアストラルがした、ユニティへの気遣い故のものだった。
「お父様、お母様………!」
ちょうどアストラルの背中の上からユニティは両親の姿を見ることができた。
ゴドフロアたちは無事にユニティが空中に逃れたことを確認して安堵の笑みを浮かべていた。
そしてそんな二人のところへ、護衛兵を蹴散らした魔獣の一体が猛烈な勢いで近づいてくる。
「いや…………やめて…………」
絞り出すようなユニティの懇願が女神に届くことはない。
魔獣の前脚が、勢いよく二人へ振り下ろされ―――――。
地の文書くのって本当に大変ですね……。
プロット自体は固まっていますが文章を構成するのに時間がかかるので、次話投稿は当分先になると思います。
それではまた。