明治の時代は日本にとって変化の時代であった。
江戸の名が東京に変わり、西洋の文化で街が一気に発展していった。
その変化の恩恵は、鬼にも届いていた。
「素晴らしきかな人の知恵」
人類の科学は夜に勝っていた。暗闇を照らす、広く眩い科学の灯。
太陽と違い、鬼にも優しい安心設計の光。
電灯の普及である。
電気という存在は無惨たちの生活を大いに変えた。
「家の中が明るい!」「顕微鏡が見やすい!」
「夜の町で薬を売れる!」「狛治さんと一緒に町へお出かけできる!」
「本を買いに行ける!」「俺の生活はあんま変わらねぇ」
とはいえ、鬼を人に戻す毒の研究はあまり進まなかった。
「いまさらだけどさぁ。鬼を人に戻す方法って本当にお薬なのかな?」
梅の何気ない一言が家中を凍り付かせた。
珠世も薄々感じていた。
闇雲に毒や薬を研究し、人や鬼を救う薬は副産物として数多く生まれてきた。
だが本来の目標、鬼から人に戻る方法は依然として霧の中。
『鬼を人に戻す薬。本当にこの方法でよかったのか?』
全てを根底から覆すのが怖くて、誰も口には出さなかったことだ。
「だ、大丈夫ですよ珠世さん! 細胞の分裂阻害だけじゃなくて、老化する薬も。それに、鬼の細胞を破壊してしまう薬も作れたじゃないですか!」
薬というかほぼ毒。そんな成果を並べて褒める無惨であったが、珠世は少し気落ちした様子を見せる。
「でもさ、珠世はどうしても人に戻らなきゃ駄目なの?」
梅の追撃するような問いかけに珠世は目をカッと見開いた。
「私は、鬼の体になったせいで夫と子を喰い殺した。そんな体のまま死にたくないから」
「珠世様! おい梅、なんてことを言うんだ!」
どこか遠い目を見せながら淡々と理由を口にする珠世の痛々しい姿に、狛治は梅を責めた。
「でも、珠世も無惨様もいつも辛そうじゃん。あたし嫌だ! 見てて辛いんだもん!」
そう叫んで泣きはじめた梅を、恋雪は優しく抱きしめた。
その場に沈黙が流れた。
そんな中、妓夫太郎は頭を掻きむしりながら言いにくそうに口を開いた。
「俺はよぉ。昔は辛かったけどよぉ、鬼になれて楽しい事ばっかだからなぁ。どうしても人に戻って死にたいっつうのが分からねぇんだが。でもなぁ。俺にとっちゃ梅だけなんだがな。家族が苦しみながら生きてるっつうのは我慢できねぇんだよ」
上手な言い表し方ができず、もどかしさの中で妓夫太郎は最後に伝えたいことを口にした。
「そこまで無理して人に戻ることにこだわらなくったって、いいんじゃねぇか?」
その次の日。
珠世は忽然と姿を消した。
「無惨様! 珠世様がどこにもいらっしゃいません!」
珠世は普段から外に出ることは少なく、一人だけで、しかも無断で出ていくことは一度もなかった。
「まさか昨日の話を思い詰めて? 人に戻るのを諦めて、生きることも諦めたんじゃ……」
狛治は唇を震わせ不安の色を出しながら、すがるように無惨に尋ねた。
「……可能性はあります。止めに行かなくては。私も、いつでも死を受け入れる覚悟を持って生きてきましたが、その最期は心残りなく逝きたいと考えていました。ですが、今の珠世さんが死を望むなんて、それはあまりにも悲しいことです!」
無惨の言葉に狛治たち4鬼は無言でうなずいた。
その頃、珠世の姿は町から離れた森道の中にあった。
鬼として生き続けることに疲れた彼女は、無惨たちから離れ、自分だけの死地を求めていた。
どうせ死ぬなら愛する者の側で。
今は縁壱の子孫に任せたかつての彼女の家。夫と子の墓のある家を目指し、彼女は足取り重く向かっていた。
年に一度は通る道。数百回は往復した行き慣れた道であるが、その地点は夕陽が落ちると一層、暗闇が深まり人の心を不安にさせる寂しい場所だった。
木々の揺れる音すら妖の手招きにすら見えてくる闇の小道。珠世の草履の音が虫の音色の中に溶けていた。
「はあっはあっはあ」
その時、彼女の背後から人の走る足音と荒い息が聞こえてきた。
息の乱れや強弱の変化から、その主が女性であることを珠世はすぐに見抜いた。
しかも喉から口先にかけて、酷く妙な形をしていることも。
「待ちやがれ」「手を焼かせるんじゃないよ!」
その荒い息の女性を追うように、2つの足音と怒号が迫っていた。
只事ではない予感に、珠世の足は自然と3つの足音の方へと向いていた。
「もし、大丈夫ですか?」
倒木の元でうずくまり、身を隠している女性を見つけ、珠世は声をかけた。
「あっ、だめ……来ないで」
抵抗する女性の顔を見て、珠世は息を飲んだ。
その顔は目の位置すらも分からないほどに腫れあがっていた。
酷い暴行を受けた痕であることは誰の目から見ても明白。
そしてその主が誰なのかも、容易に推測できた。
「安心してください。私は貴女の味方です」
そう言って珠世が膝をついて女性の肩に優しく手を置くと、彼女の腹から声が漏れた。
「おぁあああ。あぁああん」
それは彼女の声ではなく、もっと幼い赤子の声だ。
どうやら暴徒から赤子を庇いながら逃げているようだ。
「あぁ……泣かないで。ゆ~びき~りげ~んまん」
か細い声で赤子をなだめる女性。
だが、泣き止むことのない声は、静寂の森の中に響き渡ってしまう。
「見つけたぜ。手間かけさせやがって」
無情にも泣き声に呼び寄せられ、足音と共にドスの利いた声が珠世と女性に迫った。
「なんだテメェは?」
「貴方がたこそ、何ですか?」
観念し絶望の色を見せる女性を背に、珠世は暴徒の前に立ち塞がった。
暴徒は若い男と年配の女性であった。身なりの整い具合を見るに普通の村人の親子といったところか。
「……まさかとは思いますが、この方の夫と姑ではありませんよね?」
「あ? だから誰だテメェは。だったらどうするんだ? ぁ?」
固く握りしめた拳骨を振り上げ威圧する夫。(おそらくは)息子の荒々しい様子を、さも当然の態度だと言わんばかりに、姑は鼻を鳴らしながら珠世を睨んだ。
「この方が何をされたのかは存じませんが……」
「なんだいアンタ、他人ん家の躾に口を出そうっていうのかい?」
言葉を遮り高圧的に割って入る姑に、珠世は強い嫌悪感を抱いた。この息子にしてこの母あり、ということか。
「そいつはな、何をやっても覚えが悪いんだよ。殴って言い聞かせてやって、ちゃんとしてやらなきゃ駄目なヤツなんだよ!」
夫が両拳をバシッと音を立てて合わせると、女性はビクッと酷く怯えた様子をみせた。
日頃から体に恐怖が染み込まれているのだろう。
「ハッ。躾……ですか?」
珠世は冷たい視線を夫と姑に向け、これ見よがしに鼻で笑ってみせた。
「殴って言い聞かせるのが躾? 聞いて呆れます。私の家にも救いようのないお馬鹿はいますが、ここまで落ちぶれたお馬鹿ではありませんよ」
「アぁ!?」
珠世の罵倒に、夫は地面を踏みつけて凄んだ。
だが、どれだけ力強く地団駄を踏まれても、珠世には全く怖い物として映らない。
「何よアンタこそ、見るからに嫁の貰い手の無さそうな生意気な顔をして。こんな夜更けに出歩くなんてお里が知れてるわね」
「親の顔が見てみたい。初対面でそう思えるような男の親よりはマシでは?」
「女ぁ!」
姑すら挑発する珠世の態度に、夫は怒りのあまり間髪入れず珠世に殴りかかった。
鈍い音が森のざわつきに紛れ、その場にいた者の耳に響いた。
「その程度ですか?」
「あ!? 口の減らねぇ女だなぁ!」
殴られた直後に平然とした態度で睨み返す珠世の顔に、夫は再び拳を叩き込んだ。
「まだやります?」
その場で微動だにしない珠世に、夫は小さな違和感から手に汗を覚えた。
渾身の力ではないにせよ、男の拳を2発喰らって音一つ吐かないどころか、一歩も退かない珠世の屈強さに異様さを覚えた。
「ちょ、調子乗ってんじゃねぇぞ!」
珠世の着物を乱暴に掴み、投げ飛ばしにかかる夫。
だが、珠世の体はまるで足に根が生えたようにピクリとも動かなかった。
「ハァ、奥さんのことを頭が悪いとどの口が言いますか? 2度も殴られた私が手を上げ返さない理由くらい、これだけやればわかるでしょう?」
珠世の嘲笑に夫は再び怒りに火が付き、珠世の肩や腹までも殴った。
それから幾度、夫の拳が振り下ろされただろう。数えることを忘れ、呆れはじめていた珠世。
「覚えが悪いのは貴方のほうですよ。私が殴り返さないのはですね、貴方の首の骨くらい容易く砕くことができるからで……」
「珠世さん!」
森の中に声が響いた。
その主は鬼舞辻無惨。遠くから珠世の殴打される場面を見つけ、叫びながら走って駆け寄ってきた。
「そこの貴方! 珠世さんに何をしているのですか!」
怒りの色を見せた無惨が夫の手を払おうと迫る。
その様子に珠世は「あなたは手を出さないでくださいな」とため息をついた。
「なんだテメェは、こいつの旦那か!? 引っ込んでろ!」
夫の横殴りに、無惨の体は突き飛ばされ茂みに突っ込んだ。
無惨の無様な体たらくに向けていた冷たい視線を、珠世はそのまま夫にも向けた。
「……もうこの辺りで止めにしましょう。でなければ大変なことになりますよ?」
珠世の嫌味のような忠告に、夫は聞く耳を持たず、髪を掴み上げようと手を伸ばした。
「おい。何だその手は」
地を震わせるほどの低い声と共に、夫の腕は何者かに捕らえられた。
それは怒りの形相に顔を歪ませた狛治であった。
「返答次第では腕の骨を折る」
狛治の凄みに夫は「あ? すっこんでろ」と睨み返した。
「先にお願いしますよ狛治さん。折ったり殴ったりはいけませんよ。その方は奥方に『覚えが悪い』と厳しく躾をされる方のようです」
珠世の告げ口を耳にした狛治の形相は一瞬にして冷徹なものに変わった。
グンッ
瞬間、夫の視界は一回転し、姑の方へと倒れ込んでいた。
「狛治さん」
「投げました。殴ってません」
「どちらも駄目です」
珠世の苦言にすぐに反論した狛治を、夫はすぐに立ち上がり睨みつけた。
「テメェ、何しやがんだ!」
「おい。夫が妻を殴っておいて躾だと? ふざけるのも大概にしろ」
「あ!? 殴らなきゃ覚えねぇ馬鹿女なんだよソイツは!」
夫の矛先が向いたことに、女性は震えながら赤子を抱きしめた。
「ほぉ面白い道理だな。殴れば覚えが良くなるのか?」
狛治は吐き捨てるように笑いながら、怒りに震える腕を近くの木に叩きつけた。
ミシミシッと軋む音も無く、その生木に腕が突き刺さる。
そのあまりにも現実離れした、怪力としか説明のつかない事態に、夫は「ヒィ」と小さく悲鳴を上げた。
「そうだな。今からお前を般若心経でも唱えながら殴り続けてやろう。お前の言う通りなら、唱え終わる頃には全て覚えて暗唱できるということだな? 無論、無事の保証はせんが」
指をポキポキと鳴らして歩みを寄せる狛治に、夫は足を震わせながら退いた。
「選べ。お前の呆けた道理を実践して証明してみせるか。それとも悔い改めて妻に詫びて去るか」
狛治の威圧に恐れを露わにした夫は、姑を無理やり起こして2人して下がった。
「ゆ、許してくれ。そんな女、もういらない! だ、だが……息子だけは返してくれ。なぁ」
そう言って夫は女性の抱いている赤子を指さした。
「お前は俺たちを馬鹿にしているのか? お前と母親に子を育てる資格は無いだろう」
そう言って狛治が地面を踏み抜くと、夫と姑は「そ、その通りです!」と言い残し足早に逃げ去っていった。
「珠世様! 大丈夫ですか!?」
狛治は急いで珠世の元に駆け寄り、着物の乱れた彼女に自らの羽織を渡した。
「助かりましたよ狛治さん。蚊ほどにも痛くはありませんでしたが、私が手を出したらあの2人を殺してしまうので困っていたところです。それより」
珠世は狛治から受け取った着物を、そのまま女性の肩へとかけた。
「もう大丈夫です。よく子を守りましたね」
「あ……あの、ありがとうございます!」
女性は腫れた目から涙を流し、珠世に頭を下げた。
「珠世様……あの……どうして黙って出て行ってしまわれたのですか?」
言いにくそうに尋ねる狛治に、珠世は口に指を当てて遮った。
「そのお話は後で。今はこの方の手当てが先ですよ。それと」
そう言って珠世は茂みの方を指さした。
「狛治さんは、あそこの無様なのを起こしてあげてください」
珠世に言われ目にした茂みから伸びる2本の足を見て、狛治は「無惨様ぁ!」とそれはもう大きな声で叫んだのだった。
【平安コソコソ噂話】
今回、珠世が30分にも及ぶ暴行の末に負った傷は、全治1秒の軽傷だぞ