幾年月が流れた。
鬼の一家は、顕微鏡に埃がたまるほどに遊びつくした。
春には夜桜を楽しみ
夏には蛍を追いかけ
秋には月見を愉しみ
冬には雪を丸めて投げ、無惨の顔と珠世の薬瓶に当たり、伊之助の代わりに妓夫太郎が朝まで正座をさせられ。
恋雪と琴葉が作った雑煮を食べ、狛治が豪華な門松を作り、梅の書初め今年の抱負が『はやく人間になりたい』となった年。
琴葉の奉公先が決まった。
家事だけでなく薬の処方にも明るい彼女は、伊之助と共に住み込みで手伝いをしてくれないかと声がかかっていた。
温厚で有名な植物学者の一家であった。
珠世も何度か薬の材料の調達を依頼する等、無惨たちとも交流があり、鬼であることや琴葉の境遇も理解してくれていた。
「お断りする理由がありませんね」
珠世の穏やかな言葉に、琴葉はわずかに戸惑いを見せた。
その口調から、珠世はもう覚悟を決めているのだろう。
琴葉と伊之助の幸せを見届ける日がついに来たのだと。
「珠世様、ありがとうございま・・・した」
鬼の決意を無下にはできない。琴葉は深々と頭を下げた。
荷物は少ないが色々な準備が必要だろうと、出向は3日後となった。
その日を一緒に見届けたいと、継国家の一家も来てくれた。
煉獄一家も交えて大所帯で、トランプやらビー玉で遊んで過ごし、夜は道場で布団を並べた。
枕に顔を埋めた梅の嗚咽が、無惨と珠世の耳にいつまでも残った。
「じゃあ行ってくるぜ! 杏兄ぃ、千寿郎! 無惨様みたいにたくさんの人を助けられる立派な学者さんになってくるぜ!」
出発の時。
夕日の沈んだ暗道に伊之助の元気な声が轟いた。
母の胸に抱かれた幼い千寿郎の頭を撫でてやり、伊之助は妓夫太郎と手をつないだ。
「妓夫太郎さん、お二人をお願いしますよ」
「勿論だ無惨様。俺が護衛すんだぜぇ。熊でも虎でもかかってこいっつんだよぉ」
伊之助と特に仲の良い妓夫太郎が、琴葉と伊之助を奉公先に送り届けることになった。
妓夫太郎が戻れば、あとは朝日を待つだけ。
琴葉たちの姿が闇の中に溶けて見えなくなるまで、無惨たちはいつまでも手を振り続けた。
「ついに、行ってしまいましたね」
「・・・ええ」
無惨と珠世が名残惜しさを胸にしながら手を下ろすと、その背後に狛治・恋雪・梅が並んで立った。
「皆さん。明日の朝お別れで・・・」
姿勢を正した無惨の言葉の途中で、狛治が「無惨様」と話を遮った。
「俺たちもお供しますよ、彼岸への旅路に」
「狛治さん!?」
想定外の進言に驚きのあまり口を開く無惨と珠世。
「私たち、もう十分に生かしていただきました。御二人に取り残されてしまうのは無情なお話だと思いませんか?」
「で・・・ですが」
恋雪は両手を合わせ、凛とした瞳で無惨と珠世を見つめた。
その決意が揺らぐことはないだろう。
「・・・お兄ちゃんとも一緒に決めたんだ」
梅だけは歯切れの悪い言い方であった。
できることなら、ずっと一緒にいたい。生き続けるほうが幸せだと、彼女は思っていた。
だが、無惨と珠世の決意を無視して我儘を言う事は、絶対に幸せな道ではない。
迷いと向き合いながら、狛治たちと道を共にすることに決めていた。
「本当に・・・よろしいのですか?」
「ええ勿論。急なお話で槇寿郎殿にはご迷惑おかけしますが」
狛治の申し訳なさそうな顔に、槇寿郎は真っ直ぐな目で「我ら、覚悟は疾うの昔に」とハキハキと答えた。
継国家の面々もまた、まっすぐで優しい目で同意を告げた。
この場にいる全ての鬼と人の思いを無下にはできない。
無惨と珠世は同時に息を深く吐いた。
「鬼として幾百年。色々な事がありました。多くの方々に支えていただき、私も成長することができました」
「アナタの場合は成長が遅すぎですよ。普通の人だったら20も年をとれば親としての自覚に芽生えるというのに。まぁ、私も決して足りているとは言えませんが」
珠世の苦言にいつもの苦笑いで応える無惨。
「あの世には天国も地獄も無い。そうおっしゃっていた方がいました。私の都合ですが、その解釈をさせていただき、人と同じ黄泉路を歩み、彼岸に至りたいと思います」
「継国、煉獄両家の皆様。我々は先に向こうで待っていますね」
無惨と珠世の言葉に、恋雪と梅は涙を流し、狛治は2鬼を支えドンと胸を張った。
「ところで、妓夫太郎さんはやけに遅いですね」
恋雪の言葉にその場にいた者たちはハッとなった。
嘴平母子の奉公先、学者宅は子供の足でもせいぜい一刻あれば到着できよう。
鬼の体を持つ妓夫太郎であればなおさら。もう帰ってきてもいい頃合いだ。
「事件にでも巻き込まれたのでしょうか?」
「いえ。たしかに戻ってきてらっしゃいますよ」
鬼の居場所を感知できる無惨は、妓夫太郎の同行をおおまかに感じ取っていた。
行きはたしかに伊之助の歩調に合わせてゆっくりとしたペースで学者宅に向かっているのを確認できた。
帰りは鬼が走る速度で迷わず、家まで一直線に戻ってきていたが。
ある地点でしばらく立ち止まったかと思うと、急に移動速度が落ちたのだ。
「怪我でもしたのでしょうか?」
梅と融合しないよう細胞分裂阻害薬を服用している妓夫太郎は鬼でありながら怪我が容易には回復しない。
「急いで走って捻挫でもしたのかな?」
「では俺が迎えに行って来ましょう」
恋雪が心配すると、狛治がスクッと立ち上がり進言した。
「いえ、もう家の前まで来ているようですよ」
無惨の言葉に呼応するように、玄関の扉がガラガラと開く音が聞こえてきた。
「その子、誰?」
玄関先に立つ妓夫太郎は、小さな子供の手を引いていた。
見るからにみすぼらしく、蚤や虱にまみれた汚らしい子供。
伊之助と同じ年頃であろうが、活気どころか生気すら感じられない子供であった。
見ず知らずの家に連れて来られて、一切の挙動も関心も不安も見せず、全て為されるがままの“無”の表情だ。
「人買いが連れ回してやがったからな。買ってきた」
そう言って妓夫太郎は腹立ちまぎれに金をばらまくような仕草を見せて、この子供と出会った時の様子を語った。
いや、語らずとも子供の姿を見れば容易に想像がつく。どれほどの生き地獄を味わってきたのか。それを見た妓夫太郎が何を思ったか。
だが、この子の心に何が残っているか、想像することは容易くはない。
「ぎっ・・・妓夫太郎、お前は一体何を考えているのだ! 珠世様と無惨様と共に黄泉へと旅立とうという日に・・・お前は!」
「さぁな~。買ってきちまったもんは仕方ねぇだろうよぉ」
拳をワナワナと震わせる狛治に、妓夫太郎はヘラヘラとした表情で薄ら笑いを浮かべた。
「それでだ無惨様に珠世よぉ」
妓夫太郎はキリッとした目を向けた。
「明朝、俺らは逝く予定なわけだが。見るからに可哀想なガキを置いてくのは、さすがに心残りにならねぇかぁ?」
ニヤッとした妓夫太郎の笑みに、梅は希望に目を輝かせ始めた。
「なるほど、妓夫太郎は私や鬼舞辻無惨が哀れな子を残しては、死ぬのを躊躇うだろうと。まさにその通りです」
諦めたような呆れたような、しかしどこかホッとしたような珠世の表情が、その場にいた誰の目にもしかと映った。
「珠世様! だ、だからといって。ここにいる我らの決意や覚悟というものをお前は考えなかったのか!?」
「さぁ知らねぇな。俺は鬼だからな」
悪びれた様子を見せない妓夫太郎に、狛治は歯ぎしりする。
「それにこれは無惨様との約束でもあるんだぜ?」
ケケケと笑う妓夫太郎に、無惨は「約束?」と首を傾げた。
「ああ。『人に嫌なことをされたら、取り立て先は無惨様にしろ』ってな。俺はそいつを実践したまでの話だ」
皆で鬼として死ぬのが嫌だから、それを阻止してみせたという意味か。はたまた自身の幼き日の境遇に似た哀れな子を救う理由付けか。
「致し方ありませんね。至極、説得力のある理由です」
「では朝日を浴びるのは、この子の幸せを見届けてからということで」
無惨と珠世は互いに顔を合わせ、静かに納得の色を見せた。
その途端、梅はギャン泣きして恋雪に抱き着いた。
「うわぁあああああ! よかったぁああああ。嫌だったの、このまま死んじゃうなんて、ほんとは嫌だったの!」
鬼として100年以上は生きたはずの彼女が、子供よりも幼く泣きわめく姿に、その場にいた人間の誰もが薄らと涙を浮かべた。
「よっしゃ、じゃあ無事に心中せずに済んだところで、ちゃっちゃとコイツを綺麗さっぱりにしてくるか。杏寿郎、風呂沸かすぞ手伝え!」
子供の手を引き、妓夫太郎が風呂場に向かうと杏寿郎も「ハイ!」と活き活きと返事し、外の薪置き場へと走った。
「ふぅ、妓夫太郎も仕方のない鬼ですね。何処の誰に似たのだか」
「これも運命ですよ。我々はまだ生きていなければならないと」
無惨の言葉に継国、煉獄の一家は言葉も無く大きくうなずいた。
「う、梅ぇ~!!! 来てくれぇ!」
その温かな静寂の中、妓夫太郎の悲鳴にも似た叫びが轟いた。
子供が怪我でもしていたのか? だが、そうであれば珠世や恋雪を呼ぶはず。
強盗でも入ったのか? そうであれば狛治を呼ぶはず。そもそも鬼が苦戦するような強盗とは?
呼ばれて駆け付けた梅にバトンタッチして、妓夫太郎は浴室から飛び出した。
「こいつ、“ついてない”」
どうやら子供は女の子だったようだ。
男子禁制の規制を張った浴室に恋雪と瑠火も飛び込み、この新たな家族を洗いに洗った。
そんな浴室前の通路にズラ―ッとボーッと並ぶ男共の背を、押して追いやった珠世。
「どうしてこうもウチの男の鬼どもは、女児を誘拐して帰ってくるんでしょうね」
ジトーッとした目で3男鬼を睨む珠世の人聞きの悪い言い方に、無惨たちは首をブンブンと横に振るのだった。
【平安コソコソ噂話】
鬼一家心中が回避されて、心の中で一番喜んでいるのは狛治だ。
2番目が杏寿郎、梅は3番目くらいだぞ!