あなたが落としたのはきれいな無惨ですか?   作:三柱 努

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要らない

熊の襲撃から逃れるため、炭治郎は大急ぎで家族を連れ雪の森へと入っていた。

薪割り用の斧を手に、物音を立てないように慎重に足を進めた。

「そろそろか。禰豆子、いいか?」

家から離れしばらく進み、頃合いを見計らった炭治郎は、背負っていた父親を妹に託し、手にした斧をギュッと握った。

「禰豆子、竹雄。みんなを頼む。俺は鬼舞辻さんを助けに行く」

「お兄ちゃん!?」

妹は反対した。熊の恐ろしさを知らない山の子はいない。ましてや人食い熊だ。斧一つで無事に帰ってこられる可能性は万に一つ無い。

 

「鬼舞辻さんは囮になると。俺たちに逃げるまで時間を稼ぐと言っていた。今夜、居合わせなかったらあの人は死なずに済んだのに。俺たちが喰われていたかもしれないのに。こんなの酷い話じゃないか。俺はあの人を見殺しにできない」

炭治郎は斧を持つ手を恐怖で震わせながら、己を鼓舞して宣言した。

その小さな少年の背に、母と父は優しく手を置いた。

かける言葉は見つからなかった。せめて加護を。すくむ身を動かす勇気を。その想いを背に乗せてやりたいというすがるような思いで。

「では、いってまいります」

 

 

 

 

その頃、家から少し離れた雪原には凄惨たる光景が広がっていた。

おびただしい量の鮮血が白い雪を染め、肉片や骨片すら散らばっていた。

かき集めれば人間1人ができあがるのではないかというほど、酷く散らかされた血肉。

その先に、無惨の姿があった。

 

無惨は熊とは戦わず、血を撒き散らして逃げていた。

炭治郎たちの家を傷つけたくなかった。うたの育った家を壊されることを恐れていた。

そのため、初撃をあえて受け、血を撒き餌にして熊を家から離れたこの場所までおびき寄せていた。

 

 

鬼にしかできない策であった。

 

熊はまず獲物の顔を狙う。

獲物が抵抗できなくなったところを、次は喉笛に喰らいつき息の根を止める。

だが不死の体を持つ無惨は、喉を潰されても死ななかった。

頭蓋骨を噛み砕いても、踏み砕いても、内臓を喰い破っても。

この獲物はいつまでも抵抗していた。

 

無惨が抵抗しすぎてしまえば、熊の標的が家の裏から逃げる足音のほうへと移ってしまっていただろう。

今の無残に残された力ではそれも叶わない。

これが幸いし、竈門一家が逃げ切るまで時間を稼ぐことができた。

だが勿論、無惨に鬼の力が残っていたほうがよかった。熊を撃退するだけの力があれば。

 

『これは参りましたね』

顔や腕、腹、脚。喰われた体の部位は徐々に、熊の捕食スピードよりわずかに早く再生できる。喰われ尽くすことはない。

腹一杯になって満足して帰ってもらう。無惨はその腹積もりでいた。

 

だが日の出の時間が近づいていた。熊が腹を満たすより先に日が昇ってしまう。

竈門一家が。カナヲが狙われる。

 

砕かれた骨が肉を裂き。

喰い捻じられた血管が肉片を垂らす。

耳と目の区別がつかないほどに削がれ。

腹の奥の奥まで焼けた鉛を注がれたような痛みが全身に走る。

 

この痛みが全て、愛する人々に襲い掛かる。

それが何よりも恐ろしく、血を沸騰させるほどに許しがたいことであった。

 

 

 

「無惨様!」

 

その時、雪原にカナヲの声が響き渡った。

喰い破られた耳の再生が間に合っていない無惨がその声に気付いたのは、彼を喰う熊が動きを止めたためだ。

 

炭治郎が凄惨な光景に足を止めている間に、カナヲは彼を追い越して無惨を助けに走ってしまっていた。

カナヲは当然、鬼の再生無限の不死の体を知っている。

だがそれでも、恩人の、無惨の、家族の身に耐えがたい苦痛が襲っている様を見て、抑えられなかったのだ。

 

 

誰も彼女の想いを責めることはできない。だが、熊がその想いを汲むことも絶対に無い。

襲いやすい餌が増えただけ。抵抗できぬよう、すぐに潰しておくべき餌が。

 

歩き出した熊が迫る中、炭治郎は斧を構えてカナヲの前に立った。

熊の振り薙いだ爪が斧ごと炭治郎を弾き飛ばし、彼の体を10mは離れた雪の山に埋もれさせた。

雪がクッションになり怪我こそなかったが、腕だけでなく全身が痺れて動けなかった。

 

「カナヲ! 逃げるんだ!」

炭治郎の叫びは、彼の斧が熊の頭上を舞っている空に響いた。

その斧の許に

 

無惨の姿があった。

 

 

無惨の体は腕も脚も、顔面すらも食い散らかされていた。

走ることも、斧を握ることも、聞くことも見ることもできない体。回復するのを待つ時間は無く。カナヲが襲われる前に間に合わせようと超回復をすれば体力が激減する。

打つべき手はただ1つの道。

両脚と片方の目だけを、無惨は真っ先に回復させていた。

 

 

間に合った。

跳躍し、熊の背を踏み上り、斧の許へたどり着く。

 

『縁壱さん・・・』

走馬灯が無惨の脳裏を駆け巡っていた。

400年前に縁壱と共に過ごした日々。練り上げ辿り着いた領域。

縁壱が“日の呼吸”と呼んだそれを。正しい呼吸、正しい動きで。必要のない動きを削ぎ落し、最小限の力で最大限の力を。

 

無惨は自分の指が斧を掴むまでの、瞬きほどのわずかな時間で、全ての神経が剥き出しになったような、洗練された時間を感じていた。

 

 

だが無理であった。

このまま腕を再生すれば、残る力では弱すぎた。

日の呼吸でもこのままの力では、人の胴体ほどある熊の首は落とせない。

 

 

【無惨様。貴方ならできる】

 

 

その声は、鼓膜を失ったままの無惨に確かに届いていた。

声が無くとも、迷いはとうに無かった。

腕を再生して鬼の力が足りなくなるなら、他の力を喰わせてやればいい。

 

 

既に熊の首元は間合いの中。

であれば、脚の力は不要。

立つ力すら、もう無くてもいい。

 

無惨は脚に残る力の全てを腕に移し、斧を静かに振った。

 

 

 

 

音は無かった。

 

 

頭を別れた熊の胴が雪の上に倒れ、無惨は受け身をとることなくカナヲの側に落ち・・・

 

 

 

 

 

 

夜の闇が、まもなく明ける。

 

 

 

 




【平安コソコソ噂話】

日の呼吸は鬼と戦うためではなく、あくまで縁壱の趣味の範囲で練り上げたものだ。
だから型の種類は3種類しかないし、そもそも名前も洒落たものをつけていないぞ!
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