暗い場所であった。
酷く眠たくなる場所であった。
寂しい場所であった。
成程、死とはこういうものかと。
だが人の彼岸ではない。これが人の彼岸であってはならない。
縁壱やうた、今まで共に生きて、冥途への旅路を見届けていった友たち、家族たちの逝く先がこのような寂しい場所であってはならない。
ここは鬼の彼岸である。
そう無惨は思った。
そう願った。
【何をしている】
無惨の声が彼自身に聞こえた。
だが、彼の口から発したものではない。
耳に聞こえたというよりも、感じたというほうがしっくりくる。
【お前は何をしている。力が足りないのであれば、目の前の娘を喰え。今ならまだ間に合う。瞬時に喰って身を隠せ。そうすればお前は救われる。無限の命の中に再び身を置くことができるのだ】
無惨の声が語りかけた。
地を這う声で。他人を見下したような声で。心の奥底を掻きむしるように。
【あの娘は所詮、親に売られた“物”だ。それを育ててやったのだ。お前に喰われようが文句も言うまい。炭焼きの親子もそうだ。一思いに喰ってやれば、これからも熊に怯えながら暮らすより苦しみも少ない】
「何を言っているのですか? そんなもの、人の道に背く行為です」
無惨の反論は言葉として彼自身の耳にも届いた。
だが、心の声は止まらない。
【お前は鬼だ。何故、人の道を語る? お前が今まで演じてきたものは、人間モドキの茶番だ】
無惨はそれが自分の言葉だとは信じられなかった。
心の奥底で、自分はそのような想いを抱いていたのかと、どす黒い感情を悲しまずにはいられなかった。
【鬼は飢えれば人の血肉を欲する。お前にも覚えがあるはずだ。お前が鬼にしてきた者たちも同じ思いを味わってきただろう。飢えて気が狂いそうな日々を、お前の茶番に付き合い、苦しんできたに違いない。全てお前のせいだ】
無惨の腹は飢えを思い出した。
かつて数百年の生き埋めの時に感じた窮苦の連魔。
腹が喉の奥まで喰いつかんとし、脳の奥が腹の下まで下がろうとするくらい重く苦しい。
この最悪の気分を、鬼の家族に強いてきたのかと、無惨の心は不安を覚えた。
【鬼として生きろ。お前が鬼として生きていれば、他の同族どもは本能の求めるままに苦しむことなく喜びの中で生きていける。解き放ってやるべきだ。今までそれを邪魔していたお前の罪は深い。誰もお前がお前のまま戻ることを許さない】
「それを・・・珠世さんや狛治さん、恋雪さん、梅さん、妓夫太郎さんが望むと? そんな、人の道を外れてしまえば彼らが苦しむだけでしょう」
【そもそも人の道とは何だ? 思い出せ。お前の言う奴らを苦しめてきたものは何だ? それこそ人間共であろう?】
吐き捨てるようにささやく心の声。
無惨の脳裏にかつて対してきた罪人たちの姿が写る。
それもまた人。
人であることは間違いない。
人は美しいものだけではない。
【あの娘に『心のままに生きろ』と言っておきながら、お前は自分の心を偽っている。お前は死にたくないと思っている。ならば簡単な話だ。鬼として生きろ。それが正しい道だ!】
誘惑の声は語気を荒げた。
無惨は足元が揺らぐのを感じた。胸の痛みが激しく鳴った。
このまま折れてしまえばどれほど楽な事か。
「そう・・・ですか。なるほど正しい道を示していただきありがとうございます。では私は間違った道を歩み、今ここで終わろうと思います」
【何だと?】
無惨の言葉に声は揺らぎを見せた。
「私は負けるわけにはいかない。死の淵に現れるアナタは、それこそ珠世さんたちの前にも現れたのでしょう? ですがその誘惑に誰も負けなかった。だからこそ私が負けるわけにはいかない」
【いや、私はお前だ。お前以外の所には現れない】
「・・・だとしても負けません。鬼の本能? 人の道? そのどちらも修羅の道であるのなら、私は一番間違った道を歩んだことにしましょう。人の幸せを踏みつけることなく進む道を選び、このまま鬼と人の道を否定したまま地獄へと向かいましょう!」
【そんなものはただ開き直っているだけだ。くだらん】
呆れたような声にも、無惨は前を向いて断言した。
「アナタこそいい加減しつこいですよ。心底うんざりです。口を開けば鬼の道、人の道、心のままにと馬鹿の一つ覚えみたいに。正しい道とか言えば通用すると思っているのですか? 本能だから何だと言うのですか? 私は幸福だったと思い日々の生活を送ってきました。それで十分です!」
【お前は何を言っているのだ?】
心の声はますます呆れたようにつぶやいた。
「美しさは正しさと同じではないのだと思います。何も難しく考える話じゃありません。雨だって風だって、その時々の我々の都合で良いものにも悪いものにも見えます。人だってそりゃ悪い人もいますが別の見方をすれば・・・やっぱり悪い人は悪い人ですが・・・」
【お前こそ饒舌に支離滅裂を語るではないか】
「とにかく、誰かの幸せを踏みつけてまで生きようとする私は私ではない! そんなまっぴらごめんなアナタは絶対に私ではない! 鬼として再び生きようとか、いつまでもそんなことに拘っていないで、引き際を見極めれば良いでしょう! 殆どの人間がそうしています。私もそうします。何故アナタはそうしないのですか? 理由は一つ、アナタはお馬鹿だから。お馬鹿さんの相手はもう疲れました。いい加減終わりにしたいものです!」
無惨は心の声を無視して歩き始めた。
暗闇がより深く広がる道へと。
その先が地獄というアテは無いが、心の声が聞こえなくなればそれでいい。
さっさと地獄に落ちたい。
自分の心のままに、落ちてしまいたい。
だが・・・たしかに・・・再び生きられるなら・・・人として・・・
その時
その想いに、呼ばれた“手”が伸びた。
その手は無惨を掴み、深い闇の中へ引き込み始めた。
だが、不思議と無惨の体は引かれてはいかない。
心の奥が引き剥がされ、闇へと溶けていく感覚だけが残った。
【放せ! 何だお前は! 私をどうするつもりだ!】
響く抵抗の声が、次第に無惨から離れていった。まるで梅から妓夫太郎が分離していくような、その例えがしっくりくるような感覚で。
手は問答無用に、無惨から分かれた無惨を闇の中へと押し込んでいった。
深い深い漆黒の闇へと。二度と浮き上がることのできない深淵へと。
【私はどうなるんだアアアア!!】
無惨の叫びが闇の中へと消えていった。
水面に残る波紋のように、闇が不思議な波を立てていた。
すると無惨が消えた闇の中から、代わりに一人の女性が姿を現した。
「??? 天照大御神様・・・でしょうか?」
無惨の前に現れたのは、穏やかな笑みを浮かべた女神であった。
長くスラリとした髪を垂らし、薄布を身に纏い、月桂樹の冠を巻いた、天女のような美しさ。
無惨が会釈すると、女神は微笑みを返して口を開いた。
「あなたが落としたのは、人としての生への渇望ですか?」
いきなり出てきて何を聞いてくるかと思えば。
無惨の体から心を引き剥がした手の主だと思われる女神が何を言う。
落とした・・・という表現には少しの違和感があったが、無惨は静かにその問いに向き合った。
「・・・いいえ。今のは生きることにだけ執着した醜い鬼の心です。人を踏み台にしてまで生きようとしていた私の中の哀れで醜い心です。今でも、生への未練が残っていないわけではありませんが・・・そんな汚濁は何度現れようが何回でも捨ててやります!」
自分にある弱さと向き合い、無惨は自らの胸を押さえて答えた。
この無惨の答えに、女神は優しく微笑みを向けた。
「あなたは正直ですね。ご褒美に、人としての生をあげましょう」
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それは全ての鬼に起きた奇跡。
鬼の始祖に起きた変化が、同じように作用したのかは分からないが。
兎に角それは鬼たちの体に起きていた。
「きっと無惨様が初めて、心から人間になりたいって思ったからですよ。私たちの命は繋がっていたんです」
「それが正解なら、まったくアナタは1000年も遠回りしすぎですよ」
恋雪の推理に、珠世は不満を口にしながらも、涙と笑顔を隠すことができなかった。
「これでテメェらは念願の子作りに励めるな」
とからかった所に狛治のゲンコツが炸裂し、「痛くねぇ・・・けど、痛ぇ」と妓夫太郎は頭を押さえ泣いて笑った。
「うわあぁああああん」
梅の叫びをカナヲが胸に抱きしめ、その場の“5人”は“2人”ごと抱きしめて喜び合った。
それは日の光の下、初めて朝を迎えた日。
山奥の村の、どこにでもある何気ない明かりの下。
とある家族の歓喜と幸福の朝の出来事であった。
「でもさ、鬼の命がみんな無惨様と繋がってたんだったら、もし無惨様が死んでたらあたしら一緒に消滅してたかもね」
「「・・・あ」」
【後日譚】
= 狛治・恋雪 =
道場の主の座に戻り、隣の剣術道場師範と共に総合武術道場を目指した。
門下生の中には後継者応募に反する突然の手のひら返しだと反発の声もあったが、派手な師範代の一喝の前にすぐに鎮圧された。
人の体となったことで正式な夫婦となり、亜美・佳代・沙紀と名付けた三人の娘に恵まれ、幸せな家庭を築いたという。
= 妓夫太郎 =
一人旅の中で出会った盲目の僧と意気投合し、孤児院を開設。
親に捨てられた子、親を亡くした子、売りに出された子を引き受け、どのような複雑な事情があろうが拒むことはなかった。
どの子も分け隔てなく、時に厳しく、時に反面教師として、時に本当の家族よりも温かく育てた。
= 梅 =
美人作家として、代表作『名探偵ムザン』が人気を博す。
特に人気があったのは〈ムザンとその関係者12人が、それぞれに関係する数字の順番に襲われていく〉という内容の『14番目の標的』のシリーズ。
売り上げの多くは、人々が手軽に薬を手に入れられるようにと寄付に使われ、それにより多くの命が救われたという。
= 珠世 =
引き続き継国家と共に住む。
彼女の作る薬はよく利くと評判で、近隣の村々を多く救った。
その美しさに反して浮いた話は全く聞かれず、古くから村にある墓に毎日のように通う姿が多くの人の目に美しく映った。
= 鬼舞辻無惨 =
かつて縁壱とうたと出会った場所に家を建て、いつまでもそこに暮らした。
そんな彼の元には彼を慕う者たちが毎日のように足繁く通った。
命を救われた者。苦しい心を救われた者。厳しい生活に手を差し伸べられた者。“結婚祝いのお返し”にプリンを持参する者。
悪くした足の代わりには、カナヲが絶えず付き添った。
そんな彼女が嫁に出る時には、参列者と共に涙を流した。
(中にはかつて無惨に借金を肩代わりしてもらいながら「俺にも嫁を紹介してくださいよぉ」とすがり、伊之助に顔を蹴飛ばされて泣いていた者もいたが)
1000年生きながらえたのはこの日のためだと、無惨は心からそう思った。
鬼舞辻無惨は父であった。
多くの人々の父であった。
紛れもなく実父であった。
大切な人が笑顔で天寿を全うできることを願い
理不尽に命が絶えることなく、幸せに生きられることを願い
ただひたすらに平和な、何の変哲もない日々を願う
ただの父であり続けた。
【 第一部 終わりへ続く 】