「駄目ですっ! 珠世さん!」
その言葉が出なかった。
あまりに凄惨でおぞましい光景に、無惨の体は動かなかった。
山賊を殺した時の躊躇を瞬時に押し殺した無惨であっても、その光景には決断が酷く遅れた。
夫と子を喰い殺している珠世の姿が、かつて自身が鬼として人々を喰っていた姿に重なる。
『なるほど私の血を口にすると、人は鬼と化してしまうのか』
あまりに強い悲しみから停止した繊細な思考は、むしろ冷静な分析にだけグルグルと回転させていた。
悲しむことができない。泣くことができない。
そのことがますます無惨の心を惨めにした。なんと自分は冷徹な人間なのだろう、と。
ようやく指の先が動いた時、珠世は既に夫の半身を喰い尽くしていた。
「珠世さん、駄目です!」
無惨は珠世を羽交い絞めにして抑え込んだ。
ガァッと歯を剥き出しに抵抗する珠世。理性の無い獣のような姿に、無惨の胸は麻袋にでも締めつけられたように荒い痛みに襲われる。
それでも、手を緩めてしまえばますますおぞましい光景が続くだけ。無惨はただひたすらに珠世を御した。
どれだけの時間が経ったかは分からない。
無惨はどうにか珠世の口に猿ぐつわのように布を噛ませ、縄で柱に縛り付けた。
ギリギリと縄の軋む音が、泥のように耳に残り続ける。
生き埋めにされていた時間よりも永い時間を無惨が感じた頃、ようやく村人が家に駆け付けてくれた。
「これは・・・酷い・・・」
村人たちはすぐに状況を察した。
商人とその子の死体。錯乱し、柱に縛り付けられた珠世。
返り血を浴びたであろう無惨が珠世を縛り、ヘトヘトになって座り込んでいる。
荒れた家の中と山賊の死体に、壮絶な戦いの跡が見られた。
「無惨殿・・・珠世さんは・・・」
「・・・今はそっとしてあげてください。それより村の方は?」
村人曰く、突如村に現れた山賊団により村人数名が殺され、数軒の家に火がつけられたそうだ。
村人の大人たちが集まり抵抗したことで、村の中央付近の被害は少なく済んだ。
その後、警鐘を聞きつけた隣村の若衆が武器を手に駆け付けてくれたため、山賊団を鎮圧することはできたらしい。
事前に商人と無惨の報告で警戒していたことで、これだけ被害を抑えることができたのが幸いであった。
「おそらくは昨夜、無惨殿が撃退してくださった野盗の仲間でしょう。逆恨みなのか、元から行き当たりの村を襲うつもりだったのかはわかりませんが」
無惨は責任を感じた。
もし昨夜、野盗の息の根を止めていれば。もし、野盗の感情を逆撫でるような行為をしなければ・・・
「無惨殿、ここを任せてもよろしいでしょうか? 我々も皆の無事と残党の確認、村の修復に行かねばなりません」
家を後にする村人たち。
無惨は一人、家を片付け始めた。
畳を剥ぎ、山賊たちの死体をその上に乗せ。
商人と子供の2人の遺体は血をふき取り綺麗にしてあげてから布に包み。
破れた襖を外し、血の付いた畳を洗い。
日が暮れたことを確認し、庭に大きな穴を掘り、山賊を埋め。
2人の遺体は寄り添うように墓を作った。
元は平安貴族であった無惨にとっては、全てが初めての作業。
慣れない手つきで不器用ながらも、時間をかけて丁寧に片づけを進めていた。
「あ゛あああああああああああ!!!」
空の色から赤みが完全に消えた頃、家の中から珠世の悲鳴が響いた。
土まみれの手をそのままに、無惨が大慌てで家の中に入ると、珠世は正気を取り戻し酷く混乱していた。
「珠代さん、気が付きましたか」
「む、無惨、様? 家の中が・・・あの子は・・・私は・・・」
荒れ果てた家の中、血の跡が残る光景。
矢で射抜かれた子の不在と、自身の身の無事。
そして、口の中に残る血と肉の嫌な感触に、珠世の記憶が徐々に鮮明になる。
「私は・・・私が・・・あの子と・・・夫を・・・・うわぁあああああああああ」
珠世の悲痛な悲鳴が耳を切り裂くほどに轟いた。
全ての記憶を思い出したのだろう。
「どうして私は・・・私の体はどうなっているの・・・」
「珠世さん・・・」
無惨が縄を解くと、珠世は口の中に指を突っ込み、血肉を掻き出し始めた。
鬼と化したことで鋭く尖った歯に指が傷つこうが、指の力で頬と唇がミリミリと裂けようがお構いなしに。
無惨は湯飲みに水を入れ珠世に渡した。
「珠世さん・・・申し訳ありません」
口を漱ぎ、ペッと吐き出す珠世に、土下座をして謝る無惨。
「・・・どういうことですか」
その言葉に何かを察した珠世の目がカッと見開き、汚らわしい物を見るように無惨を睨みつける。
無惨は全てを話した。
山賊の襲来は、自分が蒔いた種であるかもしれないことを。
自らの血に蘇生の力があると勘違いし、珠世を救うために血を与えたことを。
その結果、彼女を鬼に変貌させてしまったことを。
鬼から人に戻る方法を無惨自身は知らないことを。
そして、目を離している間に、彼女が夫と子を喰らってしまったことを。
「ふ、ふざけないで! こ、この鬼!」
珠世は喉が裂けるほどの大声で無惨を罵倒した。
「あの子を返せ!」
「よくも私に家族を喰わせたな!」
「夫を返せ!」
「お前が野盗なんかを連れて来なければ」
「家を返せ!」
「鬼」
「くたばれ」
「私の体を返せ!」
「2人を返せ!」
「あ゛ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
一昼夜、珠世の罵倒は続いた。
無惨はただ黙って、誠心誠意土下座をして謝り続けた。
やがて珠世が疲れ果て眠りについた頃
無惨も静かに眠りについた。
「はっ!」
無惨が目を覚ますと、そこは屋根の下。珠世の家であった。
布団をかけられ、襖の間から薄らと明かりが漏れている。
無惨は起き上がり戸を開けると、そこには机に向かって何か作業をしている珠世の姿があった。
「やっと目を覚ましたのですね。鬼舞辻無惨」
ゆっくりと振り返り、無惨を睨みつける珠世。
その瞳には錯乱や憔悴の色は見られない。
「珠世さん、私は・・・」
「気安く話しかけないでください」
無惨の言葉を即座に遮る珠世。その冷たい態度に無惨は「申し訳ありません」と言葉小さく謝った。
「一つ聞きたいことがあります。私の鬼の体を、元の人間の体に戻すにはどうすればいいのですか?」
珠世の問いに、無惨は視線を下げた。
「やはり知りませんか。では、アナタは元から鬼だったのですか? それとも私のように鬼から人に変えられた存在なのですか?」
「私は元は人でした。生まれた頃からの虚弱体質で二十歳まで生きられぬと言われていました。その体を治そうとお医者様が尽力してくださり、その際に頂いたお薬で気が付けば鬼の体に」
無惨の病弱を知った珠代は、一瞬哀れみの色を見せる。
「その薬の作り方は?」
無惨は首を横に振った。
「もう何百年も前の話になります。お医者様の一族の消息も分かりません」
わずか1粒でも望みがあればと期待していた珠世であったが、無惨から得られた情報はあまりにも少ないものであった。
2人の間に沈黙が流れる。
「それにしてもアナタは寝すぎですよ。1年間もグースカと」
唐突に発せられた珠世の言葉に、無惨は「えっ?」と唖然とした。
沈黙に耐えられなかった彼女が、何か会話のきっかけを探した結果であった。
「村の人に事情を説明するのがどれだけ大変だったかアナタに分かりますか?」
珠世の言葉に嘘の色は感じられない。無惨自身、土の中で何年も眠ってしまっていた記憶がある。
「迷惑をかけてしまい、申し訳ありません」
「今さらこの程度のことを謝られたところで夫も子も戻ってきませんが」
目いっぱいに嫌味ったらしい口調で吐き捨てる珠世に、無惨は黙り込む。
せっかくの会話の糸口を自ら切ってしまった珠世。自分自身でも怒りと恨みを抑えきれなかったことに驚いていた。
「そういえば」
何かを思い出したようにつぶやいた珠世。
「薬・・・でしたね? アナタが人から鬼に変わった原因は」
「ええ。それ以外には考えられません」
無惨の返答に珠世は人差し指をスーと立て、集中力を高めた。
「人を鬼に変えるのは薬。であれば、鬼を人に変えるのは・・・毒?」
・・・・・・・・・・?
「そうですよ毒。毒を飲めば鬼は人に戻るんですよ!」
手をパンと叩く珠世に、無惨は目を丸くしながら手を横に振った。
「いやいやいやいや、落ち着いてください珠世さん。毒を飲めばいいわけじゃないですよ、普通に考えて」
「そんなこと、アナタに言われなくても分かっています。何でもいいから毒を飲むという話ではなく、鬼を人に戻す毒を探すという話です」
珠世の話に、無惨は依然として「いやいやいやいや」と手を横に振る。
薬も過ぎれば毒となる。その言葉の通り、言ってしまえば珠世の言っていることは「鬼を人に戻す薬を探す」というだけのことなのだ。
「とはいえ・・・たしかにその通りですね。鬼を人に戻す方法は、おそらく何かの薬・・・薬草や動物の臓物、虫を煎じたり配合したりして作った物を摂取する。その可能性はあるでしょう」
「では早速、試してもらいましょうか」
早速。
そう言って珠世は、部屋の隅でゴソゴソと“這っていた”ものを掴まえて無惨の顔の前に突き出した。
ムカデ、である。
「・・・・・・珠世さん、流石にこれは・・・たしかに毒ですし・・・絶対に効かないと断定はできませんが・・・」
「私は夫と子を殺したアナタを許さない。鬼を絶対に許さない。私の体が鬼の体であることも許さない。鬼のまま死にたくない」
言いたいことを淡々とつぶやくように、無惨に伝える珠世。彼女の怒りがひしひしと無惨に伝わる。
ようは『つべこべ言うな』ということだ。
避けられない戦いを前に、無惨は覚悟を決め、口を静かに開くのだった。
【平安コソコソ噂話】
この数十年後の話。このころを振り返った珠世は、
『さすがにあの頃は、無知故の純粋なる暴挙。
どのくらいが鬼の心の限界か存じ上げない、処方がエグい時期でした』
と語っているよ。