「いかにも私の名は煉獄愼寿郎だが・・・」
「おい鬼の者。初顔合わせの反応じゃあねぇな? どういうことだ?」
名を言い当てた無惨の反応に、愼寿郎と宇髄は訝しげな視線を向けながら刀に手を置いた。
無惨の反応にはカナエや不死川、産屋敷もまた驚きを隠せなかった。
互いに顔を合わせるが、誰も愼寿郎と宇髄の名前を無惨には教えていない。
冨岡が気を利かせて教えていたという様子もない。
(悲鳴嶼は『私の名だけ教えられていないわけではないようだ』と仲間外れにされていないことを安心していた)
誰もが一瞬疑った。無惨には何かやましい思惑があり、今のは思わず口を滑らせてしまったのではないかと。(累はただ困惑するばかりであった)
だがそんな疑惑の視線が向く先の無惨の様子に、彼らの疑念は疑わしいものに変わった。
「それは・・・」
悲し気なのである。
親し気に名を呼んだ反応とは打って変わり、名を呼んだ理由を問われた無惨は酷く悲しんでいたのだ。
これには真っ先に無惨の“鬼の間者説”を疑った宇髄も困惑した。
無惨の様子は決して、隠し事が露呈したための失意の反応ではない。もっと何か重大な、希望が打ち砕かれたような深い悲しみの情がそこにあった。
「むーさん、皆の信を得なければならない。事情を話してくれないかい?」
産屋敷の穏やかな問いかけに、無惨はうつむいたまま涙を流し始めた。
これは相当の深い事情があるのだと誰もが察した。
それを詮索することは憚られるが、現状が現状なだけに問わないわけにはいかない。
冬の風が皆の白い吐息を吹き流す中、無惨の沈黙が続いた。
「お館様、もう少しお時間を頂かないと・・」
「カナエさん・・・私は大丈夫です」
胸を押さえながら絞り出すように放たれた無惨の言葉。とてもではないが大丈夫そうには見えない。
だがそれでも無惨は覚悟を決めたように口を開いた。
「信じていただけないかもしれませんが、私の話を聞いていただけますか?」
「ああ。話してくれるかい?」
今までも十分に信じられないことを起こしてきた無惨から、今さら何を言われても驚きはしない。産屋敷は優しく傾聴の姿勢を見せた。
「実は・・・今まで私がお話させていただいた“人との生活”は・・夢の中の出来事だった・・・かもしれないのです」
無惨の言っている意味を即座に理解できる者はいなかった。
荒唐無稽な事を言い始めた無惨の深刻な声色からは、嘘の色は感じられない。
「ど、どういうことかな?」
「私は縁壱さんとうたさんを始め、様々な方々とその一族と、何百年という時を過ごして・・・いました。そう記憶していました。その記憶の中に煉獄家の方々、そして宇髄天元さんも」
「・・・ぁあん?」
宇髄の口から思わず呆れの息が漏れた。
「つまり、キミが今まで話してくれていた“人と暮らしてきた日々”というものは、全て現実ではなく夢物語であったと?」
「全て・・・ではないと私は思っていますが・・・」
言い切らない無惨の返事に、もどかしさと呆れがその場にいる者たちの間に流れていく。
「その一族というのは、よもや我が一族を指しているのではあるまいな?」
無惨が静かに頷くと、愼寿郎は「何を世迷いごとを」と首を横に振った。
「そんなことはありません! 先代の桔寿郎さんや先々代の桂寿郎さんのことだって私は忘れていません! 先々々代の・・・」
無惨は必死の形相で歴代の煉獄家当主を列挙していった。その淀みない読み上げに、即興で考えたような気配は微塵も感じられない。
だがそれが正解かどうかは別の話。
現役の隊士全員の名前を覚えている産屋敷でも、さすがに歴代の炎柱の名前を諳んじているわけではないため答え合わせはできない。
「その場しのぎのデマカセが派手に上手ぇっつうだけだろ? 桑寿郎とかよぉ、ありえそうな名前じゃねぇか?」
「いいや、この状況で彼がそんなことをする利点はないよ。愼寿郎、確かめることはできるかい?」
「屋敷に帰れば家系図が・・・ですが、誤答はなくとも我々を油断させるために下調べを徹底したのでは?」
無惨に疑念の目を向ける愼寿郎。産屋敷もまた『まったくこの鬼の者は、こちらが信に至ろうとするたびにそれと反する情報を出してくる』と疑念の視線を無惨に向けた。
徐々に無惨を取り巻く雲行きが怪しくなってくる中、カナエは何かに気付きその間に割って入った。
「むーさん、もしかしてカナヲにも夢の中で会っていたんですか?」
無惨が小さく「はい」と答えると、カナエは確証を得たように自信の目をもって産屋敷に向き合った。
「お館様。おそらく皆さんは、むーさんが鬼舞辻無惨の間者として鬼殺隊に付け入るために偽りを述べているとお思いでしょう。鬼がこれまでに得てきた炎柱や音柱の名前を述べ、我々の裏の裏をかいて『まさかこちらを騙しているわけがない』と思わせるような言動をとっていると」
カナエの指摘に産屋敷は肯定の沈黙で応えた。
「ですがカナヲというのは私の妹。隊士ですらなく、鬼とは遭遇したことのない者です。鬼が知りえるはずのない者をむーさんは認知していました」
「つまり、その者の言ったことは本当で、夢の中で我々と面識を得ていたと?」
「はい」と力強く答えたカナエに、産屋敷は無惨の方を向いて「成程」と頷いた。
「お館様!? そのような言質だけで、俺らとの遭遇を夢で予知していたというのは無茶苦茶ではありませんか!」
当然、その証言から無惨の潔白が断言されたことに納得のいかない宇髄は反発した。
だが愼寿郎は「そうでもないぞ」と呟いて宇髄に反論した。
「血鬼術であろうな。夢の中で自身が後に出会う者たちを視るという。実際、私も先を読まれているような戦いの経験はある。未来予知の類の血鬼術とみて間違いあるまい」
「だがコイツは血鬼術のケの字も知らねぇハズだぜ? 知らねぇもんを使ったってのか? 話が派手に矛盾してやがるぜ」
「いいや、変な髪飾りの鬼狩りさん。血鬼術の中には自分の意識とは関係なく働くものもあるんだよ」
累の説明の通り、鬼殺隊が手探りで得ていた血鬼術の発動条件に関する情報から照らし合わせても、今回の無惨の血鬼術が本人にとって無意識のものであることに矛盾はない。
「私が・・・その、血鬼術というものを?」
「そうだね。キミは複数の血鬼術を使っているのだろう。鬼舞辻無惨の鬼に人の心を取り戻す能力。人を無害な鬼に変える能力。そして出会う人を夢の中では家族として予知する能力」
産屋敷の説明により疑いが晴れ、柱たちが納得することは喜ばしい話であるはず。
だがそれでも無惨の表情は暗いままであった。
「むーさん? まだ何か。それともお体の調子がどこか悪いのかしら?」
心配するカナエの声に無惨は首をブンブンと横に振った。
「・・・私は・・・いったい何者なんでしょうか」
無惨は胸を強く押さえ、悲痛な胸の内を吐いた。
「全て夢だった。珠世さんの家も無く、煉獄さんの一族も皆さんが鬼殺隊だというなら、縁壱さんもうたさんも・・・狛治さんも恋雪さんも妓夫太郎さんも梅さんも・・・みんないない・・・じゃあ私は一体、何なんですか! 分からない・・・今まで生きてきたことが分からない。それが何よりも怖い。悲しい。苦しい。辛いんです!」
人目もはばからず、無惨は涙に乱れながら畳に拳を叩きつけた。
これほどの激情に駆られたのは無惨にとって初めてであった。
誰かのために流す涙ではない。自分の不安に苦しむことが、こんなにも辛いとは思ってもいなかった。
「私は・・・誰なんでしょうか・・・」
顔を落としに落とし、畳に額を擦りつける無惨の静かな悲鳴に、会議場は静まり返った。
宇髄ですら。愼寿郎ですら。不死川ですら。冨岡ですら。その痛々しい姿に同情を感じずにはいられず胸を痛めた。
「むーさ・・・いえ、無惨様! あなたは鬼舞辻無惨様です!」
そんな中、最初に声を上げたのは累であった。
「あなたは無惨様です! 僕を救ってくださった、僕たち家族を救ってくださった鬼舞辻無惨様です!」
無論、累の叫ぶ無惨の名を曲解する者はいなかった。
「そうです。むーさん、貴方は本物の鬼舞辻無惨。孤独に胸を痛めることができる優しい鬼。そして・・・私の大切な友達です」
そう言ってカナエは優しく無惨の肩に手を置いた。
「カナエ・・・さん?」
「えっと、友達というのは少し出過ぎた真似でしたか?」
カナエが微笑むと、無惨は首をブンブンと千切れるほどに横に振った。
「むーさん。全てが夢だった、全てを無くした辛さは痛いほどわかります。いえ、私たちなんかよりも多くの大きなものを背負っていたんですから、同じように語るのはおこがましい話でしたね」
カナエの言葉に無惨は自分を恥じた。
鬼に家族を殺された者も少なくない。鬼殺隊とはそういう組織。その悲しみの連鎖が何百年も続いているのだ。
自分だけが辛いのではない。
「全てを失った。ですが、もう一度手に入れることができなくなったわけではありません。貴方はとても魅力的な人ですから。そうですよね、累くん?」
「勿論です! 僕が無惨様をお慕いするのは、決して人の心を取り戻していただいたからだけではありません。貴方は僕たちの幸せを喜び、僕たちの不幸を悲しんでくださる方。心より尊敬する方だからです!」
カナエと累の力強い言葉に、無惨は静かに顔を上げた。
涙で視界は乱れていたが、そこには微笑む不死川と産屋敷の顔があった。
「むーさん。私は思うんです。貴方にはもう1つ血鬼術があるんじゃないかって」
「もう1つの血鬼術?」
「はい。これは確かな話ですよ。むーさんが本部に来てからお館様のお体の調子が良くなられたじゃないですか。それに不死川さんも丸くなった。このことから、むーさんは“人に活力を与える血鬼術”を使えるんじゃないかなって思うんです」
カナエの推理に無惨はいまいちピンと来なかったが、不死川は苦笑いし宇髄がそのことに爆笑した。
「たしかにそいつはド派手に正解だ。この不死川はお館様に初めて謁見した時にやらかしているからな。つい最近の話だ。そいつがここまで大人しくなったのは、たしかに血鬼術の影響でもないかぎりありえねぇな」
指さして笑う宇髄に、不死川は顔を真っ赤にして居心地悪そうに顔を背けた。
「たしかに私の体も調子がいい。心と体に活力を与える能力があるというのはあながち間違っていないと思うよ。カナエが普段と変わらないのは、きっと心も体も満たされているからだね」
産屋敷の推理に誰もが笑顔を見せた。
そして気付いてしまった。
もし産屋敷の推理が正しいのであれば。
無惨が鬼殺隊本部に訪れるまでに交流した者はもう1人いる。
その者の心と体にも活力が与えられていたはず。
その者、冨岡は特にいつもと同じ調子であった。
『つまり冨岡は』『その仏頂面で』『満たされていて“ソレ”なのか』
その事に気付いた全員が、笑いを殺すのに必死になった。
【平安コソコソ噂話】
産屋敷は無惨が自分の遠縁であり、鬼舞辻無惨は赤の他鬼だと思っていた。
だけど無惨の夢発言で、その淡い希望が裏切られて少しショックを受けているぞ!
でもどのみち今までの覚悟に戻っただけだ!
それでもやっぱりショックだぞ!