「沙月さん、卒業おめでとうございまーす!」
10人収容の和室で祝福の言葉が飛び交った。厳しい寒さが山場を越えて、緩やかに春へ向かう2月中旬。卒業式を2週間後に控え、美術部の先輩を送る会が敢行された。
宮浦沙月さんは私にとって特別な人だ。沙月さんがいなければ、私は今を楽しいとは思えなかった。
私は中学の頃から絵を描くことが好きで美術部に入っていた。とりわけ絵が上手かったわけでもないが、会話も文章表現も苦手な私にとって、自分の世界を表出できる数少ない手段だった。1枚の紙の上で鉛筆を滑らせて世界が作られていくのが楽しかった。
その延長で高校入学後も美術部に入部した。しかし、同じ場を共有する人たちはみんな向上心と夢を持って絵を描き、私のような向上心もなく、漠然と鉛筆を滑らせる自己満足的な絵描きに居場所はないと悟った。もともと内向的で、中学時代から友達が少なく、部活でも一人の時間が多かったが、不思議と高校の孤立には応えるものがあった。おそらく、無意識に「高校生」に期待していたんだと思う。現実とのギャップに唯一のよりどころだった絵すら楽しくなくなってしまった。
そんなギャップを埋めてくれたのが沙月さんだった。
「やや、中峰さん元気?」
いつも通りカンバスに向かって絵を描いていた私に突然話しかけてきた。
「えぇ、元気です」
「絵描くの楽しい?」
「はい、楽しいです」
もちろん空元気だった。紙と黒鉛の摩擦が日に日に重くなっていくのを感じていた。楽しくない、と言わなかったのは自己暗示だ。楽しいと思わないとやってられない。
「あの子らと話したりしないの?」
背後で話している同級生を指さす。
「えぇ、まあ…・・。絵、描きたいんで」
「ふーん……。じゃあさ、私描いてよ」
私が返事する間もなくイーゼルを挟んで対面する形で沙月さんが座った。
「えっ……」
「被写体あった方が描きやすいでしょ?」
「そんな……無理です」
私じゃ上手くかけない。パースも人体もめちゃくちゃで、誰かを描くなんてしたことがなかった。
「無理じゃないっ!制限時間15分ね。私この後バイトだからー」
「じゅっ……!無茶です!わ、わたっ」
「ほらぁ~。描けなかったらジュース一本ね」
「まっ……!」
「1分経過ー」
弁解は無駄だ。と割り切って鉛筆を握った。心臓がバクバクする。無理だ……逃げたい……と頭の中で叫びながらも、人に嫌うことを極端に怖がる私は無我夢中にカンバスに向かっていた。
………………。
………。
「はい、15分でーす」
沙月さんが立ち上がり、集中の糸が切れ、すぅーっと血の気が引いた。描きおわるはずもなく、カンバス上の沙月さんは肩の辺りまでしかなかった。
「どう?描けた?」
「……ごめんなさい……肩くらいまでしか描けませんでした……」
「どれどれ」
嬉しそうにカンバスをのぞき込んだ。
「おお、描けてるじゃん。超美人。紛れもなく私だね!」
冗談ぽくケタケタ笑った。気を遣わせたんだと即座に理解して、目頭が熱くなる。
「わわわっ!なんで泣いてんの!?」
「だって……描き切れなかったから……気を遣わせて……」
支離滅裂に言葉を発する。涙を堪えようとするものの、堪えようと力を入れるたび涙は溢れてしまう。
「中峰さん。私はあなたがうらやましいと思うんだ」
「ぇ……」
顔を上げると、沙月さんは目の前のいすに座って微笑んでいた。
「15分なんて無理難題をふっかけられて、描けるはずもないのに手を抜かない。やっぱり描き切れなくて悔し涙を流すなんて、私にはできない。私はそこまで絵にかけられないからね。描くのは好きだけど、夢中にはなれない。たぶん、ここにいるほとんどがそうだよ」
「でも私……みなさんみたいに上手くない……」
「上手くなるのは努力。夢中になれるのは才能。私は好きだから腕を磨いて上達したけど、夢中になる才能は持っていなかった。だから打ち止め」
「そ、そんなことないですよ……」
沙月さんがにこっと笑った。
「中峰さんが入部してきたときさ、すごい子が入ってきたと思ったんだ、本当に。そりゃ、パースとか体の構造とかの技術面は乏しかったけど、ずっと夢中で描いてて、その姿が楽しそうでうらやましかった。私はこんなに楽しそうに絵を描いてたっけなあ、って考えたよ。でも、最近元気ないな、って、ペンの運び見てたら一目瞭然だったよ?なんてったってそこに惚れたんだから」
少し恥ずかしそうに話していた様子から一転、再び微笑んで私を見据える。
「どう?絵描くの楽しい?」
初めて人に心を触れられた気がした。不思議な、体が浮くような、頭に熱が集中していくような感覚。手を離したリンゴが地面に落ちていくように、言葉が自然と口からこぼれた。
「……正直……楽しくないです。一人で、何が目的で描いているのかわからないです……」
「中学の時からやってたんだよね。その時はどうだったの」
「楽しかったです。今とほとんど変わらないのに、楽しかったです」
「んー……そっかー」
腕を組んでじっと考え込む。沙月さん自身のことではなくとも、まるで自分のことのように悩んで、考えて共有し、解決しようとしていた。
「じゃあ、気分転換しよう、今から」
そうして生まれた案が気分転換というありきたりな答えであったが、沙月さんには別の何かが見えているかのように変わった視点を持っていた。
「今からって……」
描きかけのカンバスを取り上げて、話していたグループのところへ持っていった。
「ちょっ……まって……!」
「見てこれすごくない?」
再び心臓が暴れだす。せめて自信のある絵を……と思ったが、そういえば最近そんな絵を描けていなかった。でも描きかけは自信があるか否かの問題ではなかった。
「上手ですねー。描きかけですか」
「完成品」
同級生の女子が予想外の答えに目を丸くする。
「えっ。途中ですよね」
「15分で描かせたから、これが完成品」
「15分なんですか。誰が描いたんですか」
「中峰さん。ほら来て来て」
今にも逃げ出したい気持ちを抑えて沙月さんの元に行く。
「紹介します。1年の中峰……中峰なんだっけ」
「えっ……と……」
「沙月さん……。中峰陽海さんですよ。ね」
1人の同級生が割って入る。私の名前を覚えてくれてたなんて知らなかった。
「はっ、はい」
「ていうかなんで紹介するんですか。もうみんな知ってますよ」
「そうなの?てっきり知らないから話しかけないのかと思ってたよ」
「そんなわけないじゃないですか。いつも集中して絵描いてるから、邪魔しちゃ悪いな、
と思ってただけですよ」
「なんだ、はぶってたんじゃないんだ」
「うわっ、失礼ですね」
このとき、私の中の同級生に対する考え方が変化し、少しずつ心を開いていくようになる一歩だった。
「で、どうしたんですか。わざわざ紹介するんですから、なにかあるんでしょう?」
「気分転換しようと思ってさ。みんなで喫茶店にいかない?」
「え"」
気分転換でこんなに人がいては転換できるものもできない。
「いいですよ!奢りですか?」
「まさかー」
「せ、先輩……バイト」
「ん?あぁあれ嘘」
「えぇ!?」
「そうでもしないと描かないじゃん」
「いやっ……まあ……」
「そんなこと置いといて……行くよ!」
と言って、半ば無理やり手を引かれて喫茶店に連れていかれた。沙月さんと私が出会ってから数ヶ月程度であったにもかかわらず、数年来一緒にいたかのように見透かされていたように感じる。この日が、このやり取りがあったことで私の交友関係が広がっていった。
あれから1年半が経った。私は最上級生の目の前に立って、沙月さんは卒業して、大学へ進学する。沙月さんと出会ってから、あっという間だった。楽しかった。高校に入るまで1人で満足して、友達と遊んだり騒いだりするのがこんなに楽しいとは思わなかった。楽しいことも、絵のことも、沙月さんはいっぱい教えてくれた。その都度礼を言ってきた。この最後の集会、今までの感謝を伝えようとしていたのだ。
「沙月さん!」
部員全員、思い出話に花を咲かせて散り散りになっているなか、1人でいる沙月さんを探して呼び止めた。
「おいーす、はるちゃん。楽しんでる?」
「はいっ、おかげさまで」
それはよかった、と嬉しそうに笑う。沙月さんのこういう無邪気な姿は、2年間変わらずだ。
「いやー思い出すね、はるちゃん最初の頃はすっと1人だったのに、普通に輪の中に入れるようになって。成長だね」
「沙月さんのおかげですよ。話しかける勇気がない私の架け橋になってくれたんで」
「そ、そうだっけ。面と向かって言われると照れるなぁ……」
…………あれ?
「大学でも絵を描くんですか」
「一応その予定。8年くらい付き合ってきたんだから、簡単に切り離せないよね」
「頑張ってください!」
「人のこともだけど、はるちゃんもだからね。来年は最上級生なんだから」
「もちろんですっ!沙月さんからいっぱい学びましたからね。後輩にしっかり伝えます」
「重いっ!まあ気楽にね」
「はいっ」
違う……。霧が晴れない。何か、大きなものがかかっている。
「引っ越すまで引き続き部活に顔出すけど、こうして遊ぶことはもうないかもしれないから、今日は楽しもうね」
「はいっ!」
そう言ってほかの子の元へ行った。そのときの後ろ姿が妙に恐怖心を煽った。あぁ、もうお別れなんだな……。卒業して、離れていくことは理解していたが、この集会で理解が実体となって私の脳に映し出された。瞬間、とてつもなく怖くなった。心にぽっかりと穴が空いてしまうことが。そして、穴を構成する感情が、特別であることが。
3000字程度の連載はいかがなものかと思いましたが、やってみます。とはいえすぐ終わります。前中後編かと思います。百合ものなのでもし気になっていただけたら次も読んでください。