「……ん……」
意識が戻ると、日が傾き始めていた。窓は閉めていたが、部屋はひんやりとしている。寝過ぎて若干頭が痛いが、かなり落ち着いた。時計の針は15時20分をさしている。ついに最後の日が終わった。卒業式を待つだけとなってしまった。沙月さんに会わなかったことの後悔や恐怖を感じると同時に、今の状況にほっとしている自分がいて死にたくなる。
「卒業式……かぁ」
行かないでおこうかな。
ブブーッ……
マナーモードのスマホが震え、画面に大きくメッセージを受信したと表示された。うわずった声が出て確認すると、送り主は宮浦沙月さんと表示された。心臓が内側から全身を叩く。震える手で表示させると、長いメッセージだった。
『はるちゃん、元気?最近会えなくてさみしいな。みんな心配してるけど、学校には来てたらしいし病気ではないんだよね。てことは、部活に来づらいの?最後に会ったときに逃げてっちゃったけど、なにかしちゃったかな。言いにくかったり、なにもなければいいんだけど、あるなら教えて欲しい。なにか思うことがあるなら相談に乗るし。と言ってもあとちょっとしかないけど。(笑)
明後日は卒業式だから、来てくれないかな。最後くらいはみんなで写真撮りたいなーって。』
目が熱くなる。そうだ……。私は好きな人を裏切ったんだ。沙月さんに美術部を任せると言われた。全員に言っていることであって、特別な意味はないと思うが、私は沙月さんの目の前で逃げた。私の都合で逃げてしまった。沙月さんに変に思われたくなくて、逃げた結果嫌われたと思い込んで、目を逸らされるのが怖くてまた逃げて、取り返しがつかないほど好きな人から逃げた。
それでも、沙月さんは逃げる私に対して手を差し伸べてくれていた。その他に私は気づかなかった、いや、気づいていないふりをしていたのかもしれない。沙月さんの優しさは知っていたはずだ。ただ、会うこともなく別れてしまえば、いつかくる忘れる日を待っていられるから目を逸らした。しかし沙月さんは私の目の前に立って手を差し伸べた。もしかしたら私は、こうなることを期待していたのかもしれない。
靄がかかったような心情が晴れ、代わって別の塊が引っかかる。この塊の正体は明確で、怖くはあるが気持ち悪くはなかった。
震える左手でスマホを持ち、涙で滲んだ画面を操作する。
『申し訳ありませんでした。正直、沙月さんがいなくなるのが不安で逃げていました。もう大丈夫です。卒業式に会いましょう。』
寒さが残る中、ほんの少しだけ桜の花が咲いている。
卒業式が終わった。三年生は最後のホームルームを行うため教室に集められた。朝のうちに沙月さんに会うことはなかった。
同期の美術部員と出くわして話をした。意外と変化はない。部活に来なかったことを責めたり、深く聞いてくる子はいなかった。居場所が、残っていたことに心底ホッとした。
それでも、心臓がうるさい。きっと、話をしている私の表情はこわばっていたと思う。
「終わったかな……?」
周囲がざわつき始める。各クラス、ホームルームが終わり次第解散なのか、昇降口から見える姿はまばらだ。まだ、美術部の先輩の姿は見えない。
さらに数分待つと、お世話になった6人の先輩が昇降口から出てきた。みんな一斉に駆け寄る。しかし私は足が重くて動かなかった。目線がいつまでも地面に向いている。一瞬だけ沙月さんを認識し、緊張と焦りと後ろめたさに押しつぶされそうになる。ポケットに突っ込んだままの右手を強く握ると、忍ばせておいた紙がつぶれる音がした。慌てて取りだして確認する。汗と握力で原形をとどめていなかった。じわりと目頭が熱くなり、涙がにじむ。
「なんか上手くいかないなぁ……」
消え入る声でつぶやく。声に出すと楽になるのだが、今回に限っては自分がますます惨めに感じ、涙がぽろぽろこぼれる。どうせ沙月さんに上手く言えるはずがない。わかっていた。そうして手に取った紙とペンも私の思いを簡単に具現化してくれなかった。最後に生まれた想いの丈も紙の上に表現できなかった。自分の惨めさに泣いた。ここに来て後悔した。こうなるんだったら沙月さんに……。
「はるちゃん」
目の前で沙月さんが私の名前を呼ぶ。向ける顔がない。
「ありがとう」
私に向けたかどうかもわからない沙月さんの声は震えていた。
「よかった……」
声が涙を含んでいる。私は驚いて顔を上げた。
沙月さんは泣いていた。
「沙月……さん?」
「もう会えないかと思ってた……。本当に楽しかった。はるちゃんと、みんなと過ごす2年間が幸せだった。なのに……最後にひとり……はるちゃんが欠けて。それだけで今まで楽しかったことがつまらなくなった。いつか来ると思っていても来ないし。もうこないと思ってた」
沙月さんの目には、今まで見たこともない大きさの涙を蓄えていた。それでもなお、沙月さんは私の目から目を逸らすことはなかった。
沙月さんがブレザーの袖で別人のようにこぼす涙を拭う。
「ありがとう。最後に会えて、すっごく嬉しい」
そう言って強引に笑ったように見える表情から、本人を垣間見た。
「沙月さん……ごめんなさい……」
勝手に休んでしまって。目の前で逃げてしまって。辛い思いをさせてしまって。
いくらでも次に続く言葉を思いつけた。しかし言葉となって世界に飛び出してはいけない。
「大丈夫、はるちゃん」
左肩に、沙月さんの手が触れた。その手のぬくもりが、私が欲しかったそれだった。思わず声を上げて泣きそうになった。
「あ……」
沙月さんの手が離れる。
「行かないで……!!」
硬直して動かなかった足が不意に地面を蹴り、沙月さんに抱きついていた。
「は……はるちゃん……?」
「行かないで……ください……」
我には返っていた。しかし、今この腕をほどくことが怖くて仕方がなかった。
「沙月さんが行ってしまうと、一人になってしまう気がするんです……。置いてかないでください……。離れたくないです……。なんで……私は……」
あなたのことを好きになってしまったのだろう。どうして今になって気がついてしまったのだろう。あと少しで、沙月さんは手の届かないところへ行ってしまうのに。好きになってはいけなかったのに。
「離れたかったんです、きっと。別れの日が近くなって、辛くなることはわかっていたから、いっそ部活とか友達とか、全部切り離してしまえば、辛くなくなるんじゃないかなって、思ったんです。嫌われれば、嫌ってくれれば、沙月さんのことをあきらめられると思ったんです。なのに……。なのに!」
無意識に声を上げてしまう。胸にたまった感情が逆流する。
「なんで優しくするんですか!行かなくなったのに、卒業が近いのに行かなくなった私をなんで嫌いになってくれないんですか!なんで……泣くんですか」
今日があったから楽になれるなんて思っていたわけではない。けじめのつもりだった。今日で区切って、いつか沙月さんを忘れるまで、いい思い出として抱えていくつもりだった。しかし、ここで得たものは沙月さんが好きだという確信だけだった。さらに辛い現実だった。
「もういやだよ……。苦しいよぉ……!」
好きになることがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。
「沙月さんのこと……好きにならなきゃ…………良かった……のかな……」
なってはいけなかった。女の子が女の子を好きになってはいけなかった。頭の中で反芻するたび涙がぼろぼろこぼれる。苦しい。
「はるちゃん」
少しの沈黙の後、沙月さんが口を開く。
「えっと。そんなに私のことを好きでいてくれてありがとう。でもさ、私にはやりたいことがあって、はるちゃんにもやらなきゃいけないことがある。私は絵を描いていたい。絵で食べていくのは厳しいだろうから、仕事にはできないだろうけどね」
ははは、と自嘲気味に笑う。少し悲しそうに聞こえた。
「だからっ、私は離れてしまいます。ごめんね」
わかっています。この一言すら出ない。避けられない現実だけど、悲しくてただ子どものようにえずいて、涙を流していた。
「そんで、はるちゃんは部活を守ってもらわなければなりません。育ってきた場所を維持するのは、紛れもなくはるちゃんたちがやらなきゃいけないことだよ。よろしく」
「わがっ……て……」
「それでさ」
軽く、沙月さんをとどめていた私の両手を叩く。まるで魔法をかけられたかのように手がほどけた。
自由になった沙月さんが私に向き直る。
「はるちゃんが卒業する頃に、もし今の気持ちが残っていたなら、私の大学に来てほしいな」
ただただうなずくことしかできなかった。
「私ね、こうやって進学してまで絵を描きたい、って思ったのははるちゃんのおかげなんだよ。ほら、はるちゃん、初めの頃ずっと一人で絵を描いてたじゃん。あのときの絵を見て、なんだろ、「生きてる絵」ってものに気づいた。絵を追い求めたいって、本気で思った。本当に、感謝してる」
涙でにじむ景色、沙月さんの顔が歪んで見えなかったけど、純粋な、大好きな笑顔だとわかった。
「だから、これは私のわがまま。もしはるちゃんが来てくれたら、ずっと一緒にいよ?」
涙が止まらない。息が詰まる。沙月さんの問いかけに対しての返答もできない。しかし、まっすぐに見据えることだけはできた。
「それまで1年間、私の故郷を任せた!」
何度も何度もうなずく。
「よしっ。じゃあ、戻ろう」
「あっ、あの!」
再び呼び止める。それでも沙月さんはいやな顔一つしない。
「2年間、あ……ありっ……ありがとうございました!」
すべてを振り絞って声を紡いだ消え入りそうな声に、沙月さんは手を振り返して戻っていく。私はその背中を追う。きっとこれからも。
そしていつか、隣にいられるように。
架空のラブレターをもとに書いたものだと記録してありました。
たしかにそんなイベントあったなあといった感じです。
最終的に恋文要素がほとんどないことに気がつきました。
元となったラブレター(笑)も出てきましたが黒歴史でしかなかったです。