「天羽奏、入るわ」
三回ノックの後、白衣を身にまとったフィーネは傍らにクリスを連れて、奏の返事を待たずに入室していた。中に居た奏は相も変わらず書類の書面を読み耽り、フィーネの存在に気付いている様子はない。
最近は毎日ずっとこれなのだ。
かつての完璧な"天羽奏"を演じようと躍起になり、起床後も食事中も、挙げ句の果てには入浴中でさえ、書類を防水ファイルに入れて読み続けている。
フィーネには、こうなることの原因は分かっている。
初めて風鳴翼と相対したとき。失った記憶と体が覚え続けている風鳴翼の温もりがズレを起こし、違和感では済まない不快感を覚えているのだろう。
「天羽奏」
「んー……あれ、フィーネ。いつの間に入ってきたんだよ」
「呼び掛けとノックならしたのだけれど。最近は、私が用意した資料を読み続けているようね。気味が悪いとクリスから苦情が来ているわ」
「あー、怖がらせたならゴメン。けど、次に会うまでに頭に入れておかないとさ。記憶が無いなら無いで、やることやっとかないと」
「それもいいけれど……」
呆れ顔で溜め息を吐きながら、フィーネは奏から書類を奪い取った。奏は最早驚くこと無く、どこか悟ったような顔でフィーネを眺める。
「……アタシ最近盗られてばっかなんだけど」
「少し外でも歩いてきなさい。部屋に閉じ籠り過ぎ」
「だけど──」
「グダグダ言わない」
「分かった、分かったてば! だから腕を引っ張るなって!」
そんなこんなで、奏はフィーネから勧められた男装をして商店街をあてもなく散策していた。
時刻は夕方午後五時半。西陽に染まった紅の空と街並み、仕事終わりの者たちがその手に買い物袋やらを提げ、行き交っている。
「ったく、夜まで帰ってくるなとか何の罰ゲームじゃんか。小遣い二万で日没までって、ちょっとした旅してる気分だ」
左手に持つ冷めたタコ焼きを口に運び、咀嚼しながらただ時間を潰すべく歩き続ける。
目的がないと言うのはかなり退屈なもので、ショーウィンドウを眺めるもののピンと来るものは1つもない。数少ない楽しみと言えば商店街中にある飲食店の食べ歩きで、今食べているタコ焼きもその一貫だった。
食べている時は、退屈さが紛れる。夕焼け避けのサングラス越しに周囲を見回していると、一人の少女が顔を俯かせながらトボトボと歩いていた。
頭を飾る大きなリボンがチャームポイントの、少し大人しそうな少女だ。その手には二人分の鞄を持っている。
そのまま無視しても良いかと思ったが、目尻に溜まった涙に気が付き思わず声をかけていた。
「なぁ君」
「……?」
少女はキョロキョロと辺りを見回した後、自分? と確認するように人差し指を自身に向けた。
「そうそう」
「あ、あの……私、男の人とは、その、まだそういうのは……」
「え?」
何言ってんだと言いそうになり、自身の格好を見返して納得する。サングラスを掛けたパーカーとズボン姿の男に話しかけられれば警戒するのもやむ無し。
「あぁ、ちょっと待ってな。アタシは君と同じ女だよ」
素性を知られないよう、奏はサングラスをずらしパーカーの前をずらした。
はだけたパーカーから見えるチューブトップのキャミソールと胸の膨らみは一目見ただけで、本物とわかる。
「なっ? 目の前で涙を浮かべてたらほっとけなかったのさ。まぁでも怪しいって気持ちも分からなくもないし、別に断ってもいいからさ」
「……いえ、お話聞いてもらって良いですか」
「よしきた。ここじゃなんだから、場所を変えよう」
「私の行きつけのお好み焼き屋さんがあるんです。そこで……」
少女に連れられて向かった先は、雑多と並ぶ店舗の1つ。
『フラワー』と言う文字と花のマークと共に彩られた看板を掲げた、一見目立たない店だ。少女がガラリと戸を開けて中に入ると、中の女性が声をかけてきた。
「いらっしゃい未来ちゃん。あら、隣の人は親戚の人?」
「そんな、ところです」
一瞬詰まるも、平静を装って返事をする未来と呼ばれた少女を奏は眺めていた。
置くの席へと移動し、女性から遠く離れた場所に陣取る。何かを察したのか、女性も声をかけるようなことはせず、ただ奏に一言『未来ちゃん、これ大好きなんですよ』と告げてお好み焼きを目の前に置いた。
「美味そうなお好み焼きだなぁ」
「私のイチオシなんです。友達と一緒に、いつもは二人で食べるんですけど……」
「なるほど。落ち込んでたのはその友達でのことか」
未来が頷く。
「今夜のこと座流星群、その子と一緒に見る約束だったんですけど、ちょっと目を離したら居なくなってしまって……。電話もメールも、繋がらなくて……」
そう話す未来の顔は、酷く暗かった。
前に見た、風鳴翼の弱った顔とはまた一線を画す、暗く落ち込んだ顔。目尻に溜まる涙を指で拭い取りながら、また声を出そうとしたものの、乾いた溜め息のようなものしか出てこなかった。
そんな未来の姿をみて奏は思う。
アタシと風鳴翼も、こんな関係だったんじゃないかと。涙を流し弱った顔を見るだけで、心が締め付けられるように苦しかった。それこそ、目の前の未来のように。
穂先を向け続けるのも辛い。だけど恩返しのために向ける。使命感と感情が相反し、言い知れぬ気持ち悪さが込み上げた。
だから、分かるとは言えなくても、何かしらこの子には言葉をかけられるんじゃないか。
「アタシにもさ」
「……?」
「君みたいにケンカした人がいるんだ。色々な事情があって、向こうからしたら裏切られた気分だろうし、私もケンカするのは辛かった」
「そう、なんですか……?」
「ああ、嘘は吐かないさ。そりゃもう今までにない大ゲンカで、アタシも向こうもスゴい傷付いたんだ」
「その後は、どうしたんですか……?」
「さぁ? アタシはすぐその場を去ったし、向こうも一緒にいた友だちと仲良くしてるんじゃないかな。正直、顔を会わせられる気がしない」
全て、本心である。
思い浮かべるのはもちろん風鳴翼。頬杖をつきながら、出来るだけ穏やかな表情を意識して、未来に向ける。
「だから、こうなる前に伝えたいことは全部伝えておいた方が良いぞ。アタシみたいに、ズルズル引きずったら面倒くさくなるからな」
「そう、ですね。私も、友だちと話せなくなるのは辛いです」
「だろ? すぐに分かった飲み込み早い子には、アタシが食べさせてやる。ほら、口を開けな」
「うぇっ!? え、えっと、そう言うことは友だちと……」
若干頬を赤く染める未来を見て、奏は笑みを浮かべ顔を手で抑える。
「たはー、そこまでだったかー。しょうがない。今日はアタシの奢りさ。好きに食べな」
「……良いんですか?」
「もちろん。アタシが呼び止めなきゃ来なかっただろうし、今はお金が少し余ってるからな。思う存分、食べな」
「すみません。ありがとうござい──」
その時だった。
ピピピピッと未来の方から軽やかな電子音が流れ始める。ポケットに入っている電話がなっているようで、取り出し画面を開くと未来は奏に一度頭を下げてすぐに電話に出た。