早く素性を確かめたいと思ったが、良斎は朝から隣村に往診に出ていた。しかも、戻ってみると、美緒の姿もない。
黒い雲が胸に拡がってくる。自分の推測が当たっていれば、ことは良斎の処遇だけでは済まないかもしれないのだ。
鶴丸は、気を鎮めようと、厨で水瓶から水を掬って飲んだ。
そのとき、裏の背戸の方で、話し声がするのに気がついた。一人は美緒だ。
立ち聞きなど卑しいふるまいだが、こういう事態だから、美緒が誰と何を話しているのか、やはり気にかかる。
鶴丸は、そっと裏口に忍び寄った。羽織を着ていないので、鎖が音をたてることもない。
美緒と向かい合っているのは、がっしりした体格の、牛のような温和な目をした若者だった。
「だから、それは違います。鶴丸さまは、わたしのことなんか」
いきなり自分の名前が出て、ちょっとたじろいでしまう。
「それにあの方は、ただのお武家さまではないのよ。わたしごときが、何を思っても…けっして届かないお方」
牛男は、ぼそっと突っ込んだ。
「それじゃ、月に想いをかけるようなものでねえか」
そうね、と美緒は寂しげにうなだれた。
「与五郎さんのことは、ずっと変わらず大切に思っているの。ただ、あの方を見ていると、魂が空を飛ぶような心地になって…自分でもどうしようもないの…」
男はしばらく思案していたが、ようやく重い口を開いた。
「したが、いずれ、去ってしまうお人よな?」
「ええ…」
「なら、俺は待つ。美緒ちゃんが、あの男を忘れるまで。月ではなく、俺を見てくれるまで」
鶴丸はいっそう息をひそめて、その場を離れた。
(参ったなあ…)
まさか、美緒に想いをかけられていたとは。
そして、月、ときたか。
その名を持つ朋輩のことが頭に浮かんで、なんだかもやもやする。
やがて美緒は、大きな笊を抱えて戻ってきた。囲炉裏端にいる鶴丸に、いつもと変わらぬ笑顔を向けて、
「今日も、お迎えは来ませんでしたの?」
やはり、嬉しそうに言う。
笊の中から洗った菜を取り出して、漬物の下ごしらえにかかりながら、
「そういえば、鶴丸さまのお国は遠いのですか」
「ああ。とても遠くだ」
空間的にはそうでもないが、時間的には遥か未来に、本丸はある。
「どなたか、待っていらっしゃる方は」
「それは、みなが待っているだろう。一人欠けても戦力は」
「そうではなくて。あの…奥方さまとか…」
さきほど立ち聞きして、美緒の胸のうちはわかっている。ここは、すっぱり諦めてもらおう。
「俺たちは妻帯しない」
「えっ!?」
美緒は、菜切り包丁を持ったまま振り返った。
「なあに、坊さんと同じさ。役目がら、家族は持てないんだ。仲間が家族のようなものだよ」
同じ刀派、同じ主のもとにいたことのある刀、その親しみと結びつきは、家族というのがしっくりくる。
「そうなのですか…」
美緒は安堵とも落胆ともつかぬ、あいまいな表情を浮かべていた。
午後も遅くなって良斎が戻ったとき、鶴丸はそっと耳打ちした。
「娘を使いに出せ。内密の話がある」
良斎は一瞬、もの言いたげな顔をしたが、黙ってうなずいた。
そして美緒を呼び、何か書いたものを渡した。薬種屋にでも行かせるのだろう。
娘が出かけてしまうと、鶴丸は囲炉裏端で良斎と向かいあった。
「先に、俺の秘密を明かそうか」
ずばっと切り込む。
「俺は先の世から来た。あんたもそうではないのか」
良斎は目を伏せ、呟いた。
「…そんな気は、していた」
どこから話すか迷うふうで、良斎はしばらく灰を火箸で掻きまわしていたが、ようやく顔を上げた。
「わしが生まれたのは、文化4年。『こちら』に来たのは、文政12年のことだ」
(1830年ごろだな)
顕現したてのころはともかく、鶴丸もこのごろでは西暦で換算する癖がついている。良斎は、200年以上、過去に飛んでしまった計算だ。
「わしは、『向こう』では、蘭学者・二宮敬作の弟子だったのだ」
「ほう。では、シーボルトの孫弟子か」
良斎は、まじまじと鶴丸の顔を見て、ほうっと吐息をついた。
「なるほど。あんたも先の世から来たというのは、真らしいな」
そこから、良斎の身の上話が始まった。
「わしと二宮先生は、帰国するシーボルト先生を、禁を犯して見送ろうとしたのだ。夜陰にまぎれ、小船に乗ってこぎだしたが、自分は船酔いするたちでな。身を乗り出してげえげえやっているときに横波を受け、海中に転落してしまった。てっきり死んだと思ったが、この宿場から一里ほどの浜辺にうちあげられた」
「やれ助かったと喜んだものの、どうも様子がおかしい。長崎にいたはずが、紀州にいる。流されるにしても遠すぎる。そして驚いたことに、まだ豊臣の世だったのだ」
自分たち男士は、時間の中を行きつ戻りつすることに慣れている。それでも、並の人間が時間を逆行してしまったときの混乱は、十分に想像できた。
「浦島太郎の逆だな」
「困ったことになったのは、浦島と同じだ。わしは、この時代に知己も身寄りもない。たとえ先祖を探し当てて訪ねていったとて、相手にされまいし。で、とほうに暮れていたところを、土地の女に面倒をみてもらって…まあ、めおとになったのよ」
照れたように頭を掻く。
「それが、美緒の母親だ」
美緒の名が出たことで、鶴丸は己のうちに緊張が高まるのを感じた。ひとつ大きな呼吸をして、
「ぶしつけなことを聞くが。娘御は、その女人の連れ子だろうな?」
「いや。一緒になってから産まれたゆえ、わしの子だ」
(ああ…!)
目の前が冥くなる思いだった。
良斎の素性を疑ったときから、そうでなければよいがと願っていた。彼がこの土地に現れてからの年数と、娘の年頃を引き比べて、実子ではない可能性に賭けていたのに。
では、美緒こそが最大の「異物」なのだ。良斎以上に、歴史にとって危険な存在。
時を遡ってきた、どころではない。この世に存在するはずがなかった人間だ。良斎が時を超えてここに来なければ、美緒は生まれなかった。
歴史には、ある種の「可塑性」があると聞いたことがある。少しのズレなら、修復しようとする力が働く、という。
たとえば、ちょっとした行き違いで、本来の相手とは違う人と結ばれてしまうなどということは、遡行軍が関与せずとも起こりうる。そのくらいの食い違いは、歴史の大きな流れに、いつしか呑み込まれてしまうものだ。
だが、これは違う。
けっして交わるはずのない、別の時代の人間同士が結ばれ、しかも子を成してしまったのだ。
さっきの牛男とのやりとりが、にわかに意味を持ってきた。今になって検非違使が来たのは、美緒がそういう年頃になったからではないのか。
もしこのまま美緒がここで生き延びて、子孫を持ちでもしたら。歪みは、途方もないものになるだろう。
「歴史が変わる…」
鶴丸が思わず呟くと、何を勘違いしたか、良斎は能天気なことを言いだした。
「いやいや、わしの医術は、それほどご大層なものではない。治るのをいくらか早めたくらいのことよ。相手は民百姓ばかりだしな。一番手柄は、おぬしの命を救ったことだな」
鶴丸は生返事で流した。この男に、自分の真意を悟られてはならない。
良斎は、政府の力で元の時代に戻し、つじつまを合わせることもできるだろう。
だが美緒には、還るべき場所はない。もともと、存在してはならない人間だから。で、あれば。
(消さねばならない)
鉛を呑んだように、胸が重い…。
美緒が使いから戻ったので、そこまででいったん話を切った。
自分の寝所としてあてがわれた奥の間にこもって、鶴丸は自分自身を説き伏せていた。
どんなに長く生きても、人間は100年ともたない。今死ななくても、50年先には美緒はいない。早いか遅いかの違いだ。
だが、その50年が人間にとってどれだけ貴重なものであるか、人のそばに長く在った鶴丸にはわかる。
生まれきて、悦び悲しみを積み重ね、老いて、死んでいく。その道のりこそが、「生きる」ということだ。それを道半ばで断ち切るとは、何と非道な所業か。
それでも、歴史を守る使命は、人一人の命よりも重い。たとえばそれは、一滴の水と、とうとうたる大河を比べるようなものだ。
美緒の存在が歴史を歪めるのなら、排除するのは自分の務めだ。
ふーっと太い息を吐き、鶴丸は目を上げた。
娘に無用の苦しみを与えないためには、ひと太刀でけりをつけることだ。すぱっと首を打ち落とすに限る。名刀と名手がそろえば、打たれた者は、一迅の冷風を感じるのみ。
だが、この無銘刀にそういう芸当ができるだろうか。せめてこれが「鶴丸」だったら。いや、無いものねだりをしてもしかたがない。
心臓をひと刺し、という手もある。正面、やや下から肋骨を避けて突き上げれば、即死させられる。
「正面」
口に出してみて、とても無理だと首を振る。
命の恩人ともいうべき人、何の罪もない若い娘を、正面から突き殺すなど、できるものか。まして、あの顔を目の当たりにしながら。
いや、できないではすまないのだ。このまま放置して去ったら、歴史が変わる。それとも、検非違使が彼女を消しにくるか。検非違使の手になど、掛けさせたくはない…。
鶴丸は、顕現以来、もっとも過酷な任務に直面していた。