あの日の約束を果たすために 作:ララパルーザ
鴨川ボクシングジム。通りに面した立地であり、ランカー三名を有する。中堅どころとも言えるジムだろうか。
有名と言えば、デビュー戦より全戦全勝KO勝ちばかりのリーゼントなハードパンチャー、鷹村守だろう。
そんな鴨川ボクシングジムはこの日、緊張感に満ちていた。
何故なら今日は、特別な日。外部からの客が訪ねてくる日だったから。
「おい、ジジイ。いつになったら、あの野郎は来るんだ?」
「もう少し待っておれ。子供かお主は」
「ルッセェ!最初が肝心だろうがよ!」
ギャンギャン騒がしい鷹村を適当にいなしながら、鴨川はため息を吐く。
今日のジムは、どこか浮ついていた空気に満ちていた。原因は言わずもがな、今回場所を提供する側として招く形となった相手の事。
よくよく見れば、鷹村だけでなく、木村や青木などもそわそわとしており幕之内に至っては、何度となく入口へと目を向けては逸らしてを繰り返している。どこの乙女だ。
いまいち身の入っていないジム生達に、そろそろ一喝入れようか。鴨川がそう考えて杖を手に掛けたのと時を同じくして、ジムの窓に影が差した。
引き戸が開けられ、入ってきたのはもさもさ頭の青年と少年の中間のような男。
「……おはようございます。徳川ジムから来ました、服部です。今日はよろしくお願いします」
腰を九十度に曲げて頭を下げた服部。静かなものだが、何と言えばいいのかその内側には確かな熱を感じさせるそんな姿だった。
顔を上げた彼に、早速絡みに行くのは今回のホスト側でもある鴨川……ではなく、プレゼントを待ちきれない子供のようにそわそわしていた鷹村だ。
「よぅ、このオレ様を待たせるとは随分じゃねぇか?」
「……初めまして、鷹村選手。時間に関しては、約束の十分前ですから」
巨漢とも言える体格をした鷹村を前にして、服部は一歩も引く気は無いらしい。真っ向から見上げるようにして目を合わせて、逸らさない。
一定以上の実力者ともなれば、その体つきを見ただけでも相手の技量を測れる。
だが、この睨み合いは技量を測る、等という生易しいものではなかった。寧ろ、この場でそのまま拳を交えてしまいそうな、そんな重さがあったのだ。
とはいえ、ここはリングではないし、そもそも戦争しに来たのではなく練習を共にしに来たのだ。
「止めんか、お主ら。鷹村も、下がらんか。お前は後じゃ、後」
「ぬ!邪魔すんじゃねぇーよジジイ!」
「戯けが!時間は有限で、それも態々相手から小僧をスパーリング相手に選んでくれたんじゃぞ。下がらんか」
「チッ………おい、服部。後でスパーやるぞ忘れんなよ」
「よろしくお願いします」
肩を怒らせるような堂々とした後ろ姿で奥へと引っ込んでいった鷹村。入れ替わるようにして、鴨川が服部の前へとやって来た。
「すまんな、服部よ。鷹村がしつこくてな」
「いえ、大丈夫です」
「そうか………早速じゃが、小僧とのスパーから入ろう。アップは問題ないか?」
「……少し、シャドーを挟んでもいいでしょうか?1ラウンド分で良いので」
「勿論じゃ。リングを使うか?」
「いいえ、角を貸していただければ、十分です」
「そうか…………ならば、地下に行くかの。そこならば、周りの目も気にならんじゃろう」
踵を返して案内するように先に行く鴨川の背を追い、服部もまたジム内に歩を進めていく。
「小僧、お主も来んか」
「は、はい!」
鴨川に呼ばれた幕之内も続き、三人は奥の扉へと消えていった。同時に、漂っていた緊迫感とでも言うべき圧力も霧散する。
「…………ぶはーっ!マジで焦ったぜ。あのまま、鷹村さんと服部の殴り合いになるかと思った」
息を吐き出すついでにそう漏らした青木の言葉は、この場に居た周りの心情もそのまま表している。
そこに鼻を鳴らしたのは、鷹村本人だった。
「はっ、オレ様も服部もリングでもねぇのに拳合わせる訳ねぇだろ」
「でもですよ、鷹村さん。アンタ、服部とスパーするのは否定しないんすよね」
「まあな」
「珍しいっすよね。俺らは兎も角、一歩だって余程の事じゃなけりゃスパー相手にしないってのに」
「そりゃ、ジジイが止めてきやがるからな。心配すんな、壊しゃしねぇよ」
そう言う鷹村の表情は、実に楽し気だ。
実際の所、彼の相手を務められる国内の選手は居ないと言っても過言ではない。これは、鷹村自身の恵まれた体格も相まっての事。
仮に相手になるとすれば、チャンピオンクラスでどうにか。そんなレベル。
そんな時に現れたのが、服部だ。その引き出しの多さは、僅か数試合でも明らかであり未だに底を見せてもいない。
階級に差があれども、技量の高さは実力の高さだ。スパーリングであろうとも、期待せざるを得ないというもの。
時を同じくして、地下ではその片鱗を幕之内が味わっていた。
@
(す、すごい……!)
風を切る拳の音と、フットワークのキレ。基本を踏襲したシャドーではあるのだが、だからこそその凄さというものが際立つ。
服部のシャドーは、第三者の視点から見ても対戦相手の影が見えるような、そんな出来栄えだった。
少なくとも、幕之内には影のような物と相対する服部の姿がその目には映っていた。
鋭い服部のジャブを、しかし影は軽快に躱しそれどころか二発目以降には交差するようにカウンターを返してくる。飛燕を交えてもそれは変わらない。
左右のスイッチ、そこからの右ストレートも変わらずカウンターが被せられてくる。
対戦したからこそ、幕之内は服部が強いという事をよく知っていた。そして、会長や先輩に補足を受けてその肉体が尋常ではないレベルで鍛え上げられている事も知った。
その上で、彼のシャドーの相手は
「―――――…………お待たせしました」
濃密な三分間。シャドーを切り上げた服部が振り返る。
見蕩れていた幕之内も正気へと戻り、二人はスパーの準備へと向かっていく。この間に、鴨川も地下へと降りてきていた。
オマケを連れて。
「なぜ、お主らまで付いてくる」
「良いじゃねぇか、ジジイ。見物だって、練習だぜ?」
「減らず口を………まあ、良いわ。服部よ、ヘッドギアはどうする」
「………無しでお願いします」
「………良かろう。して、何か要望はあるか。もっとも、小僧に出来る事などそうないが」
「いえ、特には………いつも通り、お願いします」
頭を下げてくる服部に対して、鴨川は目を細めて幕之内へと一つ頷きを送った。
ヘッドギアは、防具であるのだがパンチ力がある相手の場合は意味を為さない場合が珍しくない。そして、幕之内はパンチ力のある男だ。
何より、服部の回避能力は群を抜いている。当人もダメージを残すような馬鹿な真似はしないだろうという判断から無理強いはしない。
一方で、幕之内はというとヘッドギアを着けていつものピーカブースタイル。アップは終えているものの、こうして相対するとあの時の試合を思い出す。
一方的にやられた。最早、動くサンドバッグを殴っていたと言われてもおかしくない程度には一方的すぎる、試合内容。
あの敗北があったからこそ、防御の大切さを身に染みて理解したし、もっと上へと昇りたいとも思えた。
幕之内は感謝している。あの日の敗北を教えてくれた服部に対して。
だからこそ、今回のスパーリングではその感謝も含めて、全力で応えるつもりだった。
ゴングが鳴り、幕之内がコーナーより飛び出す。
迎撃するように放たれた手打ちの左ジャブ。幕之内はその一発を潜り抜けるようにして潜り込み、服部の懐へ。
放つのは、左のボディフック。
鈍い音が響く。
@
予想外の光景に、鴨川はその目を見開いていた。
確かに、ここ二ヶ月近くは幕之内の防御を重点的に見ながらも更なる強化を行ってはいた。だからといって格上に対して一発かませるほどの実力にはまだまだ程遠い。
その筈なのだが、幕之内の左拳は、確かに服部の腹筋を捉えていた。
圧倒的なまでの違和感。そして、その答えは直ぐに分かった。
「………打たせおったか」
そう結論を出せば、そうとしか思えなくなる。
左のジャブを態と真っ直ぐに限定し、そこを潜らせて腹を打たせる。普通ならば、やらない。それも相手が幕之内というハードパンチャーならば猶更。
だが、
何故打たせるのか。
(成程………場の制御に加えて、打たせる位置、タイミングに至るまで小僧の全てがあ奴の掌の上という訳か)
そう内心で結論付ければ、戦慄を隠すことが出来ない。
文字通り、釈迦の掌。ここまで相手の事を制御できるボクサーなど世界にどれほどいる事だろうか。
無論、相手が幕之内という武器が極端に少なく、尚且つ馬鹿真面目で馬鹿正直な男でなければそこまで上手く嵌るような事ではないだろう。
服部が想定しているのは、直情型の相手。そして、今の自分の体が同階級のハードパンチャー相手にどこまで耐えられるのか再確認。
そうして、態とボディを打たせる三分間が終わりを告げる。
「………凄い」
コーナーへと戻ってヘッドギアを外した幕之内の第一声がコレだった。
彼が目を輝かせてみるのは、反対コーナーの服部。
幾ら真面目堅物な幕之内であろうとも、あそこまで
その上で、感動したのはその腹筋の堅さ。まるで、鉄板。鍛え上げられた腹筋というのはあそこまで硬くなるのか、と。
「よっしゃ!次はオレ様とやるぞ!」
「………お願いします」
意気揚々とリングへと上がっていく鷹村に押し出されるようにしてリングを降りた幕之内。
たった一ラウンドではあったものの、濃密すぎる時間だった。正直な所、一息入れたいと思ってしまっていた為に特に食い下がるようなことは無い。
「操られた気分はどうじゃ、小僧」
「会長」
「お主も分かったじゃろう。自分が打たされている、と」
「はい」
「どう思った」
「えっと………ただただ、凄いなって。服部さんが強いのは分かります。僕じゃ、まだまだ及ばないのも分かります。だから、その…………」
純粋な称賛。そして、自分に何が足りないのかハッキリとその口でいう事ができるのもまた、一つの才能だ。
腐ることなく、落ち込むことなく、前へと一歩ずつ着実に進む為の力になるだろう。
「………今度の試合、見に行くぞ」
「今度?」
「新人王戦じゃ。服部の相手は、お主に勝るとも劣らぬフェザー級屈指のハードパンチャー。その上、今年は相手のホームグラウンドで戦う事になる。敵地戦がどういうものか、お主も外野とは言え知っておくべきじゃろうて」
「………試合は、二月の末でしたよね?………行きます」
試合を見る事もまた練習。それも、自分と同等かもしかするとそれ以上のハードパンチャーの試合と言われて、興味がわかない訳がない。
各々の思惑はどうあれ、時間は進む。その時が来るまでの努力を積み上げる、ただそれだけだった。