あの日の約束を果たすために   作:ララパルーザ

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 絶望。少なくとも、この試合会場においてその姿を形容する言葉は、正にこれだった。

 

「1!……2!……3!―――――」

 

 レフェリーのカウントが進む。

 殆どロープに押し込まれるようにしてダウンした千堂。そして、そんな彼をニュートラルコーナーより息を乱すことなく見下ろす服部。

 ゴングが鳴る寸前に叩き込まれた一発により、千堂はダウンを奪われていた。

 ボディと顔面の三重奏。それに加えて、顔面の一発の前には何度もジャブを受けていた。ダメージは大きすぎるといっても過言ではないだろう。

 だが、

 

「ッ、ぐっ………!」

 

 千堂は、動いた。

 顔を殴られて吹っ飛んだマウスピースをその手で掴み、咥えなおし。未だにぐにゃぐにゃの視界と直ぐにでも戻しそうな吐き気を意志の力で捻じ伏せて、体を起こしていく。

 ロープに縋ってみっともない?そんな言葉で大人しく眠れるほど、千堂武士という男は大人しくないし諦めよくない。

 いや、寧ろ体はヘロヘロでもその心は、今まで以上に煮えたぎるマグマの様に燃えていた。

 ここまで一方的に殴り倒されたのは、喧嘩を始めた時以来だろうか。いや、不良時代にも無かったかもしれない。

 

(面白いやんけ………!)

 

 その目に宿る剣呑な光。レフェリーの問いに答える声も、どこか重い。

 コーナーへと戻る二人のボクサー。その足取りは、まさしく対照的だがその体から放つ気迫というべきか、覇気とも形容できそうな圧力は遜色ない。

 

「………随分と性急だったんじゃないか?」

「………」

「それとも、()()()()()()()のか?」

「………勝ちますよ」

「馬鹿野郎。んなことは、心配してねぇよ。ただ、お前の主義も変わってると思ってな」

 

 やれやれ、とため息を吐きながらも徳川の顔には笑みがあった。

 服部は、勝利に邁進するボクサーだ。だが、それと同時に自分の気に入った相手の場合はその力の底まで引き出そうとする悪癖がある。

 宮田戦、幕之内戦もその癖が顔を覗かせていた。しかし今回は、それ以上。

 一方的にボコボコにしたように見えた、寧ろボコボコにしていたがその結果、ダウンと引き換えに千堂の内側に眠っていた野生というべきか、殺意ともいうべきか圧が顔を出してしまったのだから。

 徳川としても服部が負けるなどとは毛頭思っていない。そもそも国内でこの男を負かせる事はおろか、ダウンすらもあり得ないのではないか。そう思わされる。

 そう思わされたうえでも、今の千堂は危うく見えた。

 枷を外した猛獣との逃げ場のない場所でのタイマン。少なくとも、今の千堂とのボクシングはこれに尽きる。

 時を同じくして、千堂陣営にもまた動き有り。

 

「意識ハッキリしとるか、千堂」

「はぁ……はぁ……」

「一応、聞こか。止めるか、この試合」

「はぁ…………止めるわけ、あらへん。こっからって所で引けるかい………」

「言うておくが、これ以上続けるっちゅうことは、これ以上にボコボコに殴られるっちゅう事や。それでもエエんやな?」

「二度言わせんなや、柳岡はん………ようやく、強い男に会えたんや……それもとびっきりの強い男に………止めるんやったら………一生、恨む」

「………はぁ、降参や。お前がそのつもりなら、こっちも腹括らないかんな……ただ、もしもの時はタオルを投げる。恨まれようと、殺されようともな。その辺は、理解しとけよ」

「上等……どつき回したるわ………」

 

 虎のような気迫を発しながら、千堂は対面のコーナーを睨む。

 自分と相手の間にある差は、嫌というほどに理解させられた。現状ではどう頑張ったとしても、十中八九KO負けしかねないことも。

 それでも、引き下がれるほど千堂は軟弱ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 始まる、第二ラウンド。

 立ち上がりは、静かなものだ。ただ、リングと観客席ではその静かさに差がある。

 観客席に滲む静かさというのは、単純にその力量差を目の当たりにした為。ファンである、応援している、そう声を大にして言いたいというのにそれすらも黙らせる力が服部の戦う姿にあった。

 一方でリングの静けさというのは、単純に両者の様子見にある。

 オーソドックスなライトアップスタイルな服部に対して、千堂はというと完全にガードを下げている。

 試合を投げ出したわけではない。その姿は宛ら、冬眠から目覚めたばかりで気の立った熊。若干の前傾姿勢で、腫れの目立つ顔だがその目は爛々と輝いていた。

 手負いの獣ほど、恐ろしい物はない。

 そんな獣が、動き出す。

 技もへったくれもない、単純な前への一歩。前に垂らされた両腕が踏み出した一歩によって左右に揺れる。この揺れが独特なリズムを刻んでくる。

 一見ふらついているだけにも見える。だが、その揺れが大きくなった時ソレは起きた。

 

「ドラァッ!」

 

 つんのめった様な頭の振りを利用した加速ステップイン。からの、左スマッシュ。それはもはや、ボクシングの動きではない。

 喧嘩。単なる殴り合いの喧嘩の動きだ。

 だが、皮肉にもこの加速は現状の千堂における最速。そして喧嘩慣れという武器を最も活かすに足りうる攻撃でもあった。

 迫る拳は会心の一撃。第一ラウンドで死に体であったとは思えない出来だ。

 高まる観客の期待。ただ、()を知る者たちからすれば、それはあまりにも淡かった。

 

「………」

 

 迫る拳を見下ろしながら、圧縮された時間の中に服部は居た。

 極限の集中力。人が死に際に、己の人生を振り返るように人間にはそれだけの能力が備わっている。

 服部の場合、これはゾーンだ。

 圧倒的なまでの没入感により到達する集中の極致。一流のアスリートたちが己の勝因としても挙げることのある現象。

 服部は、前に出た。

 上体を後ろに反らすようにしながら、前へとステップイン。千堂のスマッシュを空振りさせその無防備な顎めがけて、アッパー気味の左フックを叩き込む。

 跳ね上がる千堂の頭。その勢いに負けて体が後ろへと倒れ掛かる。だが、完全に倒れる前に彼自身の右足が待ったをかける。

 

「オオオオオオオッッッ!!!」

 

 それはまさしく、獣の咆哮。のけぞった体を戻す反動をそのまま攻撃へと転化した右のぶん殴り。

 迫る千堂を確認し、服部は内心で成る程、と頷いた。

 彼は、鷹村と似たようなタイプ。生来のポテンシャルをそのままに、喧嘩によって磨かれたスキルを内包した存在である、と。

 鷹村との違いは、元々持ち合わせた潜在能力によるところもあるが、何より基礎の基礎にまで染みついた基本の有無。

 ただただ暴れるだけの野生は、確かに強い。現に今、暴れ回っている千堂が相手ならば、大抵のボクサーはその気迫に飲まれて一方的にボコられる。

 だが、それだけで勝ち続けられることは無い。確実に、どこかしらで躓く。

 今もそうだ。出鱈目に振るわれる喧嘩の拳は、しかし一発も当たらない。モーションが大きすぎるからだ。

 躱すこと、一分。パンチは十分見ることができた。

 反撃開始。服部は、グローブの中で拳を握り直す。

 

「ぐっ………!」

 

 跳ね上がる、千堂の顔面。乱雑なパンチが空を切った瞬間に、鋭い服部の左ジャブがその顔を強かに叩いたのだ。

 無論、半ば暴走状態の千堂はジャブ一発で大人しくなるほど温くはない。跳ね上がった顔を戻す反動を利用しながら、さらに殴りかかっていく。

 大振りなフック軌道の左右。からの、左ストレートのようなぶん殴り。

 そして、左ストレートをくぐる様に前へと突っ込む服部。放つのは、右のボディアッパーだ。

 くの字に折れ曲がる千堂の体。その顔を狙うのは、服部の左フック。

 だが、ここで彼の中に誤算が生まれた。

 

「オオオオオオオッ!!!」

 

 それは、意志の力。根性とも呼ばれる心の力。そしてついでに、崩れかかった姿勢もまた次のパンチを打つ動きを助けていた。

 ボディを強かに打たれて左足が一歩下がった体勢であった千堂。そうなると自然と利き足である右足が前に出ている形となる。

 この形。実はとあるパンチを出す体勢に実に似ている。お誂え向きに、左ストレートを放ったことで利き腕である右は後ろに下がっていることもこの一発の呼び水となっていた。

 意図していないカウンター。それが右スマッシュという形で服部へと襲い掛かる。

 左フックを放つ、否フックを放つ格好というのは実際のところかなり隙が大きいものであったりする。上体を開かなければならないし、真横から拳を振るうために振り抜くまではカウンターも取られやすい。

 その一撃は、見事服部の顔面を捉え―――――

 

(ッ!?)

 

 打った本人が一番わかる、分かってしまう。

 渾身の破壊力だった。そして相手はフックを打つために前へと出ていたのだからその分の衝撃も加味すればまず間違いなく一発ダウン、KOすらも夢ではなかっただろう。

 ()()()()()()()()()()()()

 沸き立つ観客。何せ、今までまともに一発も貰わなかった新人の顔面が()()()吹き飛んだのだから。違和感を覚えたのは、ボクシング経験者と腕のある指導者ぐらいか。

 

「………大きすぎませんか?」

「首ひねりじゃ」

「首ひねり?」

「スリッピングアウェーともいわれる技術でな。パンチの当たる瞬間に首を捻ることで、軌道を逸らす高等テクニックじゃ。もっとも、首を大きく逸らす姿から、ジャッジからの判定が悪くなるリスクもある。多用するならば判定勝ちではなく、KOを確実に狙わねばならんだろう」

「首ひねり………じゃあ、千堂さんの右スマッシュは………」

「服部へのダメージは、ほぼゼロと言っていい。会心の当たりが文字通り水泡へと帰した」

 

 冷静に試合を分析していた鴨川の見つめる先では、今まさに首ひねりによって千堂の豪打をいなした服部の左フックがそのテンプルを見事に捉え、キャンバスへと叩きつけている光景が広がっていた。

 反撃開始だ、と沸き立っていた観客を凍り付かせる一発。うつ伏せで倒れる千堂へと駆け寄ったレフェリーは確認し、そして両手を挙げて振った。

 水を打ったような会場内に、空しくゴングの音だけが響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が浮上して、最初に感じたのは嗅ぎなれた消毒液のニオイ。

 

「………ここは」

「ん?気ぃついたか、千堂」

「柳岡はん………試合は」

「完敗や。何もさせてもらえんかったわ」

 

 柳岡に言われ、千堂の記憶は少し前まで遡る。

 圧倒的な男だった。それこそ、西日本の新人王となった自分が完全な子ども扱いで一方的にボコボコにされる程度には。何より、病院送りなど初めての経験。喧嘩三昧の時ですらもなかったかもしれない。

 

「………強い男や……ごっつ強い………でも、あれでも最強やないんやろ?」

「さてな。少なくとも、今の服部と正面切ってどつき合えるボクサーなんぞ日本には片手の数で居るかどうかっちゅーレベルや。お前の右スマッシュ(とっておき)もスカされたしの」

「アレか………えらく軽い手応えやったからな………アレも、技なんか?」

「スリッピング・アウェー。首ひねりともいわれる、高等テクニックや。同時に、その場凌ぎの緊急回避でもある。使う選手はほとんど居らん」

「なんでや?」

「ジャッジの心証を悪くしてしまうから、やな。お前も見たやろ。派手に首が吹き飛ぶ様を」

 

 そう言われ、千堂が思い出すのは渾身の右の手ごたえが、宛ら空中に吊られたティッシュでも殴ったかのように軽かったあの瞬間。

 渾身が殆ど空打ちになったあの瞬間、意識の空白が生まれていたその次の瞬間には千堂の意識は完全に千切れてしまっていた。

 力の差だけが際立った試合だった。それこそ、心折れても仕方がないほどに。

 しかし、千堂というボクサーは、千堂武士という男はこの程度でへし折れてしまうほどか弱くない。

 

「柳岡はん」

「どうした」

「ワイは、あの男に勝ちたい」

「………本気なんか?」

「本気も、本気。あの男に負けたまま、ベルトなんぞ巻いたところで意味なんてあらへん」

 

 千堂自身、日本国内だけで満足する気は更々ない。無いが、だからと言って国内の強敵をそのまま放置して雄飛できるほど彼は、達観してはいなかった。

 未だベッドから起き上がることもできない千堂を見下ろして、柳岡は一つ溜息を吐いた。

 ギラギラと滾る様に揺らめく光を内包した目。まるで、溶鉱炉。

 

「なら、まずは基礎を徹底的に叩き込む」

「基礎?」

「せや。お前の喧嘩ボクシングは確かに強い。スマッシュも当たれば一発が取れる。ただそれは、()()()()の話や。今回の試合で、それを実感したんやないか?」

「………」

「ただ、同時に違う可能性も見た。千堂、これからお前の野生を飼い慣らすで」

「は?」

「本能と理性、野生と科学の融合や。目下の目標は、鷹村守。もっとも、ファイトスタイルをまるっきり同じにするちゅう事やない。あのレベルには最低でも到達する。その指標や」

「それで、服部に勝てるんか?」

「それは分からん。現状、服部はお前の先を行っとる。その背中が朧げに見えるかどうかのな。その背に追いついて追い越せるかは、お前次第や、千堂」

「………上等や。血反吐撒き散らしてでも強なるわ。そして、あの男に、勝つッ!」

「ま、その前に体を休めるの先やけどな」

「分かっとるわ!お休み!」

 

 勢いよくシーツをかぶって丸くなる千堂を見やり、柳岡は息を吐きだした。

 これから、彼が歩くのは修羅の道だ。そのゴールへとたどり着けるかもわからない。

 それでも、指導者としては選手の気持ちを優先したいというもの。それこそ、千堂が折れるその時まで。

 

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