あの日の約束を果たすために 作:ララパルーザ
ついにこの日がやって来た。
東日本新人王トーナメント準決勝。
「ッ…………!」
「落ち着け、小僧。試合の前から緊張し続けても意味はないぞ」
「わ、分かってます!…………ッ」
選手控室では、何度目かの鴨川からの指摘を受ける幕之内の姿があった。
誰しも晴れ舞台が目前となれば、大なり小なり緊張するというもの。
幕之内もまたその例に漏れることなく、緊張しているのか座っていた長椅子から立ち上がっては軽くシャドーをしたり、周囲を見渡したり落ち着きがない。
「幕之内選手、準備をお願いします」
「ッ、は、はいっ!」
係員に呼ばれ返事をした幕之内。
暗い通路を、セコンドである鴨川と八木に付き添われ進みやがて会場の目前へ。
そこでふと、幕之内は壁を見た。
ほんのり凹んだその場所は、ちょうど拳を突き出せば当たるであろう高さに在り、擦れたのか塗装が剥げかけていた。
これは、この通路を通って来た歴代のボクサーたちが刻んできた跡だ。
ボクサーとて、人間。ビッグマウスであったり、場を温めるために煽る者も少なくはないが、それでも試合が近づけば相応に緊張する。
そんな時、軽く拳を添えるぐらいに壁を打って心を落ち着かせようとするのだ。壁の凹みはその跡。
幕之内も数度、軽く壁を殴った。
腰の入っていない手打ち、それもグローブのクッション性で相殺されそうなほどに弱いものではあったがそれでも十分。
ほんの少しだけ落ち着くことが出来た。少なくとも、はやる心臓の鼓動がほんの少し収まった、そんな気がした。
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多くの観客で賑わう後楽園ホール。
メインの前座であろうとも、新人王トーナメントの準決勝だ。ここから未来のチャンピオンが生まれる事も珍しくない上に、今年のフェザー級は豊作。客を集めることが出来るボクサーが揃っていた。
「おっ、一歩の奴出てきましたよ鷹村さん」
「いっちょ前に怖い顔してるじゃないすか」
「ま、緊張の一つでもしてんだろ。結局、ジジイも基礎固め直す位しかやらなかったみたいだしな」
後輩の応援の為に来た、鷹村、木村、そして青木の三人は談笑しながらもその目は鋭くリングへと向けられていた。
凡そ二ヶ月ほど、幕之内はこの試合に向けての特訓を積んできた。そしてその特訓に大なり小なり三人もまた付き合ってきたのだ。
強化したのは、基礎。主に下半身の強化であり、柔軟で尚且つしなやか、強靭な体作りをこだわってきた。
実際の所、階級が上である木村や青木ですら直撃すれば悶絶するような破壊力を幕之内のパンチは秘めている。
そんな相手とスパーリング。未だ二流ボクサーであるとはいえ、心臓に悪い事この上ない。
そして、そこまでやっても件の新人には勝てるヴィジョンが見えないのだから、厳しい目の一つや二つ向けたくなるというもの。
「鷹村さんとしちゃ、どうなんです?一歩の勝算は」
「あ?んなもん、端からねぇだろうよ」
「でもですよ、鷹村さん。一歩が服部の懐に入り込めば…………」
「お前ら、あの男がインファイターを態々懐に入れると思ってんのか?」
手摺に頬杖をついた鷹村の表情は呆れを含んでいる。
インファイターは、字面そのままに接近戦に無類の強さを発揮するボクサーだ。重要になるのは、距離を詰めるための突進力。
そして、対戦相手に求められるのはその突進を止める方法。そもそも、インファイターを懐に入れるなど余程の自信が無ければ自殺行為でしかない。
「服部がカウンターパンチャーなら、突っ込んだ時点でボカン。速水のカウンターのアッパーに更にカウンターを合わせるような奴だ。突っ込むだけの今の一歩じゃあ、相手にならん」
厳しい物言いだが、鷹村の指摘する点は紛れもない事実でもある。
諦めない気持ちは大切だ。その結果として、勝利を得られる事だって確かにあるのだから。だが、それだけでどうにかなるほどボクシングの世界は甘くない。
技術があって、力があって、才能があって、その上で負けることもあるのがボクシング。
気持ちだけではどうにもならない。
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「いつも通りだ。プランはお前に任せる。好きにやってこい」
「…………はい」
淡白なやり取りだが、それだけで十分。
会長の方針として、服部は自分で試合を組み立てるのだ。速水への耐久戦のようなやり口も彼が組んだことであり、三十秒のカウントだけを頼んでいた。
今回の試合プランも、服部の頭の中にしかない。いや、もしかしたら彼の頭の中にもないかもしれない。
それでもいい、と会長は思っている。
ジムを立ち上げて十年以上。戦績はパッとしない。スポンサーにもいい加減、見放されそう。
そんな中でやって来た金の卵。自分の色に染めるのは憚られる黄金に対して、会長は練習メニューのアドバイスと練習相手としてのスタンスのみを置くことにした。
もしもの時があったとき、十全にその力を発揮できるようサポーターの様な立ち位置。
勿論、指導者としての葛藤もあった。そして、そんな葛藤も目の前のボクサーが圧倒的な戦果と共に吹き飛ばしてしまったのだ。
同時に考えを改めてもいた。
指導者だからと言って、一から十まで引っ張るのではない、と。引っ張る相手によってスタンスを変えていいのだと。
少なくとも、放任にも見える服部への対応は今の所間違っていない。
「―――――……いってきます」
不意に小さく、服部の口から紡がれる言葉。
答えは決まっている。
「おう、行ってこい!」
背中を強く叩いて送り出す。それだけだ。
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「バッティング、反則には十分注意して」
レフェリーお決まりの注意を聞き、一度リングの中央辺りで顔を合わせる両雄。
そうして、それぞれのコーナーへと戻され、ゴングが鳴るのを待つのだ。
果たして、その時は訪れる。
甲高いゴングの音。コーナーへと顔を向け、リング中央に背を向けていた服部はゆっくりと正面へと向き直り、ソレを見た。
『おおーっと、これはぁ!ゴングと同時に幕之内猛ダッシュだァ!!』
反対のコーナーより突っ込んでくる小さな姿。ピーカブーの構えのまま猛ダッシュで距離を詰めた幕之内がそこには居た。
インファイターの奇襲。それも、一発で悶絶させる破壊力を秘めた相手の奇襲を受ければ、大抵の相手は頭が真っ白になるというもの。
もっとも、それは
「…………」
伸びた前髪の下、服部は静かに前を見ていた。そして、その目を見てしまった幕之内は目を見開く。
(ッ、全く動揺して―――――)「ぶっ!?」
ほんの僅かに、それこそ傍目からは分からない程度にブレたダッシュ。
その瞬間、幕之内の顔面が後方へと仰け反っていた。
前に進もうとする体と、それに反して後方へと行こうとする頭。自然とその足はその場に留まってしまう形となる。
服部は、この隙を逃さない。
本来ならば、コーナー脱出を狙ってフックを放つところを、再び左のジャブ。
散々に扱かれ癖付けさせられた幕之内はこれを、咄嗟のピーカブーへと戻る事でガードすることが出来た。だが、頭の中は混乱している。
(な、なにを貰ったんだ?左のジャブ……僕が突っ込んできたのに合わせられた?)
開幕ダッシュは、ある種の奇策。連発すれば効果は無くとも、初対面の相手ならば絶対的に面食らうはずの一手だったのだ。
だが、蓋を開けてみれば一切焦ることなく服部は迎撃してみせた。
カウンターとはいえ、左のジャブ。破壊力もそれほどなく、肉体へのダメージはストレートなどで迎撃されるよりも小さく済んだが、精神は別。
どうすればいいのか、迷いは足を鈍らせた。
「…………」
服部の左ジャブ。距離を測る様に、一度、二度と振るわれ三度目直前に僅かに左足が踏み込まれる。
「ッ!」(急に……伸びた!?)
幕之内にはそう見えた。同時に、先程のものよりも破壊力が上がってもいた。
幸いなのは、ピーカブーが防御に向いたスタイルな点か。ガードの上からの被弾であり、直撃はしていない。
「小僧ッ!手を出さねば、一方的に打たれるぞッ!」
セコンドから檄が飛ぶ。
不用意にガードを解けば、間違いなく被弾する。だからと言って亀の子の様にガードを固め続けて場が好転する事は先ずないのが、ボクシングだ。
少なくとも、服部を相手にガス欠を期待するのはNG。
鴨川の言葉を受けて、幕之内はハッとしたように再び引き締まった表情で前を見た。
(そうだ、守ってばかりじゃ、勝てない!宮田君との約束を果たすんだ!)
ジリジリとにじり寄る様にして前へ。
打たれるジャブは、ジャブとは思えない程に重く、鋭い。身長差によるリーチも手伝って、この状況で不用意に幕之内が手を出そうものならばカウンターで顔面を滅多打ちにされるだろう。
それでも彼は前へと進む。
幕之内の勇気は驚嘆に値するものだろう。だが、それと同じく集中力もまた優れている。
ガードの下から、彼はある一点を凝視し続けていた。
それは、服部の右脇腹。
リバーブロー。肝臓打ちは、幕之内の搭載した数少ない武器であると同時に必殺技と言っても過言ではない破壊力を有している。
服部の防御は特別薄い訳ではない。訳ではないがオーソドックスな構えである為、特筆するほど防御が厚い訳でもない。
(積み上げてきたもの。練習の成果を見せるんだ!)
自分に出来ることを、精一杯やり遂げる。
そう決めた幕之内は、振るわれる左ジャブの連打の中を進む、進む、進む。
対して広くも無いリングの上。相手に近づき続ければ、自然距離は縮まるというもの。
(―――――ここだっ!)
練習の距離。相手のジャブを潜る様にして身を沈めながら左腕を開き巻き込むように―――――
「…………」
衝撃音。崩れる音。
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会場は、まるで水を打ったかのような静寂に包まれていた。
『誰がこれほど一方的な試合を予想したでしょうか……フェザー級屈指の破壊力と言っても過言ではない幕之内の豪打が解放されようとしたその瞬間に駆け抜けた右は、まるで閃光。カウンターが深々と突き刺ささったァッ!』
解説の声が響く。
そう、今まさにリバーブローを放とうとした幕之内左顔面。そこに服部の右がカウンターとして突き刺さり、そのままマットに沈めて見せたのだ。
彼は待っていた。ピーカブーのガードが開くその瞬間を。
防御の厚いピーカブースタイルだが、その実大ぶりな攻撃をしようとするとどうしても大きく開かなければならない弱点があった。
一歩間違えれば、カウンターを入れる前に、豪打が脇腹へと突き刺さり肋を持っていかれた事だろう。
ニュートラルコーナーへと向かった服部。
その表情には、喜色は見られない。
「…………」
見るのは、うつぶせに倒れる対戦相手。
手応えはあった。だが、倒せていないだろう、と言うのが彼の所感。
右を打ちおろしたあの瞬間、幕之内の体は若干沈み込もうとしていた。それは即ち、パンチの軌道に体の動きが僅かにでも連動していたという事。
カウント8で起き上がろうとしている幕之内を確認し、服部は肩を回す。首を回す。
幕之内が構え、レフェリーが試合の再開を宣言。同時に、服部はステップを踏みながらジグザグに距離を詰めていった。
インファイター相手に距離を詰める。普通ならば自殺行為だが、彼にはしっかりとした狙いがあった。
この会場で何人が気付くだろうか。服部の放つ左ジャブの質が若干変わっているという事に。
先程までは、牽制と距離を測るためのジャブと、肩と腰を利用して威力を乗せたジャブの二種類を用いていた。
それが今、若干のスナップを利かせて撓るようなジャブへと、擦り付けるようなジャブへと変化していたのだ。
フリッカージャブに近くも思えるが、あれほど鞭の様には撓っていない。
狙うのは、幕之内の右目。というのも、明らかに服部の右打ち下ろしを受けた彼の左の顔面は腫れていたのだ。
威力はどうあれ、一発で腫れる。という事は、腫れやすい体質なのだろう。少なくとも、服部はそう判断を下し、その上でこのジャブへと切り替えた。
無論、この仮説が誤りであった場合は距離を詰めるだけ無駄だったという事になる。だがそれも、ハンドスピードで勝る自分が一発当てて離脱するには十分という判断の上でもあった。
幕之内のガードは硬い。しかし、だからと言って腕二本で全てを防げるかと問われれば、否。
徐々に、徐々に、顔への被弾が増え、それに合わせるようにして彼の視界は塞がれていく。
悪夢の様な第一ラウンドは、殆ど弄られるような形で終わりを告げるのだった。