嗚呼。
嗚呼、ようやく理解した。
私が何もかも悪いのだ。
あのどうしようもなく臆病な母は、確かに一つの決意をした。
流されるまま生きてきたスペアとしての自分の運命全てに、産まれて初めて反逆を決意したのだ。
たった一人の娘のために。
そうして、全て失った。
何もかも、私が悪いのだ。
私など、産まれて来なければよかった。
母の子が私ではなく他の誰かでさえあれば、何もかもが上手くいっていたのに。
皆が期待を掛けてしまうような事のない、平凡な子でさえあれば。
きっと、何事も上手くいっていたのだろう。
「私が母を殺した」
単純な事実を口にする。
夕暮れが訪れた。
太陽は暮れ落ちようとしていた。
ケルン派の木造教会の扉は、未だかんぬきを掛けられていないだろう。
だが、道を戻って、その扉をノックすることなどできない。
私の懺悔を聞いてくれる人間など、この世の何処にもいないのだ。
この罪を赦してくれる人間が、何処に居るというのだ。
「……」
太ももに力が入らない。
震えるのではなく、単に筋肉に力が入らないのだ。
なれど、足だけは動く。
酷くよろよろとしていて、覚束ない。
それでも、何処かには行かなければならなかった。
立ち止まるにしても、ここは相応しくない。
道端で死ねば、領民に迷惑がかかるだろう。
今、自分がもはや行ける場所などは、ただの一つしかなかった。
騎士見習いとして自分が従っている、その領主騎士の居場所。
「ファウスト様」
その名を口に出す。
あの人とて、かつては何もかもが絶望に見えただろう。
ヴィレンドルフに赴いた際の、あの人の背中を思い出す。
騎士見習いとして。
従士として傍に侍り、カタリナ女王陛下へ話しかける言葉を聞いた。
母の愛に何も気づかずに、何も返すことが出来なかった。
死んだその時になって、やっとのことで全てを理解をし、もはや何も出来ないことに絶望したとの言葉を。
だが、同時に。
私の眼前にて、涙を流しながらカタリナ女王陛下に告げたように。
相手が死してなお想う事で、亡き相手に届く愛があるのかもしれませぬ、という言葉も聞いた。
嗚呼。
違う。
ファウスト様と私とでは、明確に違う。
生前からその信頼関係が、絆が深いところで繋がっていた、ファウスト様やカタリナ女王陛下と私とでは違う。
「あなた方はそれでいいだろうさ」
明確にファウスト様とは違う点があった。
私はそんな信頼関係などなかった。
母カロリーヌが伸ばした手を、その歩み寄りを手酷くはねのけ、断った事すらあった。
母がその手で、恥ずかしそうに隠した、書き損じの古語の紙切れ。
嗚呼。
もはや、涙すら出てこない。
何もかもが嫌になる。
何故、私はその歩み寄りを恥ずかしいとすら思ったのか。
自分が吐き気を催す邪悪にすら思えた。
「私など、産まれて来なければよかったんだ」
それだけが結論だった。
ファウスト様は亡き母親であるマリアンヌ様に対し、全ての事をしたと聞く。
亡き母をおぶるような思いで、墓石を山で見繕って担ぎ上げ、一昼夜かけて墓地に辿り着き、墓を作った。
心残りであったであろう領地のために、領主としての統治をこなしている。
壊してしまった貴族間の関係を再構築し、アナスタシア様やアスターテ公爵といった王族、そして第二王女ヴァリエール様の相談役としての立場を手に入れた。
マリアンヌ様が生きていれば、涙を流して喜ぶであろう。
自分の人生に悔いなどなかった。
地獄に落ちても構わない――自分の悪徳に意味はあったのだと。
墓前を弔ってくれるファウスト様を、黄泉の国から優しく見守ってくれているのであろう。
私などとは全く違う。
「私の母には墓すらない」
何も残っていない。
想いも、願いも、全ては灰になった。
骨すら残っていなかった。
私の母カロリーヌの首は、ファウスト様に討ち取られ、晒し物にされ、森に打ち捨てられ、もはや見つかる事もない。
遺骸は――。
領民の遺骸だけは、ファウスト様とポリドロ領民がちゃんと弔ってくれたと聞いている。
魂の抜けた体に罪があるとでもいうのか、その遺骸を晒すことに笑みを浮かべるほど悪趣味なものはないと。
ケルン派の教えに従い、戦後に全ての遺骸を弔ってくれたのだ。
母の首を除いて。
「嗚呼」
それだけが、せめてもの慰めであった。
母に付き従った領民たちの遺骸は弔われ。
聖職者であり、最後まで聖堂にて幼子を守ったという手前、司祭様の名誉も守られた。
ただ、ただ。
母だけは駄目だった。
赦されなかったのだ。
付き従った領民の親しい人に恨まれ、善き聖職者を巻き込んだと教会に憎まれて破門され、善き人々を虐殺した。
そのような人間が赦されて良いわけがない。
だけど。
たった一人だけ、それが赦されても良いと言った人がいた。
ファウスト様だ。
ただ一人だけ、母の墓を作ろうと言ってくれた人がいた。
「ファウスト様は言ってくれたじゃないか。ちゃんと言ってくれたじゃないか」
自分へと呪いの言葉を吐く。
あの時。
ヴィレンドルフへ赴いた時に。
私の顔すら覗き込むことせずに、ファウスト様の背中にしがみ付いていた私に、こう語りかけてくれたのだ。
「母親の悪口は言うもんじゃないぞ。我が領内でよければ墓だって」
そう言ってくれたのだ。
あの時、ファウスト様は決して軽口で言ったのではない。
私が頭を下げて頼み込めば、本当にそうしてくれたのは間違いない。
だが、私は手酷く断ったではないか。
あのような愚か者に、墓など必要ないと。
私の母カロリーヌに、墓など必要ないと。
吐き気を催すような言葉を吐いてしまった。
だって。
しょうがないじゃないか。
母が赦されることなど、この世にあってよいはずがない。
地獄に巻き込んだ皆を差し置いて、誰が母を赦すというのか?
「……」
唇を噛む。
泣いてはいけない。
その資格すらなかった。
悪いのは、全て私であった。
ただ、ただ。
自分の愚かさの全てを嘆いている。
ついに、領主館に辿り着いてしまった。
酷く古びていて、年代物の、ポリドロ領民の誇りの全て、ファウスト様の家だ。
まだ夕暮れは続いている。
ファウスト様は庭で、長大のグレートソードを振り回している。
だが、その鋭敏な感覚で、私が近づいていることなど気が付いていたのだろう。
こちらをゆっくりと振り向いて、少し訝し気な顔で呟いた。
「どうした、マルティナ。私は、ケルン派の戒律を聞いて来いと言ったはずだが」
人の機微には疎い。
だが、この時ばかりは私の様子が違うことに気づいたようだった。
私の。
私の懐には、小さな短剣が忍ばせてある。
今は王領となってしまったボーセル領から持ち出すことができた、このマルティナ・フォン・ボーセルという少女の少ない財産の一つ。
いざというときは、自決のために隠し持ったそれである。
いっそ、死んでしまえばよいとさえ思えた。
産まれて来なければよかったそれが、死に至る。
それが当たり前の結論ではないか。
何もかもが私のせいであったならば、あの時、ファウスト様が頭を地に擦り付けてリーゼンロッテ女王陛下に助命嘆願をしようが、私の斬首を断ろうが、その時自分の喉を突くべきではなかったか。
斬首を請う価値すら、私の命には無く。
本当はそうすべきだったのではないか。
そうすれば。
ちゃんとそうすれば、今のような酷い苦痛を味わわなくてすんだ。
心臓が、血を噴き出して喉を今にも込み上げそうな、痛みを味合わなくてすんだのだ。
だが、マルティナよ。
マルティナ・フォン・ボーセルよ。
ケルン派の神母からのリドルは、まだ終わってはいない。
その謎解きを終えなければ、この超人としての貪欲な知識欲は収まりそうになかった。
最期に聴きたいのだ。
「ファウスト様に、お尋ねしたい事があります」
「何だ」
心配そうな顔。
ファウスト様は、本当に気持ち悪い程に、どこまでも甘いのだ。
私は酷く泣きそうな顔をしているのであろう。
その顔で、問うた。
「先ほど、神母様から聞いたことがあります。ファウスト様は昨日、一つの事を尋ねられたと。先代マリアンヌ様の告解について尋ねられたと。その告解を明かした神母様は、おそらく自分が地獄に落ちるとすらお思いでしょう。それが判らないファウスト様とは思いません」
私が知りたい、たった一つの、謎解きが終わってないリドル。
「何故、それでも。そんな酷いことを、ファウスト様は、神母に尋ねられたのか。その秘密を無理に解き明かしたのか。それを聞かせてほしい」
それだけだ。
何故、ファウスト様はそんなことを尋ねたのか。
私には、それだけが判らないのだ。
「――」
沈黙。
きょとんとした、私の言いたいことが判らなかった様子ではない。
何か、来るべき全てを悟った様子でもない。
何かを呟くにして――それでも、何を言いたいのか。
おそらく、ファウスト様にもよくわからないのであろう。
「すまない、マルティナ」
ただ、謝るのだ。
何もかもに、申し訳なさそうに謝るのだ。
「お前に、謝らなければならないことがある。私は、何もかも理解してなかったし、多分、今からやることの全ても、ちゃんと理解していないのであろう」
手を規則正しく横につけ、頭をぺこりと下げ、ごめんなさい、とでも言いたげに。
からかっているのか、それとも本気なのか。
そのジェスチャーの意味すら良く理解できないのだが。
ともあれ、本当にファウスト様は申し訳なさそうに謝るのだ。
「怒られるのも、仕方ないと思っているのだ。だから、怒ってよい」
それが「何」なのか良く理解できない。
私は、絶望でもなく、タナトス(死の神格)への訴求でもなく、困惑を抱いた。
「私はお前に、自己完結じみていると言われた。その通りだ。私は、ちゃんと何もかもを説明しようとしていないし、それで良いとすら思っていた。酷く酷く、身勝手な人間なんだ。以前、リーゼンロッテ女王陛下もお前の処分について仰られたように、何も理解してなかったんだ」
頭を、がりがりと搔いている。
短髪の黒髪、身長2m超え、体重130kg以上、筋骨隆々の身体。
その存在を申し訳なさそうに体を丸めて、私に、申し訳なさそうに何度も頭を下げる素振りを見せる。
「だから、だからだ。マルティナ。最後までちゃんと、聞いてくれ。私はまず、お前を連れて行く。自分がやってしまった事の全てを説明する。だから、どうか最後までちゃんと聞いてくれ、マルティナ」
嗚呼。
理解したから、やめてくれ。
その仕草だけは止めてくれ。
あの、何事にも申し訳なさそうに謝る、母カロリーヌの姿が浮かぶ。
ごめんなさい、マルティナ、と。
「私はただ、お前を悲しませたくないんだ。それだけは本当なんだ」
悲しそうな声。
何もかもに困ってしまい、窮に瀕したような声。
私はそれに、何か心を射抜かれたようにして、言葉を発する。
「連れて行くと、今、ファウスト様は仰られましたが」
どうしたらよいのか判らず、ひたすらに謝るファウスト様を遮り。
母への回想を止めるだけのために。
私は、ファウスト様が呟いた言葉へと方向を向ける。
「墓地へ、行こう」
ファウスト様は、悲しそうな顔で呟いた。
私は、そのたった一言で何もかもを悟り。
そんな超人の自分が、ただ悲しかった。
嗚呼。
「……」
ファウスト様は、後ろへと振り返って歩き出す。
墓地までついておいで。
その意味は理解できる。
私は懐の短剣を握りしめている。
何もかも理解してしまったならば、もう死んでよいではないか。
これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないではないか。
そのように思う。
だが、もう遅い。
何もかもを、ファウスト様は先んじていた。
墓さえなければ!
墓さえなければ、私はここで、何もかもを理解した私は自分の命を絶つことができた!
だが、もはやそれはできない。
「おいで、マルティナ」
こちらへ振り返ろうともせずに。
ファウスト様は、静かに呟いた。
私はそれに、黙ってついていくのだ。
アンハルトの美的感覚とは激しくずれた、筋肉の塊である無骨な、申し訳なさそうな背中についていく。
結末は理解している。
「お前の母、カロリーヌ・フォン・ボーセルの墓へと連れていく」
ファウスト様に言われなくても!
何を意図しているのか、墓地へと行こう、その言葉一つで何もかもを理解している!
その信じられない、ファウスト様のしでかした、それを!
母カロリーヌの悪徳にふさわしくない結末のそれを!
「嗚呼」
どこまでも、この世は残酷で。
マルティナという9歳児の少女、その私が招いた地獄はどこまでも続いているのだ。
「マルティナ。私が勝手に何をやったのか、その全てを話すよ」
ファウスト・フォン・ポリドロという、それに巻き込まれてしまった男が犯した悪徳を。
私は、眼前にしようとしていた。