まず私の脳裏に浮かんだのは、姉上の言葉であった。
「戦場では何が起こるか判りません。事前に得た情報に齟齬が生じ、ほんの数時間後には間違っている事があります」
姉上の、戦場での心構えにおける言葉。
あの言葉は、まさに正しかったのだ。
今、それを痛感している。
私は――ヴァリエール第二王女は、歯ぎしりしながら現実を受け止める。
そして相談役であるファウストの言葉を聞いた。
「初陣は失敗です。領民20名、親衛隊15名、そして私とヴァリエール様合わせ37名で100を超えるカロリーヌ達青い血崩れを討ち取るのは不可能です。どうか追跡断念の決断を」
初陣の失敗。
それは拙い。
お前は知らないだろうが、それは拙いのだファウスト。
お前を、姉上に奪われる。
山賊退治に失敗した場合、ファウストは私の相談役から解任する。
そして姉上アナスタシアの下に付ける。
そう母上から告げられているのだ。
私の心音が、激しく鳴る。
ここで私はお終いか。
そうさ、お終いさ。
凡人には相応しい末路だろう。
そう、心のどこかで囁く声がする。
相談役である、ファウストが反対しているのだ。
そして、その意見はどこまでも正しい。
お前はここでお終いさ。
もう一度、心の何処かが囁く。
相談役であるファウストは姉上に奪われ、私自身は、山賊相手に逃げ帰って来たと事情も良く知らぬ民衆や法衣貴族に嘲笑されることであろう。
俯き、唇を噛み締めながら、王宮を歩く自分の姿が思い浮かぶ。
だが、どうしろと言うのだ?
他に選択肢など無い。
反対するファウストや、私に付き従う親衛隊に無駄に命を散らせよとでも?
それは出来ない。
私には、出来なかった。
――そこが私の限界点。
私は、自嘲する様に笑みを浮かべた。
「判ったわ、ファウスト」
撤退を、決意する。
この小さな村の、小さな代官屋敷から出て、王都へと逃げ帰ってしまおう。
そして、アンハルト王国の第二王女、使えないスペアとして、姉上が女王の座を引き継いだ暁には僧院にでも籠ってしまおう。
そう考える。
私は代官屋敷から表に出る。
心配そうな顔をしている、ザビーネを引き連れて。
代官屋敷から出ると、そこには――生き残った、この小さな村の住人達が集まっていた。
「軍の方々。どうか、どうか、我が夫をカロリーヌから、あの悪鬼どもから連れ帰り下さい」
「いいえ、我が息子をどうか。あの子はまだ10歳なのです、どうか」
「どけ、私がお頼みするんだ……そこをどけ!」
嘆願であった。
小さな村の、小さな幸せを奪われた者たちの嘆願であった。
老若問わず、女たちが私にひれ伏して、男達を連れ戻すことを嘆願していた。
私には、それに答えることができない。
できないのだ。
ひっ、と自分の怯えるどこか、薄皮一枚被ったオドオドした臆病な姿が顔を出しそうになる。
そんなこと、無理だ。
私を頼りにしないでくれ。
頭を抱え、縮こまりたくなる。
誰か、止めてくれ。
代官やファウストが、代官屋敷から表に出てきて、騒ぎを止めようとする。
「止めんか、止めろ、お前等……」
代官の必死な叫び。
「……」
沈黙し、憐れむように、女たちを眺めるファウスト。
「……」
そして、最後に、私の背後に付き従っていた親衛隊長であるザビーネが私の前に立ちふさがり、叫んだ。
「ガタガタ騒ぐな! この死人共が!!」
人の心の底まで響くような、強烈な叫びであった。
事実、私の心には届いた。
――死人。
私にはお似合いの言葉だ。
そう心の中で、自嘲する。
「死人……? 死人とはどういう意味で」
先ほどまで、私に泣き縋っていた女の一人が声を挙げる。
「死人は死人だ。他に何と言い様が有る」
不思議そうにザビーネは答えた。
ザビーネは何を言っているのか?
私にもよく理解できない。
「お前等、何故まだ生きたフリをしている。何故、あそこに転がっている死体と同じように死んでいない」
ザビーネは、村の中に転がる死体に指をさす。
その死体は酷く身体中を殴られ、首を刎ねられ、哀れな亡骸を晒していた。
「あの女は――彼女は、最後まで息子を取られまいと抗ったのでございます」
「ならばこそ! お前等は何故抗っていない! 何故生き恥を晒している!!」
ザビーネの激昂。
ザビーネがここまで怒るのは、初めて見た。
「縋るな! 我が殿下に縋るな!! 何もしてない死人共が、我が殿下の足元に縋るな!!」
もはや悲鳴のようにまで聞こえる、ザビーネの絶叫。
それは私の心の奥底にまで伝わるようであった。
「お前等は死人だ! 最後まで抗わなかった死人が、我が殿下に縋るな!」
「私達が何の罪を犯したと――軍は、私達を守ってくれないのでありますか!?」
女たちの悲鳴のような声。
その言葉は正しい。
私達は、彼女達を守るためにここに来た。
「守る! 必ず、攫われた男や少年達は我が殿下が救い出す!! いや、助け出したい!!」
ザビーネ!?
顔が思わず驚愕の表情に変わりそうになる。
それを、なんとか止めて、ファウストの手を引く。
ザビーネを止めてくれ。
だが、ファウストはそれに応じず、ザビーネの言葉に耳を傾けていた。
「だが足りん! 我が軍では、本当に恥ずかしながら力が足りんのだ!!」
ザビーネは一体何を言おうとしているのだろうか。
私にはもはや判断がつかない。
「嗚呼……せめて、我が軍に力を貸そうという民兵がいれば。自分の夫を、自分の息子を、助け出そうという勇気のある者が居れば。力を貸してくれたら、助け出せたかもしれないのだが」
ザビーネはそう呟きながら、指をさす。
指さしたのは、村中に転がる酷く身体中を殴られ、首を刎ねられた。
哀れな亡骸達であった。
「お前等死人ではなく! あの勇気ある女のようにな!!」
ザビーネは、言いたいことは全て言い終えた。
そういった表情で一つ息を吸い、まるで演説のようであったその発言を終えた。
――女たちは、憤った。
「我々は、死人などではない! だが、どうやって抗えたというのです。私達には武器も何も……」
言い訳である。
ザビーネはそう斬り捨てたかのように鼻で音を鳴らし、発言を再開した。
「農具がある。鍬で頭を殴れば人は死ぬ。ピッチフォークで腹を刺せば人は死ぬ。事実、そうやって一度は抵抗しようとしたのであろうが」
ザビーネは、首の無き亡骸が未だに握りしめているピッチフォークを指さした。
そのピッチフォークの先端は、敵の乾いた血で血塗られている。
今や死体となった彼女達は抗ったのだ。
死ぬ最後の寸前まで、力を振り絞って。
「お前等は死体だ! そこで夫も息子も失って、老いさらばえて死んでいってしまえ!! 何、今も老い先も変わらんさ!」
ザビーネの痛烈な言葉。
それに女たちは更なる憤りを見せた。
「ふざけるな……ふざけるなよ!! 何故助けてくれなかった! 何故もっと早く来てくれなかった! もっと軍が早く来てくれれば今頃は!!」
「んー、死人の言葉は聞こえんなあ。もっとちゃんとした言葉が聞きたい。生きてる人間の。息子や夫を取り戻したいという女の叫びを」
ザビーネが更に煽りを加える。
もう止めろ。
頼むから、止めてくれ。
そう思うが。
死人。
一度諦めてしまった私は、泣き縋る女達のようで、言葉は一言も出せなかった。
そして、小さな村の、今まで亡き縋っていた一人の女が決意する様に呟いた。
「やってあげるわよ」
その女は、決意を秘めた眼をしていた。
「アンタらが頼りにならないって言うなら! 自分の手でしか取り戻せないと言うなら! アンタらなんかに言われずともやってやるわよ!!」
その女は泣き喚きながら、絶叫を挙げた。
「今すぐ、あの女に、カロリーヌに、あの悪鬼どもに追いすがって、アイツラを殺して、息子を取り戻してやるわよ!!」
ザビーネはそれに回答を返した。
「非常に宜しい。酷く宜しい。生者は一人いたようだ。他には?」
ザビーネは辺りを見回し、挑発するような、人心を煽る様な言葉を放ち辺りを見回す。
声が挙がった。
小さな村の、小さな幸せを奪われた、女たちの絶叫であった。
「やってやるわよ!!」
「青い血崩れなんか怖くない! ぶっ殺してやる!!」
「連れて行って! 私をカロリーヌの目の前まで連れて行ってください!! 軍の方々!!」
ザビーネは、先ほどからずっと黙っているファウストに向けて、言葉を紡いだ。
「ポリドロ卿、再考願います。民兵を集めました」
「ザビーネ殿、貴女と言う人は……何をするものかと様子を見ておりましたが、悪魔のような方だ。平和に暮らしていた、ただの国民達を、死地に走らせるおつもりか」
「どうせ、この村の者たちに未来はありません。夫や息子を取り戻せない限りは」
ザビーネは冷たく回答する。
ファウストは頭をポリポリと掻きながら、うん、と一言呟いた。
「老若問わずというのは無理です。いくら死兵も同然の民兵達と言えど、この中からカロリーヌ追撃への行軍に付いて来られるのはおよそ40名」
「それでも、もはや死も恐れない死兵の40名が加わる。戦力計算では、決して悪くはないはず。ましてポリドロ卿がいるならば」
「貴女は、私を、憤怒の騎士を高く見積もり過ぎている」
ファウストは苦笑しながら答える。
そして、問題点を挙げた。
「ですが、指揮官が足りません。この死兵40名を率いる指揮官が」
「私が指揮いたします! 利き腕はまだ無事です!! どうか汚名返上の機会を!!」
代官が、ザビーネの言葉の熱に充てられたようにして絶叫した。
ファウストはその言葉に眼を丸くしながら。
次の問題点を挙げる。
「では、次。この戦闘において――くだんの騒ぎの最大原因である地方領主の長女殿には、多額の謝罪金を戦費として私達に支払ってもらうことになりますよ。それこそケツの皮が剥けそうなほど。私は自分のケツも拭けない領主騎士が反吐が出る程嫌いです。容赦はしませんよ」
「それは、私の力で何とかするわ」
自然と、口から第二王女の立場からの発言が出た。
私を見て、驚いたようにファウストが目を剥く。
私もザビーネの熱に充てられたのであろうか。
思わず発言してしまった。
「なれば、私が言う事はもはや何もありません。時間もない。今すぐ、村に残った糧食をかき集め、民兵達に武器を――農具でも良い。それらを持たせ、行軍を再開しましょう」
ファウストは苦笑いをしながら、撤退案を諦めてくれた。
我々は進撃を――初陣を再び開始する。
目指すは、ヴィレンドルフ領に逃げるカロリーヌである。
※
「ヴィレンドルフに亡命を」
ヴィレンドルフに捧げる、男や少年達は揃えた。
財貨も、領主屋敷から、かつての我が家から逃げ出す際に引っ掴んで来た財貨が有る。
何の問題もない。
「ヴィレンドルフに亡命を」
再び呟く。
何の問題もない。
私がヴィレンドルフに、100名の軍勢を率いて亡命するには、何の支障も無い。
なに、私は賢くて、数々の戦歴を――あの姉の代わりに、王都から命じられる軍役をこなしてきた歴戦の戦士だ。
ヴィレンドルフでも受け入れられるだろう。
ヴィレンドルフでは強さが全てだ。
何の問題も無い。
ただ一つの問題、それは――私が、家督争いに負けた事だ。
馬車の中で、床を力強く叩く。
激しく揺れる馬車の中では、その振動など誰にも気づかれない。
私が感情を乱したことなど、誰にも気づかれない。
「勝てると思っていた。それは間違いか?」
姉の代わりに、従士達と共に軍役をこなしてきた。
姉の代わりに、領民達に親身になって統治をこなしてきた。
だから、彼等が私を押し上げてくれた。
あの無能でありロクに領内の統治も軍役もこなせない姉の代わりに、私を。
だが、敗れた。
長女と、次女。
その家督争いの壁は、余りにも高かった。
領地の家臣の殆どが、役にたったこともない姉の味方をした。
家臣たちは、姉を傀儡として扱いたかったのだ。
そして次女が家督を相続する前例も作りたくなかった。
結果、姉を後一歩の所まで追い詰めながらも逃れられ、逆に追い詰められた私達は領地から逃げるようにして飛び出した。
そこで、山賊達と出会い、会話をした。
「私達の仲間にならないか? 私に従えば、いい思いをさせてやるぞ? 何、近くに攻め込むのに丁度いい村が有るんだ。お前らが一緒なら簡単に……」
山賊への誘いであった。
「お前らが従え。山賊風情が調子に乗るな」
私はハルバードの一撃で、山賊の頭目の首を刎ね飛ばした。
そして山賊団を手下に加えた。
「……ヴィレンドルフに、亡命を」
再び、呻くように呟く。
王族直轄領の小さな村を襲い、ヴィレンドルフに捧げる男と少年達は用意した。
もはや、後には引き返せない。
捕まれば、全員縛り首だろう。
糧食も十分に残っている。
財貨は、屋敷から奪った物がまだ残っている。
再起をかけるには十分だ。
私はまだここで死ねない。
こんなところでは死ねないのだ。
私に――こんな私に従って、こんな落ちぶれてしまった私に文句ひとつ言わず、未だに従ってくれている従士や領民達への責務がある。
その責務を果たすためには。
「……ヴィレンドルフに、亡命を。私は再び、青き血になる。彼の地で騎士になる。成り上がって見せる。そうでなければ……」
私に従ってくれた、従士や領民達に申し訳が立たないのだ。
カロリーヌは、血反吐を吐くような声で呟いた。
その背後には、その背を追いかける者たちがいる事をまだ知らぬまま。