蝶が蟻に食われていた。
儚い命を燃やし尽くして、ついに息絶えた蝶が地に落ちて。
蟻に身体を解体されて、巣に運ばれようとしている様が目に入った。
「この蝶がヴァリエール様です」
ファウストが首を横に振り、我が妹の現状がこの蝶であると訴えた。
「いや、もう死んでいるではないか」
今はファウストと二人、庭にて話し込んでいる最中である。
ファウストは巨躯を丸めて、蟻を眺めていた。
先程からの訴えでは、下手したら死んじゃいそうだから出迎えに行くのを許してくれと。
そんな話ではあったが、蝶は明らかにもう息絶えている。
これをヴァリエールに見立てるとするならば、すでに手遅れであった。
「例えが多少悪かったようですが――蝶がごときヴァリエール様が、今にも蟻に食い散らかされようとしているのは本当のところです。皇帝や教皇などは動きを見せておりませぬか?」
ファウストが首を傾げた。
太い僧帽筋がチャーミングである。
アスターテの奴はファウストの尻を眺めるのが好きというが、私は首筋を眺めるのが好きだった。
この歯と唇で、今すぐ嚙みつきたいぐらいに好きだった。
そのような魅力的誘惑に耐えながら、このアナスタシアは考える。
はて、あのイマイチしっかりしておらぬ妹のことを蝶と呼ぶならば、私の事をファウストは何にたとえるのか。
どうせ蛇か猛禽の類にされるであろうが。
私は自身の容貌に対して、自覚があった。
「――帝都から皇帝や教皇の使者が外部に出向くなど、日常茶飯事であるからな。さすがに私としても、どうにも動きをうまく掴めぬ。だが、ファウストの懸念が間違っているなどとも思わぬ」
むしろ、ファウストの懸念は当然のものと言えた。
このアナスタシアが仮に教皇や皇帝の立場であるとするならば、何らかの手を打たねばならぬ。
座視は愚策である。
ましてヴァリエールの奴、ザビーネに何を唆されたのか知らんが――旅団1000名以上にて行軍を開始したと聞く。
明確な軍事行動をアンハルトが起こしており、兵を帝都に呼び寄せたと看做されて当然の行為である。
何らかの対抗策を教皇などは試みるであろう。
「ファウストよ、安心せよ。すでに何人かの超人を手配し、ヴァリエールの行軍を手助けせよと使者として送るつもりであった。旅支度も終えているため、明日にも出発させる予定である」
水晶玉にてヴァリエールと連絡がとれれば、もっと早く助力できたのだがな。
あれは傍受の可能性があるために、短距離でなければ微に入り細を穿つといった連絡ができぬ。
ゆえに、私とてヴァリエールの行軍ルートは知らぬのだ。
無論、帝都に近づけば近づくほど情報は手に入り、何処にいるかの予想はできる。
私の頭脳をもってすれば、無事旅の途中にて合流することができよう。
「アナスタシア様。このファウストをその使者に加え、手助けの一人としてください」
しかし。
その中にファウストを加えるというならば、色々と手を講じねばならぬ。
「ファウスト。お前がヴァリエールの手助けをしたいというのは良い。私とて姉の立場があり、妹の身を案じる気持ちもある。お前が自らに助けに行くというならば、これほど心強いこともないが……」
私がファウストにそれを命じなかった理由には、もちろん私の立場がある。
ポリドロ卿がアナスタシアを見捨てて、ヴァリエールの出迎えに行くと噂が立てばよろしくない。
第一、最近はなんだかんだと、ファウストの奴をこき使い過ぎである。
だからこそ、今回ばかりはファウスト以外の手段を用いて解決しようと思ったのだが。
本人が行きたいというならば止めぬ。
止めてしまえば、女として妹に嫉妬した愚者となる。
「ふむ、ファウストよ。私個人の意思としては、もはやお前を止めぬ。だが周囲を誤魔化すために、あのマルティナが何の策を出したか聞こうじゃないか。お前がヴァリエールの手助けに向かっても何の問題もないとする策をだ」
ファウストは別に阿呆ではない。
だが脳味噌が筋肉で詰まっているがゆえに、少々思考回路がおかしいところがある。
その知能では残念ながら回答を出せず、補助脳であるマルティナが考えたと思われる。
「は、私などはさっぱり思いつきませんでしたが、マルティナに考えを強請ったところによれば――帝都には在していることとし、ポリドロ卿の名乗りを隠すのが一番良いと」
まあ、そうなるだろう。
当然の帰結ともいえる。
私のパートナーとしての役目をファウストは終えており、今から身分を隠してヴァリエールに助力するとあれば問題なかった。
「理解しているならよい。だが、すでにマルティナから聞いているだろうが、お前には一つ誓ってもらわねばならぬ」
「顔を隠し、男であることがバレぬようにせよ」
「そうだ」
身長2mに体重130kgを超える筋骨隆々の姿形たる男騎士など、神聖グステン帝国中どこを探してもファウスト・フォン・ポリドロ卿以外におらぬ。
ならば、男であることを隠し、その正体もバレぬようにせねばならぬ。
「私が与えたフリューテッドアーマーも置いてゆけ。装備はなんとか今から見繕え。ヴァリエールの元に辿り着いても、声を発することすら許されぬぞ。もちろん、バレてもよい相手ならば打ち明けても良いが……」
「私が参加することになる、助勢の方たちにはバレても?」
「構わぬ。というより、お前も知っている連中だ」
超人をヴァリエールの助けに送ると言っても、数は限られる。
我が部下のアレクサンドラ、彼女には騎士団長としての仕事があるので送れぬ。
ヴィレンドルフの客将ユエ、こちらもカタリナの護衛ゆえに送れぬ。
ならば、さっそくテメレール公に協力してもらうことになる。
「私がヴァリエールの助力に送ることを計画している超人の多くは、テメレール公の部下だ。『狂える猪の騎士団』の連中だ」
「なるほど」
テメレール公自身は未だお前に砕かれた頭蓋の怪我が治っておらぬゆえ、何も出来ぬが。
半殺しにされた連中はと言えば、もう完全に復調していた。
ファウストには及ばぬが、超人ともなれば回復速度は速い。
あの集団には散々に迷惑をかけられたのだから、それを取り戻す意味でも働いてもらわねばならぬ。
「彼女たちならば気心が知れております。剣を交わした相手なれば、信じることができます」
ファウストはほっとしたように息を吐いた。
連中はお前が殆ど一方的に半殺ししたような感じなのに、気心が知れていると笑顔で断言できるファウストはもうなんか凄いと思う。
事前に「殺しだけは無し」とした決闘であるにもかかわらず、全く手加減なしに連中をブチ転がした罪悪感とかないんだろうか。
暴力というものに対し、何一つ躊躇いが無いのがファウストである。
時々、その在り方が酷すぎて、どこかが疼いて興奮するほどだ。
人としては「何かコイツおかしくね」とは時々思うのだが、それはもうファウストは純粋なのだから仕方なかった。
男に惚れてしまった女の弱みである。
傍で眺めている者全てのドキドキが止まらない、騎士物語の主人公がファウストである。
世界はこの男を許してあげてほしいと思うのだ。
「また狂える猪の騎士団たる彼女たちと、約束組手など許されますかね」
「いや、絶対怪我するからヴァリエールを帝都に送り届けるまでは止めてくれ」
この男は――暴力の化身であり、具現でもあった。
階級や垣根なしに、それこそ王族たる私に対してすら、理由があったならば何の呵責もなしに暴力を振るうことができる。
それがファウスト・フォン・ポリドロという憤怒の騎士たる由縁である。
仮に名付けるとするならば。
そうだな、些か陳腐ではあるが『超暴力』とでも呼ぼうか。
「さて、そうだな。ファウストには今から別な名前を名乗ってもらおう。単純に、誰かを使者としてヴァリエールに送ったというだけならば何の問題もないからな。架空ながら、何か騎士家の名前を名乗ってもらわねばならぬ」
その超暴力なるファウストを、単なる雑兵として送るのは嫌である。
何か立場ある人間として送り出してやりたい。
名前を考えさせる。
ファウストは少し悩んでいるが。
「私が名付けてやろう!!」
ばん、と屋敷の扉が開かれるとともに、アスターテが現れた。
我が馬鹿従姉妹は今日も元気が良い。
こっそり陰で話聞いてたな、コイツ。
「最近なんかファウストが私に構ってくれないから、ちょっと絡んでいきたい!」
それに関しては哀れだと思うが。
何分ファウストは最近私のパートナーとして忙しい日々を送っていたし、アスターテと関わることが少なかった。
ここで女としてポイントを稼いでおきたいのだろう。
「アスターテ公爵ならば、我が戦友の名づけとあらば、断る理由がありませぬ」
ファウストが生真面目に答えた。
まあ、別に名づけぐらいはアスターテに譲っても良い。
そう思うが。
「私考えた!」
アスターテは力強く叫んだ。
ファウストが仮にも名乗るその名を、アンハルト王家が帝都に持つ屋敷全体に響き渡るように。
「デカマラス卿! デカマラス卿でどうだろうか!?」
デカマラス。
その名の由来は、もちろん「チンコでかいねん」という意味である。
アスターテはどうしようもないぐらい馬鹿だった。
「しばくぞ」
思わず、我が妹であるヴァリエールがザビーネに行う口癖のようなものを口にするが。
まあ、アスターテとしてもおふざけであろう。
我が従姉妹殿は、ファウストがゲッシュにて行った「チンコでかいねん」発言を未だに覚えており、酷く執着していた。
なんならば、今もファウストの股間をガン見していた。
全くもって駄目なやつである。
私のようにたまにチラ見する程度で済ませるのが淑女というものだ。
「アスターテ公爵!」
ともあれ、アスターテはアホである。
一度ファウストに殴られればいいのだ。
ファウストは震える手で握り拳を作り、瞳を潤ませて叫んだ。
「良い名前ですね! デカマラス卿!!」
何処がだよ。
単に卑猥な冗談を口走ってるだけじゃねえか。
そもそも、ファウストお前がそれ名乗るってこと理解してるのか?
「その名前であれば、流石にこのファウストがそのようなふざけた名前を名乗って参陣したなどとは思われぬと思います」
割と真面目な理由だった。
御免なさいファウスト。
でも、強いてその名前を名乗るのはどうかと思うの。
他にあるじゃん、なんか。
「ファウスト!」
アスターテは自分の命名が受け入れられたことに感動し、ファウストに抱き着いた。
お前はおふざけで名前つけたんじゃなくて、本気で付けたのかよ。
一度死ねよ。
「アスターテ公爵!」
ファウストはアスターテを受け入れ、二人は抱き合った。
え、本気でこの案が通るのか。
お前らそれで本当に良いのか?
私はツッコミを入れたくて仕方なかったが、実際に名乗るファウストがそれでよいというならば、止めようがなかった。
確かにそんな舐め腐った名前を生真面目なファウストが名乗るとは、誰も思わんだろうし。
――私はしばし、悩み。
とりあえずいつも妹がやっているような、自分が諦めることで世の中どうとでもなる的な選択をとった。
まあいいやの精神である。
今にして思うが。
ヴァリエールの奴、それなりにアイツなりに頑張ってるのに、世間様はそれを認めてくれないから――あんなに現状放置策を選ぶ性格になったんだろうか。
姉であるこのアナスタシアにも、一抹の原因はなかったろうか。
そのような事を少し反省する。
地面を見つめる。
先程、地面に転がっていた蝶は羽と身体が分解されており、すでに巣に持ち帰られる途中であった。