ケルン派教徒はクロス・アンド・サークルの紋章を用いる。
まず美術的な――ケルン派信徒以外に言わせれば『奇形な』十字架が存在し、その交差部分を環にて囲むシンプルな意匠により紋章は形作られている。
教会に、墓に、時にケルン派教徒の騎士が、あるいは司教領の家人などが用いて。
そして正しきケルン派信徒であるならば、どのような貧民であろうと全ての者が掲げることを許される記章であった。
そのクロス・アンド・サークルの紋章を大きく胸に刻んだプレートメイルが、目の前に鎮座している。
「ポリドロ卿、なんとか貴方の鎧が見つかりました」
かつて『狂える猪の騎士団』との決闘にて心臓殴りの儀を行った過去がある、銀髪のケルン騎士の持ち込みであった。
大輪の向日葵のような笑顔で、にこやかに笑っている。
その顔は教義を守る上で避けられぬ剣戟においての傷跡が多数あったが、彼女がそれを欠片も気にしていないことが、非常に魅力的に感じられた。
本当に失礼な話だが、性的に少し興奮さえしてしまった。
なんとか情欲を打ち消して、素直に気持ちを伝える。
「素晴らしい鎧です。よくぞ見つけて頂けました」
私は感嘆の息を漏らした。
見事な鎧である。
刻印を施された魔法鎧ではないのが残念だが、そこまでを求めるべきではなかった。
それに、そこまで高価な物を身に着けているとなれば不審がられる。
今回自分の正体を隠しての旅はアナスタシア殿下から贈られたフリューテッドアーマーはもちろん、先祖代々のグレートソードですら使うことが許されぬ。
自分の身分に繋がるような証拠は、何一つ残すべきではなかった。
「正直、もはや私の鎧は見つからぬものと思っていました」
別に、自身の身長2m超え体重130kgの筋骨隆々を包む鎧が見つからぬとは言わぬ。
この世界の女性は美的水準が高く容姿端麗なれど、総身に筋肉を張り巡らせた女性も珍しくない。
第一王女親衛隊のアレクサンドラ殿が良い例で、彼女は身長190cmを超えている。
胸もあれば体に筋肉を張り巡らせた武骨の、金髪美女であった。
私がヴァリエール様にお仕えするのではなく、アナスタシア様に旗を寄せたのであれば結婚する機会もあったと聞いた。
正直惜しいと思っている。
まあ、もはや届かぬ夢のようなものは気にしてもどうにもならぬ。
とにかく、高身長の女性は特別この世界で珍しいものではない。
眼前のケルン騎士とて190cmを超える銀髪麗人である。
だが。
さすがに、2m超えとなるとそう大量生産されるわけではない。
「身長2mを超える私の鎧が数打物で見つかるとは」
「市民権所有者だけで4万を超え、人口であれば30万都市である帝都ウィンドボナでなければ見つからなかったでしょう」
それに、数打物ではありませぬ。
ケルン騎士が嬉しそうに呟いた。
「信徒ファウストよ。これはケルン派教会でかつて正式にパレードに用いられたものであり、まさに神の御加護が信徒ファウストにあると考えてよろしいのですぞ!」
えっへん。
そんな擬音を立てそうな笑顔で、ケルン騎士は自慢げに叫んだ。
実際、この鎧を見つけ出してきたのは彼女であるからして、自慢する権利はあった。
私は礼を言う。
「有難うございます。ケルン騎士殿」
「同じ信徒のために努力する義務を果たしただけです。その御礼の言葉一つで十分ですよ」
ケルン騎士殿の胸が反り返っている。
豊満なそれに目がいくが、見つめるのは失礼であった。
私は旅をする前のミーティングに集まった『狂える猪の騎士団』の6名に深々と頭を下げる。
「今回は私の事情で面倒をおかけします。貴卿らに心からお礼を申し上げる」
「本音を言えば反対なのですが、まあ仕方ありません」
忠義者と呼ばれる彼女。
テメレール公の懐刀である彼女すら、主君の容体はもはや心配いらぬとのことで参加してくれることとなった。
ぶっちゃけ、私が部下として知能に期待できるのは10歳児のマルティナだけである。
旅では彼女を頼りにする事もあるだろう。
「……テメレール公の発案とあれば、心置きなく従えたんですがねえ。何が悲しゅうてアナスタシアだのカタリナだのに扱き使われなければならんのさ」
やや不服そうな声で、勘当者――やはり、かつての決闘相手が答えた。
前世でのスペイン系女性という誰も彼もが美人揃いで、皆が肉食系という、この自分でも偏見極まりないことを理解しているイメージそのまま。
そんな勘当者という淫猥そうな美人は不服を滲ませていた。
「勘当者、何が不服というのですか」
声が飛んだ。
大本に目をやると、サムライ殿であった。
どうも空気を読むならば、『狂える猪の騎士団』から選抜された6人の同行者にも旅にあたっての意見があるようだ。
忠義者、勘当者が明確に反対。
敗北者や日陰者が物語らぬ中立。
サムライやケルン騎士が賛成。
そのような立ち位置であった。
「いや、テメレール様が全面的賛成をしたなら私だって不平不満なんかなかったよ。でも反対してんじゃん。アンハルト第二王女のヴァリエールとやらを出迎えに行くのはまあいいとして、別なところで――」
言い訳するようにして、勘当者が掌をひらひらと翻した。
舌をべえと煽るように私に見せて、艶めかしく動き、実に淫猥そうであった。
「お前が仮の名前として身分を隠すために名乗る名前だよ。デカマラス卿ってなんだよ。頭おかしいんじゃねえのか? 他に何かあるだろ」
そして、まあ正直言えば。
淫猥そうな勘当者に対してすらも、そう真顔で罵られるならば。
まあ同じく淫猥そのものなアスターテ公爵の名づけは少しおかしかったのではないか。
そのように、このファウスト・フォン・ポリドロとて思うのだ。
とはいえ、私とて一度了承したのだから覆せぬ。
すでに通した話を翻すなど騎士としてできぬ。
「このように名乗れば、名を隠しているのが私だとはバレぬと思ったのだが」
「よし、お前馬鹿だろ」
死ねばいいのに。
苦しんで死ねばいいのに。
そのように蔑んだ目で、勘当者はこちらを睨みつけていた。
「お気になさらず。勘当者はテメレール様に気に入られた貴方に強烈に嫉妬しているだけなのです。こいつ『女好き』ですので」
サムライ殿がそのように呟いた。
レズビアンかな?
男が少ない世界であり、女同士でベッドにて楽しむという貴族は別に珍しくもなかった。
私は百合文化を尊い物だと思っており、それを否定するつもりなどない。
「私からテメレール様を奪うやつは苦しんで死ね!」
勘当者は自分の嗜好について、一切の否定をしなかった。
別に奪った覚えはないのだが。
テメレール公とて、私のように武骨な男は興味の範疇にはないだろう。
時々、彼女の部屋で二人きりになった時に、テメレール公が私に近寄って。
そっと私に手を重ねようとして、何か酷く戸惑うようにして、やめる。
そんな事もあるが、彼女を半殺しどころか一度ぶっ殺した後に蘇生したなんて経歴がある私に、男女としての興味を持つなんてあろうはずがない。
「テメレール公を貴女から奪ったつもりなど、私には無い」
「……それが本気でほざいている言葉だと知っているから、余計に腹が立つんだよ」
勘当者は悲しそうに呟いた。
私は別に彼女を傷付けたいわけではない。
話を逸らそうと試みる。
「さて、旅支度も整いましたことですし、ヴァリエール様の元に出向きたいと思います」
「必要あるんですか?」
サムライ殿が首を傾げた。
白布で縛っている美しい黒髪が、疑問の声とともに揺れた。
「はあ、私の直感では間違いなくえらいことになっているはずです」
ヴァリエール様の今頃は、とにかく酷い目にあっている気がするのだ。
私は部屋の隅を指さす。
蜘蛛がいた。
羽虫を糸で捕らえた小さな蜘蛛であった。
「あの食われている羽虫がヴァリエール様です」
私はヴァリエール様の現状は、あの糸でぐるぐる巻きにされた羽虫だと例えた。
「もう死んでるじゃねえか」
勘当者が吐き捨てた。
例えが悪かったようだ。
しかして、この直感はそこまで外れているとは思えない。
今から、このファウストが急げば間に合うはずである。
「ともあれ、テメレール公からも反対こそされたが、最終的には認めて頂けました。それぞれ思うところはあると思いますが、お付き合いいただきたい」
私は狂える猪の騎士団、かつて決闘をした6名にそう告げて。
深々と頭を下げて、お願いをした。
「ヴァリエール様と言えばケルン派に改宗された高貴なる御方です。このケルン騎士がポリドロ卿――もとい、デカマラス卿に同心してお助けに行くとならば、枢機卿の御心に叶う事になりましょう」
ケルン騎士が代表するようにして、朗らかな笑顔で呟いた。
忠義者、勘当者、日陰者、敗北者などはもう何も語らぬ。
一度敗れた以上、まあ貴卿に従うのも仕方ないと諦めたような顔であった。
唯一、サムライ殿が口を開いた。
「ポリドロ卿。要するに今回の旅の目的は貴卿の婚約者たるヴァリエール殿を御救いするための旅と考えてよろしいのですよね」
「旅の目的はそうですね」
それ以上の目的などなかった。
ヴァリエール様が帝都に無事辿り着けるようサポートするのが、私の目的である。
そうしないと死ぬ気がしているし。
「なるほど。ところで、私めの国では特別の働きがあった家臣や客将に対し、『特別な感謝のしるし』を与えることがありました。それはアンハルトやヴィレンドルフといった神聖グステン帝国を構成する国家文明でも珍しくはないと聞いております。如何に?」
サムライ殿が、どうしても聞いておきたいと言った風情で語る。
はて、何を言いたいのかと思うが、まあ理解はできる。
御恩と奉公の話である。
人を働かせる以上は、何らかの報酬があってしかるべきであった。
私は意図を汲み、サムライ殿に回答する。
「もちろん、今回参加していただくサムライ殿を含めた皆様には、しっかりと報酬が出るようにアナスタシア様にお伝えしておきます」
妹であるヴァリエール様のためなのだから、しっかりと支払って下さるだろう。
サムライ殿が報酬の心配をする必要は無かった。
また、こてんと首をひねって。
魅惑的な首元を見せながら、彼女は少し欲望の目で私を見つめた。
「……それはポリドロ卿の婚約者たるヴァリエール様やポリドロ卿に要求しても?」
「はあ」
まあ、助けられるのはヴァリエール様であり、嘆願しているのは私である。
請求先は彼女か私宛てとなるのも、そう間違ってはいないかもしれぬが。
どっちも金なんか持ってないぞ。
結局はアンハルト王国が金を払うことになるだろう。
「支払元に変更はありませんが、それでもよろしければ」
「はい。それで構いませんよ。命を救われたポリドロ卿の婚約者ヴァリエール様が『特別な感謝のしるし』を、このサムライめに払って下さる可能性が少しでもあればよろしいのです」
サムライ殿が、どこか楽しそうに頷いた。
少し意図がわからぬが、まあアンハルトが金払うんだから私に関係ない話である。
私はニコニコと和やかに笑う彼女を見つめながら息を吐く。
「準備は整ったことだし。早くヴァリエール様を迎えに行かねば」
ふと先ほどの蜘蛛を見れば、捕らえた羽虫を完全に食べ終わったところであった。
とにかく、早ければ早い方がよい。
私はそう判断して、旅準備を急ぐこととした。