アンハルト選帝侯家の祖は狂戦士の一族である。
自分の大切なものが傷つけられた際に怒り狂いて、物事の前後も忘れてひたすらに走り抜き、怨敵の頭に斧剣の一撃を喰らわせて殺すのだ。
その際には、どれだけ自分の身体が傷つけられようが、身体に矢が刺さろうが、酷い時には指や腕が千切れようが相手目掛けて走り回り、怨敵を皆殺しにするのだ。
彼女たちは狂っていた。
ゆえに誰もが命知らずと恐れて、同時に自分が護られた際には崇めて、いつの間にか彼の狂戦士の一族は選帝侯家に成り上がっていたと聞く。
アンハルト選帝侯家の成り立ちは貴族として上を目指したがゆえの結果ではなく、恐れ崇められた結果としての産物にすぎない。
「それも昔の話よ」
今では大人しいものだ。
帝都にてのんびり選帝侯継承式を待っているであろうアナスタシアが、レッケンベル卿を撃ち破った時などには驚いたものだが。
結局、あの悪魔超人レッケンベル卿とて人の子であったということだ。
重装甲騎兵数名に囲まれて殴られれば、人は普通死ぬ。
私たちは、やれ人の首を兜ごと素手で千切るだの、命令違反を犯したランツクネヒトをハルバードで頭頂から股下まで真っ二つに切り裂いただの、指一本で「つつく」だけで人の頭蓋骨を陥没させて殺害しただの、ぱんと人の頬を叩けば顎肉が吹き飛んで骨が見えただの。
あの身長2m20cmの『背高のっぽ』に、横一文字のうっすらとした糸目で上から睨まれると、誰もが恐怖して動けなくなるだの。
ヴィレンドルフや帝都で今も語り継がれる眉唾のレッケンベル伝説に恐れを抱いていたのだ。
いくら超人とはいえ、人がそのような事出来るはずがない。
全部嘘だったのだ。
アナスタシアは初陣ゆえに、レッケンベル卿の伝説に惑わされずに上手くやったのだろう。
ともあれ、なにもかもが過去の話である。
レッケンベルはもういない。
アンハルト選帝侯家が狂戦士の末裔であったところで、もはや血も薄れた。
「まあ、それが私にとって悪いわけではない」
むしろ良い方向に動いている。
交渉役を担っているザビーネとか言ったか?
ヴァリエール側の反応は悪いものではなかった。
私が差し出した先触れの紋章官は朝方に帰ってきたが、ザビーネはむしろヴァリエール第二王女にとって不要である半賊半傭の輩どもは切り捨てたいようであったし。
ヴァリエール殿下の面子を保つならば、ケルン派なんぞアンハルト帰属の聖職者を除いては、本当にどうでも良いと断言している。
ここまで言えば当然の事であるが、ベルリヒンゲンの奴めなどは、どのように無惨な結末を辿っても良いと。
相手の交渉役たるザビーネは耳障りの良い言葉を伝えてきているのだ。
また、紋章官に言わせれば、もはや旅団の戦意などは感じられず、そこらではすすり泣く声さえ聞こえたという。
なるほどなるほど。
非常に宜しい。
全てが良い方向に動いている。
「それならば、私はアンハルト選帝侯家第二王女ヴァリエール殿下の名誉を保とう。彼女の利益を保証しようじゃないか」
そのくらいは問題ない。
そもそもが、このマインツにとってはベルリヒンゲンを殺すことで自身の名誉を回復する以外は、比較的どうでも良い事柄である。
もちろん利益を追求するのであれば、このままヴァリエールを殺めて旅団ごと打ち滅ぼしてもよいのだが。
アンハルトの現選帝侯であるリーゼンロッテの不興を買ってまでも、それをやるメリットはほぼ無い。
利益確定といこうじゃないか。
私はこのまま異端審問の大義名分において、ヴァリエールをケルン派から正統に転向させて、帝都に集まる軍勢を解散させ、一部を除いたケルン派の聖職者を捕獲し、ベルリヒンゲンを逮捕する。
戦など起こさずして、ここまでの結果を三聖職諸侯として、枢機卿として導き出したのだ。
見事であろう。
ここまでやってのければ、ベルリヒンゲンに傷つけられた名誉は回復できよう。
「さて――」
眼前に目をやる。
旅団3000名が見守る中、ポツンと一人の少女が立っている。
どのような襤褸を着ていても、貴族であることが分かってしまう妖精のような外見の少女だ。
ヴァリエールが馬を降りて、私を出迎えるためだけに待っているのだ。
なかなか弁えた態度ではないか。
私は相好を崩し、まずは握手か、それとも衆目の前で抱き合うことで友好をアピールすべきか。
なに、私は元々ヴァリエールという少女には悪意どころか、金に細かいところには共感さえ抱いているのだ。
そのように色々と考えながらにして、近づこうとするが。
「マインツ選帝侯に告ぐ!」
凛とした、花香のする声だった。
それでいて、こちらの全身が張り裂けるような、声帯の全てを震わせるような声で大音声が上がった。
「貴卿が告げた七つの要求に返事をしよう! 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ! これから発する言葉の全てがマインツ選帝侯に対する、このヴァリエール・フォン・アンハルトの返事である!」
眉を顰める。
殊勝な態度で出迎えると思えば、それを投げ捨てるかのような絶叫である。
ヴァリエールの形相は青白く、首の血管などが浮くほど凄まじいもので、今すぐ血すら吐きそうであった。
「七つの大罪にも値する七つの要求、その全てが考慮するに値せず! このヴァリエール・フォン・アンハルトが集めた全ての軍勢は、姉君アナスタシアの帝都における選帝侯継承式を祝うがために出向いたものである! 惰弱な聖職者風情の傲慢に我ら誇り高き騎士が応じる理由は無い!!」
軍勢の解散はユリア教皇も是認した要求である。
なれど、ヴァリエールは惰弱な聖職者の傲慢と看做した。
「ケルン派が【聖書】と称する『新世紀贖罪主伝説』を焼き払うことは認めぬ。我らが信じる宗派の聖典を焼き払って信者を取り戻そうなどという、腐敗して顧みられぬ正統ごときの嫉妬に応じる理由は無い!」
下調べをする限り、ヴァリエールは別にケルン派を信じているわけではない。
ただ単に、婚約者である男騎士の領地の信じる宗派がケルン派であっただけと聞く。
なれど、焚書の要求はケルン派に対する正統の嫉妬と看做した。
「ましてや、このヴァリエールが転向するわけもない。この身はすでにケルン派の信仰を護るために捧げたものである。我が婚約者がゲッシュを誓ったドルイドの宗派を見捨て、信仰を裏切るなど騎士として許されるべきことではない! 正しき人なれば、どのような阿呆でもわかる無理筋を通そうとするなど、私に対する侮辱に他ならぬ! マインツ枢機卿は道理も知らぬのか!!」
全て、全て欠片にも思っていないことを!
ふと、耳に先程と全く同じ言葉が響きだした。
ヴァリエールが先ほどから叫んでいる言葉は、ヴァリエールが率いる旅団のそこかしこで復唱されているのだ。
甲冑姿の騎士が、彼女の親衛隊と思われる者達が旅団全てに伝わるように叫んでいるのだ。
ここまでくれば、もう理解できた。
ヴァリエールは、このマインツに宣戦布告しようというのだ!
「無論、ケルン派を転向させ、それを処刑するなど信徒たる私に見過ごせるはずがない! これは枢機卿が正統よりも、神の望み通りの理想的姿を叶えようとアガペーを重ねているケルン派を恐れるがゆえに他ならぬ!」
歯噛みをする。
これはヴァリエールが突然発狂したのではなく、私を出迎える前からこうするつもりであったのだ。
背後に控えさせた紋章官を睨む。
紋章官はこんなはずではないと怯えながら、一人の女を指さした。
旅団に混じりて、朗々とヴァリエールの言葉を復唱する女騎士、おそらくはザビーネという名の女。
彼女は何かに陶酔しきったような表情で、ヴァリエールを一心に見つめている。
完全に信仰に狂った信者のような姿で。
あの女、よくも――よくも、このマインツ枢機卿を騙してくれたな!
「当然の事であるが、私が主従契約を結んだ封建領主から受けた金銭の始末を一任する理由など欠片もない! 我が旅団の財産は全て、この私が軍勢一人一人にパンとワインを与えるために搔き集めた路銀である。銅貨一枚どころか、リンゴの芯すらくれてやる理由は無い。貴卿はその枢機卿としてあるまじき強欲ゆえに、私の財産を奪おうとしているのだ!!」
どうしてこうなった。
私はヴァリエールとの戦など望んでおらぬ。
妥協しようとしたではないか。
私は貴卿の立場も利益も約束しようとしたではないか。
なのに、どうして。
「更に、ケルン派を農奴にしてやるなどと言ったな。これはもはや、マインツ枢機卿が聖職者としてあるまじき悪徳を自ら証明しているに他ならぬ。嘘も方便などと言うが、貴女の言葉は聖職者として相応しからず、もはや穢れていると看做してよい。ゆえに、全ての発言が本当に教皇の意を受けたものか、甚だ怪しいと言える!」
どうして、ヴァリエールは自分の大切なものが危機に陥ったかのような、狂戦士の表情で私を睨んでいるのだ。
話が何もかも違うではないか。
私はそこまで追い詰めたつもりなどない。
私は名誉を回復するためにここまで来ただけであって、そりゃ絶対に転向しないであろうケルン派聖職者は磔にして火刑にするつもりではいる。
別にヴァリエールの路銀を奪うつもりはないが、まあ搔き集めた私の軍勢が目の届かぬところでロバ二匹を連れたそこの馬借などにちょっかいをかけて、殺して全財産を奪うこともあるかもしれぬ。
ベルリヒンゲン卿は帝都に連れて行くまでもなく、途中で自殺すら許さずに拷問死させるつもりである。
それはそこまで酷い行為ではないはずだろう。
よくある話だ。
なのに、何故そこまで怒り狂っている。
何故、自分の仔を人に棒で殴られた母狼のような顔つきで怒り狂っているのだ。
「最後に一つ、ハッキリ言っておいてやる。私の本音を叫んでやる。このヴァリエール・フォン・アンハルト、例え力及ばずとも、自分の傘下に加わった全ての者が幸福を掴めればよいと信じている。私の目玉がサファイアで、腰の剣の装飾がルビーで、肌身が金箔で包まれていれば。この皮膚一枚をめくって、それを金のブローチにして配ってやれれば、どれほどの人が救えたかと思っている。だが、残念ながら現実は全くそうではない。そして、それができぬならば、私の部下全てを、私に関わる大切な物全てを傷付ける者を許す気はない!」
こちらもハッキリと理解できた。
「ゆえに、一度とはいえ私に従ったベルリヒンゲン卿を、わが身可愛さゆえに売り飛ばすなど死んでもせぬ! それは、このヴァリエール・フォン・アンハルトの誉れであり、それを穢すことは教皇であろうが皇帝であろうが許さぬ!!」
狂っていた。
狂っているのだ。
「死ぬがよい、マインツ枢機卿!」
ああ、そうだ、ヴァリエール・フォン・アンハルトの瞳はこの場にいる誰よりも、完全に狂っているのだ。
ここで、ようやく完全に理解した。
そうか、そうか。
あの気狂いアンハルト一族の末裔、その第二王女はこのような狂人であったか。
本当にどうしようもない窮地に陥った際には、自分の愛する者全てを護るために、このような発狂の仕方をするのだ。
自分の配下何もかもが大切であると信じているのだ。
掻き抱いた何もかもを護るために、自分の産子を守るための母のような発狂行動をとるのだ。
誰に!
誰にそそのかされやがった!
誰がここまで、眼前のヴァリエールを狂気の淵に追い込んだ!!
ああ、しかし、もうどうにもならない。
私は失敗した。
「理解した! 貴様がどうしようもない異端であり、正統に対する背教者であったことをな!!」
私は虚勢を張って、大音声を吐き返す。
そうしなければならないのだ。
今更、ここで引くことはできない。
「後悔するが良い、ヴァリエール・フォン・アンハルト。異端どもの王として何も守り切れず、貴卿はここで惨たらしく死ぬのだ」
馬の手綱を引いて、自分の軍へと踵を返した。
すぐに自分の軍に帰り着いて、軍備を完全充足せねばならぬ。
時間はあまりない。
ヴァリエールに吐いた言葉など、虚勢である。
私の軍の誰もが交渉で終わると思っており、戦争の覚悟など一部の古強者しかしておらぬ。
それとて、精々が抵抗した一部の傭兵団を鎮圧する小競り合い程度だろうと、経験則により見切っていた。
全軍兵による全力闘争の覚悟などしていないであろう。
冗談ではない。
何が悲しくて、死に物狂いでこのように狂うた主君に率いられた、その主君を爛爛とした目で見つめだした半傭半賊の者どもに、私の大切な部下どもを異端の生贄に捧げなければならぬ。
勝てるはずだ。
さすがに、我がマインツ騎士修道会による騎士団を含めた軍勢が、装備も貧しければ鍛錬も未熟な傭兵団に負けるわけがない。
3000の半数に対して、6000の数が負けるわけもない。
なれど、なれど。
私は知っているぞ。
このマインツは知っているんだ。
レッケンベル卿が率いるランツクネヒトの群れに、テメレール猪突公が率いる強力な軍勢が負けたことを。
レッケンベル卿の伝説全てが偽物であったとしても、その事実だけは変わらない。
時として士気(モラール)は何もかもを覆すのだ。
嗚呼、間違いだった。
ユリア教皇の誘いなどに乗るんじゃなかった。
何もかも知っていながら、このような泥を私に呑ませようとしたのだ。
「あの恩知らずが! 腐れ暴力教皇が! 私に、このマインツ枢機卿に、マインツ選帝侯に、このような目を!!」
教皇は、何もかもを予感していながら、私に泥を呑ませた。
おそらくは、このような状況になる事すら理解していながら、私をそそのかしたのだ。
ユリア教皇は狂っていた。
信仰に狂っていた。
勝てるかどうかは分からないが、とりあえずマインツ枢機卿をぶつけてみよう程度に考えているのだ。
それでケルン派が潰れればよし、潰れなければ自分が改めて帝都にて相手をしよう程度にしか今回の戦については考えていない。
アンハルト選帝侯家第二子女、ヴァリエール・フォン・アンハルトも同じく狂っていた。
自分の大事な者を護るためならば、自分の全力を用いて私を殺す必要があると考えているのだ。
それだけが自分の懊悩を解決する唯一の手段だと信じているのだ。
他家の選帝侯をぶち殺したとて、自分の大切な物を護るためならば、後で考えればよし!
異端認定? 知らねえ!
教皇と皇帝がベルリヒンゲン卿の逮捕を承認した? 無視しろ!
『こっちが死ぬか、相手が死ねば、それで終わりだ!』
要するに、狂戦士の一族がゆえに、今後の事は何も考えていないのだ。
全勢力を傾けて私を殺しに来るのだ。
自分の配下を護るために、自分の配下に死ねと命じたのだ。
狂戦士の一族の末裔としての本性が、この場にて顕現していた。
正気なのは、このような地獄に巻き込まれた私だけだった。
「この狂人どもが! 法も道理もあったもんじゃない!!」
この悲鳴は、何があろうと勝ちは揺るがぬと信じている側近には、誰一人にすら漏らせなかった。
主君が配下の喪失に怯えるなど、その配下のために決してあってはならぬことなのだ。
いや、側近の中でも一人だけ。
本人も知らぬが、血の繋がった私の娘だけには教えておかねばならぬ。
このマインツ枢機卿が敗れた場合、一目散に領地に逃げ帰ることだけは教えてやらねばならなかった。
そのためには、私と血が繋がっている秘事も彼女に明かさねばならなかった。
教えぬつもりだったのに。
何もかもを知らせずに、この金に狂うた母の存在など知らせずに、マインツ選帝侯領を穢れ一つない彼女に譲るつもりであったのに。
「畜生が!」
私は聖職者ならぬ声を上げて、唾を吐いた。
二巻の書籍化作業で更新が遅れました。
誠に申し訳ありません。
時々更新が遅れますが、その時は小説を書いていないのではなく書籍化作業をしてるだけですので、お許しください
また、一巻も物理・電子ともに発売中であります。
何度も後書きで告知申し訳ないと思っておりますし
「買う買わない」は読者の自由なのですが(もちろん買っていただけると嬉しいですが)
「そもそも書籍化したこと自体を知らない」という方が
一カ月たっても普通にいるので、今後も事務的な告知は致します
御見苦しいと思われる方もおられるでしょうが、ご容赦ください