手を叩く音が起きた。
何かを讃える拍手ではなく、おしまい、おしまいと繰り返し言いたげな手締めの合図である。
アスターテ公爵が、少し微笑んだ顔で無駄話の終了を告げた。
「まあ、ここまでだ。もう少し長くしゃべらせても良いとは思ったが……」
魅惑的な首筋を私に見せながら。
アスターテ公爵は、私に向けてことんと首を傾げながらに尋ねる。
「ぶっちゃけ飽きてるだろ? ファウスト」
「飽きております」
正直に答えた。
比較的どうでもよい話をアナスタシア殿下は口にしているからだ。
話の聞き手がマルティナならば違ったのかもしれぬが。
私にとっては皇帝が身内の手引きで死んだことも、それをしたのがアンハルトの開祖様であることも。
正直言えばどうでもよいのだ。
というのも、この私は自分の知能に見切りをつけている。
理解できないことは最後まで理解できないことを、ソクラテスのいうところの「無知の知」と「汝自身を知れ」という部分までは理解できているのだ。
ナヒドに『聞かぬことにする。私に質問をする権利はない』と述べたのは、権利が私にない事だけではなく、自分にその知識を生かすことなどできないと知っているからだ。
気にはなっているが、説明が面倒くさいならどうでもよかった。
横にいるマルティナが理解を私に求めるならば努力するが、そのマルティナもおらぬ。
「一応はここから先もあるのだが。皇帝の死の真相とかな。警護を任されていたマインツ枢機卿の先祖が『さっさと殺そうぜ! 日が暮れちまうよ!!』と叫ぶほどに乗り気だったこととか。ヴィレンドルフの先祖が『ふざけるな! 私にだって殺す権利はあるだろうが!!』と、甲冑を着た皇帝を腰ほどの深さもない川に引きずり込んで、ナヒド殿と一緒に力ずくで溺死させたとか。死ぬほど厳重に警備されているはずの皇帝の異変に、誰一人として気づく者がいなかったのはおかしいけれど、皆が目を背けて知らないふりをしていたとか」
「うん、大体あっとるのう」
というか、もう聞かなくてもいいんじゃないかなと思っている。
聞きたくないなあ、そんなの。
一応は自分を騎士道精神にあふれた人物だと心得ているわけだし、寄ってたかって遠征中の主君をぶっ殺す話はあまり好きじゃない。
なんというか、故郷に帰りたくて仕方なくて追い詰められた人たちの突飛な行動など知りたくないのだ。
私だってヴィレンドルフ戦役とか、さっさと帰りたくて仕方ない地獄だったわ、もう。
まあ私はやらなかったけれど。
「えーと、ともかくだ。ファウスト、私の先祖はあまりにも腹が立って主君である皇帝をぶっ殺したけど、まあ仕方ない事だったよと言いたいのだ」
アナスタシア殿下が、人肉とか食っていそうな三白眼の蛇の目で、理解して欲しいと口にする。
理由は分かった。
気持ちは全く理解できないでもないし、400年前の責任を子孫である殿下に求めても仕方ない。
それで?
「この辺りの知識を擦り合わせることでナヒドが本物かどうかを。本当に『山の老人』にしてヴェスパーマン家の直系かどうかを。私の家系に伝わる話の真実性や、ナヒドがどのような意図で私に接触したかを。少しずつ腹の探り合いを試みようとはしたのだが」
全部お前が、ファウストがくだらぬと拒否をしてしまったので、短縮することとしよう。
アナスタシア殿下は蛇の目にてそう言い放ち、ナヒドに視線を向けた。
「さて、ナヒドよ。私が貴殿に求めることを告げよう。すでに貴殿は知るところであろうが、アンハルト王家における分家たるヴェスパーマン家が酷く使い物にならない現状である。400年に亘り王家に貢献してきたヴェスパーマン家を切り捨てるのは悩みどころであったが」
「もういらんじゃろう、さすがに」
「いらぬな。腐った部分である以上は切り捨てねばならぬ。我慢の限界はとうに過ぎている」
どうも事情は分からぬが、ヴェスパーマン家は切り捨てられるようだ。
一瞬、ザビーネの妹たるマリーナ嬢の顔が思い浮かぶが、ほとんど他人である。
そこまで親しい仲でもないから知らぬ。
ザビーネの事であれば擁護したが、明確に縁を切ったと口にしている彼女には何の関係もない話だ。
「代わりがいなかったから我慢をした。だが、母であるリーゼンロッテはここ数年で独自の諜報機関を作り上げた。かつてのヴェスパーマン家には及ばぬがな。足らぬ面も、もちろんある」
「それを補うために、ワシをスカウトしたいと?」
「そういう話だ」
話は淡々と、先ほどまでの無駄話などはなかったかのように進んでいる。
すでにアナスタシア殿下も、ナヒドも、ある程度の状況は事前に承知済みであったかのようにしてだ。
「暗殺者をお求めで? ワシが率いる超人部隊が欲しいかのう?」
ロリババアが、両手を胸元で静かに開いて。
さて、何を求めるのかといわんばかりに口にした。
「欲しいね。喉から手が出るほどに。これから教皇を殺す予定だ。皇帝も理由あれば殺すつもりである。もちろんのことであるが――貴殿が一番殺したい相手も」
何もかもを見透かしたかのように、それでいて自分の胸襟も開くようにして。
私の主君は口にして、ナヒドに条件を突き付けた。
「トクトア・カンを殺したい。できれば戦が起きる前に。あの狂えるモンゴル帝国の皇帝を暗殺できさえすれば、神聖グステン帝国に対する戦自体が起きないのではないか? そんな希望すら抱いている私にとっては、貴殿が私に与してくれることを心から望むところであると」
「はて、そんなことが不可能であることは」
「勿論知ってはいるがな。一つの帝国にして、その皇帝を殺すことには様々な条件が必要であること。時代の風、強力な暗殺者、皇帝に明確な瑕疵が存在する。全てが揃わねばならぬ。それは皇帝殺しの経験があるアンハルト王家が知っている」
多数が望むような状況でなければ、重鎮レベルならばともかく、帝国の皇帝そのものを暗殺するなど容易ではない。
そこのところに、まあ触れておこうとは思ったのだが。
やはり要約しようと殿下は口にされて、単直に尋ねる。
「ナヒドよ。尋ねる。やはり、すでにトクトア・カンの暗殺は試みた後であろうか?」
「ご想像のとおりである。無理であろうとは思った。だが、やらねばならぬとも思った」
ナヒドは、胸元で開いていた手を閉じて。
両方の手で握り拳を作る。
「存亡を迫られた王朝のためである。故郷のためである。我が一族の権勢を維持するためでもある。少ない可能性ではあると理解していたが試みて、やはり失敗をした」
一族の全力を尽くした。
およそ、我が一族が築き上げた暗殺技術と手練手管の全てを尽くしたと言い切れる。
だけど、と。
ナヒドは語る。
「モンゴルは強かったよ。あまりにも。ワシの仕える王朝が滅ぶことさえもが当然だった。あの強力な皇帝が率いる強大な権力に滅ぼされるならば、仕方ないのではないのかとさえ思うほどに。アナスタシア殿下の言う、時代の風というものがあるとすればだ。ワシのように古臭い暗殺者などよりも、あの皇帝トクトア・カンにこそ吹いているのだとさえ思うのだ」
アナスタシア殿下は、一度停止して。
何かを吞み込んだようにして、蛇が何か口にした獲物を飲み下すように喉を鳴らした後。
「では、何故抗う? トクトア・カンは超人を強烈に勧誘していたはずだ。ナヒド殿とて、その例外ではないはずだろう? 暗殺者だからといって、他宗教だからといって、他の王朝の配下であったからといえ、肌の色が違うと言えども。はて、貴殿が忌避されたとはとても思えぬ。私がモンゴル帝国の皇帝ならば貴殿を欲しよう」
「何が言いたいと?」
本来は、と。
アナスタシア殿下は、また何か腹芸をしようという素振りを見せた後に。
少しだけ立ち止まり、何故か私を見て。
楽しそうに笑って、またナヒド殿に視線を向けた。
「ここで、まあ実はナヒド殿がトクトア・カンに雇われた暗殺者で、皇帝や教皇や、もちろん選帝侯である私などを殺してやろうと企んでいるのでは? 今は、とりあえず内部に侵入するために腹芸をしているだけで、本心は違うのではないか? そう貴殿を煽ることもできた。そう口にして、貴殿の反応を確かめることもできた。なれど、止めておこう。誠意を見せようではないか。ファウストが私の目の前に連れてきた貴女を疑うことは、ファウストを疑うことにも等しい」
アナスタシア殿下が立ち上がった。
私はすぐさまナヒドを捕まえて、控えろと地面に伏せさせることも考えたのだが。
殿下の視線が、それを否定することは理解している。
「意地悪はしない。この上での腹芸もやめておこう。もし、私のところに逃れてきた一族を委ねてくれるのであれば、ナヒド殿を信頼しよう。かつて築いた秘密契約を遵守することとしよう。もし「山の一族」と「アンハルト」のどちらかの家が危難に陥れば、相互に利益を提供するという前提の上で、互いを助けようと。宗教が違えども、生まれ故郷が違えども、一緒に相互利益の上で皇帝をぶち殺した際に結んだ契約だ」
アナスタシア殿下が手を伸ばした。
ナヒドは少し立ち止まって、その手を取らずに。
逆に、殿下の心を読み取ろうと努力しているかのようにして、瞳を揺らした。
「まあ、口約束だったと聞くがな」
雑な契約にすぎないが、と殿下は笑った。
「ナヒド殿、もう一度私と、アンハルトと皇帝殺しをやることにしないかね。まあ、今度殺す相手は私の主君ではなく、両者が明確に敵対するモンゴル帝国相手であるがね。ひとまずは、教皇を殺す計画に参加してくれる形で良い」
「……いいじゃろう。腹芸が好かぬというのならば、アンハルトの子孫である殿下が誠意を見せるというならばだ。これ以上は何か言葉を左右する必要はワシも感じぬ」
ナヒドは殿下の手を取り、静かに返事を口にした。
「モンゴル帝国の皇帝を殺そう。もう一度皇帝殺しをしよう。おぬしに協力することで、おぬしに協力してもらうことで、トクトア・カンを殺すことにしよう。ワシが仕える王朝を滅ぼし、氏族の領地を奪い、ワシが必死に大事にしてきた一族のことごとくを死に至らしめ。その上で、何一つとして返してやる約束などしないが、ただただ服従して何もかもを私に捧げろなどと口にした。馬が走れる場所は全て自分の所有物だと考えている。あの傲慢にして、腹立たしくて、誰よりも強力な皇帝を殺してやろうではないか」
ナヒドの瞳は、充血したような赤いものに染まっている。
あの瞳の色は知っている。
人種の違いによるものでも、国柄の違いによるものでもなんでもなく。
人間である以上は、誰もが身に着けられるもの。
死んでも耐え難いほどの侮辱を受けた人間の、復讐の色をした瞳であった。