私の髪にはきっと泥が混じっている。
髪を櫛で梳いたことなどない。
そもそも櫛など持っていないのだから。
だから、泥混じりのバウマンなどと笑われても、言い返す言葉など持たない。
事実そうなのだろうから。
ただ一人、違うと最初に言ってくださった【御方】がいた。
【御方】という言い方が正しいのかどうかはわからない。
私が最大限に相手に敬意を示すのが【御方】という言い方であって、例えば――紋章官ならばもっとより良い装飾の言霊などを思いつくのであろう。
そう思ってしまう。
私には教養など無い。
山出しの田舎者で、文字も読めなければ書くことも出来ぬ。
自分の名前を書く魔法なんて使えぬ。
だから、泥混じりのバウマンだ。
いや、バウマンでさえなかった。
【泥混じり】が私の名であった。
かつて親無しの農奴であり、小作農になった頃も、そうであった。
その字が変わったのはいつ頃であろうか。
爪を見れば、根元まで泥が詰まっていた時から何か変化が。
生まれ変われるようなことがあっただろうか。
なれば、自分の皮膚、身体、つまり自分の生身における一切合切をランツクネヒトに売った時だろうか?
いや、あの時に名乗ったのはただの何物でもない泥混じりであった。
姓か名でさえない。
そんな自分の名前が、字が。
私の字が確かに変わったのは、入隊式における査閲の時である。
それ以前の事はあまり思い出せない。
良いことなどなかったので、記憶は泥混じりで濁っているし。
そもそも頭が悪いのだから、昔の事はあまり思い出せない。
「君は身体が大きいなあ。ヴィレンドルフ中を探しても私より大きい女は見たことがなかったのだが」
あの【御方】はそう査閲の時に言葉を投げかけてくださった。
【御方】は私だけにではなく、全ての人間に二、三の言葉を投げかけてくださる。
それが元農奴であれ、元貴族であれ、そこに貴賎はない。
平らだ。
兵を査閲するときにみる彼女の目は真っ平らだ。
自分はどこそこの都市出身だの、貴族生まれだの、給料を倍にするべきだの、文字の読み書きができるだの、計算ができるだの、そういった嘘や大ボラを交えたアピールは一応聞いてくれる。
聞いてくれるが、【御方】には全てお見通しで。
それら丸ごとひっくるめて一つの評価。
それで君は兵として使えるか、それとも否かという点だけに収束される。
【御方】は何もかも我らをお見通しだというほっそりとした目で、眼の玉さえ見えぬままに言葉を投げかけるのだ。
二、三の言葉。
誰もがそれだけで、押し黙って顔を下に背けてしまう。
嘘などを吐いていた場合は、顔を真っ赤に染めて。
私は嘘などつく知能も無いから、何もかもを正直に答えた。
人生で誇れることなど一つも無いが、一つだけ誰よりも得意と言われたことがある。
人殺しだ。
だから、それを口にする勇気を自分に許した。
「名は泥混じりで本当に良いのか? 文字の読み書きはできるか? 生まれは?」
「名は泥混じりで良いです。できません。生まれは農奴で、その・・・・・・人を殺して、小作農になりました」
「ほう?」
興味深げな声であった。
【御方】は、ほっそりとした目を僅かに開き、理解したとばかりに顎を動かした。
「従軍経験があるのだな」
「村と村の、川の水を取り合う争いで、農奴として働かされて。戦に参加させられて、そこで沢山殺しました。十数人を殺しました」
「そこまで働いて農奴からようやく小作農に、か。ケチな領主だな。私が領主ならば、そのまま兵として取り立てているが。いや、君を兵として自由にするのも恐れたのかな?」
はは、と軽い笑い声。
私の言葉を全く疑わず、嘘など何もついていないのだろうという理解と共に、書類のような物を見せた。
小作農の泥混じり、ね。
と呟き、書類に私の名前を書こうとして。
んー、と躊躇いと共に手を止めた。
「元小作農の泥混じりでは箔が付かないな。とりあえず君は倍給兵として働いて貰う。貰うが、そのうちにもっと活躍してしまうだろう。私が何もしなくてもだ」
私に語りかけてくれているのか。
それとも独り言なのか。
どちらかわからぬので、曖昧に「はあ」と返事をする。
「そして私はケチではないし、必ず利子付きで返ってくる商品に投資しないほど愚かでもない。君に色々と装備などを先んじて与えるつもりであるし、槍の使い方も私自ら教えよう」
何があの【御方】の心を動かしたのかわからないが、事実その言葉通りにしてくれた。
私に特注の鎧も剣も用意してくれたし、剣や槍の使い方も直々に教えてくれた。
直々に教えてくれたのは、【御方】が特別目に掛けている者だから変な手出しはするな、という周囲への披露の意味もあるのだろうと。
ぼんくらの私には分からなかったが、当時の下士官殿が教えてくれた。
「そう、そうだな。時期が来たら騎士にだってなれるだろう。今後の働きに期待している」
跪く私に。
まるで予言のように【御方】は仰って、私の肩を剣で叩いた。
その瞬間だ。
ああ、あの瞬間だとも。
「君の名前はバウマン。以降しばらくは【福音のバウマン】とでも名乗るが良い。君の二つ名など戦場に出ればすぐにでも、何か英傑じみたものに変わってしまうだろうが。私にとっては君との出会いは奇貨であったからな。やはり【福音】がよかろう。帝国中の在野を探してみれば、やはり思わぬ拾いものもあるということだな」
うんうん、と相変わらず独り言のように口にする。
まるで私の事など聞かずとも分かると言いたげに、満足げに。
私の【福音のバウマン】という二つ名を、まるで喜ばしい存在のように呼んでいる。
何千という人間を査閲する【御方】が、私を評価してくれるということ。
この農奴上がりの小作農が、認められている。
それは親に褒められたこともない私にとっては初めての経験で――それから。
なんだっけな。
「起きろ、バウマン」
身体を揺さぶられている。
どうした一体。
私は酒に酔いしれて、きっと――ずっと――現実などよりも良い夢を見ていたというのに。
名もない農奴の泥混じりのガキが、あの【御方】に認められて、騎士にまで成り上がる夢だったのに。
それはもうない。
だったら、ずっと酒に酔って、寝ている方が良かった。
「人殺しの時間だ。お前の得意な」
もうよい。
殺しには飽きたし、元々好きではない。
何百人と戦場で殺したのも、ただそれしか自分に得意な事はないから。
人殺しだけが私の取り柄であるから。
【御方】に褒められたかったからだ。
成果への報酬をすでに支払ってもらえたし、皇帝との契約中に入ってくる金もある。
一生を酒に酔いしれて、眠っていられるだけの財貨を得ている。
ならば、もう良いではないか。
何もしなくてよい。
「何もしたくない。金などいらない」
「ちょっと一人を殺すだけだ。報酬として、私たちが討ち死にした後の財産は全部お前にくれてやる。殺したときに得られる名誉もお前のものだ」
聞いていないのか、もう金は要らない。
名誉も。
それこそ、【御方】から頂いた沢山の感状を使えば、どこにでも騎士として務められ――いや、もうないのだけれど。
あの【御方】が死んだという日に、全て暖炉にくべて燃やしてしまったのだ。
あれはよく燃えたな。
そうして、燃やしてしまって。
何も残らなかったわけではない。
頂いた特注の鎧、剣、そして二つ名から福音は消え去り、【七つ刻みのバウマン】という名前だけが残った。
それだけでは足りないのだ。
私を動かす動機にはならぬ。
もう何もできぬ。
「金も要らぬ。地位も要らぬ。名誉も要らぬ。何も要らぬ」
それだけを口にする。
もう、何も要らなかった。
ただ。
「ファウスト・フォン・ポリドロ」
誰かが、名を口にした。
誰の名前だろうか。
それだけが引っかかって、やがて、思い出した。
そうだ、あの【御方】を。
【クラウディア・フォン・レッケンベル】を殺した男の名だ。
悪い冗談のように思える。
あの人を、あの御方を、男騎士が殺したなんて。
だが、事実なのだろう。
なんとなく私は何処かで理解してしまっていた。
帝都在住のヴィレンドルフの騎士が口にした以上、嘘ではない。
「彼を殺さねば、もはや我々はランツクネヒトにあらず、ただの半賊半傭の破落戸も同然である」
違うのかね、と口にしそうになった。
我々はそういうものだと認識していたが。
だから、こうやって、酒でも飲んで寝ていれば良い。
そうやって差し出したワイン瓶を取り上げられ、床に叩きつけられた。
同僚の倍給兵が、私の十分の一も力のない人間が、私の襟首を絞めている。
抵抗はしない。
「誰もが言っている。こう言って我らの事を笑っている。奴らに戦士としての誇りなどは存在せぬ。自分たちのことを勇敢な兵士と称しているのは、誰一人そうと認めぬからだ。誰にも認められぬから自分たちは勇敢なのだと言い張っている。ああ、その通りだ。否定などしないさ」
身体を揺さぶられる。
「だが、彼を生かしたままでは、彼に挑まぬままでは、自分たちでそう言い張ることすら許されなくなる!」
私は為すがままにされ、無理矢理に立ち上がるよう襟首を上に向けられる。
「ポリドロを殺そう。協力してくれ、バウマン」
「・・・・・・」
私は黙る。
それもよいだろうという気になっている。
どうせ、殺したところで何も良いことはないが。
ただの八つ当たり、その程度の報いは受けてもらう。
それが正しいのかどうかなど、私にはわからぬ。
ただ。
レッケンベル様に私の行為を正しいかどうかを尋ねても、もはや何があろうとも答えてはくれぬのだから、良いだろう。
私は毛布のように羽織っていた軍旗を脱ぎ捨て、その装飾である「バラのはながら」を見た。
白い糸でできた花骸であった。
この花骸を、ポリドロの鮮血で染めてやろう。
そう妄想するだけで、どこか心が慰められるようならば、もうやるしかないのだ。
たとえ、それがやり遂げた後に虚しくなるような行為であっても。
第十一章 完
まずは謝罪を。
10,11章の「異端審問編」ですが非常に出来が悪く、誠に申し訳ありません。
個人的に一番失敗したと思ったのは4章ですが、それを下回る出来でした。
(ちなみに8,9→5→6,7→2→3→1→4→10,11章の順です。書いてて好きなのは)
作者も色々と中途半端で至らない点があったことを理解しているのですが、描写にあたって自分の書き手としての実力が足らないと判断し、意図的に明確な決着を避け、ストーリーとしてすっきりさせるべき点を誤りました。
どう書くべきだったかは理解できているので書き直そうかとも考えましたが、今の実力でそれをやると確実にエターしてしまいます。
もし書籍版を10巻、11巻と出すことが出来たならば、書き直すと言うことでお許しください。
今回は諦めて、このまま「ランツクネヒト編」に突入します。
相変わらず体調が悪いため、今後とも筆が遅くなります。
更新の方はのんびりお待ちください。