腹が減る。
あまりにも空腹であるのだ。
飢餓が、私の心的外傷が、まるで遠ざかったかのように体が食事を求めた。
私の血潮が燃えている。
血の一滴までもが、滋養を摂取せよと叫んでいるのだ。
従士が私が食事を終えたとみて、食後のワインを尋ねてきた。
「……マキシーン陛下、その、今日のワインの色は?」
「甘い赤がよいな」
白いパンを二きれ。
エッグスタンドに置かれた、ゆで卵を二つ。
新鮮な鶏肉にきのこのシチュー。
おそらく十五歳までの人生で、これほどに食べたことは無い。
ポリドロ卿に言わせれば、それで足りるのかと心配させる量だろうが。
今はこれが精いっぱいである。
今までの摂食障害が胃を小さくしていた。
「ワインは一杯で良い。さすがにこれ以上は腹に入らぬ」
従士は喜びの涙を隠そうともせず、ハンカチで目を拭っている。
常々、私の食欲の無さを心配していたのだ。
彼女を喜ばせる意味でも、食べた甲斐があるというものだが。
「さて、ヴァリエールはどうだ? まだ食べるかね」
「いえいえ、もうお腹がいっぱいです」
同じ食卓を共にしているヴァリエールに食事のお代わりを促すが。
まあ、ヴァリエールは私のように小さな体躯であった。
腹に入る量もしれているだろう。
「美味しい食事でした。後は私もワインを一杯頂けましたら」
「かしこまりました」
従士が綺麗に頭を下げ、視線を扉に立っている給仕たちにやる。
それだけで意図を理解して、私とヴァリエールのために杯とワインを用意してくるだろう。
さて、ここからだ。
はて、ヴァリエールとどのような会話をすべきかと迷う。
話したいことは幾つもある。
ちょっとした市井に対する愚痴でもよい。
ああ、陛下も人間なのだなとヴァリエールとの親しみを増すことができる。
今後のヴァリエールの挙動に対するアドバイスでも良い。
それはヴァリエールが果たしてくれた敵討ちに対する恩返しでもある。
私が本当に会話したい話題。
すでにそれは明確になっており、ポリドロ卿との子が欲しかった。
私に芽生えた野望の種。
モンゴルに何もかも踏みつぶされた後に、あのトクトア・カアンがくたばりやがった後に、帝国の全てを平らげる正統後継者である。
彼の正式な婚約者であるヴァリエールには話を通しておくのが、やるべき筋というものだ。
だが今は、その本心をむき出しにすべき段階ではない。
ひとまずは、ヴァリエールとの親交を深めることを優先しよう。
「さて、ヴァリエール。ワインをちびちびとやりながら話でもしようか」
「はい、陛下」
「さて、どんな話題が良いかなと悩んでいるよ。ヴァリエールは、その、将来はポリドロ領の領主になる予定だとか?」
集めた兵を、商人から旅芸人までありとあらゆる全てを、アンハルト王家直属の騎士や兵士になった者たちを除いて。
全て、志願さえすれば自分の領地に連れて行く。
ポリドロ領へと連れて行くのだ。
「はい、その。何処にも行く場所が無いなら、ウチに来ないかと。まだ婚約者の立場で、このようなことを口にするのは許されないことでありましたが。ファウストはそれを最終的に認めてくれました。まずは開墾から始めなければなりませんが――」
ヴァリエールの天性は何処にあるのだろう。
私には『あまりにも善良すぎる異常者』という結論しか出すことができない。
ある意味で貴族らしくないのだ。
自分の命を自分の騎士や兵士達と等価だと思っている。
自分が手を差し伸べれば救えると思っている人間には、手を差し伸べずにいられない。
まるで神に与えられた呪いのようだった。
その代わり、その手を差し伸べられた相手は死に物狂いで忠誠を誓うのだ。
そうせねば、そいつがこの世に産まれ落ちて、拾い上げられた人生全て何もかもが嘘になってしまうから。
ヴァリエールを守り切ることが出来なければ、もはや世界の全てを失ってしまうのだ。
やはり、何か呪いのようなものだった。
神は何故、このような生き物を生み出したのかとさえ思う。
羨ましいとは感じなかった。
憧れもない。
ただ敬意のようなものは感じている。
「――」
心を読もうとする。
ヴァリエールは私に皇帝としての敬意を抱いており、そこに嘘は何一つない。
少し、澱みがある。
ヴァリエールにではなく、私の心にだ。
この一歳年下の娘は、きっと支配者階級には向いていない。
人を切り捨てる重大な決断をしなければならない時に、それが出来ないのだ。
それは明確な欠陥だ。
神はカリスマという恩寵を彼女に与える代わりに、その選択肢を奪った。
この娘が活躍するのはどんなときであろうか。
華咲くのはどんな場面だろうか。
きっと、もっとも原始的な忠誠が必要な場所。
おそらくは最前線の戦場にて。
主君が死ぬぐらいなら、自分が死んだ方がいい。
母親が自分の赤子を守るような、そんな死に物狂いの場所にて。
ヴァリエールの配下はおそらくその場にて、史上最強の軍集団と化すだろう。
「――ヴァリエール」
名を呼ぶ。
思えば、私はここまで猜疑心なく人を近づけたことがあったろうか。
選帝侯の子女と食卓を共にすることはあったが、連中を信じるなど馬鹿馬鹿しい話である。
隣席に、父と母以外が居たことなど一度もなかった。
「何でしょうか、陛下」
きっと死ぬだろうな。
ヴァリエールは説得できない。
私が彼女を攫って、遠い遠い国に逃げることを拒否するだろう。
兵を、新しく彼女の領民になった者たちを見捨てられないからだ。
それは、きっと。
ポリドロ卿も同じで、領地領民を見捨てられぬ。
「お前の婚約者、ポリドロ卿がゲッシュを誓ったこと。モンゴル相手に命懸けでの戦いを誓ったこと。それを私は知っている」
それを違えれば、彼は七年の内に死ぬだろう。
別に彼は死など怖くないだろうが。
そこまでしても、自分の領地を守りたいのだ。
ならば、きっと私と共に逃げてくれることも望めまい。
それは分かり切っている。
「はい、陛下。何もかもご存知のようで」
「さすがにアンハルトという国全体が戦争に向け動き出しておれば、ゲッシュの事も私の耳に入る。知っているさ」
私が好意を持つ、誰一人として説得できない。
マルティナの出自も知っている。
命を救われた彼女が、ポリドロ卿から離れることも有り得ぬ。
一緒に死ぬことを、当然のように選ぶだろう。
それはすでに分かり切っている。
だが、どうにもその分かり切った未来を容易く受け入れることができなかった。
「――」
言葉に詰まる。
私はこの三人に愛着というものを感じ始めている。
可能ならば、全員を連れて逃げたかった。
だが、無理だ。
ヴァリエールを崇める領民たちを、彼女は見捨てられないし。
ポリドロ卿もまた領地を見捨てるという決断だけはしないゲッシュを行っている。
マルティナもそれに殉ずるだろう。
「――ヴァリエール、一つ尋ねたい。貴女はモンゴルに勝てる可能性があると思っているのか?」
ここで、純粋な疑問をぶつけた。
答えはわかっているが。
「私にはわかりません。その、従うことしか許されない状況下なので」
まあそう。
これこそがヴァリエールの本音であろう。
彼女には選択権が与えられていなかった。
一見自由なようでいて、選択肢を縛られている。
「……」
ヴァリエールの心理を読もうとする。
その心は真っすぐであった。
やはり何一つ嘘を吐く気などないし、ただあるがままのカリスマであるのだ。
むしろ、揺れ動いているのは私の心である。
このまま死なせてしまってもよいものかと悩んでいる。
私の父に心からの敬意を示してくれたポリドロ卿を、無為に死なせるのはどうか。
ヴァリエールを、彼女に縋りつく哀れな者たちを、このまま無駄死にさせてよいのかどうか。
せめて。
マルティナが私に教えてくれた情報への対価を支払うべきではないかと、自分に問う。
では、その対価とはどのようなものかというと。
その支払った対価を十二分に価値として理解するのは、あの不愉快な女だった。
「……ヴァリエール、アスターテ公爵はいずこか。今日は姿を見せなかったようだが」
「一度、姉様のところに。その、姉であるアナスタシアのところに戻っております。明日にはこちらに戻ってくるかと」
「話がしたいと伝えてくれ」
ヴァリエールに対して会話を続けても、残念ながら私が彼女を好きになるだけだ。
具体的な対価を支払うべき相手は、私と話をして意味があるのは、不愉快なことにあの女だ。
ポリドロ卿、ヴァリエール、マルティナへの好感を抱かせることを計画的に仕組んでいるのだ。
皇帝である私に敬意などこれっぽっちも抱いていない。
あのアスターテ公爵なる人物と会話することでこそ、私が好感を抱いた三人に最大利益を与えられるように何もかも仕組まれている。
私の感情は、あのアスターテ公爵に操られているのだろう。
おそらく、あのいけすかない女は私がこうするところまでは読んでいるだろう。
ただ、そこから先がわからぬ。
さて。
あの女、人食いの下に帰り着いて、今頃は何を企んでいるのやら。
私はそんな思考をヴァリエールにひとまず隠しつつ、ワインの味をちびりちびりと楽しんだ。