殺すつもりなど、皆無であったのだ。
私はただ、バラを。
あの麗しいローズガーデンの一輪を枯死させたかっただけで――
いや。
そんな言い訳、どうやったところで通用などしない。
誰にも通用しないのは、判り切っている。
何より、私自身ですら、殺意の有無など関係ない事は理解しているのだ。
私が、ロベルト様を殺した。
その事実だけが、眼前に横たわっている。
「些細な復讐であったのだ」
一言、誰も周囲におらぬ独りぼっちの部屋で、顔を覆いながら呟く。
復讐であった。
酷く、些細なる復讐であったのだ。
バラの一輪を枯らして、些細な満足感を得たかった。
あのロベルト様を殺して、私に、我らに、何の得がある?
庇護者は彼一人であった。
報われなかった私に、その手を差し伸べ助けてくれた。
ただ一人の庇護者。
それを殺す動機など、どこにもなかった。
だからこそ、未だ疑われていない。
私は、我々は、何も疑われなどしなかった。
そこに、ロベルト様を殺す理由など有りはしなかったからだ。
あのロベルト様を殺す動機が、私には、我々には全く無いのだ。
事実、庇護者であるロベルト様を失って、苦境に陥る事など5年の間には珍しくなかった。
それでも生前のロベルト様が今の職を与えたという大義名分は強く、破滅に至る事はついぞ無かった。
だが。
「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」
その名を口にする。
憤怒の騎士。
美しき野獣。
かつて、アンハルト中で一番醜い騎士とすら言われた男。
ヴィレンドルフ中で最も美しいと言われる男。
その名声と功績は、アンハルト、ヴィレンドルフの両方において絶頂の時を迎えていた。
両国はおろか神聖グステン帝国にすら、いずれその名が鳴り響くと思えた。
今までの実績に対する、当然の評価であった。
領民300名程の弱小領主でありながら、第二王女ヴァリエール殿下の相談役に電撃就任。
その後の「ヴィレンドルフ戦役」において、ヴィレンドルフの英傑レッケンベル騎士団長との一騎打ちにおいて勝利し、圧倒的不利であった戦況を個人の武勇だけで覆す。
第二王女ヴァリエール殿下の初陣、通称『カロリーヌの反逆』においては、反逆者たるカロリーヌを撃ち破り、キルスコア50を上回る活躍。
己の誉れのために主君であるリーゼンロッテ女王陛下の命にすら逆らい、討伐した裏切者の幼子を引き取る。
ヴィレンドルフの和平交渉において、決闘を願う騎士を正面から迎え討ち、99人に勝利。
和平交渉の席で冷血女王と謳われるカタリナ女王の心を斬った『バラのつぼみ』事件。
これにて100人斬りを達成、和平交渉を成立させる。
その正式報告の場にて『ゲッシュ事件』を起こし、アンハルトの諸侯を説得して東の遊牧騎馬族国家に備えた新たな体制作りを実施。
諸々の功績を称えて、第二王女ヴァリエール殿下と婚約が決定。
狂っていると言ってよい。
たった二年間で、狂おしいほどの名誉と結果を叩き出している。
軍事面でも、政治面においてもだ。
領主騎士としては賛否両論な行動においてすら、後から見れば賞賛の対象にしかならなかった。
恐ろしかった。
もはや、不可能という文字など無いとしか思えない人物であった。
「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」
もう一度、名を呼ぶ。
その名前が、ただただ恐ろしかった。
ヴェスパーマン家に代わり、王配ロベルト様暗殺事件の調査指揮を、その恐ろしいポリドロ卿が行う。
それを知った時に、背筋に冷たいものが走った。
死ぬのは良い。
私が死ぬのは別に良かった。
どれだけ酷い拷問が行われ、苦しめられようとも、この世の全ての痛みを凝縮された艱難辛苦を味わおうと、それは当然の事と受け止められた。
そうされて、当然の事をしたからだ。
そんなことはどうでも良い。
だが、だが。
私が惨く殺されるだけでは、もう済まない。
そんな程度では、許されない事をしてしまったのだ。
「何故」
ロベルト様は亡くなられた。
繰り言のように、嘆きを行う。
本当に、本当に、殺すつもりなど、どこにも無かったのだ。
酷く、なじられた。
私の訴えはロベルト様の激怒を買い、顔を殴りつけられた。
だが、そんな事はどうでも良かったのだ。
私は何故、あの場に小指ほどの小さな薬瓶などを持ち込んだ。
私に、あんなものはもう必要なかったのだ。
早々に、処分してしまえばよかった。
何故、悪魔は私の心を刺した。
何故、私はバラを枯らしてしまおうなどと企んだ。
全てを、何もかもをロベルト様に与えられたはずだ。
私は、我々は、本当に不満など何も無かったのだ。
だが『満ち足りた』事が原因で、それ以上を望んでしまった。
だからこそロベルト様の激怒を買ったのだ。
殴られたあの時すら、その理由については十二分に理解できたではないか。
ロベルト様は、その激怒について全てを語ってくれる御方であった。
「嗚呼!!」
誰もおらぬ。
誰もおらぬからこそ、赤子のような呻き声を発する事が出来る。
死ねばよい。
死ねば、この苦しみから救われるのだ。
この5年間、ずっとずっと、その囁きに耐えてきた。
殺人など、罪とは思わぬ。
盗みなど、当然の事と思ってきた。
我々は満ち足りないのだ。
それを言い訳にして、生きて来たのだ。
ロベルト様に、あの御方に御会いするまでは。
「嗚呼……」
顔を覆い、指を眼球に伸ばし、そのまま指を突き入れたかった。
眼球を抉り、視界の全てを暗闇に閉じ込めてしまいたかった。
首にナイフを差し込み、自分の鼓動を止めてしまいたかった。
だが、出来なかった。
何度でも言う、もう惨い死に方など怖くもない。
死ぬべきなのだ、私は!
惨たらしく殺されてしまうべきなのだ!
ただ、私が、ロベルト様を殺してしまった事だけは、永遠に隠しておかねばならないのだ。
機会を窺って死のうと思っていた。
いずれ、自分は自分の罪に対する、償いを行おうと考えていた。
きっと、何をしたところで償いは出来ないであろうが。
私の生における全ての引継ぎを終えた後は、森に入って狼や熊に生きたまま喰い殺される。
自らの処断は考えていたのだ。
だが、私以外は、救われるべきだとも考えている。
罪を背負うのは私一人ばかりで、他に誰も罪はない。
だが、結論としては、私一人の死では済まされない。
きっと、多くが死ぬ。
リーゼンロッテ女王陛下は、ロベルト様の死を悼む全ての人間は、ありとあらゆる報復を、私に関わる全ての人間に行うであろう。
族滅では済まない。
もはや、我々の小さな一族が族滅されるだけでは済まないのだ。
「嗚呼! 嗚呼! あああ!」
赤子のような喚き声。
死んでしまいたい。
本当に、死んでしまいたいのだ。
それで世界が閉じてしまうならば、今すぐにでもそうしたかった。
だが、私が死んでも世界は続く。
残酷な世界は、私に関わる全てを襲うであろう。
死は許されない。
不審な死は許されなかった。
あのロベルト様の死の際に、その死に付き添う事を嘆願したミハエルのように。
いっそ、ロベルト様が亡くなった際に遺書でも残して自殺――何を言っているのだ。
私はこの国の文字など、書けはしないではないか。
いや、どこの国の文字も書けはしない。
そんな教養があれば、ロベルト様に救われるまで、あのような暮らしなどしていたものか。
「はは」
乾いた笑いが起こった。
どこまでも、神を呪った。
私が、我々が、何をしたというのであろうか。
幸せになりたかった。
ただそれだけであった。
何をした?
私は、ロベルト様を殺してしまった。
そこに殺意など無く、ただバラを一輪枯らしたいなどという、ゴミのような欲望に囚われてしまったせいで。
私は、我々は、ロベルト様に与えられた全てを失うどころか、それ以上の憎悪を与えられようとしている。
ロベルト様に救われた人々、ロベルト様を慕っていた全ての人々、その愛情が。
憎悪の刃に代わり、私と私に関わる全ての人。
私だけではない人々に向けられるのは目に見えていた。
リーゼンロッテ女王陛下。
あの御方は、何もかも全てを一切、無かったかのように消し去るであろう。
我々の全てを屠殺するであろう。
存在自体が不愉快だと。
ロベルト様の全ての好意を裏切った、愚かな存在だと。
私の命を、我々の命を捧げても、慈悲を願う事すら不快であると告げられるであろう。
改めて、実感する。
我々でなければ、そこまでの目には合わない。
我々は――我々は。
結局、産まれながらにして弱者であるのだ。
「はは」
それを、ロベルト様に救われたのに。
その存在を殺してしまった。
小さな悪意は、大いなる代償を求めた。
――眠れない。
ポリドロ卿が、暗殺事件調査の指揮に当たる事を聞いてから、ろくに眠れないのだ。
体温は、低温症と高温症の上下を繰り返し、時に嘔吐しそうになる。
幻覚と現実の境目が、定かではなくなる。
この病の、解決方法は?
無い。
病の根源を消してしまう方法。
ファウスト・フォン・ポリドロ卿を殺す方法など、亡き者にする方法など、どこにも無かった。
毒が効かない。
毒が効かないのだ。
酷く有名な話である。
超人という、神に愛されることで成長の枷が外された、あの英傑達には、酷く毒が効きづらかった。
神に与えられし才能と、幼少の時より行われる鍛錬が、この世のあらゆる毒物を効きづらくしていた。
第一、どうやって毒を盛ると言うのだ。
私には、その手段が無かった。
ならば、一族で押し包んで殺してしまおうか。
もっと無い。
腕には、誰しも覚えがあった。
従軍経験すらあるのだ。
そう嘯いたところで、誰しもが鼻で笑うであろう。
アンハルトとヴィレンドルフの両国で最も強い超人を殺すなど、数十人で取り囲んだぐらいでは不可能であった。
あの憤怒の騎士の激怒を買い、一方的に虐殺されるのが結末であろう。
そもそも、一族の誰も従わない。
ファウスト・フォン・ポリドロ卿を襲う理由など、私以外の誰にも無かった。
誰も知らないのだ。
私がロベルト様を殺してしまった事など。
対症療法などない。
「……祈り」
くだらない方法が脳裏に浮かんだ。
信じてもいない、上っ面で信じていると誤魔化しているだけの神に祈る?
ああ、神はいるのだろう。
ただ、我らの神はいなかった。
祝福など受けていない。
我々は洗礼の儀式を強要されただけで、本音では、我らの神など居はしないと考えていた。
もし、仮にだが。
仮に、神がいたとするならば。
我々に、祝福を与える存在がいたとするならば。
「ロベルト様」
ただ一人だけであり。
私は、その祝福を与えてくれた存在を殺してしまった。
絶望が、私をこの5年の間包んでいた。
もし、このドアを。
この部屋のドアを叩いて、あのポリドロ卿が訪ねてきた場合に。
私は、どうするのであろうか。
自分の死を乞い、恥知らずにも一族の助命を願うのだろうか。
もはやこれまでと、自分の首をナイフで刺し、自分一人だけの世界を閉じてしまうのか。
最後の悪あがきとして、この王都から一族を連れて逃げ出そうとするのか。
何もわからない。
何も、わからなかった。
――その時。
ノックの音が。
「ロウソクも点けずに、どうされましたか?」
ドアが、開いた。
現れたのは、ポリドロ卿ではなく。
一人の女に過ぎなかった。
「獣油で作ったロウソクは、煙たくてかなわん。別に明かりが必要なわけではない」
つとめて、冷静に答える。
ドアを開けて現れたのは、身長200cm体重130kgの巨躯ではなく、一人の女に過ぎない。
結局のところ、ポリドロ卿とは想像上の怪物に過ぎないのだ。
その功績はその歩む道を明るく照らせど、人の心の暗がりなど判るまい。
そうだ、判るはずがない。
私がロベルト様を殺した動機など、人知の及ぶところではなく。
何もかもが余計な心配にすぎないのだ。
「しかし、部屋から呻き声のような――」
「もう夜も遅い。眠れ」
眠ってしまえ。
自分に言い聞かせるように、呟く。
ポリドロ卿による調査も長くは続くまい。
それが済めば、ロベルト様の暗殺事件調査も終わりを告げるであろう。
後は、地獄まで秘密を抱えて生きていくだけである。
度々と刹那に押し寄せる、死への衝動を我慢していくだけ。
それだけ、それだけだ。
此処さえ乗り切れば、後は私個人が生涯をかけて苦しむ、たったそれだけで済むのだ。
「判りました。おやすみなさい」
「ああ、お休み」
ドアが閉じる。
終わりだ。
この話は、これでお終いだ。
後は、ベッドでただ眠るだけである。
人の心の暗がり。
それを抱くように、眠ってしまおう。
誰にも、誰にも悟られないように。
この暗がりが、明るい道だけをひたすらに歩いてきたポリドロ卿という、我らの抱える痛苦を少しも味わった事の無いような人間だけには決して判らないように。
私は眠る。
いずれ、二度と自分の目が覚めないその日が訪れることを、ただ心待ちにしながら。
ただ眠るのだ。