第87話 猫とファウスト
ポリドロ領といわれる土地がある。
神聖グステン帝国の加盟国にして選帝候たるアンハルト王国の、右方。
丁度、同じ選帝候たるヴィレンドルフ王国との国境線、そこから少し離れたところに位置している。
領地規模としては、その300人足らずの住民数と比べると広い。
大きな山があり、その土と森林が蓄えた雨水から、領地に流れる川へと良質な水資源が供給されている。
上流から流れ来る汚物や、廃棄物を忌避する必要が無いのだ。
要するに食料を生産する土地として、人の住む土地としては、上等も上等といえた。
住民数が少ない理由としては、この土地が国境線近くという嫌な場所にあるから。
――だけでは、ない。
基本的には特産品と呼べるものが全くない事も原因であるとは聞いた。
もう、悲しいぐらいに食料生産地としての価値しかないのだと。
それが、この領地の持ち主である辺境領主騎士ポリドロ卿の言葉であった。
だが、あまりあの人の言葉は信用できない。
信頼できない語り手であるのだ。
本人は本気で言っているのであろうが、どうもしっくりこない。
私ことマルティナ・フォン・ボーセルが少ない時間で、この9歳児としての小さな脳味噌に詰め込んだ知識をくるりと回転させると、気になる点があるのだ。
「ここは良い土地だと思うのですが」
確かに、アンハルトとヴィレンドルフ間における戦争被害。
治安の悪化、略奪集団の発生、食料や兵士の徴発などの影響を被るのは痛い。
不安要素は山盛りにある土地である。
だが、もう少し住民数は多くても良いのではと思う。
さすがにこの土地の規模で、領民300は少なすぎる。
この土地は王領ではなく、ポリドロ卿が所有する領地であるのだから尚更だ。
軍役はあれど、王家に税を納める必要はない。
この数世紀で農業生産性はめっきり向上したとはいえ、食料だってタダではないのだから。
ポリドロ領はその食料の輸出を行って、外貨を得ている。
土地の価値は明らかに高いはずである。
「そうでしょう。凄く良い土地でしょう」
横にいる従士長たるヘルガ殿が、私の口から零れた言葉に耳聡く反応する。
その声は喜びに満ちていた。
このポリドロ領に住んでる人間としての誇りが感じられた。
私の思考は、じゃあなんでこんなに人が少ないんだ、とマイナス方向に舵を切るのだが。
なにか原因があるはずである。
農作に適するポリドロ領の土地を考えると、2000人は自給自足でいけるはず。
資材を投資すれば、村から街への発展が望める。
将来、ポリドロ卿を愛人にする事を望んでおられるアスターテ公爵はそう漏らしていた。
あの変態であり尻好きではあるが、頭と顔だけは良い公爵の言う事なのだ。
その見込みは間違っていないはずである。
まあ、その変態である。
つまり、その変態性が問題なのだ。
「マルティナ、お前はファウストの騎士見習いとして、ポリドロ領に行くことになるだろう。ちょっとポリドロ領について報告して欲しい」
変態公爵アスターテからの要求である。
アスターテ公爵の良くないところだ。
有能な人間に対して深い興味を抱き、その才能に対しては手放しで称賛するところ。
本当に有能なれば、地位や財を与え、平民の兵に対し騎士位さえ与えることがある。
才能狂いと世間では認識されるそれ。
これは、公爵家から王配として宮廷にあがったロベルト様にも共通する事柄である。
アスターテ公爵家の家柄なのだろうか?
良くないところ、とまず言ってしまったが、考えれば良いところもある。
硬直した組織で、そこで停滞した血を流動させることは決して悪くない事だ。
だが、ファウスト・フォン・ポリドロ卿への興味に対しては明らかに悪いところが出ていた。
「馬鹿なんだろうな」
今度はヘルガ殿に聞こえぬよう、本当に小さく口元を動かす。
どうも、色が絡むと。
ファウスト様という人間が絡むと、アスターテ公爵は急激にアホの面を見せる。
それは、あの温厚なファウスト様が本気でアスターテ公爵への嫌悪感を示した、私の助命嘆願における失敗であるし。
後にヘルガ殿より知ったが、ファウスト様の尻を公然の場で揉みしだき、その名誉を穢した事で悪鬼と化したポリドロ領民20名に囲まれて殺されかけた事件であるし。
王都における、ファウスト様が第二王女相談役として与えられた下屋敷。
そこを、第一王女相談役として、第二王女相談役を見張るという名目で、ファウスト様の一挙一動を監視している。
――実際には、ファウスト様の嗜好や挙動を知りたいと言う願望だけ。
惚れた男の何もかもを知りたくてたまらないのだ。
ああ、駄目だ。
もう完全にド変態である。
気持ち悪い何かとか不定形のものではなく、それそのものである。
男であるファウスト様が、如何に公爵にして戦友とはいえ、あのような人間が近づくのを許しているのかが理解できない。
本来、男と言う生き物は、あのような女に対し忌避感を抱くものではなかろうか?
だが。
「――」
そのアスターテ公爵に逆らえず、ポリドロ領へのスパイ行為。
ファウスト様の行動、及び領地の治政について。
それらを、伯母への手紙と言う形を装って、アスターテ公爵に届けることを要求されている私も同等のクズではなかろうか。
少しばかり、頭が痛くなる。
最初は断ろうとしたのだ。
だが、伯母であるヘルマ・フォン・ボーセルが、あのポリドロ卿のように頭を床に擦り付けて頼むのだ。
「どうか何事もアスターテ公爵の言う通りに。何の後ろ盾もない当家には、もはや公爵家におすがりするしかないのです」
と。
これが、心底憎んでいる相手であれば、無視の一手でよかった。
だが、私は伯母の事を憎んでなどいない。
あれは後継者を指名しなかった祖母と、ちゃんと準備を整えて反乱しなかった母が悪いのだ。
病弱の伯母に従わず、私が憎んでいるものと誤解されるのも気まずい思いがした。
とはいえ――。
当家の存続は、そして私の助命嘆願は、目の前にいるファウスト・フォン・ポリドロ卿がその名誉を投げ捨てて行った事である。
そのポリドロ卿の秘事を漏らすなど、最低の行為である。
だが、病弱にして、心ももう壊れる寸前になっている伯母に何の言葉が通じよう。
だから、私はとりあえずその場では頷いた。
つまり、何もかもを誤魔化す事にしたのだ。
私はアスターテ公爵の要求通り、ポリドロ卿の事について少しばかり教えよう。
だが、本当にポリドロ卿が隠している秘事については一切を漏らさぬと。
それが私の妥協点である。
というか、頭の良い変態であるアスターテ公爵なら、それぐらいは承知の上だろう。
何かにつけ、ポリドロ卿の思考が知りたいと言うのが本音ではないか。
都合が良ければ領地についても知りたい、その程度の要求に過ぎないだろう。
あまり深く考える必要は無いのだ。
「母上、只今領地に帰って参りました」
長々と考え込んでしまったが、ファウスト様の言葉に意識を取り戻す。
今、私はポリドロ卿の屋敷、この領民300の住人を支配する領主の屋敷に住んでいる。
ポリドロ卿が「正直、王都に与えられた下屋敷の方が明らかに立派」と発言している屋敷の、来客用に設けられた数室の一つが与えられていた。
まあ、ポリドロ卿は自分やその持ち物を卑下することが多い、プライドの高い騎士らしからぬ事をよくするのだ。
母や領地が馬鹿にされると激怒するが、自分については基本どうでもよいというのがスタンスである。
確かに古い屋敷である。
ヘルガ殿によれば、あまりにも領主一族が頓着しないものだから、領地の顔役である屋敷がこんなにボロボロだと私達の面子が宜しくないと、領民が補修嘆願に訪れると聞いている。
これ何代住んでいるのだろうか?
「長い間、我らの愛すべきポリドロ領から身を離し、誠に申し訳ありません。軍役は仕方ないにせよ、この一か月ばかりの不在は私事によるものでした。ですが、騎士としての名誉が関わっていたのです。言い訳にしかならぬでしょうが、私にとっては選択の余地がありませんでした」
ファウスト様の通りの良い声が、朗々と屋敷に響き渡る。
屋敷のエントランスであった。
ファウスト様の傍には、従士長であるヘルガ殿と、騎士見習いである私マルティナが立っている。
他に人はいない。
「その全てを明らかにする事は、母上であれど出来かねます。申し訳なく思っています。ですが、領地の恥になるようなことは、神に誓ってしておりませぬ。真美善のあるがまま、騎士として高き誇りの上に行動できたと断言できます」
他に人はいないのだが、ファウスト様は喋り続ける。
それは、亡き母親にして先代であるマリアンヌ殿への言葉であった。
「だから、鎧で爪を研ぐのは止めてください。多分爪を研ぐのには適してないと思います」
「にゃーん」
同時に、愛猫のマリアンヌへの言葉であった。
何でさっきから猫相手に喋ってんだこの人。
私は横のヘルガ殿に視線をやる。
「あの……先代のマリアンヌ様が、生前仰った言葉がありまして」
ヘルガ殿が顔を背けながら呟く。
ファウスト様が、言葉を継いだ。
「いや、母上がな。生前、病床のベットでマリアンヌを抱きあげながら言ったのだ。私が死んだ後は、この猫を通して貴方を見守っていますよ、と」
いや、そのような訳の分からない事を言われても、困る。
鎧に爪を立てている猫マリアンヌを抱き上げ、こちらに歩み寄って来るファウスト様。
その手の中で、爪とぎを止められ、やや不服そうに鳴く猫。
「にゃーん」
にゃーんではない。
「先代のマリアンヌ様は冗談がお好きだったのですか?」
「いや。逆だな。冗談など全く口にせぬ性格であった。今思えば、そのような諧謔は好まぬと言うか、私のせいで、そういった余裕は無かったのではないかと思う」
ファウスト様が、また自分を卑下した発言をする。
どうも、先代のマリアンヌ様の事について語るときは、少しばかり目を伏せて何かを悔いる様な顔を見せる。
――少し、嫌な事を思い出した。
アスターテ公爵が、また相当な好きモノのようで、そういったファウスト様の負の部分が好きなようなのだ。
普段朴訥なファウストが負い目を見せて悲しい顔になる瞬間、そこがたまらないと以前口走っていた。
本当にアイツ変態だな。
死んでしまえばいいのに。
「だがまあ、何にせよ、そう仰られたのだ。アレは本気だったのかもしれぬ。冗談なのかもしれぬ。どちらかわからぬ。なので、まあ母の墓前に顔を出して暗い顔を見せるのも何なので、母が生前唯一行った諧謔に答えようと。墓前ではなく愛猫のマリアンヌに、領地から離れている間に何があったかは報告している」
「にゃーん」
にゃーんではない。
猫は嫌いではないが、いや、騎士見習いとしてはそう言う事を言われると困るのだ。
そんな事言われると、この猫マリアンヌを安易に膝に置く事も出来ないではないか。
「正直領民側としても、この猫が悪戯でもした時に叱るわけにもいきませぬし、少々困るのですが……」
「いや、そこら辺の区別は私もつけているのだが。そもそも、マリアンヌって悪さするのか? 領内の田畑を襲うネズミを捕えたりもするのに?」
ファウスト様の弁護。
実際、ファウスト様が猫の頭を撫でながら、少々の肉などをあげるコスト。
それに対して、農民の敵であり害獣たるネズミを殺すマリアンヌの価値は大きいように思えた。
「基本的には領地から出ないのですが、たまに遠くへ散歩に出かける時に、ファウスト様の愛猫にして先代マリアンヌ様の忘れ形見である存在。そのマリアンヌを放置してよいのか?獣に食われないか?と苦悩する若者が見受けられるのですが」
「初めて聞いたのだが。そんな光景見た事ないぞ」
「ファウスト様が領地におられる際は、愛馬フリューゲルと一緒に馬房で寝ておられる事が多いので、今まで知らなかっただけかと。私達も進言するかどうか、迷いまして」
ふむ。
とりあえず、まあこれで、あの変態アスターテ公爵に報告する今月の手紙の内容は決まった。
内容なんぞ、この程度で良いだろう。
まあ、すでに知っている情報かも知れないが。
「領内の事はすぐ報告しろよ。そのような気配りを見せる必要はない。放置して良い。私は猫が大好きであり、マリアンヌの事はそれはもう大事にしているが。領民が仕事を放りだし、獣に危害を加えられる必要を感じてまで、その行動を見守る必要などは無い」
「承知しました。すぐに村長及び従士長よりの連絡として、村内の全員に告げます」
「そうしてくれ」
ファウスト・フォン・ポリドロ卿は猫大好き。
アスターテ公爵に報告する内容など、この程度で良かろうなのだ。