寝台に転がる。
ファウスト様から昼寝をするよう勧められたものの、眠れない。
その理由は疲労からではなく、まして悩み事でもない。
喧しいからである。
「真剣に頭がおかしいのでしょうか?」
大木をメイスにて殴りつける音。
猿には似ていたが、確かに人の声である。
キエーだの、ウララーだの、メキキーだの、ようわからん叫び声も混ざっている。
なるほど、ゆっくり眠りたいので止めてくれと私はケルン派の神母に発言した。
それを、昼過ぎならやっても良いと解釈したのだな。
ビックリするほど自分の都合の良いように解釈したのだな、あの聖職者は。
もう殴っても良いのではなかろうか?
「私のとりあえずの目標は、あの狂った助祭を叩きのめす事ではないでしょうか? そのための力を手に入れることではないでしょうか?」
寝台に横たわり、天井を見上げながら自分に問いかける。
所詮、この世は弱肉強食。
弱ければ死に、強き者が生きる。
そのような摂理になっているのだ。
特に、この領地の宗派、ケルン派においてはそのような考え方をしている。
勝てばよい、何を使おうが。
教皇が禁じたクロスボウであろうが、それが使えるならばガンガン使え。
そのような考え方で生きているのだ。
「本来の聖職者は、あのようなものではない、とは言い切れませんか」
古くは知識の保存、俗世間を離れ、自らの心の内を見つめるのが修道院であった。
その旧来の修道院自体は、別に姿を消したわけではない。
だが、時代の移り変わりによって、その伝統からは大きく離れていった。
司教領や修道院領を有し、騎士修道会としての騎士団を擁し、世俗の領主権と武力を行使している。
聖職者達は、誰の目に見ても強力な権力を持っていた。
ケルン派においては、ここ最近特に顕著な動きを示している。
起源自体は古い、なれど小派閥。
本来は注目に値しない存在である。
それでも有名なのは、彼女達ケルン派が純粋な気狂いばかりを集めたような闘争集団であったことだ。
火薬を手にする前から、頭はおかしかった。
領主がいざ戦争に出向くとあれば、酷く参加したがるのである。
従軍神母の主な役割といえば、治療であり、葬送であり、宣撫である。
それならまあ良い、むしろ封建領主側が頼む事すらあった。
だが、朝におけるファウスト様と神母の会話であったように、ケルン派は戦闘員としての参加を強く求めるのだ。
異教徒への攻撃・防衛といった目的ではない。
彼女達はケルン派同士でさえ、戦場では遺恨無しを前提に闘う事を是としていた。
名誉や富、神への献身といった目的があれば良かったが、それでもない。
彼女達は自分たちが根付いた領地と、その信仰を認めた領主、そして信徒たる領民と共に闘う事で敵に対し効率的な打撃を与え、敵を一兵でも多く殺すことを信条としていた。
その際の殺人は何の問題にもならない。
自分の愛する信徒を守るための、敵の排除でしかなかった。
「慈善を通ずる人間の姉妹愛としての友愛は、どこに消えてしまったのか?」
少なくともケルン派においては悲しい程に見られなかった。
まあ、とにかく頭がおかしい事で有名であった小派閥。
少し前までは、その程度で済んでいた。
火薬を手にしてからは、ますます頭がおかしくなったのだ。
マスケット銃だ。
未だ兵器として不完全ではある。
あまりにも射程が短く、命中率が低いのだ。
プレートメイルの胸甲を撃ち抜けるマスケット銃は確かに魅力的だ。
だが、それは条件が整った時の威力であり、兜や胸甲はすでに銃弾への対策も整えつつある。
銃弾に対して、兜や胸甲は未だ有効な働きを示すであろう。
『今はまだ』だが。
時代は変わりつつある。
マスケット銃については、ファウスト様が以前に第二王女親衛隊長であるザビーネへと漏らした発言から、少々思うところがある。
今後の戦場を激変させるためのキーワードになるであろう。
だが、今それについて考えるのは止めておこう。
今考える必要があるのは、ケルン派についてだ。
ともかく、火薬である。
ケルン派は火薬に触れてから、ますますおかしくなったと聞く。
母カロリーヌからの知識、ファウスト様からの知識、それを脳内で混ぜこぜにする。
「信徒数の増加」
手をぱっと広げ、一つ指を折る。
マスケットを安く手に入れるためには、ケルン派の洗礼を受けなければならない。
自然、銃を好む傭兵はみなケルン派になった。
その家族もである。
場合によっては、銃を好む封建領主がケルン派に宗旨替えすることすらあったと聞く。
たったそれだけで、数万人単位で信徒が増加した。
「司教領の発展」
二本目の指を折る。
武器と銃火器の工房がずらりと並んだ河川沿いの工房都市。
その都市の発展は近年稀に見ぬほどだと言われている。
ケルン派は信徒の浄財全てを火器開発に注いでいるのだ。
神聖グステン帝国中の浄財全てが注ぎ込まれ、その武器がまたケルン派傭兵や優れた武器を欲しがる騎士たちの手に渡っていた。
敵を殺すことが信徒を守る唯一の手段だと血迷っているのだ。
厳かな儀式や、石造りの建築物、日々の生活の安寧。
そういった、他の教派がやる事は悲しいくらいに無意味と考えている。
アンハルト王都のケルン派教会が大教会とは名ばかりの小さな教会であるのは、小派閥という理由だけではない。
贅沢は闘争における不純物だとすら考えている節があった。
清貧の意味を悲しいぐらいに履き違えていた。
「ケルン派の頂点である司教の、枢機卿への選出」
三本目の指を折る。
ケルン派の司教が、たった7人しかいない枢機卿の1人に選ばれている。
前述の二点が関係あるのであろうが?
それとも、現在のケルン派司教にそれだけの能力があるのか?
私ごときには判らない。
ひょっとすれば、両方なのかもしれない。
何はともあれ、ケルン派司教は教皇にとって重要な相談事を行うべき相手と見做された。
「火器か」
残りの二本の指を折る。
幼稚な9歳児の脳味噌では、三つしか要点を並べることが出来なかった。
結論から言うと、火薬だ。
その爆発を以てして、ケルン派は信徒数を拡大し、膂力を高め、権威を強くした。
「キエエエエエエエエエエエエ」
「うるさい」
猿のような叫び声と、大木をメイスで殴りつける打撃音が聞こえている。
彼女達の大好きなマスケット銃で、頭を撃ち抜いてやりたかった。
ファウスト様は何故怒らないのだろうか。
聖職者を大切に扱っているのかもしれないが、さすがに怒る権利ぐらいはあるだろう。
なんなら殴る権利もあるだろう。
動かなくなるまで殴っても良いと思う。
元々、この居室はファウスト様がポリドロ領を継ぐまで――先代であるマリアンヌ様が亡くなるまでは、住んでいたと聞く。
幼い頃のファウスト様は、激怒しなかったのであろうか?
したとは思うが、多分慣れるか諦めるかしたんだろうなと思う。
憤怒の騎士などと呼ばれるが、普段のファウスト様は朴訥で、優しい方である。
時々どうしても自分にとっては許せない事、その不可思議な倫理観と知性で、世の中が自分の意思にそぐわぬ時は激発するのだ。
後先考えなくなる――やはり、あの性格は是正しないと拙いと考える。
なれど、22歳のファウスト様が今更それを矯正するなど、やはり不可能である。
誰か、助けを。
やはりファウスト様の補佐役となる人物が必要なのだ。
見当がつかない。
私が。
私が、もう少し歳を重ねていれば、とは思う。
なんらかのお役に立てたかもしれない。
だが、9歳児の私では戦場で隣に立つことも、知力で役に立つこともできないだろう。
ファウスト様の意思を曲げることはできないのだ。
「――」
少しだけ、眠くなる。
「キエエエエエエエエエエエエ」
気狂いの行動は続いている。
マスケット銃が欲しい。
それで、あの助祭の頭を撃ち抜くのだ。
一撃だ。
苦しまずに神の御許に逝けるよう一撃で仕留めてやる。
そのような殺意を抱いていると――
「にゃーん」
猫の声。
猫のマリアンヌが、かりかりとドアの向こうを引っ搔いている。
入りたい様だ。
眠気が強くなってきたが、立ち上がってドアを開ける。
「にゃーん」
「ファウスト様ならいませんよ」
この部屋は、かつてファウスト様の部屋だった。
マリアンヌは人違いしているのではないかと思うが。
私の足に額と尻尾を擦り付けながら、足の間を抜けていく。
そうして寝台にぴょんと跳躍し、端っこに寄って丸くなる。
「そこが貴女のお気に入りの場所ですか? 奪ってしまって申し訳ありませんね」
「にゃーん」
一声だけ返事する様に鳴き、目を閉じた。
猫は寝ているだけで時間が過ぎていくから、気楽で良いものだ。
私はどうも一つ気になる事があると、その思考が止まらない。
判らない事があると次々に質問し、昔から母カロリーヌを返答に詰まらせ――嗚呼。
よくないな。
寝台に腰掛けながら、マリアンヌを一撫でする。
猫は良いな。
撫でている時間だけは、世俗の嫌な事、不愉快な事、思い出したくない事。
それを忘れさせてくれる。
「……猫になりたいな」
勿論、そんな事が不可能な事は理解している。
姿勢を変え、横たわる。
羽毛の詰まった肌掛けを身に寄せ、それで身体を包んだ。
眠気は先ほどより強くなっていた。
夕食までは眠る事にしよう。
私は9歳児である。
身体、及び知能の発達のため、よく眠る必要があった。
思考がふわふわと浮かび、虚ろになる。
もう少しで眠れそうだ。
「キエエエエエエエエエエエエ」
あの声さえ邪魔しなければ、だが。
思考が散乱していく。
ふわふわとしたそれを、心に並べる。
ポリドロ領でやらねばならないこと。
『アスターテ公爵のスパイ』。
『ファウスト様による騎士見習いとしての教育』
気になっている事。
『ポリドロ領の謎。ポリドロ家と領民の関係性』。
『ケルン派の火器開発状況』
やりたいこと。
『ケルン派の助祭をぶちのめす事』。
『ファウスト様の補佐役を見つける事』。
その程度?
いや、もう一つだけ叶わぬ望みがある。
母、カロリーヌのこと。
いや――。
断ったではないか。
ヴィレンドルフの国境線に出向いた際のあの言葉、『我が領内でよければ墓だって』という、あのファウスト様の酷く優しい言葉。
それを私は、すでに手酷く断ったではないか。
反逆者の墓など作っては、ファウスト様が批難をされると。
そういう理由で断ってしまった。
未練は断ち切るべきであった。
あのような愚かな人間の事は忘れるべきだった。
幼い頃から、私が口にする質問に対して返答に詰まり眉を顰めては、修道院の図書室や聖職者に物を尋ねて、数日後には必ず回答を持ってきてくれた事を思い出す。
従士や民に信頼され、領地のために全ての軍役に出陣しては、ボーセル家の名誉を保ってきた母上。
我が母カロリーヌ・フォン・ボーセル。
かつては自分の誇りにしていた人間の事。
――世間では全て何もかもの判断を誤った、アンハルト領邦民の血でその手を染めた、視野の狭い愚劣な反逆者。
批難され、それ以上の嘲笑を浴びるべき人間でしかなかった。
「……」
我が母カロリーヌは、大罪人である。
ファウスト様によって討ち取られた首はリーゼンロッテ女王陛下に検分された後、どうなってしまったのかも判らない。
共同墓地に葬られた事などは有り得ぬだろう。
豚の餌にでもされたのだろうか。
森にでも打ち捨てられ、野犬や虫に食われたのか。
ファウスト様に、その末路を聞くわけにはいかなかった。
これ以上の苦労や心労を背負わせるわけにはいかないのだ。
我が母は、邪悪で愚劣な人間だった。
守るべきアンハルト王国の王領を襲い、多くの人を殺し、男を連れ去ってヴィレンドルフに国を売ろうとした。
自領の領民を誑かし、死地に迷わせ、結果的にボーセル領を破滅させるまでに至った。
人間としては契約も戒律も破る外道そのものであり、貴族としても愚かとしか言いようがなかった。
――忘れてしまえ。
そう思う。
あれはくだらない人間だったのだ。
ファウスト様が母の名前を口に出す度に、そう言い切らなければならない。
忘れよう。
我が母は、愚かな人だったのだ。
「にゃーん」
丸くなっていたはずのマリアンヌが鳴きながら、立ち上がる。
そうして私の顔横に歩み寄り、頬を舐めた。
マリアンヌの舌に、私の頬を伝っていたものが舐めとられる。
ざらざらとした感触が、心地よかった。
「嗚呼」
口から嗚咽が漏れる。
所詮、この世は弱肉強食。
弱ければ死に、強き者が生きる。
そして、母には覚悟も品性も視野も知能も腕力も、何もかもが足りなかったのだ。
馬鹿が必死に足掻いた結果が、当然の結果を迎えたに過ぎなかった。
誰もがそう思うし、事実を見れば確かにそうであった。
なれど。
なれど。
私にとっては――。
「……」
思考は、開いていた花が窄む様にして、だんだん小さくなっていく。
そうして、眠りへと落ちて行った。