「────……ん」
誰かの、声が聞こえる。
その声はいつも聞き馴染んだもので、僕の安寧を崩す災厄であると同時に、一日の始まりを告げる───言わば時報なる役割と言うべきか。
「……兄さん!!」
分かっている。
けど、魔力がないことが原因で起こるこの倦怠感は、やる気の有無で変わるものではなく、鉛のように重くなった身体と視界を塞ぐ瞼は、如何なる外部からの圧力もその影響を受けまいという確固たる意思すら垣間見えるほどだ。
「……ソラ兄さん。そろそろ起きないと───」
だがやはり人の身には、屈さざるを得ない何かは存在して。
「───お仕置き、しますよ」
そして、
「おはよう、ルナ。いつもごめん」
「そう思うなら、せめて私が来る前に身支度を済ませて頂かないと」
「あぁ……気をつけるよ」
僕の妹のルナの目には、こんな不甲斐ない兄がどう映っているのだろうか。
床に寝そべったままの僕をジト目で見下ろす我が妹は、僕と同じ鮮やかな空色の髪を肩へ送り、不機嫌そうに目を細めた。
最近は《神級精霊》の【契約】による魔力の消費がバカにならないからか、目覚めがすこぶる悪い。
人の一日の魔力回復には、自然回復の他に食事や睡眠も効果があると聞くが、今では『回復』という概念が、やや薄れて感じられる。
ルナが白く細い腕で僕の寝ていた布団をもぎ取りつつ、
「最近兄さんはお疲れのようですね────」
と。
だがその言葉は突如として掻き消えた。
あるはずも無いものを見た時、人間の思考は文字通り静止する。
『絶句』という言葉の体現か、妹ルナは剥ぎ取った布団を持ったまま、さながら棒のように立ち尽くしている。
そこでようやく。
僕の身体の横に、生暖かい感触を知覚する。
その主は今も尚幸せそうに眠りについており、僕の腕にがっちりとしがみつきながら長いまつ毛で目を塞いでいる。
「あ、あの……兄さん?」
当然、そういう反応になるだろう。
妹の声は間違いなく怒気を孕んでいる。
困惑や疑問を通り越して現れた怒りはもちろん、妹の知らぬ間に、妹の見知らぬ少女との同衾というかつてない緊急事態による事象。
そして、その少女なる存在は……、
「……おはようございます、主」
「主!?!?」
妹はさらに素っ頓狂な声を上げる。
開幕の挨拶をかましたのは、僕の契約精霊にして水の《神級精霊》、
────メリナだ。
「あ、あ、あ……あわあわあわ。に、兄さんが女の人と同衾!? それも超絶美人の……。 ど、どうしよう! お、お母さぁぁん!?」
「ルナ……っ、早まっちゃいけない。この家にはお母さんは居ないし、そもそも僕は決してメリナを寝床に誘ったわけでは───」
事態の収束を狙う僕に、間髪入れず打ち出された凶器の刃。
「えぇ? ソラくん。昨日私に
「ちょ……面倒くさくなるので、メリナは黙っていて───、あとそれから早く僕から離れて!!?」
「に、兄さんが……否定しない!?」
「うわぁぁ……っ!! もう最悪だァァァ!!!」
波乱の一日が幕を開ける。
───
「……それで、兄さんは最近《シスラの森》に通っていたと?」
「……はい」
事の次第を話すとようやくルナは平静を取り戻す。
机に肘をつき、ルナの小さな頭をのせ、ジト目で僕を睨みつける。
「でも、あんまり無理はしないでくださいね。最近疲れが溜まっているんでしょう。ちゃんと睡眠は取っていますか?」
「……うん、なるべく意識はしてる」
「そうですか」
最近は睡眠をいつもより長く取るようにしてはいるものの、こうしてルナが僕を気にかけてくれていることは何より嬉しいものだ。
……それにしても、どうしてメリナは僕の布団へ?
その答えを唯一知る当人は、素知らぬ顔で目線を合わそうとしない。
「で? いつ、どうやってメリナさんと知り合ったんですか?」
───いつ、か。
初めて会ったのは結構前の事だけど、こうして親密になれたのは、最近のことなんじゃないかと思う。
それこそ、最初はまさかメリナと【契約】を結ぶだなんて考えもつかなかったはずだ。
「出会ったのはそれこそ偶然だよ。《シスラの森》を散策してた頃、異様な気配を感じてさ。導かれるように歩いた先、眩い光が僕を襲ったんだ」
気がついたらもう既に、メリナは僕の眼前にいた。
珍しいものを見つけたかのように目を瞑っていた僕に、上擦った声を抑えながら声をかけたのだ。
『……水に興味はありますか?』
最初は全く意味がわからなかった。
水に興味と言われても、事実水は身近な存在だし、ただ水の全てを理解しようと思うほどの根気は持ち合わせていないだろう。
恐る恐る僕は答えた。
『……分かりません、でも僕は水が好きです』
その心は、特定の形状を取らぬ姿に憧憬を抱いたから。
水に対しての言葉に出来ぬ親近感は、時に硬く時に見えぬ物体に対する憧れによるものか。
いつしか言ってみたいものだ。
────『僕』は、"水"だと。
…………
……
「兄さん?」
「あぁ、ええと……なんの話だったっけ?」
「もういいです!」
ルナを怒らせてしまった……。
「それで……?」
ルナの目は、僕の横に座るメリナの方へ向く。
……座るというか、若干浮いているけども。
メリナは物珍しそうに僕とルナの家を見回している。
「おぉー」とか「わぁー」とか何やら声を漏らしながら。
「メリナ」
「……、はい? なんでしょう」
「すっ」という擬音が聞こえてきそうな勢いでメリナがこちらに向き直る。
表情は淡白で、さも大人しく話を聞いていたように振舞っている。
「これからメリナはどうするつもりなの? ……というか、どうして僕のところに────」
「何のことでしょう」
いや苦しい苦しい。
真顔での応答「え……なんの事? 頭おかしくなった?」みたいなことを考えていそうな様子だが、ここまで伝わらないといっそ本当に僕の頭の記憶のどこかが捻れてしまったんじゃないかとすら錯覚する。
「……あの、メリナ、さん……ですよね。お二人は異性の間柄にある訳で、その……妹としても兄と一緒に寝るという状況は如何せん、止めるべき立場にあると言いますか……」
「でも、寂しいですよね。離れ離れというのは」
「えっ……あぁ、え?」
───ルナが押し負けている……っ!
しょんぼりと、メリナが俯いた。
「すいません、我儘を言ってしまって。分かりました、今日はほんの出来心だったのです。ソラくんが寝ている時、どんな様子なのか知りたいなと思ってしまって。ですのでこれからはいつものように一人で───」
「あー、え? そーですよね。寂しいですよね、はい分かりました。兄のことはもういいので、どうぞ持ってって下さい!」
────ルナが折れた……っ!
メリナは影で笑った。
「(ふっ……)」
───ルナが言いくるめられた……っ!!
こうしてこの日から、僕とルナのメリナの3人はひとつ屋根の下で暮らす住人となったのである。
□■□
そして、その日の内に。
「ソラくん、本日のご予定は?」
「え、ついてくるんですか。仮にも村の中は……」
「当然、契約精霊である以上、何処まででもついて行きますよ。もちろん、当分は体内に『憑依』という形をとるつもりですが」
朝に差し込む陽光が燦爛と二人を照りつけ、絡み合う歪な影を作り出した。後ろから寄りかかる様に抱きつくメリナはいつになく楽しげな笑みを浮かべている。
《シスラの森》の守護神的立場にあるメリナを村人に見せれば、大きな混乱を招きかねない以上、表沙汰にする事はできない。だが、一緒にいたいという欲は曲がりなりにも僕の心の内に侍るモノ。
「分かりました……では、くれぐれも───」
「えぇ、分かっていますよ」
妥協した僕がやむを得ず、手を大の字に広げると体の内にメリナの肉体が吸い込まれていく。魔力の巡りが潤滑化し、《神級精霊》の力の一部が身に宿る。
今日は約束の日───、戦場に赴く兵士の如く邁進する少年の後ろ姿は既に、歴戦の猛者であった。