ロックスの再来0   作:イオン

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処女作です。がんばります。



プロローグ

 こんなことはいつぶりだろうか。

 

 いや、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

 

 その可能性が拭えないほどに、自分は今まで充実した生活を送ってきたのだろう。

 

 ──寒い。たまらなく、寒い。

 

 肌を守る服は。熱を留める布団は。風を防ぐ壁は。雨を凌ぐ屋根は。

 

 当たり前にあったものが無くなる。一つでも無くなればそれだけで寒いのに。

 

 全て無くなれば、こんなにも寒い。こんなにも、冷たい。

 

 そんな中で脳を休ませることなどできず、ぼやけていた意識は覚醒する。

 

「う……」

 

 目が覚めれば、己の五感が正確に機能し始める。

 

 まだ光を受け入れきれない目には薄っすらと茶色と緑色が見える。

 それとほぼ同時に、耳は風の音を聞く。

 そして鼻、舌、身体は皆湿った土の存在を感じ取った。

 

 少し口に入った土を吐き出し、手に力を込めて起き上がる。

 

「……?」

 

 

 ぼやけた視界の中で、辺りを見回す。目に見える景色は、自分の記憶にはない景色だった。

 

 

「……どこだ……? ここ……」

 

 そこは、暗い空間だった。上空から照らす微かな月の光に助けられ、少しづつ目を馴染ませれば、ここは森の中の様だと気付く。

 次第に困惑の感情が湧き上がり、せわしなく周りを確認する。

 しばらくして、ここには、以前眠りに落ちる前にあったものが、何もかも存在しないことに気づいた。

 

 

 自分は、大自然の真っ只中に、何も持たぬままで放り出されていた。

 

 

 それだけでも異常。それだけでも非現実的。

 だが事態は更に複雑怪奇であった。

 

「……は? ……はあ……!? ……なん、だよこれ……!」

 

 

 周りの景色から自分に意識を向けてみれば、男であった筈の自分の肉体が、10歳かそこらの女性のものになっていることに気付く。

 

 

 なにひとつ理解ができなかった。

 見慣れぬ場所に裸体で意識を失っていたことに戸惑っては、慣れない女性の身体で野外にいることへの羞恥心から焦り、そしてそれを見て驚く者も、嗤う者もいないことに安堵と違和感を感じた。

 

 

 その後、少女は自身を落ち着かせるべく、この状況について考えた。

 なぜこんな状況になったか。その理由を必死に導き出そうとした。

 

 

 だが、結局明確にこれだといえる答えは出なかった。いくつもの現実に有り得そうな仮説を立てたが、最終的には記憶が混濁している。あるいは何か超常的現象が働いて、前世の記憶とか、他者の記憶が乗り移ってしまっているのではないか。といった非現実的に思える予想を考えるので精一杯だった。

 

「い、いやいやいや、まさか……まさかな。有り得ない、有り得ないだろ」

 

 だが、少女はその妄想をすぐに放棄した。

 そんな荒唐無稽な妄想を認めたくなどなかった。

 

 それは、今も思考を続けているこの脳に宿る自我が、本来のものではないと言っているようなものだからだ。

 

 だが、現実に自分のものではない見知らぬ女の身体がそこにあるのだ。この動かぬ現実と比較すれば、自身の予想が当たっている可能性のほうが高かった。

 

 そんな考えが出たところで、一筋の風が少女の肩を掠めた。

 彼女はそれを受け、自分の身体を両腕で抱きしめて身を震わせる。

 

「……うっ! さ、寒……」

 

 そこで気付く。少女の身体は水で濡れ、びしょびしょだった。滴る水滴が地面に小さな水場を作り、その上に座り込む彼女の身体を冷やす。

 

「……くそっ」

 

 今の状況について考えていても仕方ない。このままでは風邪をひいてしまう。

 いや、それすら生温い。屋外で、裸で、水で冷えた身体を放置していたら低体温症でもっと深刻なことになるやもしれない。

 

 そう考えた少女は、思考を切り上げ、立ち上がって辺りを見渡した。

 辺り一面、薄暗い森だ。時間は夜であり、月の光すらまともに通さない仄暗い闇が何処までも広がっていた。

 

 

 静寂に満ちた森を前に、身体を縮こませる。

 先が見えない不安に押しつぶされそうで、誰もいない孤独にどうにかなってしまいそうだ。

 

「ああ、寒いな……寒いよ……」

 

 先ほどと同じ言葉が漏れる。

 

 それがただ、体温の低下から出た言葉なのか、湧き上がる寂寥感から出た言葉なのかはわからない。

 

 

「……だれか、助けてくれよ……」

 

 

 こぼれ落ちる懇願の言葉も、白い吐息に溶けていくのみだった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 1日経った。

 

 

 夢であれと願って過ごした夜は無情に、淡々と朝日を迎え入れた。

 

 いま、薄暗い森の、少し拓けた場所で、素肌に大きめの葉を巻きつけただけの薄汚れた少女が立ち尽くしている。隈ができた目で不安そうに空を仰ぐ姿は、体型も相まってとても小さく見えた。

 

 彼女はここで目覚めてから、ろくに眠ることができずにいた。

 当然のこととも言えた。精神的な理由もあるが、この見知らぬ森にどのような脅威が潜んでいるかがわからなかったという理由のほうが大きい。

 

 大型の肉食動物や、小さいが非常に危険な毒を持つ虫がいるかもしれない。他にも、食べれば最悪死に至るようなキノコ。触れるだけで皮膚を侵す植物。そういった様々な自然の脅威を妄想しては、安穏とした夜を過ごすことは不可能だった。

 

 

 とはいえ、彼女もそういった真偽もわからぬ事柄に怯えて、何もしてこなかったわけではない。

 

 

 日が昇っている間に周囲を探索し、水分を確保できる川や、果樹が自生している地域を見つけた。今身につけている服代わりの葉っぱも探索中に見つけ、吟味の果てに身につけたものだ。

 

 そしてこの間に、自分の今の状況についても今一度考えた。

 一晩過ごしても、現実離れした状況は変わらなかったのだ。自分が見知らぬ場所で、見知らぬ少女に精神が憑依したという現実を受け入れるしか無い。

 

 

 彼女は前に進むことにしたのだ。

 ひとえに元いた場所に戻るために。帰りを待つ家族のもとに戻るために。

 今はその方法も、どれほどの時間がかかるかもわからないとしてもだ。

 これからの苦難を想像して不安になることもあるが、それでも諦めることはできない。

 

「……行かなきゃ」

 

 そう言って彼女は歩き出す。向かう場所は川の先だ。

 周辺に文明があるとすれば、大抵は川などの水があるところに作られるものだ。

 たとえそれがなくとも、川を下ればいずれは海に出るはず。

 海を通る船に助けを求められれば、少なからず状況は良くなるはずだ。

 そんな希望を胸に彼女は森を進んでいった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 結論から言うと、彼女の希望は叶ったということになる。

 文明がある証拠もあったし、海にたどり着くこともできた。

 

 

 だが、その証拠となる景色は、予想とは遥かに違うものだった。

 

 

「こ……これは……?」

 

 

 眼前に広がるのは、数えるのも億劫になる程の、多数の船や瓦礫が、座礁している海岸だった。

 

 マストは折れ、帆は破れ、老朽化した船体が何隻、何十隻、下手したら何百隻と砂浜にそびえ立っている。

 

 その規模たるや、まるで瓦礫の壁だ。

 一体何年の月日をかけて形成されたのか。下層にある船は横転したり傾いたりはしているが、船底はきちんと砂浜に着いていた。

 だが、そこに重なるようにして座礁、漂着したであろう瓦礫は、その限りではない。どれ程の勢いで座礁したのか、上層にある船の残骸は、文字通り垂直に立つ様にして下層の瓦礫に突き刺さっていた。その異様な様は、まさに自然の外壁。

 

 

「一体……何個あるんだ……?」

 

 

 左右を見れば、先が見えないほどに広がる砂浜。その海側の部分のすべてに、覆い尽くすように座礁した船が並んでいる。

 不気味な光景だった。

 さらに悪いことには、この船のせいで航行する船に助けを求められない可能性が出てきた。

 

「どこか……開けた場所はないか……?」

 

 少女は助けを求めるのに適した場所を探すべく、この場所の周囲を探索することにした。

 比較的早く海に近づけたことから、この場所が島のようなものであるのではないかと仮定したので、まずは海岸を一周できないかどうか歩いて確かめることにした。

 

 現在立っている場所にいくつか船の残骸を組み上げ、目印とする。

 その後、そこを起点として、時計回りに海岸を歩いていった。

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……やっと、一周か……」

 

 

 

 まだ陽が天辺に登る前に歩き出したにもかかわらず、海岸を一周する頃には夜になっていた。

 仮説の通りこの場所は島であったようだが、想像していたよりも広大なことが明らかになった。

 

 そして残念なことに、海が見える開けた場所は終ぞ見つけられなかった。

 どこまでいっても、船や、仮設住宅のようにも見える木造の家屋の残骸が海岸を塞いでいたのだ。

 はっきり言って、異様としか言いようがない有様だった。

 

 まるで、少女の旅立ちを許さないと言わんばかりに立ちふさがる物言わぬ残骸たち。この島自体が、少女を閉じ込める監獄のように思えた。

 

 そんな想像に少女は多少の苛立ちと恐怖心を覚える。しかし、実際この状況は悪いことばかりというわけではなかった。

 

 多少老朽化や風化の影響はあるかもしれないが、この残骸を居住地として扱うことができるからだ。

 一周してわかったが、残骸の中にも比較的新し目の船があったりしたし、多少の老朽化などものともしないような豪華な船や、頑丈そうな軍艦などもあった。

 

 願望でしかないが、服飾品や保存の効く食料を発見できるかもしれない。

 そうと決まれば、寝床の確保の意味も含め、船の探索に移った。目指すは瓦礫の中でも、探索しやすい水平状態を保った船だ。

 

 

 ──

 

 

 十分程経ち、ようやく目標としていた船の残骸に乗り込んだ。

 これ程までに手間取ったのは、扱いに慣れないうえに運動能力の低い少女の身体であったことや、裸足で残骸の地面を踏みしめる度に、痛みで足を止めていたためだ。

 

 残骸の側面に取り付けられた朽ちた縄、錨を支える錆びた鎖を頼りに甲板まで登り、乗船する。

 

 少女が探索対象に選んだのは付近にあった残骸の中でもかなり大きく、ゴテゴテとした装飾が施されたキャラック船だった。

 

 老朽化の影響が小さく、貴重な資源もあるのではという期待、というか欲からの選択だった。その分乗船には時間がかかってしまったが。

 

 

 船内への扉を開ければ、薄暗い廊下が広がる。

 明かりは窓から入る夜光のみ。進む先は暗く見えないが、夜の森で数日活動していた身にとってはこの程度の暗さなど慣れたものだった。

 

 壁に手をつけながら少しづつ進んでいく。

 目的は食糧と寝床の確保だ。

 

 はっきり言って屋根や壁があるだけで寝床としては十分なのだが、せっかくこれだけの場所があるのだ。今までの森林生活で荒んだ精神を癒すために、きちんとした寝具を求めるのは仕方ないとも言えた。

 

 食糧は言わずもがなだ。もう何日も果物しか食べていない。何でもいいから味の濃い物が食べたかった。

 

 

 

 少しすれば、客室のようなものは直ぐに見つかった。

 海水が入ったのか多少磯の臭いがするし家具も倒れているが、高級そうなダブルベッドは見つかった。

 

 床に転がった布団は海水を吸い込んで酷い有様だったが、ベッドの方はまだ汚れが軽度で十分使えた。

 

 少女の顔に安堵の色が浮かぶ。

 今日の夜からは安定した睡眠が保証されるだろう。

 初日に散々した思考も、これからの周辺の探索も、十分な睡眠がなければ続かない。

 寝床の確保は大きな進展だった。

 

 

 これにより、予想より早いかたちで住居を確保出来た。

 

 少女はこの件に関しては残骸の群れに感謝した。

 

 

 

 その後も探索を続けた。

 結果から言えば、食糧は十分な量を見つけることが出来た。缶詰を主とした保存食だったが、少女は手を叩いて喜んだ。

 

 

 無我夢中で食べた。

 力づくで缶詰を開けて手で中身を貪った。

 そのせいで手が切れてしまったが、そんなことは些細なことだった。

 

 

 腹を満たした少女は、更に探索を続けた。

 これ程豪華な船なのだ。宝物庫のような、貴重品を管理する場所があるのではないか。金品や価値のある武器があるのではないかと考えたからだ。

 

 

 はっきり言ってここでは意味の無い代物だ。

 この孤立した島で財宝など無価値に等しい。

 だが、少女は浮かれていた。

 色々な事が思い通りになっているこの状況に、少女は楽観し始めたのだ。

 

 

 ──

 

 

 やはり、宝物庫は見つかった。

 気味が悪いほどに妄想した通りの、まさに宝物庫といった様相の部屋があったのだ。

 

 金のネックレスやブローチ、果ては王冠まで置いてあった。

 宝箱があちこちにあり、中からは多数の金貨銀貨が溢れ出ている。

 

 

 しかし、これらの煌びやかな場所に踏み込んだ少女は、途端に顔を歪ませた。

 

 

「う……! な、何の臭いだ……?」

 

 

 異臭。

 表現し難い生臭い臭いが辺り一帯を覆っていた。

 先程までの浮ついた感情が鳴りを潜める。

 

 

 ここまで船内を回ってきたがこんな異臭はしなかった。

 なぜここだけが? 

 そんな疑問が浮かび、少女は恐る恐る宝物庫の奥へ進んでいく。

 

 

 歩を進める度に、臭いはより強くなっていく。

 耐えきれず鼻を摘み、口で呼吸する。

 奥に行くほど宝物庫の内容は貴重なものになっていき、輝きが増していく。

 それと同時に、部屋の暗さが濃くなり、臭いが強さを増していった。

 歩をすすめる度に、少女の気分は悪くなっていくばかりだった。

 

 

 

 部屋の突き当りに辿り着き、見つけた。

 

 

 

 一際強い悪臭を放つ箱だ。

 悪趣味と思えるほどに金や銀の装飾が施された小さめの箱から、似つかわしくないほどの異臭がする。

 

「……何なんだ……一体……」

 

 少女は顔をしかめながら、箱を開ける。

 

 

 中身を覗くが、暗くてよく見えない。

 更に顔を近づけ、目が慣れてくると、中身は球状の物体のようだった。

 

 

 次第に目が正確にその物体を認識し始める。

 丸くブツブツとした球体に、一箇所から棒状の突起物がせり出している。

 そして色はモノクロツートンカラーという奇っ怪なものだ。

 少ししてやっと、それが何かの果実であると気付く。

 

 

「な、何だこれ……気持ち悪い……」

 

 

 錯覚で蠢いているように見えるほど異様な模様をした、果実のようなものが入っていたのだ。

 それだけでも眉を顰めるものなのに、これに強烈な悪臭があるときた。

 

 

 正直いって今すぐ海にでも捨てようかと思った。

 少女はここまでの探索でこの船を仮住居として使おうと半ば決めていたのだ。

 広く、資材も豊富で比較的綺麗な場所だ。そんな場所にこの悪臭果実は異物でしかない。

 

 

 だが、少しばかり興味もあった。

 今まで生きてきて、こんな変な果実は見たことがない。

 見たところ腐っているわけでもなさそうだし、手に取ってみるくらいはできた。

 

 柄を掴んで顔の前に持ってくる。

 間近で見ると、不思議と最初のような不快感は無かった。

 それどころか、どこか引き込まれるような魅力があるようにすら思えた。

 

 模様の複雑さに反して、さわり心地は艶があり滑らかだ。

 無意識に両手であれやこれやと触ってしまう。

 

 

 

 そこで、違和感を覚えた。

 異臭がしないのだ。

 いや、正確にはこの果物から異臭がしないというべきか。それに、腐っていれば実がほぐれグジュグジュになっているはずが、これはそんな様子が全くない。

 

 部屋は相変わらず臭いが充満しているが、その発生源はこれではない。

 

 

 嫌な予感がした。

 

 

 目線を果物から外し、部屋の壁を凝視する。

 

 

 

 そこには──蛆虫が群がる腐った死体があった。

 

 

 

「ぁああああ!!?」

 

 

 

 叫び声を上げる。

 

 死体。死体だ。本物の、死体だ。

 

 

 恐怖でもたついた足を無理やり動かし、果物を放り出して部屋から逃げ出す。

 そのまま廊下を走り、船からの脱出を試みた。

 咄嗟の行動だった。先程まで鼻をついた異臭が腐臭であったことに気づき、その気持ち悪さが余計に足の回転を早めた。

 

 

 上層へのルートに四苦八苦しながらも、急いで海岸へと移動した。

 

 

「はあ……はあ……」

 

 

 息が荒れる。やはり少女の身体では満足に以前のような運動能力を発揮できない。

 座り込んで息を整えながら、先程の死体について考える。

 

 なぜ今まで気づかなかった? ここまで接近してなぜ見つけられなかった? 

 いや、そもそもなぜあそこに死体があるのか。

 これまで進んできた部屋はどこもこの死臭はしなかったはず。

 人が集まりやすいであろう食堂ですら死体はなかったはずだ。

 なぜあの場所にだけ死体があったのか。

 

 無数の疑問が湧き上がった。

 

 

「……あの果実のせいか……?」

 

 

 ひとつ可能性として思いついたのは、あの変な果実の存在だ。

 どこか惹きつけられる果実だった。

 造形はあまり良くなかったが、なにか得体のしれない存在感のようなものがあったように思えた。

 

 それを考えると、死体となった人間もまた、あの果実に魅了されていたのかもしれない。

 だとしたらあの場所に、特に果実の入った箱の近くに死体が転がっていたのも納得がいく。

 

 

 そうか。あの死体は死に際をあの場所で過ごしたのだ。

 これほどの異様な光景を作り出すほどの荒波の中、最期の場所として死体はあの果実の側を選んだのだ。

 

 

 ……あの果実は、一体何なんだろうか。

 ただそこにあるだけで、人を魅了してしまう、異様な模様の果実。

 

 

 そんな現実離れしたもの、心当たりがない。

 

 

 

 ……いや、待てよ? あれに似たものを前に何処かで──

 

 

 

 一瞬よぎった心当たりに顔を上げる。

 

 

 だが、その記憶を吟味する暇はなかった。

 

 

「……え」

 

 

 眼前の森。その木々の間から、無数の光が灯っている。

 

 

 大小様々な赤い光だ。

 それらは一定の間隔で並んでいるように見える。

 ときに点滅し、ときに左右に蠢いているその光が、金属音のような音を上げた。

 

 

「キーン」

 

 

 その音をきっかけに辺り一帯に金属音のような音が複数鳴り響く。

 

「ッ!」

 

 耳をつんざくようなノイズに変わったそれに、少女は耳を塞ぎ悶える。

 

 だが彼女の視線は森を向いたまま固まっていた。

 この場所に来てから、まったくもって考慮しなくなっていた仮説を思い出し、体がこわばる。

 

 

「……まさか」

 

 

 そんな言葉が出たとき、森から光の正体が現れる。

 一つ、また一つと現れるその姿に、少女が震える。

 

 

「あ、あ、あ……」

 

 

 体高3メートルはあろうかという、黒い虎だった。

 体つきは異常に痩せていて、口からは灰色に濁った唾液が出ている。

 

 そんな不気味な怪物が10匹以上もこちらに近づいてくる。

 ゆっくりと、一歩ずつ。

 

 

「──うわああああ!!」

 

 

 たまらず少女は逃げ出す。

 先程逃げ出した船の残骸へ避難するためだ。

 だが、その行動が怪物を刺激した。

 

「キーーン」

 

 つんざくような鳴き声を上げながら、化け物が走って追跡してくる。

 必死に走るが、この速度差ではすぐに追いつかれるであろう。

 

 距離が詰まってきて気づいた。

 何故か、あの怪物たちもまた死臭がする。

 あの死体と全く同じ臭いだ。

 いや、数が多い分こちらのほうがひどい臭いがする。

 

「はあっ、はあっ……っ何なんだよ! ここは!」

 

 思わず悪態をつく。

 

 

 この島は、退廃しきっている。

 

 

 文明もなく、周辺は残骸だらけ。死体や死臭のする怪物がそこらにいる。

 

 こんな場所に、少女は完全に嫌気が差していた。

 

 振り向けば、すぐ近くまで怪物が迫っていた。

 汚い唾液を撒き散らしながら向かってくる怪物に虫酸が走る。

 

 

「この、野郎!!」

 

 

 もはや自棄になった少女は、自身が着ていた葉っぱを破り、怪物たちに向かて投げつける。

 

 腹いせの攻撃だ。

 こんなことしたところで何かが変わるわけでもないだろうが、反抗しなければやってられなかった。

 

 

 しかし、効果はあった。

 

 

 葉っぱが当たった一際大きな怪物はうめき声を上げ立ち止まった。

 それに合わせ他の怪物も一瞬停止する。

 

 少女は何が起こったのかわからず少しの間硬直するが、その後はっとして全速力で船へ逃げる。足元の瓦礫が足裏に刺さる。痛みに何度も声を上げるが、逃げるのに必死な少女はその一切を無視して走った。

 どうにか最速ルートで船に戻ることができた少女は、間髪入れず船内へ逃げ込み扉を施錠する。

 

 

「ゼエ……ゼエ……助、かった……」

 

 

 なぜかはわからないが怪物が止まったおかげで逃げおおせた。

 

「……ここで寝るしかない、のか」

 

 死体が怖くて逃げ出したが、あんな怪物がいる以上は、わがままは言っていられない。

 おそらく、この頑丈そうな船の中であれば怪物の攻撃も凌げるだろう。

 

 

 船内を移動し、最初に見つけた寝室にたどり着く。

 倒れ込むようにベッドに入る。

 

 蓄積していた疲労が一気に吹き出してくる。

 散々な一日だった。

 

 

 この島は、自分の想像以上に過酷な環境であることに少女は気づき始めた。

 

 自分はこの先、どうなるのだろうか。

 

 そんなことを考え不安になるが、やがて睡魔が襲いかかってくる。

 

 

 今はこの疲れた身体を癒そう。

 そう思い、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 何かが軋むような音がする。

 

 その音の中には、あの忌々しい金属音が混じっていた。

 

 その音を感知したことで、朧気だった意識が一気に覚醒する。

 

 

 起きて船内を見渡すと、軋む音と金属音は何処か遠くから響いていた。

 そして僅かに船体が揺れている。

 

 

 嫌な想像が頭をよぎる。

 まさかこの船を相手に諦めていないのだろうか。

 

 

「くそっ」

 

 

 また響く不快な音に少女は舌打ちし、船室を出る。

 音は船の上層から聞こえてくるようだ。

 おそらく甲板などに群がっているのだろう。

 

 そう考え、少女は船の下層部へ避難した。

 できるだけ物音を立てずに移動していく。

 少女はこのまま船の中で怪物をやり過ごすつもりだった。

 

 

 だが――

 

 

 

「キーン」

 

「っ!?」

 

 至近距離で金属音が鳴り響く。

 

 慌てて横を向くと、船の窓に、あの怪物が張り付いていた。

 

「ひっ!」

 

 怪物が窓に勢いよく顔をぶつける。窓が砕け散り、飛び散った唾液の腐臭が鼻を突いた。

 それだけに飽き足らず、廊下が軋む音がし、船体がぐらりと揺れる。

 衝撃によって、バランスが崩れた。

 

 

 船体に貼り付けるのか!? 

 

 

 最悪な状況に青ざめ、全速力で逃げ出す。

 

 まずい、まずいまずいまずい。

 

 居場所がバレた。あの怪物はきっと仲間を呼ぶだろう。

 あの数の怪物が一箇所に群がったら、一網打尽にされる。

 

 そうなったら、終わりだ。

 なんとかしなければ。

 どうにかして生きなければ。

 

 そう思い安全地帯を目指して走る。

 

 

「!」

 

 

 しかし、現状は少女の想像よりも悪いものだった。

 

 

 船の最下層まで来たところで、見つけてしまったのだ。

 

 

「……なんで」

 

 船の最下層、先端部分。

 

 

 そこに広がるぽっかりと空いた穴から、あの怪物が侵入してきていた。

 

 

 至近距離で怪物と目が合う。

 真っ赤に染まった瞳孔がなんの感情もなくこちらを見つめる。

 体毛は逆立ち、どす黒く汚れている。

 腹や尾はくすんだ灰色だが、他は光も取り込みそうなほどに真っ黒だ。

 

 恐ろしい。

 

 恐ろしい目をしていた。

 

 

 ここまで執拗に追いかけてきておいて、その目はなんの感動も抱いていない。

 ただ自分に喰われることが必然であるかのように、淡々と追い詰めてくる。

 

 

「い、嫌だ、いやだあ!」

 

 

 あまりの恐怖に、少女は再び背を向けて走り出した。

 だが、怪物は逃すまいと爪を立てた前脚を振りかぶる。

 

 

「うっ!」

 

 

 一薙ぎで船の壁が砕け散った。

 宙を舞う残骸が少女に迫り、破片がいくつか突き刺さる。

 痛みに声が出るが、彼女は逃げることに集中する。

 

 怪物の体高よりも低く、入り組んだ構造をした船を最大限利用し、怪物との距離を離していく。

 

 ただひたすらに階段を逆行し、上を目指していく。

 

 船外へ逃げる選択肢はない。とすれば、どうにかして船で夜を越すしかないのようだ。

 ならば目指す場所は……宝物庫だ。

 

 貴重品を保管する場所だ。他の船室よりも頑丈に作られているはずだ。

 もはや死臭だなんだと言ってはいられない。

 あの場所にしかもう、望みがなかった。

 

 

 

 やがて宝物庫がある、二階層へたどり着く。

 先程の怪物は撒いた。後は宝物庫に避難するだけだ。

 

 

 あの死臭が近づいてくる。

 鼻を摘みながら宝物庫に入れば、先程の死体が蛆とともに少女を迎える。

 

 

 少女は顔を顰めながら、適当に装飾の多い武器を拾い上げる。

 入口近くで座り込み、息を吐き出した。

 

 

 怪物の声は今も遠くから聞こえる。

 多数の怪物の共鳴した金属音が、宝物庫まで届き不気味に鳴り響く。

 

 

 ここを乗り越えられなければ、自分の命はないだろう。

 なんとしても夜まで凌がねば、あの怪物に生きたまま食い荒らされる。

 

 

 震える身体を抱きしめ、少女は息を潜めた。

 

 

 

 ──

 

 

 

 船の軋む音が、どんどん近づいてくる。

 

 

「はあっ、はあっ」

 

 

 湧き上がる恐怖に、荒くなる呼吸を手で抑える。

 

 宝物庫に入って数分しか経ってないが、怪物の足音はまるでわかっているかのように宝物庫へ向かってきている。

 

 早すぎる接近に、少女は焦っていた。

 

 

(この死臭に吸い寄せられているだけか? それとも俺の居場所を正確に捉えてるのか?)

 

 

 疑問はあるが、どうすることもできない。

 ここで行動を起こせば不確定かもしれない居場所を相手に教えるだけだ。

 

 怪物が通り過ぎることを願い、少女は息を潜める。

 

 

 やがて怪物の足音が扉の目の前まで来る。

 

 

 そして、止まった。

 

「キーン」

 

 あの鳴き声だ。

 やはり、バレている。

 

 少女は歯噛みし、武器を持つ手に力を入れる。

 

 

 やがて怪物は宝物庫の壁を攻撃し始めた。

 

 

 部屋全体が揺れる。

 木が裂けるような音が響くたび、少女の顔は青ざめていく。

 

 

 本当にこんな剣一本であの怪物をどうにかできるのか。

 もっとなにか有効な手段があるのではないか。

 

 そんな不安が時間とともに湧き上がる。

 

 

 よく見てみれば、自分はほとんど無防備な状態だ。

 服代わりの葉は怪物に追われたとき捨ててしまったし、肩のあたりには木片が突き刺さって負傷している。足も瓦礫を踏んで痛々しい。ろくに踏み込みが出来ないだろう。

 

 

 素人目に見ても怪物相手にどうこうなるような見た目ではなかった。

 

 

 肩の動きを阻害している木片を引き抜く。

 

 

 その木片を見ると、なにか、血の混じった粘液のようなものがへばりついていた。

 灰色に濁ったそれからは、あの怪物の死臭がした。

 

 

「……まさか、これのせいで……」

 

 

 木片が刺さったのは、怪物が船の壁を壊したときだ。

 

 あの時点で、自分は怪物にマーキングされていたのか。

 

 

「……ははっ」

 

 声が漏れる。さっきから自分は、怪物に追い詰められてばかりだ。

 

 あれほど強力で狡猾な怪物相手に、ろくに準備もせず戦おうとしていたことに気づき、少女は自嘲気味に笑う。

 

 無謀としか言いようがない有様だった。

 

 

「……ふぅ―」

 

 

 だが、そこで彼女は息を一つ吐いた。

 

 

 どんな状態だろうが、自分は生きなければならないのだ。

 もとの日常に戻り、心配をかけた家族に謝るのだ。

 

 絶対に、帰らなければならないんだ。

 

 無謀だからなんだ。

 やらなければ結果はわからない。

 ここまで来て諦めるなどもってのほかだ。

 

 

 壁に亀裂が走る。

 幾分か重厚に作られていた壁もあの怪物相手には有効ではなかった。

 

 

「……!」

 

 

 剣を握り締め、壁を凝視する。

 仕掛けるなら、壁を破った瞬間だ。

 壁の破壊に集中しているその隙を突くしか、怪物に一矢報いる手段はないだろう。

 

 怪物がまた壁を攻撃する。

 今度は壁の下方が床から外れた。

 次の攻撃で壊れてしまうだろう。

 

 

 少女は流れる汗を拭いたい気持ちを抑え、意識を反撃だけに集中させる。

 

 

「その目玉を、脳みそごと貫いてやる……!」

 

 

 狙いを定めた少女を前に、ついに壁が破壊された。

 

 現れた怪物は、薙ぎ払った前脚を床につけようとしてながら、部屋を覗き込むように頭を低くしていた。

 

 

 それを見た少女は、吹き飛んだ壁を避け、全力で駆け出す。

 

 

「うあああああ!!」

 

 

 目の前で無表情に立ち尽くす怪物に接近し、その無防備な目に剣を突き刺す。

 

 正確に位置を捉えた切っ先は、吸い込まれるように赤い目に入っていった。

 

 

 

 だが──

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 剣は、まるで鋼に突き立てたかのような音とともに、怪物の目の位置で停止した。切っ先が入り込まない。鉄に刃物を指したかのように手応えが無い。

 

 

 信じがたい光景に、少女は愕然とする。

 

 

 そうして数秒硬直した少女を見て、怪物は無表情で前脚を薙いだ。

 

 鋭利な黒の爪が少女の皮膚を裂き、強靭な指が少女の小さな身体を吹き飛ばす。

 

「がはっ!」

 

 壁に激突し、肺が圧迫される。

 床に倒れ伏し、血の臭いが辺りに漂う。

 

 視界の端には、真っ二つに折れた剣が転がっていた。

 

 

「はあ……はあ……く、そっ……!」

 

 

 差は歴然としていた。

 

 手も足も出ない。

 

 想像を絶する怪物の強度に、少女は苦悶の表情を浮かべる。

 

 

 それを見た怪物は、追撃をするわけでもなく、おもむろに上を見上げ咆哮した。

 

 

「キーーン」

 

「う、がぁ!」

 

 

 金属音のような鳴き声だ。

 耳をつんざく音に少女は顔をしかめ、声を上げる。

 その挑発ともとれる行動に、彼女は舌打ちをして、ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「くそったれ……! 全身金属で出来てるんじゃねえだろうな……!」

 

 

 そう言いながら、少女は忌々しげに怪物を見上げた。

 

 

 まともに攻撃を受けてなお、彼女の闘志は揺らいでいなかった。

 

 剣を拾い、なおも無表情でこちらを見下ろす怪物と対峙する。

 

 

 目がだめなら、別の場所だ。

 

 柔らかそうな腹をかっさばいてもいいし、口に剣を突き刺して内側からダメージを与えてもいい。

 

 

 とにかく、諦めるという感情は微塵も無かった。

 

 

 少女は執着した。

 もとの世界の平和に、自分を愛した家族に。

 

 

「こんなところで諦めて……死んでたまるかよ……!」

 

 

 剣を構え直し、少女は叫ぶ。

 

 すると怪物はゆっくりと動き出し、彼女にじりじりと迫っていく。

 

「来るなら、来いよ……! ……絶対にぶっ殺してやるからなぁ!!」

 

 そう言って少女は腰を落とし、怪物に肉薄しようとした。

 

 

 ──その時。

 

 

「っ!?」

 

 

 少女の後ろの壁が、崩れ落ちた。

 思わず振り返ると、そこにはおびただしい数の怪物が船体にへばりついていて、宝物庫を覗き込んでいた。

 

 

「……っえ、……あ」

 

 

 その光景に、少女は困惑する。

 

 

 一際大きい怪物が、宝物庫へ顔を突っ込む。

 

 あのとき服代わりの葉を投げつけた個体だ。

 おそらくこいつが怪物の長なのだろう。

 

 

 そこで悟る。

 先程の咆哮は挑発ではなく、招集だったのだと。

 

 

 ターゲットの居場所を群れに報告するためだったのだと、少女は気づいた。

 

 

「……あぁ」

 

 

 少女は床にへたり込む。

 

 この数相手に、勝てるわけがない。

 

 あれほど漲っていた闘志が、一気に沈んでいく。

 

 それを見た怪物の長が、ゆっくりと船に入り込んだ。

 

 船が軋む。

 

 あの死臭が近づいてくる。

 

 少女はなんの抵抗もしなかった。

 抵抗しても無駄だと、諦めてしまった。

 

 一歩、一歩と怪物が近づいてくる。

 そのたびに船が軋み、部屋に響く木の音が次第に大きくなっていく。

 

 

 そして怪物が少女の目の前までたどり着いたとき、船が限界を迎えた。

 

 

 船の床が崩れた。

 片脚の足場を失った怪物が、バランスを崩す。

 

 

 怪物はそのまま横に倒れ込んだ。

 その衝撃で、今度は宝物庫の壁に亀裂が走り、船全体が傾く。

 

 

「うわっ!?」

 

 

 座り込んでいた少女は、突然の出来事に対応できず、部屋をゴロゴロと転がった。

 

 彼女はなんとか部屋の壁で止まったが、傾斜ができたことで宝物庫の資材が倒れ込んでくる。

 思わず顔を腕で覆う。

 貨幣や金塊、装飾品が身体のあちこちに当たる。

 

 

「うっ……ぐっ!」

 

 

 それらが、先程怪物に引き裂かれた部位に当たるたび、少女は痛みに声を上げる。

 

 やがて、落下物の一部がピンポイントに少女の身体に覆いかぶさった。

 

 

「うぐっ……!?」

 

 

 目を開けると、目の前には蛆のたかった死体がいた。

 

 衝撃でぼとりと取れた眼球が、少女の胸元に落ちる。

 

 

「──うっ、うああああ! あああ!」

 

 

 少女は絶叫しながら死体を放り投げる。

 

 その後間髪入れず、落ちた眼球を外に向けて投げ出した。

 

 

 

 そうすると、眼球が放物線を描きながら宙を漂う。

 

 

 

 ──そしてその眼球を、怪物が食べた。

 

 

 

「……え」

 

 

 

 先程バランスを崩した怪物が、体勢を立て直したかと思うと、真っ先に投げた眼球を口に入れたのだ。

 

 怪物は無表情で口を動かす。

 

 ヘドロのような臭いがする唾液を出しながら、ぐじゅぐじゅと不快な音をたて咀嚼する。

 

 

 見ると、他の怪物もまた大量の唾液を垂らしているのが見えた。

 

 

 その光景を少女は呆然と見つめる。

 怪物は未だに小さな眼球一つを、大事そうに時間をかけて味わっていた。

 

 

「……し、死体を、喰うのか」

 

 

 そうつぶやいたところで、この怪物たちが死臭を漂わせていることを思い出した。

 

 

 そして、彼女はこの怪物共が腐肉食動物(スカベンジャー)なのではという考えが浮かんだ。

 

 

 その仮説は、あながち間違いではないように思えた。

 

 

 今まで怪物が、少女に対しどこか感心が薄いような様子であったこと。

 怪物が放り投げた眼球に食らいついたこと。

 屍肉を前にした瞬間、少女を前にしたときより一層臭いの強い唾液を出し始めたこと。

 

 

 これらが腐肉食動物としての行動だというのであれば、全て辻褄が合った。

 

 

 

 だとすれば、それが活路を開く鍵になる。

 

 

 

 少女は立ち上がり、側に転がる死体を見下ろす。

 蛆が這い、悪臭が立ち上る男性の死体。

 ぽっかりと空いた片方の眼窩からは、腐敗臭のする液体が流れていた。

 

 

「……っ」

 

 

 一瞬の躊躇の後、少女は死体の胴体を掴んだ。

 途端に手に触れた蛆がせわしなく蠢く。それが手にこびりつく。

 

 

「うっ……おえっ……!」

 

 

 手の感触や臭いからくる不快感でたまらずえずく。

 しかしどうにかこらえ、死体を引きずり進んでいく。

 

 

 ゆっくりと、ゆっくりと歩き、未だ眼球を咀嚼する怪物の横を静かに通り過ぎていく。

 

 

 やがて、船にあいた穴のもとまでたどり着く。

 おびただしい数の怪物が、大量の唾液を垂らしこちらを見つめる。

 

 

 襲いかかってくる可能性を考え警戒するが、怪物たちはただこちらを見ているだけで動かない。

 

 

 やはり、この怪物たちは群れとしてある程度統率が取れているのだろう。

 

 今までの行動から、この怪物たちが高い頭脳を持つことが伺えた。

 ここでむやみに襲ってこないことは、ある程度予想ができたことだ。

 

 

 少女は一度深呼吸をし、死体を少し持ち上げる。

 

 

 その後、大きく息を吸い込み―

 

 

「──てめえらぁ!! そんなに肉がほしいんなら……これでも喰らってろやああ!!」

 

 

 そう叫び、死体を思い切り投げ飛ばす。

 それは死臭を撒き散らしながら海岸まで落ちていった。

 

 

 反応は、劇的だった。

 

 

「キーーーン」

 

「「キーーーン」」

 

 

 真っ先に怪物の長が反応して雄叫びをあげる。

 それを聞き他の怪物も咆哮した。

 

 その後、怪物が一斉に船から飛び出し始めた。

 

「──くっ!」

 

 少女は耳をふさぎながら船室の端へ飛び込む。

 その数瞬後、怪物が横を高速で駆けて行った。

 

 その後、再び耳を塞ぎたくなるほどの金属音が響き、おぞましい咀嚼音が聞こえてきた。

 

 

 恐る恐る船の穴から外を見る。

 

 

「……ひっ」

 

 

 海岸で、怪物共が死体を一心不乱に貪っていた。

 腐って固まった肉を食い千切るのに時間がかかっている。食欲を満たそうとする怪物達は秩序なく肉を奪い合うのみだ。

 

 

「……う、ぐ、げほっ……」

 

 

 たまらず少女は嘔吐した。

 

 未だ肌に残る腐敗臭と、嘔吐による吐瀉物の臭いが鼻を刺激し、再び嘔吐する。

 

 

 もしあの死体がなければ、自分がああなっていたのだ。

 そんな恐ろしい事実に、震えた。

 

 だが、少女は恐怖に震えながらも、立ち上がってその場から逃げ出す。怪物の感知しない場所へ逃げ、適当な船の残骸に身を隠すことにしたのだ。

 

 その後も、死体は無情に食い尽くされていく。

 肉の千切れる音、臓器の柔らかな音、骨格の硬い音。

 

 様々な音が少女の耳を入り込んでくる。

 その度に、走りながら彼女はえずいた。

 

 

 時間を忘れて逃げ続けて、どれくらいの時間が経ったか。

 彼女は、気づけば適当な船の残骸に逃げ込み、床にへたり込んでいた。

 

 怪物の鳴き声はもう聞こえなかった。

 

 

「……助かった……のか」

 

 自然と言葉が出ていた。

 あの状況から、生き残った。

 そう気づき、全身から力が抜ける。

 

 

「はは……ははは……」

 

 

 床に伏した状態で、力なく笑う。

 もはや大きな声をあげるだけの体力もなかった。

 

 

 ひとしきり笑ったところで、少女の意識が薄れていく。

 

 

 やがて彼女は、深い深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 少女はまだ知らない。

 

 

 これからの、過酷を極める日々を。

 

 

 少女はまだ知らない。

 

 

 この世界の、残酷すぎる真実を。

 

 

 

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