暗闇島、北東部。
島の海岸に漂着している傷ついた奴隷船の甲板は、今、奇妙な賑わいを見せていた。
視線を動かせば、自分と全く同じ様子の奴隷──否、現在は身寄りのない一般人と成り上がった者たちがいた。
何が起きたのか。彼らと意見を共有したい。今の状況をきちんと理解したい。そう思うも、他の人間も自分と全く同じ顔をしているので聞いても特に有益な情報は得られそうにない。
そうなってくると、自然と一同の視線は、この事態を引き起こした張本人の元へ帰結する。
皆の見る先にいるのは、腕を組んで船のへりに腰掛ける一人の少女だった。
同じ奴隷用の、無地の服を着、月明かりをよく照らすベージュの長い髪の毛。
そこから覗く肌は、お世辞にも綺麗なものとは言えない。傷だらけで、汚れ、痛々しい様相の彼女の肌を見て、目を逸らしたくなる人間もいた。
閉じられた目が、スっと開く。長いまつ毛の奥から見える赤い瞳を見た全員が、息を呑む。逸らしかけていた目が、一瞬でその瞳に吸い込まれた。
皆がそう思い、辺りを静寂が支配する。
「……これで全員だな?」
発せられた言葉は普通だが、その言い方はどうも年若き少女のものとは違って聞こえる。その違和感は彼女への興味、関心へと変わり、気付けば皆が、姿勢を正し少女の言葉に耳を傾けていた。
「結論から言う。この奴隷船の船員は壊滅した。残ってるのは船医と、寝たきりの船長だけだ。もうお前らは奴隷じゃない」
「「!!!」」
「もう拷問もされないし、誰かの下へ売られていく心配もない。俺らはもう、自由だ」
そう言って、少女は船室と手錠の鍵束を甲板に放り捨てた。
恐らく奴隷商の所有物であるそれが、船員が壊滅したことの証明になる。
自由になった。その事実がようやく実感となって湧き上がり、皆が歓声を上げた。
「「うおぉおおぉ!!! 自由だあぁあ!!」」
興奮が止まない。
どんな悲惨な未来が待っているのか怯え、
島に着く前の荒波に、死ぬような思いをした。これから起こる出来事は、波乱と苦悩に満ち溢れている。そんなことを思わせるような激しさだった。
なのに、どうだろう。
自分たちはいま、あの船員たちの脅威から脱し、目の前の少女によって自由の身になった。
これを喜ばずしてどうする。
彼らは今までの辛い日々の鬱憤を吐き出すように、今出せる全ての声を枯らす勢いで叫んだ。
「で、こっからが悪い知らせなんだが」
しかしその歓声は、次に放たれた少女の一言で静まり返ることになる。
「俺らが今いる場所は、暗闇島っていう場所らしい」
「「──」」
その島の名前は、自由の喜びを打ち消すほどに恐ろしいものだった。
一瞬で顔を青くした元奴隷たちは、急いで辺りを見渡す。奴隷船は横転した海賊船に張り付くようにして停まっていた。その海賊船の奥に目をやれば、向こうまで隙間なく聳え立つ瓦礫の山があった。
その光景を見て、暗闇島に流れ着いてしまったということを理解する。
船上は一転、絶望と恐怖の声で染まった。
「嫌だあぁあ!!?」「あんまりだ! 奴隷の次は、暗闇島なんて!」「やっぱり自由にはなれないんだ!!」「家族に……家族に会いてぇ……!」
割れんばかりの歓声に続いて今度は耳を塞がんばかりの慟哭ときた。
少女は溜息を吐いた。
「たく、感情表現が豊かな奴らだな」
「……のう、メサイアよ」
「……?」
その時、驚きを隠せない様子で少女のもとに歩み寄ってきた一人の老人に、彼女は怪訝そうな顔をする。
一体誰に話しかけてるんだと思えば、どう考えてもその目は自分に向けられている。
「何だ爺さん。……てかさっきも思ったけど、メサイアって誰だ。俺の事言ってんのか?」
「そうじゃ。ほれ、前まで自分のことをメサイアと名乗っていたではないか」
「……んん……? そうだったっけ?」
「まあ、そんな事よりじゃ。本当にここは暗闇島なのか?」
「ああ、間違いない。少しの間だけだけど、ここで過ごしたこともある」
「なんと……!」
それは初めて聞いたと、目を見開き驚く老人。まるで前に会話をした事あるようなその言い方に、少女は首を傾げる。
「……ところで、あんたは誰なんだ? 前に会ったことあったっけ?」
「ああ、儂の名前はエイブリーじゃ。実は、お主とはつい最近まで話をしていたんじゃ。穴が空いた壁越しにな……どうもお主は、記憶を失っていたようでな。儂のことを覚えていないのも無理は無いのかもしれん」
「……記憶喪失……そうか、俺は拷問されて、記憶を……」
そこで、朧気だった前までの記憶をなんとなく思い出した少女が、空を見上げ呆然とする。
「……じゃあ、メサイアとか言う名前は何だ? 何で俺はあんたにそう呼ばれてる?」
「何故もなにも、自分から名乗ったんじゃよ。自分の名前はメサイアだと。……それも覚えておらんのか?」
「……覚えてない。一体なんなんだ……?」
「……」
そう言って、彼女は頭を抱えた。
自分が覚えているのは、拷問具に座らされ凄惨な拷問を味わったこと。
その後……長い眠りに落ちたような、泡沫の夢のような感覚が続き、気付けば自分はまた暗闇島に戻っていた。
少し辺りに目を向けてみれば、都合のいいことに奴隷船の鍵が見つかった。
自分を捕らえた船員は船へ戻る途中で全滅していた。
船に戻ってみれば商会の人間は船医と、どういう訳か寝たきりになった船長だけ。
それに気付いて片っ端から奴隷を解放してからは、見ての通りだ。
「なるほどな……」
「よし、とりあえず爺さん、じゃなくてエイブリーさん」
「呼び捨てでいい。あまり敬称をつけられるのは好かんのじゃよ。儂らは対等じゃろう? ……で、なんじゃ?」
「あっそう、じゃあエイブリー。そのメサイアって名前は嫌だから、別の名前考えてくれ」
「な!?」
……メサイアでいいではないか。そう思いエイブリーは顔をしかめた。
だが、彼女はそう呼ばれることに納得してはいないようだ。
「俺、メサイアなんて名前知らないし、勝手に呼ばれるのもあれだからな。別のそれっぽい呼び名を決めさせてくれ。ああ、俺は元々名前なくてな、奴隷の時は番号で呼ばれてたんだ」
エイブリーは思わず腕を組んで唸ってしまった。
そうは言われても、以前自分に名乗ってくれたメサイアという名前は、とっくに彼の中で定着し、そして思い出深いものになっている。
「……そうか、あのメサイアは、もういないんじゃな」
「……エイブリー?」
「いや、何でも無い」
儚い夢を見たのかもしれない。あの不思議な少女の姿は、言葉は、自分の中の孤独が生み出した幻影だったのかもしれない。
そして、最後に見せたあの顔も……。
『あ、あ、あぁ……何で、何で……』
だとしたら、酷く自嘲的な妄想だ。それほどまでにこれまでの孤独な生活は自己嫌悪の心を育んだのか。これも老いか。
「ふっ」
忘れよう。自分はもう決めたではないか。この人生を、家族のために、精算のために捧げると。
「そうじゃな。ではお主の名前は別に考えてみよう。幸い、子供の名前を考えた経験はこれでも多い方じゃ……」
「うん、よろしく」
そう言って彼女の名前を考え込むエイブリー。
しかし、それからあまり間を置かず、横合いから話しかけてくる者がいた。
「あ、あの~」
「……ん?」
そしてエイブリーと少女が横を向けば、微妙な顔で整列する元奴隷たちの姿があった。
「ああ、ちょっとは落ち着いたのか?」
「え、えぇ。あの、おかげ様で助かりました。このご恩を、どう返せばいいか……」
「あー、気にすんな。別に大したことはしてないし……」
「! いいえ! 大したことはありますメサイアさん! いや、メサイア様!」
「……はい?」
彼らは、少女がなんでもないように首を振ると、途端に凄い勢いで突っかかってきた。
しかも、呼び方が変だ。
「貴女が成したことが、どれほど私達を救ったか! それを分かっていないのです!」
「いや、別に、奴隷を開放するなんてのは人として当たり前のことで……」
「……は?」
「え?」
困惑しつつ呟いたその言葉に、一同は固まった。その反応に少女は余計に困惑する。
「当たり前、ですって?」
「え、うん。違うのか?」
そういえば、一同は感極まったように声を上げ、そして拝むような姿勢になった。
「な、なんて崇高な考えをお持ちなんだ! やはり、貴女は我々の救世主だ……! そう、そのメサイアという名は、貴女にこそ相応しい!」
「……あ!?」
そう言って、全員がその場で跪き彼女を崇めだした。エイブリーとの会話を耳聡く聞き取っていたのか、メサイアと呼称して。
その様子に、エイブリーは思わずと言った調子で笑い出す。
「ぷ……はっはっは! どうやらこれは、名前を変えるのは無理そうじゃな! 良いではないかメサイアで! お主に相応しい名じゃと思うぞ!」
「……はぁ~」
少女──メサイアは、もうどうにでもなれと言いたげな表情でため息をつく。
彼女を讃える声は、しばらく収まることは無かった。
「「メサイア様!!」」
「「我らが希望!!」」
「「我らの救世主!!」」
「全く、どいつもこいつも……」
どうにも調子が狂う。彼らは自分などと違って底なしに明るい印象があった。同じ奴隷として、辛く苦しい想いをしてきたはずだが、彼らの心は強いのだろう。それがなんだか、一抹の寂しさを感じさせた。自分は彼らとは少し違うのだと。
だが、メサイアは少しして、フッと笑う。
「救世主ね……まあ、いいように崇めさせておくか。……なんせ今の俺には特別な力があるんだからな」
そう言って自身の手を見下ろす。その手をグッと握りしめれば、彼女の拳は黒く染まった。
少女は、あのおぞましい拷問の中で覚醒したのだ。
何回も電撃を食らったからか、極限状態が続いたのが功を奏したからかは知ったことでは無いが、悪い気はしない。
船へ帰ってくる道中でも、メサイアは怪物をこの手で殴り倒してきた。
散々自分を追い詰めた怪物を倒せる。散々自分を酷い目に合わせた奴隷商に一泡吹かせられる。そう実感して、彼女は言いようのない全能感を内心で感じていた。
「ああ、俺が救ってやるよ。俺がお前らの救世主になってやるよ。フフフ……」
その陰りのある笑みに、気づく者はいない。
*
「メサイア様! お水を持ってきました!」
「……うん、ありがとう」
「メサイア様! 近くの船に保存食がありましたよ! どうぞお食べ下さい!」
「……いや、栄養失調の奴らに優先して渡してやってくれ。船医がリストを作ってた筈だ」
「メサイア様……! 貴女様の行く道に、幸多からんことを……!」
「……あー、うん、そうね、多いといいね、俺もそう思う」
メサイアの下には、毎日何人もの元奴隷たちが訪れた。彼らは一様に彼女を様付けで呼んでおり、何かしらメサイアのためになる行動をしたがった。
彼らの熱意を抑える術をメサイアは知らず、彼女も結局は自分がメサイアと名乗ることで了解した。元奴隷たちに様付けで崇拝されることには全く慣れないが、まあ人は慣れる生き物だ。そのうちどうでもよくなるだろう。
「あ、メサイア様……! 船医が話があるそうですよ」
「……ん、そうか。今行く」
また、元奴隷の一人がメサイアの下へやってきた。
ただし、その人間は様付けこそしたが、報告を行うなり忙しそうに別の場所へ行ってしまう。こういう比較的フラットな態度の方が自分としては助かるのだが。と、そう思いつつ、彼女は船医の下へ向かった。
少しして、メサイアは船の一室の扉の前まで来た。その両側には、男の元奴隷が武器を持って待機しており、彼女の顔を見て頭を下げる。
「船医が呼んでいると聞いたんだが」
「ええ……船長が目を覚ましたそうです」
「! そうか……」
その言葉に、メサイアは居住まいを正す。そして元奴隷の開けた扉をくぐり中に入れば、同じように武装した屈強な元奴隷複数人に囲まれる奴隷商会の船医がいた。
彼は、少し痩せた様子の船長を診つつ、入ってきたメサイアに目を向ける。
「……メサイア、さん。船長がこのとおり、目を覚ましまして……できれば状況の説明を」
「……」
少し怯えた様子でメサイアにそう話す船医は、島への漂着の際、船長を除いて唯一島の探索に向かわなかった人物だ。
目的は勿論船長の看病のため。だがその結果、気付けば自分の知らぬところで船員は壊滅し、辺りが騒がしいなと感じた頃には奴隷は片っ端から解放されていた。
そうなれば、戦闘能力のない船医など、そこらの憔悴していた労働奴隷数人にですら呆気なく拘束できた。当然、彼もまた奴隷船の船員に数えられる。元奴隷は苛烈に彼を締め上げ、そのままそこにいた船長もろとも処分しようとした。
だが、メサイアの医術が使える人間は貴重という説得によって、彼はどうにか前と変わらずの地位に留まることが出来ていた。
この意見には当然不満を漏らす元奴隷もいたが、メサイアは島には様々な植物や生き物がおり、未知の毒やウィルスなどがあるかもしれないと言って意見を曲げなかった。
命の恩人に的確な理由を述べられそう説得されれば、さすがに元奴隷も渋々首を縦に振るしかない。
余談だが、メサイアの説得を聞いていた船医は全力で同意していた。
となると残る問題は、船長をどうするかだった。
船長は、ここにいる元奴隷のほぼ全員を拷問し、そして売り飛ばそうとした張本人だ。彼らが抱える憎悪は計り知れない。それを医者としての我儘で何もせず生かすなど、到底許容出来るものではなかったのだ。
だが、メサイアは彼を生かした。彼女には、ある目的があったからだ。
今、船長は意識を取り戻し、会話も出来るようになっている。何かできそうな状態には見えないが、もしまた懲りずに自分たちに不利益を与えようとするものなら、すぐにでも処分をしようと、彼の周りには屈強な元戦闘奴隷が待機する次第になっている。
医務室として使われる簡素な部屋の中に、筋肉のついた身体で武器を持った男の元奴隷が数人侍っているという光景が、その警戒心の高さを物語っている。
船長は、以前より覇気の無くなった顔でベッドの上で上半身を起こした姿勢でいる。そして入ってきたメサイアに、彼は呆然と目を見開いた。
「……意味が分からねえ。船医が誰か呼んだと思ったら、何でお前が来るんだ……!? どういうことだ、メサイア!!」
船長はそう言ってメサイアに食ってかかる。てっきりケラソスやバグが来ると思っていた。周りの元戦闘奴隷たちは一体何なのか。自分が気絶している間何があったのか問いただそうとしたら、来たのはメサイアだ。訳が分からない。彼は混乱していた。
「なんだよ、何も説明してないのか?」
「す、すみません。私の口からは、説明しづらく……本音を言えば、今の状況は嘘だと思いたいくらいなんです」
「現実逃避か? 報連相は必須事項だろう、ったく……」
そう言ってやれやれと首を振ったメサイアに、船長は再度目を見開いた。
「その口調……その態度……まさか、お前、69番か!? 記憶が戻ったのか!」
「ああ、そうだよ」
「おお……そうか! ぶひゃひゃひゃ! やったぞ! なら、まだ俺の億万長者になるって野望は──」
「船員は死んだぞ」
「……は?」
「船員は死んだぞ。死体もこの目で見た。もうこの船に商会の人間は二人しかいない。船医と、お前だ」
頭で理解するのに時間を要した。船員が死んだ? この船に二人しかいない? 何を言っているのかさっぱり分からない。自分が気絶している間に、一体何があった?
「ちょっ、と待てや。おい、ここはどこだ?」
「暗闇島だよ」
「あぁ!?」
「暗闇島。俺のいた、あの暗闇島さ」
「ふざけんな!!!」
そう言って船長がベッドから立ち上がろうとする。だが、すかさず元奴隷達が押さえつけた。暴れる船長も、屈強な男数人がかりで抑えられては何も出来ない。
だが口だけは動く。彼の怒りの感情は、暴言となって放出された。
「暗闇島だ!? 何故そんな場所に来た!? そんなもん自殺行為だろうが! 頭がおかしくなったか!!?」
「悪いが船が暗闇島に着いた原因は俺じゃねえ。俺が記憶喪失してる間に海賊に襲撃され、その余波でブラックホール海流に呑まれたらしい。そしてその結果暗闇島でお前のとこの船員は死に、その近くで転がっていた俺は記憶を取り戻し奴隷を解放した……これがお前が寝てる間にあったことだ」
「嘘だ! そんな言葉信じると思うか! てめえが仕組んだんだろ! 俺を殴り倒したお前が!!」
「……」
「目的は何だ!? 俺への復讐か! そんなにコールの腕を斬ったのが嫌だったってか! そうやって奴隷商に同情するような軟弱な精神だからてめえは記憶喪失に──」
「そう、それだよ」
「あ!?」
メサイアは、船長の下へ近付き、その目を光らせた。
「俺もおかしいと思ったことは幾つかある。記憶喪失だった俺には理解出来ないことが多いんだ。だが、お前なら知ってることがあるかもしれない」
「何!?」
「ケラソスとコールは何処だ」
「!」
そう言ったメサイアの目には、僅かな不安の感情が見えた。記憶を取り戻して、船員たちが死んでいる現場を見た。死体は酷い有様だったが、顔を判別できる程度の損壊状態の死体が殆どだった。
奴隷として捕らえられていた際に見た顔もいくつかあった。バグと呼ばれた痩せぎすな男や、飯を増やしてくれといったら激昂して器を蹴り飛ばした男の姿が見て取れた。
だが、ケラソスとコールの死体は無かった。辺りを探せばケラソスの持っていたステッキくらいは見つかったが、それだけだ。
全滅に近しい惨劇の現場に、ピンポイントで船長の次に憎い人間と、自分に唯一寄り添ってくれた人間の姿が無いこと。
それはメサイアに大きな違和感を感じさせた。何か作為的なものを感じずにはいられず、そしてもし二人があの現場から逃れられたのなら、是非とも見つけたかった。
ケラソスは、船長と同じく復讐してやるために。
コールは、今度こそ正面から謝り、そして感謝するために。
「……ケラソスとコール……だと?」
「そうだ。あの二人だけは死体が見つかってない。船医が言うにはコールは軟禁状態で、ケラソスは島の探索に向かったらしいが……コールを閉じ込めてた部屋は扉が壊され逃げられる状態になってた」
「!」
「一体あいつらに何があったのか。生きてるのか死んでるのか、誰も知らない。だけど船長、お前なら何か知ってるんじゃないか?」
そう。全員の憎悪の対象である船長をあえて生かした理由。それは二人の手がかりを聞くためだった。
奴隷船の船員が死んだ時点で閉じ込められてた奴隷は当然何も知らないし、船長の看病にかかりきりだった船医もおおよそ有力な情報は持っていなかった。
残るは船長だけだ。少なくともコールが軟禁された時点では普通に活動していたという。
その時にケラソスとまたぞろ良からぬ策略でも立てていて、それが消えた二人の行方に繋がる可能性はあった。
だが。
「し、知らねえよ」
「何?」
「知ってるわけねえだろ! 俺は今までずっと気絶してたんだ! それより前も、お前がゴミみてえな姿で帰ってきたショックで寝込んでたんだぜ! ケラソスもコールも、何も知らねえよ!」
「ふざけんな!!!」
「ぐへっ!?」
メサイアの拳が突き刺さった。ゴキ、という音を鳴らし顔を仰け反らせた船長は、数本の歯を口から吐き出しながらベッドを転がり落ちる。
だが、彼女は止まらない。
「クソ、クソクソクソ! じゃあお前はいるだけ無駄な存在じゃねえか! 身勝手な理由で俺を奴隷にして、好き勝手に拷問して、それでも生かしておいてやったのに何の役にも立たねえ!」
「ゲヒッ!! グヒ!!」
蛙のような醜い呻き声を上げながら、船長はメサイアに顔を蹴られ続ける。
彼女は気付いていないだろう。彼のその姿が、暗闇島の情報を知らないと言った時の自分と全く同じことを。
「め、メサイアさん! それくらいにしてあげて……! 船長が死んでしまう! 私の患者なんですよ!」
「そ、そうだ! やめろ! 止めてくれ!! わ、わかった! 俺の宝石コレクションを分けてやる! だから──」
「そうやって私腹を肥やしてたのか?」
「は……?」
そこまで言うと、メサイアは蹴るのを止め、今度はその胸倉を掴んで持ち上げた。
彼女の怒りに満ちた目を見て、船長は息を呑む。
「そうやって、コールに与えられた筈の分まで、全部自分の物にして来たのかぁあ!!」
「ぎゃああァア!!?」
全力で振り抜かれた拳が顔を打つ。あまりの威力にその肥えた身体が部屋を転がり、扉を破って廊下まで押しのけられた。
船長の顔は、元の不細工な顔が更に血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
白目を剥き、あ、あ……と、情けない声を出しながら仰向けになって細い息を吐く船長に、かつての背筋が凍るような目付きも、威厳もない。
「め、メサイア様……」
「ひぃ……! お、お願いしますメサイアさん! もうやめて!」
「黙れ。俺に指図すんな」
「!」
その様に、船医は腰を抜かし、元奴隷たちも顔を青くし目を右往左往させる。
騒ぎを聞きつけた人間が恐る恐る廊下から近づいてくる中、血も凍るような無表情で船長の下へ歩いたメサイアは、その顎を掴み顔を持ち上げる。
「げ、ゲホっ、や、止べて……」
「コールたちの情報もない今、お前に価値なんてねえ、せめてこいつら拷問してきた元奴隷の前で無様に命乞いして少しでも鬱憤晴らさせてから死ね」
そして構えられた拳に、元奴隷たちは船長の終わりを覚悟した。
廊下は騒然となり、多くの人間が顔を青くして遠巻きに事態を見つめる。
そこに、エイブリーも駆け付けてきた。
人混みを掻き分けて目に入ったその光景に、彼は目を見開く。
「メサイア……!?」
その光景は、ボロボロになった船長を射殺さんばかりの表情で掴むメサイアの姿は、エイブリーにとっては強い衝撃を与えるものだった。
数日前まで、自分と共にいた無垢な少女の姿と、その暴力的な姿は比べようがない。その差が、彼の心を強く揺さぶる。
無為な妄想だと忘れようとしていた。だが、記憶に残ったあの温かな笑顔を忘れられなかったエイブリーに、この光景は刺激が強すぎたのだ。
彼がメサイアを静止しようと声を上げたのは当然の反応だったのかもしれない。
「メサイア! 何をしておるんじゃ!! 止めんか!!」
「! っエイブリー……!」
エイブリーの声を聞いたメサイアは、一瞬そちらへ目線を向け、表情を僅かに崩す。
エイブリーという好々爺は年の功から来る知識や包容力によって元奴隷のなかでも年長者としての信頼を得、今ではその存在は欠かせぬものになっている。
ここ数日の間の関わりだけでも、メサイアに心地いい温かみを齎していた。
そんな存在の必死の静止によって生じた迷いを、船長は見逃さない。隙を見せたメサイアの姿は彼に一抹の余裕を与え、震える口元を笑みの形に歪ませた。
「ひ、ヒヒ! ぶひゃひゃ! ゲヒ! で、出来んのか! お前みたいなガキが、お、俺を、飼い主たる俺を殺せんのか!? や、やってみろ! ぶひゃひゃひゃひゃ! ゲホ!」
「……あぁ……!?」
「け、結局お前らは、根っからの弱者なんだ! 俺達持つものに搾取され続けるしかない能無しのゴミなんだよ……! お前らじゃ何も出来ねえ! 何も成せねえ! こ、この暗闇島で怪物に食われ、嘆いて死んでいくしか道はねえんだぁ!!」
「……そっか。まだ分かってねえんだな」
その言葉に、怒りを通り越し呆れた表情を見せたメサイアが、一瞬脱力し、ふと船長の後ろの壁に手を当てた。
その手が、肘の辺りから黒く染まる。全員が、困惑したような顔になった。
「俺はな、もう弱者じゃない。島の怪物も、お前も、俺の敵じゃないんだよ」
「は、は……!? 何言ってんだてめ──」
「これがその証拠だ……!!」
そして全員が見た。メサイアが壁に手を押し込むように力を入れた途端、その場所から波が拡がっていくように、船の側壁が音を立てて破壊されていく光景を。
頑丈な壁が、片手だけで破けていく光景を。
「「!!!」」
「フフフ……アッハハハ!! 見たか! これが今の俺の持つ力だ! 俺はもう誰にも奪われねえ! 誰にも負けねえ!!」
「な、な……!」
船長はやっと思い出した。自分を何日もの間ベッドに縛り付けた、あの少女の拳を。腹に突き刺さり、身体の骨を破壊したあの圧力、あの痛み、あの恐怖を。
「や、やめろ……い、嫌だ! 止めてくれェえ!!」
「さあどっちがいい? この場で俺や、周りの元奴隷にリンチにされて死ぬか。このままブラックホール海流に落ちて波に抗えぬまま溺死するか」
「ひ、ひィ!! あ、悪魔が!」
「とっとと選べよ、このゲス野郎……!」
「い、嫌だ! そ、そんな二択が飲めるかってんだァ! フ、ふひ! しし知ってるか!? 人は二択を迫られると無意識にどっちかを選ばなきゃいけないと錯覚するんだ! だ、だが、俺の答えはどっちも嫌、だ! だ、伊達に奴隷の心を折る仕事で食ってきちゃいね──」
「ああそうかよ……!! じゃあ、望み通り二択は帳消しだ!」
「は、はァ……!?」
メサイアがその拳を振り上げる。黒く染った腕に力を込め、歯を食いしばって握力を強めた。
「このまま殴り殺して、海に棄ててやるよ!! どっちの選択肢も味わえて一石二鳥だろうが!!」
「ぇ、い、いぃやめろォお!! 死に、死にたくねエェエ!!!」
「うぁああァアアア!!!」
殺す。人を殺す。
そう意識する度に自分の中の善の意志が心を苛む。だが、これしかない。これしかないんだ。
俺がやらなきゃ誰がやるんだ──!!
その拳が、船長の顔向けて動き出し……。
「止めなさい!!!」
「!!」
そこで、止まった。
エイブリーに腕を掴まれたからだ。驚いた顔で振り向いたメサイアは、老人とは思えぬ気迫に満ちた彼の顔を見て困惑する。
「な、何を、エイブリー」
「その一線は、超えちゃいかん。その先は、地獄じゃぞ」
「は、離せよエイブリー! お前、こんなクソ野郎を庇うのか!?」
「そんな事は言っとらん」
エイブリーの意志は強く、それは彼の握り締めた手への力に現れていた。
何度か振り払おうと腕を引っ張るメサイアだが、その手は離れない。
「う……」
急に自分の意思が、萎んでいくのを感じた。感情に任せて膨らんでいたドロドロとした何かが、呆気なく勢いを無くして消えていく。
気付けば、メサイアはその場にへたり込んでいた。
「あ、あれ」
そして気づいた。自分の手が、震えていることに。
「あ……」
そうか、自分も本当は、人を殺したくなかったんだな。
人の生命を、奪うのが怖かったんだな。と、そう自覚した。
「……やはり、お主も葛藤してたんじゃな? どれほどこの男が憎かろうとも、殺すことだけは、恐ろしかったんじゃな?」
「あ、あ……」
エイブリーはそのことを分かっていたのだ。
自分の中の複雑な感情を見透かされ、言葉が出ない。
無意識に、自分はまだ孤独なのだと思っていた。だが、それは誤りだった。
こうして感情に流され、二度と戻れない領域まで踏み込もうとした自分を、止めてくれる存在が、理解してくれる存在が傍にいたんだ。
独りじゃ、なかったんだ。
「儂の細腕など、本気を出せば振り払えたろうに。本当は、止めて欲しかったんじゃろう。自分自身を」
「エイ、ブリー」
「メサイア……よく耐えたな」
「う、うぁ、あぁ……!」
メサイアは涙を抑えきれなくなり、その場で崩れ落ちた。堰を切ったように、自分の中の心情が溢れ出てくる。
「ずっと、ずっと許せなかったんだ……! 俺はこの島で、ずっと怪物に狙われて過ごしてきた! 目の前で船が突っ込んで、人が死ぬのを見た! 誰かに、助けて欲しかったんだ……! なのに、助けてもらおうと必死で泳いだ先にいたのはこの奴隷船で! 俺は何もしてないのに奴隷にされて!」
「うん」
「珍しいからって! 高く売れそうだからって! そんな勝手な理由で拷問されて! 助けて欲しかっただけなのに何でって抵抗する度に殴られて、従わない度に蹴られて! その理不尽が、その身勝手が許せなかった!」
「うん」
「でも、俺は気付けば自由になってて、そしてこんな力も手に入れてた……! 俺は、自分が特別だと思った! 今まで散々痛ぶってきた奴らに、復讐してやれると思った!」
「うん」
「だけど、違ったんだ……! 俺が求めてたのは復讐なんかじゃなかった! ただ、この孤独から、助けて欲しかったんだ……!」
結局、自分の得た力が齎したのは、更なる孤独だったのだ。皆に救世主だと言われ、誰も持たない特別な力を手に入れたことは、より自分と他人の距離を広げただけ。
自分は特別なんだと嘯いたのは、誰も自分と同じじゃないという孤独を、寂しさを紛らわすための誇張でしかない。
船長を殺したら、どうなっていただろう。きっと、自分は元奴隷達にとって遠い存在になっていたに違いない。
自分と彼らの溝が、いつかは対等だったはずの立場が、どうしようもなく乖離していたに違いない。
なんて、なんて恐ろしいのか。
なぜ、なぜこれほど孤独を恐れるのか。
そう、そうだ。自分はきっと。
「エイブリー……!」
「なんじゃ」
エイブリーを見上げる。その優しく、だが芯のある瞳を、潤んだ目でしかと見つめた。
「俺達人間は、皆、同じだろう!?」
「!」
「生まれた時から、ずっと、死ぬまで、俺らはずっと人間で、どうしようもなく愚かで、どうしようもなく同じなはずだろう!?」
「……!!」
「俺は、嫌いだよ……! 奴隷なんていう立場が! それを買い漁る貴族が!」
エイブリーは、大きく目を見開いた。その言葉に気圧されたように、一歩後退る。
「生まれの差だけで、なんて馬鹿らしい! 出身が珍しいから売り飛ばされる!? 出身が高貴だから何やってもいい!? そんな訳があるか!」
「メサ、イア」
「そんな事が罷り通る世の中に、未来なんてあるもんか!!!」
「!!!」
そう言って床に頭をつけて泣くメサイアに、辺りは静まり返った。
全員が声もなくその姿を凝視し、船長もまた、もう少しで殺されていたという事実に呆然と床に突っ伏していた。
暫し、メサイアのすすり泣く声だけが場を支配した。
その時間に区切りをつけたのはエイブリーだった。目を見開き固まっていた彼は、どこか、憑き物が落ちたような顔をし、メサイアの肩を優しく叩く。
「メサイアよ。辛かったじゃろう。よくぞ、儂らにその気持ちを明かしてくれた。儂は、お主のその想いに賛同する……お主は独りではないぞ」
「……!」
「のう、お主らもそう思うじゃろう?」
そう言って周りを見渡せば、多くの元奴隷たちが、力強く頷いた。自分たちを救ってくれた恩人のその想いは、あまりに眩しかった。彼女が涙と共に差し出してきた手を、誰が拒めようか。
「「「うおぉおおおお!! メサイア様! 俺も入れてくれ! 俺もあんたと同じ志を持ちたいんだ!」」」
「み、みんな」
「メサイア。今は少し、休みなさい。船長は儂らが然るべき対応をしておくから。もう孤独では無いのだ、安心して、ゆっくり休むことじゃ」
「……うん」
その言葉に、メサイアは涙を指で拭い笑う。
安堵からか力が抜けた様子の彼女を、元奴隷たちが優しく介抱し、連れていった。
「お主ら、こいつを船医の下へ。治療も必要じゃろうが、この身柄のことも考えるべきじゃろう。皆で話し合っておいてくれ」
「「ああ、分かった!」」
「この壁も直すべきじゃろうな。やることは多くある……各々、やれる事をやっていこうぞ!」
「「応!!」」
エイブリーの指示に、彼らはそれぞれで行動し始めた。誰もがメサイアの言葉に心動かされ、率先して行動していく。
彼らが廊下から消え、エイブリーだけが残された時、彼らの後ろ姿を振り返り、顔を上げた。
そうだ、あの背中は……あの時も、そうだった。
「これは、運命なのかのう。メサイア……お主の言葉は、その姿は、儂にとって、どれ程価値があり、そして、劇薬なのか……」
彼が思い起こすのは、そう……あの時の記憶。
自分を許せず、その血を呪うことになった、あの記憶。
『私たちは、変わらねばならないのです!』
『そのことに疑問すら感じず、ただ目の前の景色を当然だと思考を放棄するだけならば、今の我々の在り方には、何の意味もない!』
『立ち上がるのです!! 我らが我らであるために──!!』
『人間であるために!!』
「ああ、懐かしいな……忘れるわけが無いわ」
メサイアの言葉は、陰で生きていた彼らに、光を齎したのだ。だが、それを受けたエイブリーの背中には、どうしてか、色濃い影が見えた。
「儂はあの時逃げた。だから、これは儂への報いなのだと思っておった。……だが、何も変わらなかった。今、儂をあの子に会わせたのは、お主が、逃がさないぞと伝えたいからか?」
エイブリーは、どこか遠い目をして、壁の穴から見える夜空を眺める。吸い込まれてしまいそうな、その闇を。無数に輝く、星の煌めきを。
「のう、今でもお主は、儂を恨んでおるのか?」
「イスカリオテ」