奴隷船の廊下。
ある元奴隷の一人がいつものように資材を集め船室の一つへ運んでいた。その作業の途中、何の気なしに医務室の前を通り過ぎる。
ちょうど扉の前を通りすぎたタイミングで、背後から扉が開く音がした。振り返る元奴隷、てっきり船医が出てきたかと思って後ろを見た彼はしかし、そこに悠然と立つ筋肉質な男の姿に荷物を取り落とした。
「な──」
その顔面は、次の瞬間廊下の壁に叩きつけられた。わけも分からぬまま、彼の意識は闇に沈む。
それをやった男、翠眼海賊団の船員は虚ろな目でその姿を見下ろす。
そして、次いで医務室から出てきた船長はその成果に喜色満面になった。
「ぶひゃひゃひゃひゃ! いいぞ、メサイアやエイブリーがいない今のうちに、奴隷船を占領し戦力を削げ!」
「了、解」
船員はただ無心で命令に従う。それこそが彼の使命。洗脳された彼に出来る唯一の行動だ。
その手に持った剣と盾を力強く握りしめ、廊下を歩いていく船員は、それからたった数分で、奴隷船を阿鼻叫喚の地獄の地へ変え、瞬く間に片っ端の元奴隷を戦闘不能にした。
*
メサイアたちが異常を察知したのは、島の行動範囲拡大のための探索を終え、その視界に煙の吹き上がる奴隷船を入れてからだった。
まさか怪物の侵攻を許したのかと思い、彼女らは気づけば奴隷船へと駆け出していた。
想定外の事態だ。
メサイアたちはこの島に漂流して二ヶ月間、何の対策も講じず自由を夢見ていたわけではない。中心部で何もできず逃げるしかなかったという経験はメサイアやエイブリーに甘えを許さず、常に成長し一日でも早く島から脱出することを求めた。
その意識は元奴隷たちにも波及し、彼らもまた虎や鹿の木っ端の怪物ならメサイアたち主力がいずとも奴隷船から遠ざけるくらいは出来るようになっていた。
虎の怪物の弱点は口内、など怪物の種類ごとに弱点を研究し、効果的な迎撃手段や防御陣地を形成した。
島の植物の成分を抽出した薬品を船医と共同で作成し、それをボウガン等で打ち出す武器もまた目覚ましい成果を上げている。
そんな彼らが待つ船が、たった数時間の探索の間に陥落するなど考えられない事態だった。まさか中心部の異形の怪物がわざわざ中央から出て攻撃をしかけたのかと予想したが、その真相は単純明快、内部からの崩壊だったわけだ。
銃声が響く。
足元の砂浜に放たれた弾丸にメサイアたちは足を止めた。
目線を上げたメサイアは、ニヤついた笑みを湛え銃口を向ける船長に気づき顔を顰める。
「てめえ……!? なんでここにいる! なぜ武器を持ってるんだ! 他の仲間はどうした!!」
「ぶひゃひゃひゃひゃ! 待ってたぜメサイア……! 後ろの船を見て分からねえか? 制圧したのさ、中心部で見つかった翠眼海賊団の船員の生き残りを洗脳してな!」
「あぁ!?」
制圧した。その言葉を聞いたエイブリーたちは顔色を変え、すかさず持っていた銃を構える。奴隷船や付近の座礁して間もない船から集めた現役の銃だ。
それを見た船長は咄嗟に砂浜にいくつも設置されたバリケードの裏に身を隠した。これもまたこの二ヶ月の間に怪物の対策に施された元奴隷たちの努力の結晶だ。
それを利用されたことにメサイアは思わず舌打ちする。そのバリケードごと破壊して彼を捕らえようかと思い持っていた長剣を構えるが、その瞬間バリケードの後方から影が飛び出してきた。
「!!」
振り下ろされた剣を硬化した長剣で咄嗟に防御した。だが、そのフィジカルには太刀打ちできず大きく後ろへ吹き飛ばされる。
砂浜に片手の指を食い込ませながら下がる。眼の前に現れたのは、以前中心部で見つけたくすんだ金髪の男。大傷を負い船医の献身的な治療を受けつつ、その素性の不確定さから手錠をされ警戒されていた彼が野放しになっていることに驚き、そして先程の船長の言葉を思い出した。
「そのナントカ団の船員ってのは、こいつのことか……! 現地の人間じゃなかったのか、ていうか、なぜお前がこいつの素性を知ってるんだ!」
「ああ、教えてやるよ。そいつはお前が記憶喪失になってるうちにこの船を襲撃した海賊の一員だ。海賊団は俺等と同じく島に漂着し、船員は殆ど死んだようだが、こいつだけは運良く生き残っていた。そして襲撃時に顔を見ていた船医がこいつの正体に気づいたのさ」
「海賊だぁ……? 中世でもあるまいし、何でそんなやつが海で活動してるんだ」
「? まあ、こんな辺鄙な島で暮らしてたお前に海賊に関する常識なんてねェか? お前の持つ情報も結局そこのエイブリーに比べりゃ無価値に等しかったもんなァ」
「何だと……?」
まるで海賊が表立って活動するのが普通と言わんばかりの物言い、そして己を散々拷問し利用しようとした船長の役立たず認定にメサイアの顔は曇りに曇った。
だが、そこで後方にいたエイブリーが船長を問いただす。彼にとっても聞きたいことは山ほどあった。
「それより、なぜ拘束されていたその男が自由になり、お前共々儂らに敵対している!? 手錠の鍵はメサイアと儂が共同で厳重管理していたはず! 解錠の恐れは少なかったはず!」
「甘いんだよ、そもそも手錠による拘束を提案したのは船医だったろうが」
「! まさかそんな当初から……!?」
「わざわざ昔の海軍の軍艦の残骸を捜索し、見つかった手錠をこいつの拘束に使おうと船医が進言したのも、この男が海賊だと知ってのことだ。それを見つけた時点で、手錠の鍵型は取っていた……後はこいつを洗脳し、タイミングを伺って事を起こすだけだったんだよ」
「洗脳……! どうやってだ! そいつはどう見てもお前より頑強だろうに、どうやって洗脳を受けるほど消耗させたんだ!」
「ぶひゃひゃひゃひゃ! 詳細なんざ俺が知るか、大方島の怪物に船員が殺され、自分もボコボコにされたのがよっぽど衝撃だったんだろ。とにかく、俺はこいつをうまいこと洗脳できた……こいつは強いぞ、お前らはここで終わりだァ!!」
「~~~! いつまでも俺等に害をなしやがってぇ……! もういい、お前はもうここで終わらせてやる!!」
メサイアはエイブリーの顔を見た。一度は収めた矛だが、もう今回ばかりは躊躇う余地がない。
相応の覚悟を持って己の殺しに待ったをかけた彼には悪いが、もはや仕方ないだろう。その考えはエイブリーにも通じたようだ、彼もまた銃を構え直し、無言で頷く。
「やろう、メサイア。お主だけの責任ではない。この手でやつが死ぬ未来を止めた儂にも、船医の言葉に踊らされ処分を有耶無耶にした他の皆にも少なくない責任がある……! 奴には、相応の対応を以って罪を償ってもらうしか方法はあるまい」
「決まりだ、やるぞお前ら!!」
「「おォ!!」」
「ぶひゃひゃひゃひゃ! さあやれ! あの奴隷共をぶちのめし、俺のモノにしろ!!」
そうして、戦いの火蓋は切られた。
メサイア達一団は一部は船員の無力化、一部は後方から銃撃する船長を牽制した。
メサイアが長剣を黒く染め真っ向から相対する。先程の一撃でフィジカルでは勝てないことは分かった。だが攻撃力ならば硬質化できるという点で引けを取らないはず。
「うおォ!!」
「……」
洗脳された船員が命令を受けメサイアたちの無力化にかかる。
いくら屈強な肉体を持つ荒くれ者だろうが、洗脳を受けていることは戦いにおいておおきなディスアドバンテージだろう。思考、判断、認識に関する能力は通常よりも落ちていると見ていい。洗脳された経験のある自分がそのことを一番良く分かっていた。
船員が腰を落とし踏み込んだ時点でメサイアは早々に回避を選択した。砂浜向けて叩きつけられるように振るわれた剣を、彼女は男から見て左手──盾を持つ手の方へと避ける。
特別な力があろうが、メサイアは戦いについてはてんで素人だ。なんの技術もないし、誰かに武を師事した過去もない。
だがそれでも、自分は戦わなければいけない状況に常にいた。島の怪物を倒し、いつか島を出るという目的を持つ彼女に、漂着してから剣を握らない日など存在しなかった。
相手は専ら武の心得もクソもない野生の動物ばかりだったが、そのなかで危険を予測する感性くらいは鍛えられた。
直感的に、男の剣が届きやすい右手は危険と感じた。
盾を構える鍛えられた腕は引き締められ重厚な様相を醸しているが、彼女は一切躊躇せずその鉄板で補強された盾に剣を突き立てる。
「!」
鈍い衝突音とほぼ同時に、銃声が複数響く。男は剣を数度振り銃弾を防御するが、その隙に再度振るわれたメサイアの剣戟に一歩下がった。
「っ、質で勝てなくとも数はこっちが圧倒してるぞ!」
メサイアが強い腕の痺れに顔をしかめつつニヤリと笑う。
彼女の攻撃のタイミングで元奴隷が銃撃し負傷を狙う作戦だ。こちらの人数は15人。各所にまんべんなく散らばった彼らは、各々が確実にメサイアを傷つけず撃てるタイミングで船員向けて銃撃する体制をとった。
「フン、そう来るだろうよ……おい、周りの雑魚奴隷を優先して戦え! メサイアとエイブリー以外は殺したっていい!」
だが船長はその戦況を俯瞰的に捉え、船員に追加命令を下す。
バカ正直に相手の作戦に合わせる必要はない。周囲の雑魚が鬱陶しいならそこから処理するのみだ。
「させるか、よ!!」
メサイアはそうはさせまいと船員の首元狙って剣を一閃した。移動の前動作に屈み込んで低くなった男の首元に漆黒の切っ先が迫る。
だが、次の瞬間男は消えた。
虚しい風切り音がメサイアの耳をくすぐる。
「え?」
咄嗟に振り返った。
その眼は、首を断ち切られ崩れ落ちる元奴隷と、今まさに袈裟懸けに開いた傷から大量の血を噴き出す元奴隷の姿を映した。
「「──」」
全員が信じられない光景に目を見開き呆然とする。時が止まったかのような間を置いて、船長の汚らしい笑い声が響いた。
「ぶひゃひゃひゃひゃ!! 言っただろう! レベルがちげぇんだよ! お前ら素人なんかとは、強さのレベルがなぁ!!」
彼らは分かっていない。
「うぁァアアあああ!!」
メサイアは気づけば喉を震わせ、がむしゃらに足を動かしていた。
一瞬のうちにこの数ヶ月を過ごしてきた仲間が二人も死んだ。その受け入れがたい事実を咀嚼する間もなく、船員は次の獲物向けて剣を振るっている。
その叫びによってどうにか迎撃しなければと意識を取り戻した元奴隷が、船員向けて銃を斉射する。
流石に防御を選択する他無いと男は盾を構え身を守るが、その間にどうにかメサイアは大きく開いた距離を縮められた。
「ふざけやがってェ!!」
──パシュ。
「あァ!!」
「!」
「背中ががら空きだぜ」
惨劇を起こしたその男に気を取られるあまり、一人の仲間が船長の銃弾を脇腹に受け叫んだ。
後方で状況を一望できる彼が見え見えの隙を見逃すはずがない。
そのことに気づけず新たな犠牲を出してしまったことに猛省しつつ、エイブリーはすぐさま的確に判断を下す。
「デニス、カイ! 儂と共に何があろうと奴の横槍を警戒しろ! たとえ近くで死人が出てもやつから目を離すな!!」
「他の者は全員命がけでその男を止めろ!」
「「お、おう!!」」
付近の二人の仲間に、これだけはという指示を簡潔に伝えることで、各自の立ち回りを明確化する。
メサイアの武、エイブリーの統率を主体として、どうにかこの状況を打開しようとした。
だが、そんなエイブリーの近くに、白目を剥き血を流したメサイアが吹っ飛んできた。
「!」
横目でそれを見た彼は歯を食いしばり腰元の治療薬に手を伸ばす。銃口を船長の隠れるバリケードから逸らさず、船医が作ったそれを傷口に振るった。
この少しの間に、メサイアたちと男の攻防が彼女の一方的な敗北に終わったことを苦い面持ちで受け止める。
「く……! メサイアでも太刀打ちできんのか!」
「ぶひゃひゃひゃひゃ! そりゃあそうだ! 偉大なる航路の海賊団の人間だぞ! そんなチビのガキが、どうやって勝つってんだ!」
「偉大なる航路、じゃと!? 馬鹿な……!」
勝利を予期し上機嫌になった船長が、その重要な情報を口走る。
翠眼海賊団という名を知らなかったエイブリーだが、その単語によって男の異常な強さの理由を理解した。
なんという不運。こんな怪物を野放しにしてしまったとは。彼の中で焦りが募っていく。
メサイアとの約束が、己の悲願が遠のく思いがした。残酷な現実が心にのしかかる。
船長の背後で煙を上げる奴隷船、その焦げ臭い匂いが鼻を突く。
状況は絶望的だ。全員が顔を青くし武器を構える手を振るわせる。
だが、そんな現実に、吹っ切れる男もいた。
人権もなく、家族の名も知らず、虐げられるだけの人生を送ってきた者の中には、もはやその身に未練などない存在もいたのだ。
「すまん皆、俺は、決めたぜ」
「!?」
銃を脇腹に受けた男は、船医の治療を受け生きて助かる未来は薄いと悟り、ある決意をした。
せめて人生の最後に、一花咲かせようと。
「あいつに一矢報いて、俺はこの絶望だらけの生に区切りをつける」
「な……!?」
「何する気だ!」
「おい、何言ってる! 変な気を起こすんじゃ──」
「おぉおおオォオ!!」
そう言って走り出した元奴隷の男。
周りの仲間が止めるが、彼は一目散に船員の懐を目指す。
「……」
「ぶひゃひゃひゃひゃ馬鹿か! とどめを刺してやれ!!」
バリケード越しに受けた命令を遂行した船員の剣が、疾走した男の腹を貫通する。
血を吐き出した元奴隷は、しかしその口の端を吊り上げる。
「見ろ、よ、そこの船の残骸で、拾ったんだ」
「!」
穴の空いた拾い物のジャケットを掴み、裏地を見せる。
紐で括り付けられた爆薬が、男の目に飛び込んできた。
その導火線に火がつけられても、洗脳された男は逃げる判断を下さない。
避けろなどと命令されていないのだから。
バリケード越しに彼を見る船長には、彼の覚悟が見えていないのだから。
「吹き飛べ」
「「!!!」」
二人を、爆風が包み込んだ。
*
鼓膜を震わせた衝撃に、思わず目を覚ます。
咄嗟に起き上がったメサイアは、広がる爆煙を呆然と見つめる仲間たちに目を白黒させた。
「な、何が起きた……? あの男は?」
「……フリッツが、自爆を。奴はそれに巻き込まれて」
「……!!」
受け入れがたい事実を知り彼女の顔は青くなった。
自分があの時やられなければ、結果は違ったかもしれない。この数度の打ち合いで、己の弱さを再認識した彼女にとって、仲間の自爆はその重圧を余計に増幅させた。
こんなことではあの異形の怪物も……島からの脱出も……そんな思いがメサイアの拳を握る力を強める。
だが、そんな彼女の目は、やがて晴れた煙の中心に膝をついて白目を剥く、くすんだ金髪の男に釘付けになった。
見るも無惨な姿で横たわるフリッツの覚悟を踏み躙るように、かの男はその肉体を変わらず保持してその場に佇んでいる。
「……ぐ、ゲフ……ぅォ……」
「な……なん、で」
理解し難い。なぜ片方はボロボロに吹き飛んで、もう片方は全身の肌を黒く焼くだけで終わる。
なぜ、それほどに差が出る。同じ人間だろうに。
「野郎……! ふざけた真似しやがって!! おい、くたばってねえだろうな!? まだ戦えるだろうな!? 戦えェ!!」
背後から、船長の怒りの籠もった命令が響いた。
男はそれに反応し片膝をついて起き上がろうとするが、すぐさま両の手をつき崩れ落ちる。
船長はその情けない様子に顔を思い切り歪めた。
そして、言葉を投げかける。悪魔を呼び起こすその言葉を。
「あぁあクソがぁ!! もういい!!
「!!」
「な……はっ……!?」
何を言っているんだと言いかけたところで、メサイアは驚愕の光景に続く言葉を見失った。
命令を受けた男に異変が起きる。
その歯を擦り合わせ唸りだした彼の人間の歯が、鋭利に変形していく。
「グルルルル……ッ!! オ、オォオオ……!!」
男の身体が、みるみる膨らんでいった。
腕、脚、胴、身体の各部から黄褐色の体毛が繁茂し、その姿が人間のそれを逸脱していく。
「……嘘、だろ」
四肢を地につけ頑健な首を持ち上げた男だったその者は、血走った白目をギロリと光らせ、血の混じった唾を吐き出しながら咆哮する。
黄褐色の体毛に包まれた巨躯。腹や背にまで届く長毛のたてがみ。その砂浜に深々と突き刺さった鉤爪。
「グゥオォオオォオオ──!!!」
ネコネコの実、モデル、バーバリライオン。その悪魔の力が解禁される。
百獣の王たるその雄姿は、たとえ身を焦がす爆発に蝕まれようとも容易く揺るぎはしない。
「「うわァアああ!!!」」
目の前に現れた化け物に、元奴隷はがむしゃらに銃を放つ。いくら島の怪物と戦ってきた彼らにとっても、男がその人としての姿を捨て、猛獣へと変貌する光景は強い衝撃と恐怖を齎すものだった。
鉛玉をモロに食らう猛獣。だが、その豪然たるフィジカルに裏打ちされた獣の肉体は、それを覆う無数の体毛はその攻撃を全く受け付けない。
島の怪物を思わせる頑強さだ。咄嗟に今までの経験を活かし口元、眼球、そういった弱点足り得る箇所を銃撃するが、その獣は驚くべき危険察知能力で致命打になる銃弾だけを回避。
そしてその圧倒的初速を以って近くの船員の顔面を食らった。
「グォオオォオ!!」
「くそぉ! どうすればいいんだこんなの!」
「無理だ! 俺がどうにかする!」
「メサイア様!?」
そんな恐るべき猛獣へ、メサイアは一切の迷いなく向かっていく。
銃も効かず、島の怪物とは違うから葉の成分も効かず。
結局、自分がどうにかするという、無謀な勝負を仕掛けるしかない状況だった。
とにかく、目の前の化け物を打倒さなくては。
今こそ、あの異形共に敗北したあの日の憎しみを力に変え、乗り越えるときだ。
自分はこうして、怪物をぶちのめすために、自由のために戦ってきたのだ。その成果を今見せずどうする。
脳裏をかすめた、これは本当に現実なのかという言葉は、その時点で彼女の頭から消えていた。
そうだな、それがいい。
きっと今は考えるべきでない。
「うぉぉらぁアァア!!!」
それを考えたら、この心に宿る意志は揺らぐだろうから。
長剣の刃を滑り込ませるように放つ。たてがみごとその隆起した胸肉を断とうとする一撃を、猛獣は飛び退いて回避した。その宙に浮いた後ろ脚が地に着いた瞬間、腰から下の筋肉が爆発的に膨れ上がりメサイア向けて突進する。
「うっ!!」
咄嗟に砂浜に身を投げて避けた。その上空を疾駆する猛獣の勢いは凄まじく、発生した風圧に押しのけられ数度砂上を転がる。当たっていたら即死も有り得る一撃だ。
拷問の末目覚めた先を見通す能力。怪物との戦いの中で少しずつ研ぎ澄まされたそれはどうにかそれを回避することに成功する。
(人だったときより、動作が読みやすい……!? これなら……!)
その身を動物へと変えたことの弊害は、洗練された武の要素を失い、より攻撃が野性的で直線的になったことだ。
未熟な彼女の先読みは男の剣技の前では通用しなかったが、今ならどうにか手応えを感じるレベルまでなった。
一方的にやられる可能性は低い。これなら、後は己の刃を奴の内まで通すだけだ。
いける。殺れる。
「やってやろうじゃねェか化け物がァア!!」
咆哮し己を鼓舞する。奮い立った意志を剣先に乗せその刃の黒をより濃くした。
その殺意を鋭敏に感じ取った猛獣は、牙を剥き助走をつけて彼女へと肉薄する。先程より勢いが乗り速さは増している。
「──!」
カウンターを食らわせられるような余裕はないと感じたメサイアは、その場で相手の突進と逆方向に飛び退きつつ、長剣を逆手に持って片手足で踏み締めるようにして固定する。
その刀身に突っ込んできた猛獣の額がぶつかる。隆々たる首の筋肉によって押し出された彼女の身体はビリビリとした痺れる感覚とともに吹き飛ばされた。
(まだだ……! こんな硬さじゃ通用しない、もっと硬くだ……!)
今の剣では有効打は与えられない。次の攻撃を準備し始めた猛獣を見て今一度手に持つ長剣へ意識を向けた。
やや遠方を駆け回り攻撃のタイミングを伺う猛獣はそれを邪魔しない。これは好機と思い刀身に纏うその力をより重く、より厚くしていく。
やがて今出来る最大限の力を剣に乗せた時、メサイアは深い息を吐いた。
「……いつでもいいぞ、来い!」
そう言うと同時に、猛獣は左右に数度ステップをし攻撃の方向を読みづらくしながら接近を開始。意識を集中させる。四肢の筋肉の隆起、荷重移動、目線、殺気の膨れるタイミング……一つたりとて見逃さない。
(──右から……次の跳躍の0.8秒後、左前脚の爪撃──!!)
読めた。後はそれに合わせて反撃するだけだ。回避を予期されないギリギリのラインまで待ち、その爪の先が地面から離れた瞬間脱力し腰を落とす。わずか数センチ上部をかすめた前脚の攻撃の後に、がら空きになった脇の肉が目に入る。前方に体重をかけ慣性によって進むその身体に、静かに水平にした刀身を滑り込ませた。
後に来る極太の後ろ脚との接触を回避しつつ、有効な一撃を与える方法だ。猛獣の体重利用しその刃を深々と食い込ませつつ、メサイア自身の右方への跳躍回避を同時に成し遂げる。
「オォオオオ!!」
獣の脇の下が裂け、血飛沫が彼女の頬を赤く染めた。猛獣の体幹が均衡を失う。彼女から見て左方向に倒れ込むようにしてメサイアと交錯したその獣は口からも血反吐を吐き、その充血した白目を揺らした。
「どうだ……!? 少しは効いた、か──」
だが、食いしばった歯をギチギチと鳴らし彼女を睨みつけた獣はその尻尾をくねらせメサイアの胴に巻きつける。
虚を突かれた彼女はしまったと内心舌打ちし、その身を宙へと吹き飛ばされた。
(……!! クソったれ! 相手の初動に集中するあまり、その次を予期し損なった!!)
初撃の予測にリソースを割きすぎたことで、次の対応の精度を欠いた。反撃の成功からくる一抹の慢心もあったろう。
自身の油断を叱咤するメサイアの身体は、次の瞬間丸太で作られた強固なバリケードに叩きつけられる。武装した背中もその勢いから来る衝撃を殺せず、押し出された内臓の影響で血を吐く。
「ぐがっ!!」
先程周囲を駆けタイミングを伺っていたのは、後方のバリケードを利用しその身を押しつぶそうという意思があったからか。
だめだ、意識が飛びそうだ。怪物の対策に頑丈に補強されたバリケードが仇になる。
「グ、ォオオ……!」
耳鳴りの中にいくつもの銃声がかすかに聞き取れる。メサイアへの追撃を許すまいとした仲間の援護射撃だろうが、その音すらはっきりとは聞こえない。後頭部を強打したのがまずかったか。ろくに身体を動かせず、感覚も麻痺している。
猛獣の咆哮も、血なまぐさい口臭も、すぐそこにあるのが感じられる。明らかな追撃の予感に危機感が膨れ上がった。これを避けれなければ死ぬ。
溢れ出る殺意の源泉を必死で探った。どこだ、どこから来る。右、いや違う、真上だ。
機能しなくなった聴覚が逆に無駄な情報をシャットアウトした。残る力を振り絞り右方向へ転がったメサイアのすぐ横に、猛獣の前脚が突き刺さる。
「ぅ、ゲホ、ごほ……!」
咄嗟に右に避けたのは正解だったか。自身に近い方の獣の前脚は大傷を負いろくに動かせず、追撃が大幅に遅れた。
エイブリーらの銃撃に助けられ、どうにか一定の距離を逃げることに成功したメサイアは、正常になっていく感覚の中でわずかに気配を読み取る力が向上したように感じられた。手痛い傷を負ったせめてもの報酬か。
「ウォオオ……」
船員が脂汗を流しみるみる獣の威容を崩していく。だんだんと人の姿へと戻っていった男は出血した脇を押さえ荒い呼吸を繰り返す。船長の命令も維持できない程度には消耗させられたということだ。それはいいが、油断はできない。
怪物相手に戦ってきたメサイアにとって人間との戦いはまだ慣れていない。戦闘技術を駆使する分その意味での脅威度は現在の方が上と言って良いだろう。腰のベルトから抜き放った予備の剣を持ち血走った目を向ける船員に、彼女は静かに剣を構えた。
「ぐ、ぅおォオ……!」
右手に持った剣の切っ先を左肩の上部へ向けながら男が接近する。
剣の振るわれる方向を予測したメサイアは、黒く染めた長剣を的確な位置に置き男の体重を後方へと流す。
「!!」
いける。相手が大傷を負った分ようやくコンディションが五分五分の状態まで持ってこれた。
だがこの濃密な攻防を長く続けることはできない。今までの戦いの中でかなり先読みの力を消耗した。隙を見て、早々にけりをつけなければ。
「ぐうぉおアアア!!」
「!」
相手も同じことを考えたのだろう。不完全だが、その上半身に先程の獣の様相が復活し始める。
素のフィジカルでも大きな差があったが、ここにきて更に身体能力が上乗せされた。まずい、まさかまだこんな奥の手があったとは……!
「ぐぅ……!」
「ギャアオォオ!!」
男はもはや自傷に近い勢いで剣を振るう。攻撃の度にメサイアのつけた傷口から血が噴出し、どんどんその獣と人のハイブリッドの顔が血の気を失っていった。
もう長くは戦えないだろう。だが彼女もまた防戦一方、そしていよいよ硬化した剣の耐久とスタミナが底をついてきた。腕の痺れが攻撃を受ける度に増していく。このままでは先にこっちがやられてしまう。
(考えろ! この状態を脱する手段は! 何かないか!)
必死に頭を回転させた。周囲の環境に何か逆転の余地がないかと、自身の状況に意識を向ける。
エイブリー、船長、他の仲間の状況を知覚する。他には、他には何か……。
その時、違和感を感じた。
自分の後ろにエイブリーたちとは別の気配を感じ取る。
危機感が最高潮に達し、全身に鳥肌が立った。
「危ない!!!」
「──」
ふり返った瞬間、瓦礫を組み合わせたような剣を薙ぐ猿の怪物が視界に入った。
*
エイブリーたちは、猿の怪物の攻撃が洗脳された男を吹き飛ばす様を捉えていた。
次の瞬間、間一髪でその攻撃を避けたメサイアが体勢を崩し、そのがら空きの胴に猿の長い爪が振るわれる。なんとか長剣を構え防御したメサイアだが、ついにその剣は怪物の攻撃で限界を迎え刀身を折られてしまった。
咄嗟に船長の牽制以外の役目を持つ仲間が持っていた薬品、葉の成分を抽出したものをボウガンに装填する。
斉射された弾丸が猿の顔面に当たり怪物は顔を手で覆って後退る。
エイブリーは咄嗟に指示を追加した。
「撤退! 撤退じゃ! メサイアを回収して逃げるぞ!」
「は、はい!」
「クソがッ!! さっさと片付けねえからこんな面倒事にあるんだ! おい! てめえならどうにかできんだろ! あの怪物共をぶち殺せ!!」
「オォオ……ぁ」
「おい! どうした! 早く命令に従え!!」
船長もまた怪物の襲撃に苦虫を噛み潰したような表情になりながら男に命令する。腐っても偉大なる航路の海賊、手負いでもあの猿たち相手に負ける可能性は薄かった。
だが、その猿の顔を見た猛獣の目が、白目を剥いた状態から徐々にその見開かれた瞳を浮かべ、その口を開け閉めせる。
「ア、あ……猿……猿、はいやだ」
「は……?」
「猿は、猿はダメだ、ダメ、だ……ぁ……」
「まさか、てめぇ……!?」
だんだんと後退りしその猛々しい背中を小さく丸め震えだした男に、船長は冗談だろうと言いたげな顔でバリケードから身を乗り出す。
洗脳したあの時、過剰に怯えていた猿という言葉、それはあれのことではないだろうに。異形の怪物を筆頭とする規格外の怪物ならまだしも、あんな猿共に戦意を失うなどそれでも偉大なる航路の海賊か。
その時、船長の肩を弾丸が貫いた。
「ぎゃアァ!!?」
穴の空いた肩を抑え転がった船長に、硝煙を上げる銃を構えたエイブリーは後方に迫る猿たちに汗を滲ませる。
メサイアのことを信じ船長の隙を探し続けた彼は無様に砂浜を転がりのたうちまわる船長をよそに、すぐさまメサイア共々逃走を開始した。
「うっ……エイブリー……!」
「メサイア、よくぞ怪物の奇襲を躱した。だが限界じゃろう、ここは逃げるぞ」
「でも……!」
メサイアは満身創痍の状態でエイブリーたちに抱えられる。その中で、エイブリーの述べた言葉に彼女は少し迷いを見せた。すぐ近くで煙を上げる奴隷船の中にいる仲間の安否が気になり、即座に頷けない。
だが、エイブリーはその迷いを一蹴する。
「メサイア、判断を間違ってはいかん。船の仲間が心配なのはわかる、だがあの猿の怪物は蜥蜴の怪物に従い儂らを襲った種じゃ……!」
「!」
「近くにあの化け物がいるかもしれない。船の仲間が皆やられているとすれば、儂らだけではこの場を対処できない可能性がある!」
そう言うと同時に、森の方から更に猿の怪物が九体飛び出してくる。
「そら来たぞ! ここは命を最優先しろ!」
「くっ、分かった……!」
合計十体の怪物による襲撃。集団行動を取る怪物の特性からこの増援は予想できていたことだ。
彼の判断が正しかったと知りメサイアも即頷く。
猿の怪物は三体を洗脳された船員の方へ、残り七体をメサイアたちの方へと散った。
船長は孤立し、真っ青になった顔で唾を吐き散らしながら必死に船員を動かそうとする。
「ま、待て! 待ててめぇら! おい、その猿をどうにかしろ! てめえが思ってるほど強くはねえんだよ! 戦え!」
「いやだ……いやだ……ぅ、うおァア……!」
だが、頭を抱え震える船員は、ついぞ船長の命令に頷かず、その後恐慌状態に陥り獣の姿になってその場から逃げ出してしまう。
四足歩行の速さを活かし猿の攻撃を躱した男はどんどんとその場から遠ざかり、ついに船長は独りになってしまった。
「何故だ! 何故こうなる! お前という駒を従えたのに! 何故あんな奴隷すら捕らえられねえ! 何故奪えねえ!!」
船長はこんなはずではなかったと叫ぶ。
偉大なる航路の海賊を、悪魔の実の能力者を手下にしたんだぞ。それがあんなガキと十数人の素人相手を全滅させることも叶わず、挙げ句猿の怪物に怯え自分の下から逃げ出した。
自分が打てる最高の手札を使ったのに、なぜこんな結果になるのか、船長はこの不運を呪わずにはいられない。
「ギュオォォ」
猿の怪物はその場で叫ぶ船長に気づき、その金属音のような声を上げながら近づいてくる。
やがて目の前でかがみ込むようにしてその絶望で染まった彼の顔を覗き込んだ怪物は、その手をゆっくりと持ち上げた。
「あ、あ……や、やめろ、やめてくれ、頼む」
そう言うが、怪物は一切の反応を示さない。
「ぎゃああぁあああァアア!!!」
やがて、メサイアたちの耳に船長の絶叫が聞こえてきた。
彼の終わりを感じ取った彼女はその顔を奴隷船の方へ向け目を細める。
「悪いな船長。あの時殺してればもっと楽に死ねただろうに」
「メサイア、あの男がこっちに来たぞ!」
「くそ……さっきの戦いでガス欠寸前なんだよこっちは……!」
狂乱に近い状態で逃げ出した男は面倒なことにこちらへと向かってきた。それが自分たちを捕らえろという命令の残滓かなにかなのは知らないが、猿の対処も必要な場面で奴は邪魔者でしかない。
「俺がどうにか無力化を試みる、エイブリーたちはいつも通りの容量で怪物を追い払ってくれ……! それと、猿を何体かこっちに差し向けれるか、混戦を誘う」
「分かった、奴は任せるぞ!」
エイブリーたちと別れたメサイアは、向かってくる男に相対する。仲間から受け取った剣を持ち迫る猛獣の突進のルートを予測。
「オォオオァアア!!」
「残念ながらもう硬化はしばらく使えねえ、だが先読みの力はまだ残ってるぞ!」
やがてエイブリーたちの手腕で二体の猿の怪物があぶれ、メサイアと男の方へやってきた。
あっという間に二人と二体との混戦になるが、メサイアはその体躯、先読みを活かして攻撃を避け続ける。一方で、男は猿の怪物が叫びながら肉薄してくる姿に大きく動揺したのが最後、大柄な獣の身体もあって攻撃をくらい続けた。
「グオ、ォオオ……」
猿の持つ瓦礫を組み合わせたような鈍器が男の前脚を打ち、逆立つたてがみを潰し、爪を割る。
ボロボロになった姿で、男はメサイアを見た。せめて道連れにしてやろうと、最後の力を振り絞って飛びかかる。
「単純……!」
メサイアにそんな苦し紛れは通用しない。余裕を持ってその一撃を避けたその直後、着地の勢いを利用し男の横っ腹に蹴りを入れる。
それとほぼ同時に、猿の怪物の鈍器がもう一方の腹に叩きつけられた。予想外の挟撃に男は叫び血を吐き散らす。
「アオォオ……! お、オォ……」
やがてその身体を地面に倒れ込ませた男は、だんだんとその身体を人間のものへ戻し沈黙した。
それを見ていたメサイアは、汗を手の甲で拭いながらため息をつく。
「タフな野郎だ……やっと気絶したか」
おかげである程度体力を回復できた。
男が気絶したのを確認しこちらへ無機質な目を向ける猿の怪物を見て、その剣を今一度黒く染めた。
怪物の一体から鈍器が振るわれるが、あまりに単調で鈍重なその一撃は先程の戦闘を乗り切った彼女に容易く避けられる。
大きく振りかぶった反動で隙を見せた猿の踵の上を思い切り斬りつけバランスを崩させた。勢い余って倒れ込んだ猿の眉間に切っ先を突き刺し絶命させる。
血で濡れた刀身を抜き取る。その間に武器を振り上げ迫ってきた怪物の一撃を、即座に抜き取った剣を両手で構え防御。
鍔迫り合いの状態が数秒続き攻防が拮抗する。その間にエイブリーたちの戦況を横目で見た。
薬品は確実に効果を発揮しているように思えた。猿の怪物は二体が目に薬品がかかったことでその場で悶え、彼らとは大きく距離を離しており、順調に撤退ができているように見える。
「ん?」
だが、その時メサイアは森の方から気配を感じ目を細める。男の攻防をさばいているときとのデジャヴを感じ、すぐさま彼女は舌打ちした。
「エイブリー! 別働隊だ!!」
「!」
そういった瞬間、森の中から新たに五体の猿の怪物が奇襲をしかけてきた。
メサイアの言葉に素早く反応した彼らだが、流石に迎撃の準備が遅れた。仲間の一人がその瓦礫を組み合わせたような剣によって血を流し倒れる。
「! っうぉアアア!!」
その光景に目を見開いたメサイアがありったけの力を込め怪物の武器を弾き飛ばす。
バランスを崩した怪物の腹を硬化した脚で蹴り飛ばした彼女は、猿が砂浜に倒れる音を待たずエイブリーたち向けて疾走した。
「くっ! まずいぞ!」
「攻撃を分散させろ!」
「薬品がもう少ねえ! どいつから撃てばいい!?」
「! 左後部の二体を狙え!! 飛びかかってくるぞ!」
メサイアは走りながら、後部から仲間を狙う怪物の動きを予測し、二体の怪物が武器を構え飛びかかるのを目に入れた瞬間やり投げのような動作で長剣を投合した。
そのまま片方を殺すつもりだったが、手を離した瞬間剣の硬化が解けてしまったようで、怪物の攻撃を不発にするだけの結果で終わってしまう。
もう片方の怪物が迫る。その武器が仲間へと振るわれ──。
「! 危ない!!」
立ちはだかったエイブリーが宙の怪物へ薬品を打ち込んだ。その一撃を目に受けた怪物の攻撃の軌道が大きく揺らぐ。
「ぐ!!」
致命傷は防げたが、エイブリーがその肩に深い裂傷を負う。
怪物はその返り血を舌で舐め、次の攻撃の準備を始めた。だがその頬に漆黒の拳が突き刺さり血を吐きながら横転する。
「てめええ! よくもエイブリーをぉ!!」
「くっ……! メサイア、深追いするな! 儂は大事無い!」
「クソ……!」
「メサイア様! 後ろ!!」
「!!」
メサイアはエイブリーが傷ついたことで一瞬冷静さを失ってしまった。後ろから迫っていた怪物の一撃を予期できず、仲間の叫び声に振り返ったときにはその身体を宙へ打ち上げられる。
「ぐは!!」
十数メートルの距離を飛ばされたメサイアはすぐさま起き上がるが、その目に複数体の怪物がエイブリーたちに武器を振り下ろす様子が映る。
全身から血の気が引き、無我夢中で駆けた。時間の流れが遅くなるような感覚がした。
「止めろぉお!!!」
「オォオォオオオォオォオオオ」
「「「!!!」」」
「……あ?」
その時だ。怪物の一体が天へ向かって咆哮し、その瞬間怪物全員の動きが止まった。
振り下ろされた大剣はエイブリーたちのすぐ上で止まり、メサイアたちは呆然とした表情で固まる。
「ギュオオォオ」
やがて、怪物たちが一歩、また一歩と後退る。
その様子を数秒眺めていたメサイアだが、すかさず全員に逃げるよう促す。
「今のうちだ! 全員逃げるぞ!!」
「! お、おう!」
「エイブリーさん、早く!」
「あ、ああ……」
「エルマーがまだ息がある! おい、連れるのを手伝ってくれ!」
「おい、しっかりしろ!」
「ぅ、ぐぅ……」
全員が必死の表情でその場から逃げていく。
メサイアもそれに続くが、一体なぜ攻撃が止まったのかは分からず、武器を下ろし逃げる自分たちを見つめる怪物を訝しげに睨んだ。
「何だってんだ一体……あんな挙動今まで見たことがないぞ」
「……儂の血のせいだ」
「?」
その時、エイブリーがうわ言のようにそういった。
何を言っているのかとメサイアがエイブリーを見る。彼は走りながら苦笑していた。
「呪われた血だと思っていたが、まさかこんな形で役立つとは……なんとも皮肉なことだな」
「……エイブリー?」
「なんでもない、このまま逃げよう」
「……?」
一行は森の中へ逃げる。
喉の奥に得も言えぬ気持ち悪さを抱えながら。