第二章 発狂編。別名伏線大量散りばめ編、開始です。
第七話 見知らぬ少女
「おじさん、誰?」
そう言った少女を見て、船長達は固まった。咄嗟にまさか、という最悪の予想が頭を過ぎる。
船長はすぐさまケラソスに指示を出した。
「おいケラソス! 今すぐジャルマック聖を追え! 一体何がどうなってんのか、何やったらこうなるのか、詳細を説明させるんだ!!」
「……か、かしこまりました」
そう言った途端、船長は船の中に少女を連れて行った。目を瞬かせ驚く船員に矢継ぎ早に指示を出し、彼女を船員用の浴室に連れていく。
汚れがつかないよう手袋をはめた船員が、何人も群がって少女の汚れを洗い落とそうとした。
だが、出来なかった。
少女の身体を強めに触った途端、彼女は暴れ回り絶叫したのだ。無理やり口を塞いで洗いにかかるが、その泡だらけのスポンジが優しく肌を撫でる度に、彼女は嘘みたいに強い力で彼らを振り払った。
船員の阿鼻叫喚と奮闘の末、少女の身体は下手に触ってはいけないほど傷付いていることが分かった。固まった粘土のようにその身体に張り付いた汚物と血の集合体は、簡単には取れず、そして絶叫する少女の抵抗を無理やり押さえて一部の汚れを削り取って出てきたのは、大量の固まりきっていない血だった。そしてその奥に見える、痛々しい大傷。
それを見た船員は、一部が耐えられなくなり部屋を後にした程だった。彼らはその一連の事態を見て、少女の汚れを落とすのを諦めるという結論を出し、船長に報告しに行った。
失敗の報告を恐れることなどなかった。
少女をこんな事にした天竜人の方が、よっぽど恐ろしかった。
「……なるほどな。……確かにこれは無理だ」
「……です、よね」
痛々しい傷口を見た船長は、苦い顔でそう言った。連れてきた船員も、その姿から必死に目を逸らしている。
椅子に座りこんで頭を抱える船長だが、そこにケラソスが戻ってきた。
「……戻りました」
「……おう、どうだった」
「……三日間、ろくに飲まず食わず、金属音の後に激痛を伴う拷問器具に拘束していたそうです。終わる頃にはさぞ凄い反応をするようになるだろうと期待していたようですが、どうも、調整を誤っていたようで……大の大人でも耐えられないような強度に設定していたようです」
「……〜〜〜!! あの、クソ豚貴族がぁあ!!!」
「ひっ!!」
怒りのままに、周囲の調度品を蹴り壊した船長に、少女が怯えた表情になった。
いつもなら、そのくらいでびくつく事は無いはずだ。だが、彼女はそういった現場を初めて見たかのように、ブルブルと震えて身を縮めている。
「……記憶喪失、か……だが、そういったもんは強い衝撃を与えれば治るのがセオリーだ。いっそ、それくらいの拷問をして無理やり記憶を呼び覚ますか……」
「……船長、お言葉ですけど……この身体にそんなことしたら、死んじまうんじゃ……」
「……チッ」
船員の尤もな意見に、船長は歯を食いしばる。
ケラソスもそれは得策ではないと考えているようだ。そのうえで、今すべき行動を考える。
船長は、ひとまず今の少女の精神状態を調べることにした。彼女の目の前にしゃがみ込んで、いくつか質問をしていく。
「なあお前、出身はどこだ?」
「知らない」
「……親はいるか?」
「知らない……」
「…………今いくつだ?」
「知らない」
何を聞いても、知らぬ存ぜぬの有様だった。暗闇島の情報も、自分の今の身分も、これまでなにをされたかも、船長もケラソスも、……コールのことも、何もかも忘れていた。
答えを聞く度に、船長の顔色は悪くなった。もう、あの強い精神と、目を引く美しさ少女はいなかった。この長い期間を別の場所で過ごした後で、こんな状態の少女に出会って船長は、彼女がまるで、歴史の彼方に消えてしまったような感覚に陥っていた。
自然と、苛立ちで身体が震える。
「くそっ……! くそっ!! なんでだよ69番! てめえはさぞ高値で売れるはずだったのに……なんでこんなボロ雑巾以下の状態で帰ってきやがったぁあ!! ふざけんなぁ!!」
「っ……!?」
癇癪のように突然叫びだした船長に、少女がまた震え上がる。
だが、その後彼女は恐る恐るといった様子で、船長の目を見上げた。
「あの、えっと……69番って、なに……?」
「あぁ……!? ……チッ、お前の名前だよ。……コールが、ああ、もう覚えてねえか。前に名前を聞かれた時、お前は黙りこくって何も言わなかったそうだ。つまり、名もない孤児ってことさ。だから、分かりやすく、数字の名前をつけたんだよ」
「
「!?」
部屋にいる全員が、目を見開き少女の顔を見た。唐突に告げられた、聞いたことのない名前。確かにこの少女が自分でそう名乗ったのが聞こえ、彼らは困惑した。
「……すまん、もう一回言ってくれるか? お前の名前は、なんだって?」
「メサイア」
「……家名は」
「……知らない」
「……」
ついに、船長は怒ることもできず、床に尻をつけて項垂れた。顔を手で覆った船長は、震える手で、再度その少女の顔を見る。
「……お前は……誰だ……?」
「……? メサイアだよ」
「……メサイア、か……そうか、ふ、ふふは、はははは……」
目の前の少女は、全くの、別人だった。
少女が元々持っていた知識は何もかもすっぽりと抜け落ち、空っぽになった彼女が唯一持っていたのは、メサイアという、前の少女も持たなかった知らない名前。
それ以外、何も知らず、答えず。
ただ自分の名前しか知らない泥人形のような奴隷が、数億の価値があったはずの、69番の成れの果てと気付いた船長は、もう全てがどうでもいいとばかりに狂笑した。
「──ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!! あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!! ひゃっひゃっひゃひゃひゃ! うげほゴホォ! ぐえげほっおえ!!」
「船長!! お気を確かに!!」
「これが、これが笑わずにいられるか!! あんだけ、手塩にかけて育てた奴隷が、何もかも忘れて、その容姿もゴミみてえにして、帰ってきたんだぜぇ、ごほっ……!! それが、どうだ!? なんの価値もなくなった奴隷、が、
船長は、あんまりな現実に、髪を毟りながら笑い転げた。床に爪を立て、その指を真っ赤に染めながら、涙を流して笑っている。その懐には、さっき手切れ金としてもらった、ひなびた札束が突き刺さっていた。
普通に売れていれば、これの何十倍の金が、今、この場にある筈だった。
今まで、そんな姿を見た事がなかったのだろう。船員はおろか、ケラソスまでもが顔を真っ青にして言葉を失っていた。
そんな姿を、首を傾げながら見守る少女の後ろ姿が、とにかく不気味だった。
*
船長は、自室に引きこもってしまった。
船の運営は副船長であるバグと、参謀長のケラソスが受け持った。努めていつも通りに、新しい奴隷を仕入れ、努めて普通に、他の島で奴隷を売った。
手に入った1000万ベリーは使わなかった。使えなかった。
バグやケラソスは、その後巡ってきた島を逆走し、一度船長の手で営業を成功させたヒューマンショップを訪ねた。あれだけの大成功を収めたのだ。こんなナリになってしまったものの、それでも暗闇島の奴隷というネームに食いつくもの好きはいるだろうという算段だった。
また、今まで巡ってきた島の中には、ロメアでの競売で億超えの価格を提示してきた金持ちが住んでいる場所もあった。欠片でも望みは捨てられなかった。
だが、結果は散々だった。
天竜人の一件以降姿を消していた暗闇島の奴隷が、再販売されるとあって歓喜した客たちは、急いで向かったヒューマンショップの中で、怒りを顕にした。そこにいたのは、まるで子供が作った粘土細工のような、ボロ雑巾という表現ももったいないくらいのゴミだったからだ。
暗闇島の情報も話さない。金属音にも怯えない。何より、その素晴らしい容姿が見る影もなかったのだ。そんなものに、一銭の金も出す気は起きなかった。
「ふざけんなこのインチキ商会!!」「俺らをコケにしやがって!!」「しまえや汚えな!!」
どの島でも、そんな反応ばかりだった。
目的の金持ちの客も、ゴミでも見るような目で商会の人間を突っぱねた。
そして、そんな無様な結果を晒している内に、弱みを見せた商会につけ込んで来る人間まで現れた。
この商会は信用出来ない。商品の質も保証できないと、そう言って、一度その商会から購入した奴隷を返品しろなどと言ってくる輩が競売をする度に見受けられたのだ。
使用済みの、酷い有様の奴隷を、だ。
そんな要求が呑めるわけがない。当然商会の答えはノーだった。
だが、その度にこう言われるのだ。その少女をそこまで酷い状態にして売るのに、この奴隷は返品させてくれないのかと。話にならない。船長を呼べと。
結果、船長は余計に表に出れなくなった。
彼らは、余計に焦った。どうにかして成果を出さないと、この商会の存続すら危うい。そうして生まれた不安が、またヒューマンショップの悲惨な失敗を呼び寄せた。
──
殆どの望みが潰えたそんなある日、船員の一人が、ある噂を持ってきた。なんでも、あの有名な“月光旅団”が近くの島に来ているというものだ。
月光旅団とは、世界で最も危険な海、
占いも、その一つだ。自分たちの人生は、今後好転するのか。そうでないなら、どうすれば家族の笑顔を守れるのか。それを知るために、各地の人々が彼らの彗眼を求めたのだ。
月光旅団は、そんな希望に応えるべく、世界中を回っていった。もとより新世界で生き延びてきた屈強な者たちだ。偉大なる航路を覆う
そんな存在が、すぐ近くに来ている。それがわかった商会は、いの一番にその島を目指した。
この、どうしようもなく価値をなくしたメサイアを、真に商会の救世主にするために。
「「「1000万だと!!?」」」
商会の人間が、驚愕の表情でそう叫んだ。聞いていた話と違うと、抗議の声が上がる。月光旅団は民に良心的な金額で幸運を導いてくれるという話を聞いた。なのに、その法外な金額を叩きつけられた船員はもちろん、並々ならぬ思いで天竜人からもらったその同額の札束を大切にしまい込んでいたバグやケラソスもまた、額に青筋を浮かべて声を低くした。
そんな様を、フード姿の壮年の男は冷ややかな目で見返してくる。
月光旅団の人間だ。彼らは迷える民にこそその輝かしい光が当たるように、というスローガンをもとに、自分たちには光が当たらぬようフードを常に被っていた。
そのフードで隠してもなお見える波打つような筋肉が、彼ら奴隷商の怒りの視線を弾き飛ばした。
「……当然の価格設定だ。我らはその身に起こった不運で、辛く苦しい思いをした者への労いとして少ない金額で占っている。……だが、お前らはそれとは真逆だ。同じ星の下に生まれた人を、奴隷という物以下の存在に勝手に陥れ、それで金を稼ぎ、飯を食らう。そんなクズどもには、クズどもに見合った価格設定をして然るべき。あえてそういった背景だけを理由に突っぱねず、占ってもらえるだけありがたいと思って欲しいものだが」
「ちっ……! 足元を見おって……!」
「文句があるならお帰りいただいて結構だが」
「……いや、払わせてもらおう。その手厳しい言葉を受け入れてでも、私達には必要なことがあるのだ」
「……フン、まあ、いいだろう。それほどまでの意気があるのなら、私達としてもとやかくは言わん」
「当然だ、これほどの大金を手に入れて文句を言うやつがいてたまるものか」
「では、占いたい者を連れてキャラバンの中へ来い」
そうして、月光旅団の男は占い師のいるキャラバンの中へ入っていく。
中では何人ものフードをした人間と、同じような格好で水晶の前に座った人物が彼らを待っていた。その覇気の濃さは素人目にも分かる。この人間が旅団の要たる占い師なのであろう。
あやしげな色に揺らめく蝋燭に当てられた彼らが、ただならぬ雰囲気を醸し出している。
だが彼らは、連れられてきたメサイアの姿を見て、それまでの静かで、威厳ある様相を一変させ、言葉を失った。
「なっ……!?」
「……ひどいな」
「……それは、なんだ」
先程まで受付をしていた壮年の男は、限界まで目を見開き固まっていた。あるいは他の者は、この世の見たくないものを無理やり目に入れられたかのような、そんな苦い表情でメサイアを見ていた。
「……言いたいことはあろうが、とにかくまずは占ってくれ。ほら、何ボケっとしている。約束の1000万だ。……半端な仕事をしたら承知しないぞ」
「…………っ、あ、ああ……確かに、受け取った……だが……」
壮年の男は、さっきまでの貫禄はどこへやら、呆然とメサイアを見ていたが、金を渡してきたバグによって意識を取り戻した。しかしそれでも、このメサイアを占うことになにか異議があるようで、チラチラと占い師とメサイアとの間で視線をさまよわせていた。
それを受けた占い師のフードを人物は、長く深い溜め息を吐いた。その声色から察するに、その人物は老婆であるようだった。
「受け取りなさい、カイクウ。彼らには並々ならぬ意志があるようだ……。ただ金を溜め込んだ半端な者共なら、私ではなく“
小声でそう呟く老婆だが、ケラソスはその内容を聞き逃さない。
「貴様……! この期に及んでそんなことを考えていたのか……! まさかこれの状態が悪いからと、占いまで適当にするのではなかろうな!」
「私はお前らの頼みを受けると言った、その上で半端な仕事はせんさ。矜恃に反するでな」
「……ならば早くしろ」
そうして、占いは始まった。
一帯に緊張感が走る。この結果次第では、地の底まで落ちた境遇を盛り返せるかもしれないのだ。ことの成り行きを彼らは固唾を飲んで見守った。
「…………一体、どこで、この娘を見つけた?」
「……なに?」
数分経って、いくらか汗をかいた老婆が、そう呟いた。言われている意味がよくわからなかったが、ひとまず答えを返す。
「この東の海の、暗闇島という島の近海だ……溺れかけていたのを、我々が引き上げた」
「……それは、おかしい」
「何がおかしいと言うんだ! 嘘などついていない! まず、占いはどうなったんだ!」
「……やめだ。これ以上は無益。金はいらんから、早く立ち去れ」
「何だと!?」
その言葉に、船員は殺気立った。馬鹿にするのも大概にしろと、皆が拳を握りしめる。
「失望したぞ! あの月光旅団ともあろう者が、契約も反故にして客を返すとは! その名声も所詮は眉唾か!」
「何とでも言うがいい。我らが占いに失敗したことも、一度受けた仕事を放棄したことも、好きに語ればいい。……まあお前達の言うことを人々が信じるのかは知ったことでは無いがな」
「この……!」
怒りが頂点に達した船員は、各々が武器を取った。だが、それらは周囲にいたフードの人物たちが動き出したことで一蹴される。
「「ぐわは!!?」」
「無礼者どもめ……!
彼らは、尋常ではないほど強かった。
腕の一振で剣は折れ、喝一つで腰は砕けた。
無造作に投げ捨てられた札束と、全員が同じ目線になる。床に這いつくばって悶える男どもを見下ろす旅団の人間の目は、どこまでも冷たかった。
命の危機を感じた船員たちは、金を持って一目散に逃げ出す。そんな彼らを執拗には追わず、旅団はただ連れていかれるメサイアを見ていた。
「……よろしかったのですか。あのような下賤な者に委ねて。……それに、いくらあのような者たちが相手とはいえ、占いが失敗したなどと嘯くのは……」
やがて、旅団の一人が不満そうに老婆に話しかけた。声色からして若者であろうその男は、自身の所属する旅団の名に傷がついたことが気に入らないようだった。
しかし、老婆は力なく首を振る。
「いいんだ。実際、占いは失敗したのだから」
「「は!?」」
そう言った老婆に、全員が驚愕した。
てっきり、彼らの横暴な態度に腹を据えかね、形だけの占いで済ませ追い払ったのだと思っていた彼らは、失敗したという言葉は嘘だと考えていた。
だが、実際に占いはきちんとしており、そしてあろうことか失敗していたという。それは彼らにとって信じられないことだった。
「一体あなたは、何を見たというのです! どんな形であれ何かしら道を示すくらい出来たはず! それもせず、彼らに弱みを見せて……! それ程までに、あの少女の未来はどうしようもなかったと!?」
「違う」
「では何故!!」
「……殆ど、見えなかったのだ」
「!!?」
その言葉に、全員が目を剥いた。それほどに、老婆が先を見通せないというのは信じ難い事だったからだ。それは、占いの原理を知っていればこそ、正しくその異常さが分かるというものだった。
「そんなまさか……!
「……然り。だが、理由はそれだけではない。あの娘は、歪だ。あの無垢な姿の裏に、得体の知れない何かが封じられている。……私でも、恐くて見るのは躊躇われたほどの、信じ難い、何かがだ」
「……な、なんですと……?」
「私が見れたのは、そんな朧気な事実だけだ。……どうしようもないのだ、力で解決できる問題じゃない。手に負えん。どうしようもないのだ」
静寂が訪れる。
全員が、沈痛な面持ちで、震える老婆を見ていた。
老婆は今まで見たことがないほどに打ちひしがれていた。
「……自惚れだ。この能力で、皆を救えると思っていた。だが実際は、あんな年若き少女一人救えない……私がしてきた占いは、本当に人々を救っていたのか? 一時の安寧しか齎さぬ、見せかけの慰めだったのではないか?」
「嫗……」
「……引退だ。家督は
「嫗!!」
そう言って部屋を出ていった老婆に、全員が言葉を無くした。たった一人の少女が齎した組織を揺るがす程の影響を、頭の中で理解できない。
皆は自然と、遠くなっていく少女の姿を凝視していた。
*
月光旅団に差し出した金を、手に負えないと言われ放り返された。靴の跡がついた札束を見せて、そう言ったバグたちに、船長はただ無言で頭を抱える。
船長はその1000万を死んでも使おうとしなかった。忌々しいものを見るように見開かれた眼でそれをバグやケラソスに放り投げ、私室に入っていった船長を見て、彼らは結局、その金を商会のためではなく、船員個人のために分け与えることにした。
普通なら絶対お目にかかれないような臨時収入を貰った船員はしかし、暗い表情でそれを受け取る。
それが、あの見るも無惨なメサイアを痛めつけるだけ痛めつけたうえでの、捨て金だと知っていたからだ。
そんなもので呑む酒など、全く美味しくなかった。
メサイアは、やはりいつもの船室に入れられた。ただし、小窓は常に開けて、中でなにか起きたらすぐに分かるようにしてだ。
彼女は実に大人しいものだった。記憶喪失をした身なので、何度も拷問された跡が残っている部屋の環境はお世辞にも良くはなかったが、メサイアは何の不満も言わなかった。それが逆に、不気味でもあった。
もはや、船員では彼女の扱いがよく分からなくなっていた。下手な扱いをしたらどんな結果があるか分からず、相談の末に、その手錠は外すことに決まった。
──
「……メサイア、飯だ」
遠慮がちにそう呼んだ船員の一人が、少女の──メサイアの部屋に飯を入れる。返事がない。恐る恐る小窓から中を確認すると、少しした後、いきなりメサイアの両目が子窓越しに現れ、その肩を掴まれる。それに驚いた船員が、思わずその手を跳ね除け、腰を抜かし倒れ込んだ。
「おわぁあ!?」
「……ハイゼ? ハイゼって言うんだ。ありがとうね!」
「……!? な、なんで俺の名前を!!」
メサイアに、ハイゼと呼ばれた男は、実際にそういう名前だったようで、自分の名前が知られていることに驚愕した。慌てふためくハイゼをよそに、メサイアは不思議そうな声色で呟いた。
「……? だって、
「……は!? な、何言ってんだお前!? き、気持ちわりい!!」
「あ、それと、あんまりキッチンのねずみさんをいじめないで。可哀想でしょ? もう……」
「!? な、な、う、うるせえうるせえ!! もうここには来ねえからな!!」
「……? 変なの」
逃げるように去っていったハイゼという男を、メサイアは不思議そうに見ていた。気配を探れば、彼はバグやケラソスの下へ一直線に向かったようだった。メサイアは、この船で偉い人間が誰かは知っていたので、ハイゼも結構重役なのかなあと気楽に思っていた。
「あっ、またネズミさん……死んじゃった」
その後、部屋の中で、ボーッと飯を食べながら、メサイアはそう呟いた。暇なので四六時中気配を探って疑似かくれんぼや、人間観察をしていたメサイアは、こんな狭苦しい部屋でも、ちっとも退屈しなかった。
船の食料庫に忍び込もうとしていたネズミが、船員に殺されたのを感じ取って、彼女は、少し悲しげな顔をした。
「メサイアの様子はどうだ」
船室の一角で、バグとケラソスが神妙な顔で話し合っていた。話題は専ら、メサイアのことだ。
「精神状態は一応、異常なしと言うべきか……ただ、あのおかしな能力のせいで、船員も不気味がっている。名も名乗っていないのに名前を当てたり、それまでしていた行動が知られていたり……理解出来ん報告が後を絶たん」
「……もはや、69番だった時の方が手網が握れていて苦労しなかった……どうにか、あの状態に戻せないものか」
「そうなれば、万々歳だからな。拷問の傷は時間がかかるが……暗闇島の情報や、あの意志の強い性格を全部取り戻してくれれば、この事態もほぼ解決するわけだが……」
そこまで言ったところで、ケラソスは顔を上げてある可能性を思いついた。
「……コールを差し向けてみるか?」
「! ……なるほど、奴の洗脳のキーは、コールだったな」
「ああ、記憶の奥底の深い部分に、あいつの存在がチラついている可能性はある。一か八か、やってみよう」
「早速呼んで来る」
そうして、コールはメサイアの部屋に向かわされることになった。片腕になった彼は、以来まともにメサイアの下へ行くことが出来なかったので、少しの不安を感じながら、廊下を歩いていった。
「邪魔するぞ」
メサイアの部屋に入ると、彼女は無垢な子供の表情をこちらへ向けてきた。その穏やかな顔とは裏腹に、その身体は酷い有様だった。
全身が血のような色をしたものに覆われており、剥がれたそれの奥から痛々しい傷が覗いている。
コールは、その状態を話には聞いていたが、実際に目で見ると、心を締め付けられるような気がした。
「……お前、メサイアって名前、あったんだな……俺が最初名前聞いた時、何にも言ってくれなかったのによ」
「……」
そう言いながら座り込んだコールを、メサイアは何とも形容しがたい顔で見つめてきた。
かつての友人に再会したような、知らない人物に馴れ馴れしく話しかけられたような、そんな顔だ。
「俺の事、覚えてねえよな……そりゃそうだ、記憶喪失……なんだろ? 船医が言ってたよ、過度なストレスによる記憶障害だって……ただでさえ船長に、あんな惨い拷問受けて、洗脳までされてたのによ……っ、こんなこと、あんまりだぜ……!」
その表情に、何か感じるものがあったのか、コールは、目に涙を溜めて床を叩いた。自分に、彼女のために泣く資格が無いことなど分かっている。それでも、抑えが効かなかった。
メサイアには、自分の知らないところで、どうか幸せになって欲しいと思っていた。
なのに、こんな結果なんて、あんまりだ。
どんなに辛い思いをしようが、心をへし折られようが、地べたを這いつくばって、泥水をすすりながらでも生きてきた少女が、記憶を失って戻ってきた。それは紛れもなく、彼女の人格が、生きるのを放棄したことに他ならない。
一体、何をしたらこんな事になるのだ。どんな思考をしていたら、こんな目に遭わせられるのだ。
天竜人への抑えられない怒り。何も出来ず、失うしか出来なかった自分の無力への失望。様々な想いが、涙となって地に溢れる。
「ごめんな……ごめんなっ……!!」
「……! ああ、ぐぅ……!」
「俺は、馬鹿だ、馬鹿だよ……! 救いようのない、クズ野郎だ……!!」
「やめて!」
「!!!」
そのとき、メサイアは突然頭を抱えて叫んだ。いきなりの出来事に、コールが目を見開き制止する。
「お、おい! どうした! どこか痛いのか!? どこだ!!」
「や、めて。私を、かき、乱、すな」
「な……!」
「気持ち、悪い。嫌……痛い、痛い……!」
「……!? くそっ……!」
コールは、苦虫を噛み潰したような顔で退室していった。自分を思いだそうとして苦しんでいるのだとわかったコールに、それ以上声をかけることは出来なかった。結局、何をしても自分はあの子を……メサイアを傷付けることしか出来ないのか。そんな自分に反吐が出た。
「ハアハア……副船長、参謀長……!」
コールは、真っ先にバグ達の下に向かった。
船室で報告を待っていた彼らは、すぐに部屋に通す。
そうして何も出来なかったことを聞かされた二人は、苦い顔をして項垂れた。
「コールでもダメか……、だが、収穫はあった。その苦しんでいたというのは、恐らく記憶喪失前の事を思い出すのを拒絶しての反応だろう……その拒絶反応を無理やりこじ開ければ、元の記憶を取り戻す可能性はある……! 」
「……! そ、そんな! 参謀長!! 何故あれだけ酷い状態になったメサイアを、まだ苦しめようとするんです!! あなたは彼女を助けようとして……!」
「……ん? ああ……そうだな、事態が急転して失念していた」
「はい……!?」
失態だったと肩を竦めるケラソスに、コールは訝しむ。
そんな彼に、ケラソスは目を向けた。酷薄で、濁った目を。
「メサイアを助けたいなど思ってはおらん。あれは奴の心を折るための嘘だ。お前の腕を切るよう言ったのも私だしな」
「──な」
コールは言葉を失う。
ずっとケラソスは、数少ない味方だと思っていた。天竜人から返されたメサイアの記憶を必死に戻そうとしていたのも、彼女のためと勘違いしていた。
自分の中の精神的支柱が、音を立てて崩れていくのを感じる。
「船長には私の方から言っておこう……彼も鬱憤は溜まっているはずだ。三日もの間、天職の拷問をせずにいたんだからな」
「分かった。では拷問の準備はこっちで整えておこう」
「な、何で。どうして……」
「お前はもう帰っていいぞ。全く、せっかく洗脳を成功させたというのに、苦労が絶えんな」
「待って、待ってくれ。じゃあ、妹を自由にするっていうのは? あの約束はどうなった!? 嘘をついたのか!?」
「ああ、それはもういいのだ」
「何がだ!? 俺はあの手紙をきちんと送ったぞ!? もう俺は用無しか! そうか、なら俺は今すぐこんな船降りて──」
「お前の故郷だがな、先日、海賊に滅ぼされたそうだ」
「……え」
「妹も死んだだろう。お前に帰る場所などもう無いが……まあ、宛もなく放浪したいなら好きにすればいい」
その事実を頭で理解した時。コールはその場に崩れ落ちた。
騙されていたこと。妹がもうこの世にいないこと。
何も成せず、何もかも失い、利用されるだけ利用されて、いらなくなれば捨てられる。
なんなんだ。俺の人生は。
「そんなことが、あるのか……? そんな、そんなピンポイントで、あの島が襲われるなんて」
「そうだな、ああ、実に不運な事故だった」
「……まさか、あんたがそうなるよう仕向けたのか」
ケラソスは笑った。つられるようにバグもニヤニヤとした笑みを向けてくる。
全身から体温が引いた。
自分が騙されて、目の前の都合のいい言葉に踊らされて、そのせいで妹は死んだ。メサイアは記憶を失った。
何なんだ。自分の人生は。失敗して、奪われて、周りを不幸にさせて。
「あ、あ、あ……ミア、ミア……! ごめん、俺は、俺は……! 恨んでくれ……! 俺を殺してくれ……!」
「健気なことだ。おい、こいつは独房に入れておけ」
次いで、全身の血が沸騰する。
すべての元凶たるその男に、抑えられぬ殺意が宿った。
「……!! ふざけんなぁあ!! この悪魔が! 人間のクズが! ぶっ殺してやる!!」
「その腕でか?」
「あぁああぁ!!!」
控えていた船員がコールを取り押さえた。必死で暴れるが、片腕の彼では跳ね除けられなかった。何度目か分からない無力感に歯を食いしばる。この無くなった腕があれば、どれだけ良かったか。それが無くなった原因である男は、涼しい顔でこちらを見つめていた。
「ケラソスううぅうウウゥゥゥ!!!」
彼の叫びは、虚しく船内を木霊した。
*
鼻歌を歌いながら身体を揺らすメサイアのもとに、船長はやってきた。
いくぶんか頬がこけた彼は、楽しそうにしている彼女を見て、額に血管を浮かばせた。
「よお……、随分と楽しそうだな」
「うん、こうしてね、船に揺られて色んなこと考えるのって、なんだか楽しいの。嫌なことがあったら、ブランコとかにぶら下がってお空を眺めてたりするとなんだか楽しくなるのと、同じだよ」
「ほお、なるほどそれは羨ましいな……俺は、そんなんで楽になるほど、ちっぽけな悩みは抱えてねえんでな」
「うん、
「あ……?」
「おじさん、いっつも窮屈そう。ずっと広い部屋に住んでるのにね。この部屋にいる私より、余裕がないの。……可哀想」
「──知ったような口を、聞くなあああァァァ!!!」
「え、きゃあ!?」
船長は、メサイアを蹴り飛ばした。派手に部屋を転がった彼女を、憎悪の籠もった目で見つめる。
数日間寝込んでいた間に、何度も頭を巡った、誰に当てれば良いかもわからない怒りが、全てメサイアへと殺到した。寝込んでいたときの憔悴した様子はどこへやら。一度着火した導火線の火は、もう消えなかった。
「ゼエ、ハア……お、お前の、せいだ。悪いのは俺じゃねえ、俺は、何も失敗してねえ。お前が下手打ったから、お前がなまけた心持ちでいたから、そうやって逃げに徹して、記憶を失ったんだ……! お前がしっかりしていれば、俺は今頃、大金持ちになっていたものを……! どう、ケジメつけてくれるつもりだあ……!!」
「……ご、ごめんなさい。次からは、うまくやるから……」
「次もクソもあるかぁ!!」
「きゃいっ!?」
大量の血が吹き出した。
閉まりかけていた傷口が再び開いたのだろう。それを見た船長はニヤリと笑う。
「やっぱり俺は、人の血を見なきゃ始まらねえようだ……! それが俺に課せられた使命だからだ……! メサイア……俺の汚れきった正義のもとに、お前を正しい姿に戻してやるぞぉ……!」
「や、やだ……! 怖い、怖いよ……!」
「怖い!? 俺が怖いだあ!? 初めて聞いたぜ、そんな言葉! 69番は、そんなこと言わなかった!! やっぱり、お前は偽物だ!!」
「ぐひっ!!」
「消えていなくなれえ!! メサイアぁああァァアア!!!」
船長の拷問は、鬱憤を晴らすために、半日も行われた。繰り返す。半日だ。
記憶を失い、状況もろくに理解できていないであろう今のメサイアには、酷な仕打ちだった。
船長自身も血まみれになるほどの暴虐が終わったとき、床には泣きながら転がるメサイアがいた。
彼の予想に反して、彼女は頑丈だった。ただ、精神は69番とは比べ物にならないお粗末なものだったのが、船長に69番との対比を思い起こさせ、余計に怒りを助長する。
「うぇ、っ、ぐす……んっ、す、ひ、ひどいよぉ……」
「ひどいと思うんなら……この世界から、いなくなりやがれ……! お前は、はあ、必要のない存在なんだ! いたところで、なんの価値も生まない……お前は、世界のゴミだ!!! 」
「!!!」
そう言われた瞬間、メサイアは固まった。
時が止まったように、目を見開き、口を開け、呆然としていた。
だが、その後彼女は、気持ち悪いほどの速さで頭を振り出した。
その口から、呪詛のような言葉が溢れ出す。
「チガウ、チガウ、チガウチガウチガウチガウ、タダシイ、オカシイ、コワレテイル、ジユウ、イラナイ、オカシイ、サビシイ、ミンナ、シンダ、ツカレタツカレタツカレタ」
「……!? いよいよ錯乱したか……! い、いや、そうか、記憶が戻る前触れか!? ぶひゃひゃひゃひゃ!! 良いぞ、戻れ! そして俺を幸せにしてくれえ!! はやく! ぶひゃひゃひゃひゃ!!」
その反応が、記憶喪失が戻る前兆だと受け取った船長は、愉快そうに笑いだした。早くいなくなり、69番を返せと、その価値のない存在に鞭を振り上げる。
「──ダマレ」
「はっ?」
血だらけの顔の中で、その赤い目がギロリと光った。
見たことのない鬼のような貌で、走り出したメサイアの拳が、
それは、信じられない力で、船長の腹に突き刺さった。
「!!?」
そして、口から大量の血を吐き出した船長は、その意識を、深い深い闇へと落としたのだった。
メサイアの怒りを体現したように揺れ動く船。
天候は、嵐。
視界を覆う雨の奥で、雷鳴とともに映し出される影があった。
「頭ぁ!! 前方に船です!! 見たところ奴隷船ですが、略奪しますか!?」
「ああーん……? 馬ぁ鹿野郎、そんなもんお前、せっかく頑張って嵐を抜けようとしてるんだ。んなことしたら可哀想だろぉ?」
「はっ……では……?」
頭と呼ばれたエメラルドグリーンの目をした大男が、船員の言葉にため息を吐いて答える。
男が乗る船には、黒い旗に、骸骨のマークが掲げられていた。
彼は、その目と同じ色をした眼球を右の眼窩にはめ込み、凶暴な髑髏をあしらった海賊旗を背に、大きく腕を広げた。
「やらない!!! あいや、やるに決まってんだろ!!! 俺は泣く子も黙る大海賊、“
「「「うおおぉおおおぉおぉオオオ!!! オベル様ああぁああ!!!」」」
時代の唸りは、もうすぐそこまで迫っていた。