天子様の無茶ぶりに、私は今日も血反吐を吐いた 作:沖縄の苦い野菜
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たった一度のミスも許されなくなった。
今まではどれだけミスをしようと、もう一回、が許されていた。むしろ、もう一回が前提の上に成り立った難題であった。それがなければ、到底一回でたどり着くことのできない場所にあったのだから。いや、事実今もなお到達できていないことを考えれば、それだけでは不当な難しさ。不可能に限りなく近い螺旋に囚われていた。
しかし、今や在人の中で螺旋は崩れ去った。螺旋ではなく、先の見えない無数に枝分かれした道が続いている。その無数の中からひとつを選んで進めば、またも無数の枝分かれした道が。それが、連綿と続いているのだ。
「……どうして、そのようなことを」
「死んで逃げるって不当だもん。貴方が死ねば私は忘れる。そして貴方は私に悟られないように次を試す。ズルよ、ズル。だから、平等にする必要があるの」
平等。それを言うなら妖怪と人間との力の関係こそズルだろう。
長尾在人に戦う力はほとんどない。大妖怪の視点から見れば、そこらの人間と彼の間に差などないも同然なのだ。
そんな彼が、特別な力を剥奪された上で、今まで通りのことを、たった一回で切り抜けろと。
「それは……もはや、駆け引きも何もない」
須臾に等しい勝ち筋を引けるだけの勝ち運など、彼は持ち合わせていないのだ。持っているなら、彼はこんなにも苦労などしていない。
そんなことはお構いなしとばかりに、フランドールは訳知り顔で「うんうん」と何度も頷いて、ズイッと彼の顔に自分の顔を近づけた。
その深紅の瞳がぬらり、と怪しい光沢に輝き、瞳の奥で闇がキュッと絞られたのを、彼は見逃さなかった。
「うん。つまらないよね? だから、私も私自身を制限してあげる。何の力もなくなった貴方と、契約してあげる!」
ここでも契約。在人はどうしようもなく冷静になっていく思考で、追い込まれたというのに相応しくない、場違いな疑問が生まれてきた。
「……他の方と契約していても、契約は出来るのですか」
「うーん、禁則事項に接触しなければ大丈夫だよ? 悪魔との契約って、人間が思ってるよりパパっと出来るから」
「そんなに簡単に?」
「うん。私がちょっと説明して、貴方がここで契約に了承すれば、すぐにでも結べるくらい簡単かな。効力は絶対だけど」
そう言えば、とレミリアと契約を結んだ時のことを思い返す。いつ正式に結ばれたのかはわからないが、少なくとも何か血液を提供したり契約書に筆を走らせたわけではない。在人はただ喋っているだけで、契約は完了したのだと言っていた。
フランドールはパッと弾かれるように在人から離れると、どこかで見たような、人差し指を天に向けたステレオタイプな姿勢で説明を始めた。
「パパっと出来る契約は、魔法を使った契約だね。お互いの魂をその契約に拠出することで成立とする。魂を使ったものだから、これが一番効力があって、絶対に逆らえない契約。お互いに契約の内容を理解して、どんな形であれお互いが同意すれば、その時点で魂が拠出されて契約成立とする。ちなみに死んでも有効」
「それは、期日、契約を意図せず守れなかった時の罰則、何をして何を返すのか。すべてを理解した上でなければ、契約は出来ないと?」
「当然。じゃないと、イカサマがいくらでもできるじゃない。知らない内に、なんて口が裂けても言えない。一番簡単で一番束縛が強いけど、契約時に一番しっかりしてるのも魔法の契約。だから、破る気のない契約は魔法を以て行われる」
「それ以外は?」
「紙を使ったり、血を使ったりするやつ。これは相手を貶めるために使うものだから、気を付けた方がいいよ? 魔法以外の契約方法は悪意しかないから」
これほど懇切丁寧に教えてくれるフランドールは、一体何が目的だというのか。
「……どうして、そこまで詳細に?」
「ん? あぁ、説明するのか、ってこと? だって、情報の偏りは不公平だからね。一般常識くらい、教えてあげないとかわいそうだし」
495年の超引きこもりを相手に、一般常識を教えてあげないとかわいそう、などと言われた在人の心境は、筆舌に尽くしがたい葛藤に燻っていた。
そんな彼の心境など、悪魔には知ったことではない。彼女は早速、とその瞳にルビーのきらめきを纏わせ声を弾ませる。
「契約内容の確認ね!
私は貴方を、長尾在人を契約期間中は私、フランドール・スカーレットの手で殺しません。以後、フランドール・スカーレットは“私”とします。私は長尾在人との二者間の問題を、契約期間中は不当な暴力をもって解決はしません。
代わりに貴方は、長尾在人は自らの意思では死ねません。他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません。
契約期間は、今起きている異変が解決するまでとします。期間中に契約を破った者は、契約期間中において相手への絶対服従を、罰則として受けることにします。以上」
その内容は、本当に両者の行動の制限をするだけのものに思える。
だが、魚の小骨が喉に引っかかったような、違和感があった。
「……異変のことを、どこで?」
「えっ? だって、前から異変だらけじゃない。気づくな、って方が無理でしょ?」
しかし、その疑問は「当然でしょ?」と小首を傾げて一蹴された。
なるほど、吸血鬼ほどの大妖怪になれば、異変を感知する能力に優れているのかもしれない。レミリアも、メイド長に犯人捜しを命じたと言っていた。彼女が気づいていたのなら、妹のフランドールが気づいていても、おかしなことはないのだろう。
「……ところで、私の制限に契約期間中、という文言をつけなかったのは?」
「あっ、そこ気づくんだ。ふーん……ちょっと偉くなったの? あれ、もしかして巻き戻った……わけないか。魔法の契約は不可逆のものだし」
んー、とフランドールはその白い指をぷくりと膨らんだ唇に当てて考えている。
言い訳だろうか、それとも説明の仕方だろうか。説得の方法だろうか。どれにしても、在人にフランドールはどうしようもなく油断ならない相手だと、再三にわたって植え付けるには十分だった。
「そうね。例えば、知り合いだと思って再会したら、全くの別人でした! って時、何だかすごくやるせないよね?」
「……それは、確かに」
やるせない、というよりは勘違いから羞恥心の方が増しそうな気はしたが、在人はそれもあるかと同意しておくことにした。
「私の手の届く内はどうにでもなるけど。契約満了の後が問題でねー。お互いを平等にするために、貴方には一生契約を背負ってもらう必要があるの。また有耶無耶にされても嫌だもの」
「……では、具体的にどのような効果がある内容なのですか」
それは簡単、と彼女はまた人差し指を天に向けて、嬉々として語る。
「要するに、もう貴方の“目”は壊れません、ってこと。仮に壊せても、契約に拠出した魂があるから、それによって絶対に再生する、みたいな。すっごく単純に言うと、精神的な死とはおさらば、ってことだね。ほんとはもっと複雑だけど」
「待て……待ってください。フランドール様」
「あれ、焦ることって何かあった?」
焦らないはずがなかった。彼女の言う“目”とは、もっと単純なものなのではないかと、在人は考えていた。
だが、フランドールに見えている“目”とは、長尾在人が考えているよりもずっと本質的なものではないのか。
だとすると、まさか、この少女は――
「気付いて、いらっしゃるのですか」
「そんなのもう関係ないじゃない。だって、私は貴方を知らないもの」
耳鳴りがしてくる。頭を割るような軋んだ音が、耳の奥から響くのだ。
顔が爆発しそうな熱を持つ。腹の奥底から熱が引く。頭は熱いのに体はますます寒くなる。キンキン、とどこかから音がし始める。
「それで、どうするの? 私としては、ここで死ぬのが一番楽でオススメだけど」
「それだけは、あり得ません」
「そっか。だったら契約成立?」
「……時間を、ください。考える時間を」
今すぐに決められるほど、この問題は小さくなかった。
長尾在人は知っている。知っているだけだが。狂えないことが、壊れないことが、常に正気で在り続けることの苦痛を。どれほどの困難に苛まれようと、狂うことさえ出来ない、逃げ場のない絶望を知っている。
あれは例えるなら、餓死する未来を、腹部にジクジクと空腹による激痛を感じながら迎えるような。
ただ独り、暗闇の中を永遠に、自分の肉体がどうなっているのかさえ忘れるほどの時間歩かされるような。
狂えないとは、壊れないとは、そんな絶望にひどく似ているのだ。
「時間って、そんなに残されてないよ?」
「承知しています。ですが、それでも……」
違う違う、と頑なに考えこもうとする在人に向けて彼女は首を振る。そして、その人差し指を上に差し、彼女自身も上を向いて語るのだ。
「もう、来るよ?」
「……来る?」
来るとは、八雲紫か。それとも異変解決組の誰かがこの地下室に訪れるということか。
戦えない、力を封じられたも同然の今の状況で、そんなことになれば……と、最悪の状況に顔を青ざめさせる在人を見たフランはまた首を横に振る。
「違うって。異変の元凶、来るよ」
「……はい?」
異変の元凶……それは紛れもなく、彼の主。比那名居天子のことだろう。
だが、それはおかしいと彼は眉をひそめる。何せ、比那名居天子は期日を過ぎた場合と神社を倒壊させる場合を除いて、地上に降り立つことは今までに一度もなかったのだから。
「うーん……私としては、別に貴方を殺したいわけじゃないし。かといって見ず知らずの貴方を助ける気もないし。トカゲの尻尾を切っても何にもなんないし」
首を傾げて、口をへの字に曲げて、唸り、枯れ枝のような羽に吊り下がった七色の宝石のようなそれを揺らしながら。
少女はふと、そうだ、とその表情を輝かせた。
「貴方の主人を殺しちゃえばいいんだね」
「――は?」
「だって、諸悪の根源じゃない。うん、そうしよっか。恨まれたってやったげる。死んじゃえば、もうそこで終わりだもの。良かったね、これで自由だよ。起きたら存分に、私を恨むといいさ」
――全身の毛が逆立つような怖気が奔った。
起きたら、その言葉が聞こえた瞬間、反射的に彼は能力を使った。意識を保てるように、意識を失わないように、断固たる意志を固めて貫いた。
「がっ――!」
刹那、首に強い衝撃を受け顔面から床に叩きつけられた。その事実に、背中に風のような寒気が奔ると同時に、頭の中と視界をグチャグチャにかき乱す衝撃に襲われる。
「あれ、もっと強く……? いや、能力だね」
もっと強かったらトマトよ、トマト。などと能天気なのか真面目なのかわからないことを口にしつつ、彼女は部屋の出口へ向かっていく。
そんな彼女の足を、這いずりながら彼が掴む。人間程度の力、振り払うなど簡単なことだった。しかし、495年間も引きこもっていた吸血鬼には、力の加減というものが非常に難しい。
「もしかして変態なの? 這い蹲って縋っちゃって」
見た目不相応な、嗜虐と愉悦に笑みを深め、ちろり、と唇に赤い舌を這わせる。見下すように、嘲るように、幼い顔は罪深く歪んでいき――
「殺させる、ものか……!」
すぐにその表情は冷めて、感情が嘘のように消え失せ能面と化す。続いて出てきたのは、困惑の表情だった。
「あー、頑固だね。死ぬまで抵抗するつもりなんだ。どうしてこう、そこまで意固地になるの? そんなにご主人様がいい人なの?」
彼は鼻血に顔をぐしゃぐしゃに汚して、その眉は怒りにひそめられ、面持ちは般若の如く深い皴を刻んで歪ませている。おぞましいのは、その底の見えない執着に、瞳が黒く濁っていることか。奈落のような瞳が、フランドールのことを突き刺すのだ。
「何でもへったくれも、あるものか」
「なにそれ。感情論? ……あははは! 感情論!? 貴方が!? なにそれ、なにそれ! どこの誰とも知らない貴方に、何が出来るって?」
ケタケタと、あるいは高らかに声を上げて少女は笑う。深紅色に怪しくきらめく瞳の奥は黒く染まり、蔑んだ視線が彼の視線とぶつかった。
ニンマリ、とその口元は三日月に大きく割れる。
パリン、と部屋の照明が壊れ、灯は部屋の四隅に飾られる蝋燭だけとなり、ほとんどが黒に染まる。
フランドールの顔が影に隠れる。ただ、その深紅の瞳だけは月の如く淡く輝き、その存在を主張する。不気味な瞳だけが、暗闇の中に浮いている。
「調子に乗るな、偽善者が」
「――っ、がっ」
在人は背中から、壁に叩きつけられる。うつぶせに倒れていたというのに一瞬で。彼女を掴んでいた手はだらりと垂れ、痛みに視界が暗闇にも関わらず白黒と点滅を繰り返す。息が詰まり、けほごぼ、と血塊を吐き出しながらむせ込んだ。
「ほんと、誰よ。誰? いいけど別に。気に食わない。イライラする。ほんとちっぽけ。……ううん、小さくもない。紛い物。偽物。価値もない。振り回されて馬鹿みたい」
最後の言葉は一体、誰のことを指していたというのか。
フランドールは今度こそ彼に背を向けて、歩き出した。
「じゃあね、どこかの誰かさん。私、お姉様に加勢するわ」
そう言うと、彼女は扉を木っ端微塵に破壊して部屋から出ていった。カツカツ、と階段を上がって遠ざかる音。しかし、ふとした瞬間にそれは逆再生の如く近づいてきた。
「そうそう。言い忘れてた」
ひょこっ、と部屋の入口から顔だけ出したフランドールが、淡く光る深紅の瞳を彼に向けながら。
「また逢いましょう。ちゃんとピンチの時に駆けつけてくれたら、お姫様がキスしてあげる」
私は妹様だけど、などと自分自身で茶々を入れながら。
今度こそ、フランドールは階段を上って行った。ケタケタと大きく反響する声で笑いながら。
頭の中に残響するような甲高い笑い声に、頭が割れそうな思いだった。
壁を背に膝をつきながら、それでも決して沈みはしなかった。
しかし、短い間に彼はフランドールに打ちのめされていた。声の刃が、耳から千の針となって体の中に降り注ぐのだ。まるで、その針で何かを破ろうとするように。
「……こんなの」
あんまりだろう、と。
何もかもを打ちのめされて、それでも彼の心は凪の如く静かによく動く。
だから、次に何をするのかももう決まっていて。意志を貫くために動き出す。
身体を半ば引きずるように、彼は一段、また一段と。
有頂天を目指して、片時も休むことなく歩むのだった。
そうね、強いて言うなら。
狂っているのは歯車だった。
だから、歯車を取り換える必要があったのよ。