天子様の無茶ぶりに、私は今日も血反吐を吐いた 作:沖縄の苦い野菜
比那名居天子は長尾在人を高く評価している。
それでも、彼女は自分の従者に対して散々な無理難題を吹っかけている自覚はある。それはいじわるだとか、遊び心だとか。暇を持て余した彼女の余興だとか。そんな心は少ししかない。
彼女だって目的をもって動いている。暇だとか、退屈だからとか。そんなことを恥ずかしげもなく理由に掲げているのは、真の目的を晒さないための演技であった。自由人の皮を被っていた。
皮を被って誰を騙すのか――そんなものは決まっている。
比那名居天子が最初に違和感を覚えたのは、“緋想天の剣”をくすねて勝手に使ってしばらくした後。ちょうど、地上では紅霧異変が解決した後でのことだった。
“緋想天の剣”を以て“気質を操る程度の力”を行使できるようになっていた彼女は、暇つぶしとばかりに様々な相手の“気質”というものを見ていた。それは、従者在人も例外ではない。
それがある時。地上から帰ってきた在人の“気質”を見ると、前回見た時よりも変化していたのだ。
それはまさしく、青天の霹靂というべき変化であった。あるいは、ある日突然に空の色が青から緑に変わったかのような、そんな衝撃を受けたことを彼女はよく覚えている。
元来“気質”とは、生涯に渡って早々に変化することがない。少なくとも、比那名居天子は同一人物の“気質”が変化した様を見たことは、一度としてなかった。
だから、まさか偽物か、と様々な機転を利かせて質問、あるいは調べてみるも。それらは全て空振りだ。正真正銘、“気質”の変化した目の前の人物は彼女の従者たる“長尾在人”であった。
ならば、と天子はある仮説を立てる。
天界には天人と天女などが居るが、純然たる人間は存在しない。もしかすれば、人間が困難を乗り越えた時に、“気質”は成長と共に変化するのではないか、と。
何分、天界というのは変化の少ない場所である。満たされた場所であり、常に満たされているからこそ変化を望まない。
――なるほど、確かにこんな場所では“気質”が変化することはないだろう。
しかし、次に問題となったのはその観察対象である。
幻想郷の人里という場所は、一種の安全地帯となっており、早々に困難が訪れる場所でもない。村八分にされれば、最後は妖怪の餌になるのがオチだというのは、長尾在人からよく聞いた話である。そんな場所では、天界より足りないところが大いにあるといっても、似たり寄ったりが実情だ。
そこで白羽の矢が立ったのは、人間の身でありながら化け物共が起こす異変なるものを解決するという、博麗霊夢と霧雨魔理沙の存在であった。
純然たる人間でありながら、両者は見事異変解決をして、ないし異変解決の大きな功労者になったと在人に聞く。
――異変解決という困難、人間を成長させるには十分だろう。
異変はそれからというもの、五回も起きた。
訪れない春に季節外れの雪を起こした“春雪異変”がひとつ。
三日置きに誰もが目的を忘れ宴会を起こす“三日置きの百鬼夜行”がひとつ。
本物の月が隠され明けない夜が訪れた“永夜異変”がひとつ。
幻想郷中の花が咲き乱れ枯れなくなった“六十年周期の大結界異変”がひとつ。
妖怪の山に新興勢力となる神社が転移してきた騒動“守矢神社の建立”がひとつ。
いや、正確には異変と呼べないものも紛れているのだが、今は置いておく。どちらにしても、博麗霊夢と霧雨魔理沙が解決に乗り出したことは事実なのだから。
この全てを、比那名居天子はよく観察していた。長尾在人にも調査に出させた。
その結果、分かったことは……。
「人も妖怪も、“気質”なんて欠片も変わらないじゃない」
と、いうことと。
「でも、あいつだけは変わり続けた」
そして、やはり変化する長尾在人。
そうなれば、異分子は決まった。
そういった経緯から。
長尾在人こそ異分子であり、彼そのものがもはや異変といって遜色のない何かを抱えていることが、比那名居天子の中で確定した。
長尾在人は弱い。木っ端妖怪であれば遅れは取らないが、中級以上となれば話が変わる。それは、天子自身がよくわかっていることだった。
そのため、天子は異変の調査を命じた時から、危険に晒されないように、監視の術式を掛けていた。精度というのはそれほどよろしくないが、命の危機と場所を知らせるには十分なものを。
そして、少しでも生存能力を上げるために天界の桃を与え続けた。許される限り、監視の目を誤魔化して。気休め程度だとしても、意味があると願いを込めて。どうして禁止されていたのか、その理由も知らないまま。
まぁ、余談ではあるのだが。
そんな粗悪な術式では、急ごしらえの桃程度では、長尾在人の命を助けるには至らなかったわけであるのだが。
今回だけは話が違った。
術式が、在人を守れるようにと掛けていた警報器のようなそれが、何者かによって“破壊”されたのである。
そうして、即座に天界から飛び降り着地した先が、紅魔館の前であった。
気が立っていたのも、在人が命の危機に晒されているかもしれない、という危機感に由来するものであった。
間に合ったのはひとえに、元から相手に在人を殺す気がないからこそ……いや、正確には。
フランドール・スカーレットは、比那名居天子を誘き寄せるために、彼に仕掛けられた警報器を破壊したのである。
「あっ、来たんだねー。いらっしゃーい」
血生臭いというよりは、煙のような濁った空気が鼻につくといった戦場の中で、場違いに明るい声が天子とレミリアの動きを止めた。
「……また、蝙蝠か」
忌々しそうに、天子が鬼の形相で吐き捨てる。
そんな忌避と殺意に満ちた対応にも、フランドールはカラカラと鈴のような笑い声を転がした。
レミリアはフランドールの様子を見て、やれやれ、と肩を竦めてみせる。
「うん、蝙蝠。哺乳類だよ。あ、安心してね。貴方の従者は瀕死だけど、死んではいないよ」
「……いや、フラン。あいつの従者、ここに来てもらわないと困るんだけど」
「えぇー? だって、誰かさんが居たんじゃ、絶対邪魔されるよ」
「それもそうだが……まぁ、その辺りは調整すれば問題ないか」
レミリアは武器を降ろすと、フランドールの隣に並んで天子と対峙する。それを見た天子は心底、といった様子で舌打ちを繰り出す。不良も真っ青な柄の悪さである。
「何が目的だ」
「いや、何。君の従者のことについて、話しておこうと思ったのだよ」
「お姉様、その口調すっごい変」
「……うるさい妹ね」
せっかく黒幕感出してるのに、と愚痴を吐くレミリア。そして気の抜けたフランドールの様子にピキリ、と天子のこめかみに青筋が奔る。
「あぁ、待て。短気を起こすな。時間も限られているんだ、本題に入ろう」
「……さっきからお前ら斬り殺したくて仕方がないのに、律儀に待っていたんだが」
「それは失礼。いや、それより本題だ、本題。君の従者についてだが……フランはどこまで把握しているの?」
「全部」
「なるほど。ならば話は早い」
単刀直入に言おうか、とレミリアは苛立つ天子の視線を真っ直ぐ見つめ返して、あくまで平坦な声音で、当然のことを言うように口にする。
「長尾在人が奇妙な存在であることはご存知かい?」
「知ってまーす。さっき確認しました!」
「それがどうした?」
これに天子は動じない。
レミリアにとって想定内の反応に、彼女は「結構」と大仰に頷いた。
「私は人の運命を見ることが出来てね。そこから今日、初めて知ったのさ。いやはや、奇跡だったよ? 何せ、彼は本来。こんな最も正体が明るみに出る場所に訪れることはなかったのだから」
「私はあらゆる物の緊張している部分……“目”を見ることが出来るの。それは、壊れてしまった“目”でも、その残骸を見ることが出来ちゃうんだけどね」
それを聞いた天子は全身に“気”を張り巡らせた。警戒心が一段階上がり、いつでもその柄を振るえるように構えを取った。
「まぁ、落ち着け。私はその力を以て、おかしいと思ったのさ。どうして、未来に足を踏み入れた跡があるのか、とね」
「私はまぁ、さっき言った通り。“目”の残骸が数千個単位であったからね。質問を決めたの。今見えている“目”の残骸のざっくりした単位と、その端数を質問しよう、って」
「……フラン、貴方えぐい質問するわね」
「もう、お姉様。今は私のターンよ。……それでね、私はこう言ったの。次に私の考えていることを当ててみて、って。当てられなかったら殺すから、って」
それでね、それでね、と見た目相応にはしゃいだ様子で、彼女はあまりにも特大の爆弾を落とす。
「ほら、心を読む能力ってあれじゃない? 私の考えを当ててって言われたら、私が“今”見えている“目”の数と端数を当てちゃうじゃない? その時は、『端数8個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン』、っていうのが答えだったの。でも、あいつはね。こう答えたの」
――端数7個と1000以上の潰れた目の海に、また一個、目玉が潰れました。ドカーン。
「……それが、どうした」
「おかしいよね? だって心を読んだのなら、端数は7個じゃなくて8個よね? でも、1個少なかった。あっ、目玉が潰れました、っていうのは私が質問に答えられなかったら“目”を潰そうと思ったから。ドカーン、っていうのはそれの裏付けね」
天子の唇が、わなわなと震えを帯び始めた。
そのことを目敏く見たレミリアは、しかし何をするでもなくフランの話に耳を傾ける。
「つまり、あいつは――今の長尾在人は、潰れた目が1個少ない世界からやってきた。――外の世界だと、タイムパラドックスとか、タイムリープって呼ばれてるやつ。条件は、あいつ本人の死。じゃないと、潰れた目玉があいつの発言とピッタリになるのはおかしいもの」
あっ、補足するとね、と彼女は付け加える。
「私は絶対に、殺す前に“答えを言おう”と決めていたわ。じゃないと、見極められないから。そして――あいつはまんまと引っかかった」
その口元が三日月に裂ける。
神算鬼謀の悪魔が、ケタケタと笑い声をあげる。
「だから、私の結論はね! 長尾在人は数千回死にながら、今まで世界をやり直してきたってこと! その過程で、その精神は――」
風を斬る音と共に、緋色が閃き、咄嗟にレミリアとフランドールはそれを避けるため退いた。
「あぁ。確かにあいつの“気質”は何度も変わった。それは、認めよう」
だが、と天子は己を奮い立たせるように、声を張って宣言する。
「だが、あいつの能力はそんなものではない! その力は“貫く程度の能力”であり、決して世界を巻き戻せるような大層な物ではないッ!」
「あ、なーんだ。仮説、大体合ってるじゃない」
そんな天子を嘲笑うように。
フランドールはあっけらかんと口にする。
「じゃあ、貫くってさ。ね、何か約束したんじゃない?」
「……約束?」
「うん。約束を貫く、とかだったらさ。それが達成不可能になった時、世界の方を巻き戻しちゃえ! ってなってもおかしくないよね?」
「いやそれはおかしい」
どんな拡大解釈だ、と天子は至極まともに反論する。そんな世界を変えられるような力があるのなら、長尾在人はどうしてあんなにも弱いのか。
「在人は弱い。霊力も、気力も、魔力も。力という力が足りない奴だ」
「何それ。自己弁護のつもり?」
しかし、フランドールは知っている。レミリアだってわかっている。
他でもない、幻想郷屈指の強力な能力を持って生まれたこの二人だからこそ、わかるのだ。
「能力っていうのはね、本人の力とイコールじゃない。能力だけは一人前に強力なヤツ、いくらでも居るよ。お姉様みたいにね」
「おい。……私は種族として優秀だがね。例えば冥界の亡霊姫はその部類だろう? 死を操る程度の能力、だったか。あぁ、おっかないね」
能力は、本人の資質に依存しない。
わかりやすい例でいえば、レミリアの言った通り西行寺幽々子の“死を操る程度の能力”は、本人の能力抜きの戦闘能力に対して、あまりに過分な力といえるだろう。
その反例としては、風見幽香の“花を操る程度の能力”だ。幻想郷屈指の大妖怪だというのに、その能力はあまりにも牧歌的なのだ。
まぁ、それを含めたとしても。
確かに長尾在人の能力が世界を巻き戻せるなどというのは、拡大解釈の過ぎる暴論だ。
だが、そこに更なる状況証拠が加わるとすれば。
「能力が弱くなるという要素はなかなかないが――能力を強くする、という要素は幾らでも存在する」
「意志を強く持つこと。もっと言えば魂の逞しさが、それに当たるね」
「黙れッ!」
全て、天子には覚えのあることだった。
だからこそ、叫び、拒絶するしかその心を守る術がなかった。
「“貫く程度の能力”だっけ? それをどれだけ扱えるかは知らないけど――可能性がゼロじゃないなら、能力はどんなことでも起こし得る。それが能力の、理不尽なところよ」
「それを、本人が望んでいようと望んでいまいと、な」
「何が言いたい! お前たちは何を言っている!?」
今までの威厳は、怒気は、あれほどの鋭い殺意は何処に行ったのか。
その瞳に涙を溜めて、動揺に瞳を揺らし、女々しく叫び散らすことの、何たる人間らしいことか。
あまりの光景に、口角の上がる口元を、手で隠しながらくすり、と上品ぶって笑うことでレミリアは湧いてきた感情を誤魔化す。フランドールは、隠す気もないのか口元を大きく三日月に歪め、その牙を見せている。
「つまり、真の異変とは君が起こしているわけではないのだよ。お嬢さん?」
「だから、解決しようよってこと。元凶さん?」
二人の言葉に、比那名居天子はとうとう、その顔を伏せてしまう。腕を震わせ、体を震わせ、纏っている気が風に吹かれる焚火のように不安定になる。
――認めるわけにはいかない。
比那名居天子は聡明だ。無知な状態から、“気質”というものだけを頼りに、長尾在人の異常に確信をもち、観測だけで裏付けを取るくらいは、遊び半分にも出来たことだった。
彼女だって気づいていたのだ。“気質”が変化するという意味を。
ただ、目を逸らしていた。気付かないふりをした。そうするしか、彼女は自分を保つことが出来なかった。
死者蘇生の術なら用意できた。
死神ならば小細工を弄して追い払えた。
権力者たちの発言など、彼女の従者という立場を利用して突っぱねた。
だが、しかし。
比那名居天子がいくら優秀だといっても。
消滅してしまった精神を取り戻す術は持ち合わせていなかった。
だから、認めるわけにはいかなかった。
自分自身が導き出した結論を。
――自分が大好きだった長尾在人は、もう何処にもいない。
などと、認められるはずがなかった。
だって、もしもこれを認めてしまえば。
――長尾在人を殺したのは、他でもない私だ。
と、その現実さえも認めることになってしまうから。
「――荒唐無稽もそこまでいけば、いっそ笑い話というものだ」
だから、比那名居天子はいつも通り強がり、開き直った。
乱れていた気は途端に堅牢な牙城の如く隙がなくなり、身体の震えは既に止まった。
「……ふむ。これは詰みというやつか?」
「まぁ、いいんじゃない? 情報の共有はできたもの」
「業腹ね。私たちが記憶を保持できれば、あんなのに頼ることもなかったのに」
「でも、あいつは情報を集められない。そうでなきゃ盗み聞きなんてしないだろうし」
「まぁいいさ。楔は打ったのだからな」
「お姉様はずるいわ。私は後回しにされたのに」
「そうなのかい。まぁ、そろそろだろう」
能天気に姉妹だけで会話する二人に、しかし天子は手出しをしなかった。
いや、出来なかった、というべきか。
比那名居天子といえども、太陽の届かない場所で、吸血鬼二体を相手にするのは非常に厳しい。レミリアだけでさえ、両者傷を与えることの出来ない拮抗状態となったのだ。
それと同格か、あるいはそれ以上の危険度を誇る吸血鬼が追加で一体。猪武者の如く突っ込むには、状況が悪すぎた。
そんな悪い状況を最悪に変えるかのように。
「どうして、こちらに……」
口の端に拭い切れていない血の跡を残し、肩で息をして引きずるようにして、長尾在人が紅魔館の中から出てくるのであった。
「――ッ!」
その姿を認めた瞬間、比那名居天子は弾かれるように在人の方に飛び出した。“緋想天の剣”を片手に、その姿に手を伸ばして、流れ星のように青い閃きを残して。
「おや、何処に行こうと言うのかね?」
それを阻む紅色に、天子は「邪魔だ!」と吠えて“緋想天の剣”を振るが、その刃は彼女の魔槍に止められて、拮抗状態に陥った。
「蝙蝠がッ!」
「よく喚く小娘だね」
拮抗した状態では何もできない。急いで距離を取ろうと後ろに飛ぶのに合わせて、レミリアも天子との間合いを詰める。
意地でも距離を詰めてくるレミリアに、天子は苛立ちに歯噛みする。天候を操作しようにも隙が出来ない。
例え隙が出来たとしても、雲と霧による二重の紅色を突破することは出来ないだろうが。
「待っていろ、すぐに片をつけるッ!」
「その前にこちらの用事を済ませるがね」
その睨み合いは、未だ終わりが見えそうにない。
「天子様ッ!」
「そんなにご主人様が心配?」
「っ!?」
いつの間にか、長尾在人の隣にはフランドールが立っていた。横に並んで、花火でも眺めるかのように、紅い瞳は天子とレミリアの戦闘を眺めている。
「でも、アレはもうダメじゃないかな。心が壊れてるもん」
「心が、壊れてる? 何を――」
「別に、私は何もやってないよ」
詰問に先んじて、フランドールは答える。
その瞳に、在人は映っていなかった。
「壊したのは貴方よ。ご主人様に全部バレてるよ? 貴方は長尾在人じゃないんだ、って」
ヒュ、と細い息を呑みこんだ。気道が一瞬詰まり、体が固まる。わななく唇に、回らない舌。何とか「どうして」と蚊の鳴くような声は出たが、それ以上は息が詰まって何も出なかった。
「紅霧異変の時、長尾在人は私の元にやってきた」
それは比那名居天子に、異変の調査をして来いという無茶ぶりをされたとき。その最初の話であった。
「長尾在人はメイド長に先導されてやってきた。招待されるように。お姉様からの伝言は、カウンセラーを捕まえた、だったかしら。本の虫も知っているでしょうね。そう、長尾在人は紅魔館の住人に認知されていた」
それはおかしい、と在人は首を横に振った。
レミリアとは、今回の異変で初対面のような対応をされた。紅魔館の魔女パチュリーには、興味もないかのような対応をされた。フランドールは、まるで知っているかのような口ぶりをしながら、狂っているようにしか聞こえない言動ばかりであった。
「私、言ったよね? “誰?”って。“前から異変だらけじゃない”って。“私は貴方を知らない”って。全部、本当の事よ。だって、私は後から出てきた紛い物の精神のことなんて知らないし、私が知っているのは本物の長尾在人だけ。前から異変だらけなのも本当。だって、お姉様たち、長尾在人について何も覚えていないのよ?」
じゃあどうして、フランドールは長尾在人を覚えているのか。矛盾している発言だ。フランドールが狂っているとしか思えなかった。
狂っているとしか思えないのに、彼女の瞳はどこまで理性的に落ち着いている。
「世知辛いよね。だって、例え正常だとしても、異常者の方が多ければ狂っているのは正常者の方になるもの。多数決って残酷よね」
狂っている。
彼はあまりの痛みに頭を抱える。
「ずっと前からの大異変。世界の認識を歪めているのか、それとも都合の悪いことは剪定されちゃうのかしら? どっちにしたって、狂ってるのはこの世界」
苦しむ彼をしり目に、フランドールは言葉を続ける。
「私が覚えているのは、長尾在人が手を尽くしてくれたから。狂気の矯正はとっくに終わっているの」
狂気の矯正が終わっている。狂気をどうにかする必要など初めから存在しなかった。
ならば、レミリアとの契約は一体どうなるというのか。
「本題はここから。もしもご主人様を助けたいのなら、私と契約しましょう?」
比那名居天子を助ける。
その言葉に、ピクリ、と彼は反応を示した。
「長尾在人が死んでいるなら手なんてなかったけど。生きているなら話は早いの。表に出て、この問題をすべて丸く解決するだけ。そして、その時間逆行の力を解除すれば、もう終わり。口うるさいのが出てくるかもしれないけど、それは貴方の交渉でどうにかすればいいわ」
じゃあ、契約内容の確認ね、と彼女はまたあの文言を口にする。
「私は貴方を、長尾在人を契約期間中は私、フランドール・スカーレットの手で殺しません。以後、フランドール・スカーレットは“私”とします。私は長尾在人との二者間の問題を、契約期間中は不当な暴力をもって解決はしません。
代わりに貴方は、長尾在人は自らの意思では死ねません。他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません。
契約期間は、今起きている異変が解決するまでとします。期間中に契約を破った者は、契約期間中において相手への絶対服従を、罰則として受けることにします。以上」
悪魔だと、何度目かわからない実感をもって、彼はフランドールのことをそう認めた。
もしもフランドールのこの契約を彼が承諾してしまった場合――彼は、長尾在人はどうしようもなく詰んでしまうことを理解した。
この契約のみそはフランドールの能力と、契約内容中の文言に起因する。
まず、「フランドール・スカーレットの手で殺しません」という文言。これは一見、長尾在人のことを殺さないことを担保する制約のように見えるが――それは違うのだ。
これはフランドールが自分自身を解決策に使わせないための巧妙な罠である。その理由は、深層意識に眠った長尾在人の存在にある。
これは彼自身も自覚していることだ。自分の奥底に眠った長尾在人の精神。魂の根幹とも呼ぶべきそれは、度重なる時間逆行に耐え切れず、自らは休眠に入り、能力を維持するだけの存在となった。
しかし、精神が眠りに入ってしまえば、身体を動かすための意識までなくなり、永遠に寝たきりとなってしまう。そうなっては、時間逆行の条件を満たしてしまう。しかしこれ以上時間逆行をして表に本体の精神が出てしまえば、魂そのものが消滅してしまいかねない。
それらの解決方法として取られた選択が――まるで神の如く自身の精神を分霊と化して、自らの肉体を動かすのに使うことだった。
この分霊化のような状態がまた厄介であり、一度生み出された分霊は、自らの意思で消滅することが出来ないのだ。肉体を動かす権利を、本体の精神に移譲することも出来ない。
ならば本体の精神に入れ替わるためにはどうすればいいか。
それは、分霊の方が消滅して、本体が表に出ようという意志があった時にのみ、権利の譲渡が出来る。
分霊が消滅する条件は、分霊自身が精神の負荷に耐え切れず消滅したときか、外部からの衝撃によって消滅させられた時しかない。
即ち。
フランドールは、鍵なのである。長尾在人を呼び起こすための能力を、彼女は偶然にも保有しているのだ。
次に罠というべき点が、「他でもないこの契約を結んだ長尾在人は死ねませんし壊れません」という文言である。
これが一番在人を詰みに追い込む文言だ。もしもこれを、長尾在人の分霊が行ってしまった場合――長尾在人本体の精神は、二度と表に出られなくなってしまう。たとえどのような能力を用いたとしても分霊は消滅せず、表に居座り続けることとなる。
“他でもないこの契約を結んだ長尾在人”とは、本体の精神ではない。この契約に了承をした精神のことを指している。これを彼が結んでしまった場合は――もはや、取り返しのつかないことになっていただろう。
フランドール・スカーレットは決して信を置ける味方などではない。
むしろ、彼女は正しく悪魔であった。人間が思い浮かべる、人を食い物にし絶望させる存在。契約には忠実ながらも、その契約を以て人間を貶めようとする、人間には理解の及ばない化け物。
人間から見れば、間違いない。
フランドール・スカーレットは狂っている。心の隙に付け入り人を貶めようとする、まさしく最悪の悪魔。
だからこそ、悪魔であるフランドール・スカーレットは正常なのである。
話の全てを理解した。
理解したからこそ、彼はその心に烈火を燃やし、やらせるものかと瞳の奥に火が灯る。
「――お断りいたします」
これほどの封殺の目論見を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。
自身のことであったのなら、まだ炎を灯すほどの激情に駆られることはなかった。
「どうして? これはその身の安全を保証するための、可愛い悪魔の手助けなのに」
だが、それが間接的にも、比那名居天子を害することになるのであれば。
例え紛い物だろうと。本体でなかろうと。
「天子様を害する者に、与するつもりは微塵もないッ!」
彼は全力を以てこれを拒み続ける。
どれだけ擦り切れ、どれだけ消えて、どれだけの苦境に立たされていようとも。
諦めることだけは決してない。
歩みを止めるなどあり得ない。
そこに例え一筋の希望さえないとしても。
彼は何があろうと止まらない。
これまでも、これからも、血反吐を吐いて進むのだ。
「レミリア・スカーレットッ!」
声を張り上げる。
バレているのなら開き直ろう。
今の状態で決してたどり着けないなら、今できる精一杯を尽くして次に繋げる。
「契約は果たしたッ! 今この場で、報酬を要求する!」
口から血をこぼしながら、枯れかけた声でも届けと叫ぶ。
私はここに居るぞ、と存在感を示す。
「私と共に、この異変を解決しろッ!」
耳の奥を風が抜ける。
「契約の報酬。悪魔、レミリア・スカーレットが確かに聞き入れた。あぁ、業腹だ。業腹だが――」
彼の隣に降り立ったレミリアが、ニヤリ、と口角を上げて、彼と共に同じ空を見上げる。
まるで歴戦の友の如く並び立ち、紅い魔槍をその先に向けて、心底楽しそうに声を上げた。
「あいつに一泡吹かせられるなら――我が全力を以て、世界を違えようと、この大異変を解決してやろう!」
その啖呵を聞き、彼はしっかりと頷いた。
そして、次に語り掛けるべき相手に声を張り上げる。
「天子様!」
「――吸血鬼に与するかッ!」
怒りに緋想天の剣を向けて大声を放つ天子に、彼は力強く首を振った。
「与する? 御冗談を! 例え百万回の死を経ても、私が天子様を裏切ることなどあり得ないッ! これより貴方のお望み通り――異変解決を実行します!」
彼に勝算?
そんなものがあれば苦労しない。
勝利など手探りだ。最初は誰だって手探りで、勝ち筋を見つけ出す。
今此処から、彼は全力で走り出すのだ。
「こんな荒れた場で、味方もほとんどいない状態で、私を倒すと? そう言うのか!」
「味方? そんなもの――最初はいつだって、一人しかいなかったッ!」
その言葉に、天子が目を見開き息を呑み、身体を固まらせた。
その間にも、彼とレミリアはお互いに視線を合わせて、言葉をかける。
「私は小娘を食い止めよう。お前は――お前の為すべきことを為せ」
「元より、そのつもりです」
さぁ、最後の仕上げだと。
彼は拳を握り、その瞳に焔を宿す。
レミリアは、その槍を真っ直ぐ標的に構えて、踏み込んだ。
「不屈の誰かさんと」
「運命を手繰り寄せる、このレミリア・スカーレットが」
『この異変を綺麗さっぱり解決しよう!』
彼は駆け出し、レミリアは天子に飛び掛かり。
再び、決戦の火蓋が切って落とされる。
――有頂天は。
もうすぐ、目の前にまで迫っている。