fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
クロエ・フォン・アインツベルンは、その時、薄く意識を覚ましていた。
覚醒というほどには意識はハッキリしていない。けれど、睡眠というには自意識が動いている。
3/4は寝ているけれど、1/4は目覚めている。深夜23時にこたつで横になってしまって、漠とした意識が偏在しながら眠りこけるみたい。生前? 何度か経験した行為を思い出しながら、クロは、漫然と周囲に志向を拡散させる。
午前4時、32分に14秒。お寝坊とは無縁なクロだったが、それでも目が覚めるにはまだまだ早い、という時間。そんな時間に彼女の意識が浮上したのは、自分を抱き留める熱が、もぞりと動いたからだった。
トーマが、起きた。漫然と、理解する。いつもより少し遅いな、とも。普段ならマシュがトレーニングに誘いに来るか、ライネスが講師をしに来たりもするのだが、今日はどちらでもない。ライネスは午前9時からのブリーフィングに向けての資料やら何やらをドレイクと検討しているのだろうが、マシュは何だろう。わからない。わからないことも、わからない。
ふわふわした思考に、じわりとあたたかな触が吸い付く。まだ柔らかいながら、少しだけ皮膚が硬くなり始めたトウマの手のひらが、クロの髪の毛を弄んでいる。手櫛をしたり、撫でたり。おっかなびっくりといった素振りながら、その手触りは心地よい。
心地よい、確かに。直截に言って、恋人のような手触りは、とても、気持ち良いな、と思う。もっと触ってほしい、という想いと相反するように鎌首を擡げたのは、冷然とした本能だった。
自分に其の資格はない、という自覚。というよりも、自分の資格はそれではない、という思考。彼女らしくなく、それでいて彼女らしいその思考。ぐるぐると、巡る言葉が無意識の深層から胸郭に浮かび上がる。
あの黒衣の剣士。それに、メルトリリス。何故2人とも、同じような言葉を吐いたのだろう。どちらも何か、因果が結ばれた存在者なのだろうか。それともただの収斂進化か。どちらにせよわかるのは、クロエ・フォン・アインツベルンは、彼女らしい大人っぽさで以て、彼女らしくない煮え切らなさに悩んでいたのである。
だが、ともかく、彼女の二重螺旋を描く葛藤を愛撫するように、トウマの手がクロの頬から離れる。ひた、と冷たい感触が頬を撫で、クロはちょっとだけ、身動ぎしてしまった。
そこから、トウマの動作はルーティン化された実に人間らしい動きをした。ベッドを軋ませることもなく抜け出し、綺麗に寝具を整える。ぱりっとした動作には、眠気は感じられない。ちょっと前には、随分寝坊助だったような気もする。
なんだか誇らしくて、ちょっと寂しい。1/3ほどに覚醒が拡大し、クロはほんのちょっとだけ目を開いた。
うーん、と伸びをするトウマ。ちょっと前まで、ありふれたどこにでもいる16歳の男子高校生だった背中は、まだまだ精悍という言葉とは程遠い。未発達の筋肉に、まだ場慣れとは程遠い呼吸。後頭部の髪の毛をかき回す仕草も、なんともまぁ呑気そう。
それでも、彼の身体は、前よりは硬さを感じる。抱き癖のままにクロに抱き着くトウマの身体の感触は、前よりも固く、それでいて、なんだか遠い。
衝撃もなく、トウマは立ち上がる。黒いバトルユニフォームに着替えると、トウマは簡易的に自作したデスクの前に座った。
持ち込んだタブレット端末を起動させ、キーボードアクセサリの礼装を起動する。デスクの上に投影された非接触型キーでパスワードを打ち込んだ後、彼は慣れた手付きで何かを始めた。
もう一つ、8インチの小型タブレットと見比べるように視線を交互に動かしては何かを入力していくトウマ。ふわ、とあくびもしつつ、真剣な表情で液晶画面と向き合う姿はちょっとした学研の徒といった感じだ。流石に教授然、というほどな大人らしさはないけれど、勤勉な博士課程(ドクター)といった印象はある気がする。若干、クロの認識論的転回による誤解も幾分か含むだろうだけど、彼がある程度の勤勉さを発揮しているのは間違いないようだった。
「腹減ったな」
独り言ちる。保存用の剛性蛋白質のチキンバーをむしゃむしゃしては、ちびりちびりと水を飲む。
昔から、トウマはこんなに真面目だったんだろうか。いや、そもそも、トウマは、どんな風に生きてきたんだろう。素朴に浮かんだ疑問は、思いのほか根が深く、クロの深層に浸潤した。
一般的な高校生の生活をイメージする。起きる時間は6時か、7時? 少なくとも4時ではないだろう。通学は確か自転車だった。ホームルームの前に登校して、友達と暇な時間を潰すか、それともやっていない課題を慌ててやるんだろうか。友達と交わす会話は、それこそアニメやゲームの話だったり、次のテストが怠いなんだという話だったり。それと、どのクラスの女の子が可愛いか、みたいな話だったり、か。
ある意味で『当たり前の生活』という、一見豊かに見えて、実際豊かで希少なものを経験したことのあるクロは、そんな日常を普通に想像できる。そんなトウマの隣に自分が居る、という複合観念を創作できるくらいは。
とは言え、それ以上はイメージし辛い。当たり前の日常の中でトウマに出会ったとしても、そもそも何かしらの志向性を向けるだろうか。応、とは応え難い。さりとて否とも言い難い。曖昧な輪郭の想像は、とりとめが無かった。
しかし、自明なことも、ある。人理の喪失という尋常ではない未曾有の出来事にあって、あらゆる不可能性の壁を超えて、トウマはこの世界に転がり込んできた。そして自分も。トウマ風に言えば、同じ『型月世界』でありながら主幹を大きく異にする世界から、この世界に召喚された。
そうして事実として彼女と彼は交錯した。
あの日あの時。
あの、教室で。
不意に、クロはそれを知覚した。
天幕の裡に、するすると黒い影が混じる。白墨のような白い髪に、黒いロングコートの小柄な人物。少女然、というほどの小柄ではないけれど、それでもちょこちょことした仕草もあって、なんだか幼い。
メアリー・リード。海賊のサーヴァント。クラスはライダー。もちろんサーヴァントなので、小柄とかこどもっぽいだとかは、意味が無い。座に召し上げられた時点で、英霊には時間概念が無意味になる。そもそも、メアリー・リードの絵はもっとオッサンみたいだったような気もする。アン・ボニーが気を引いたのだから、若いころは顔かたちが整っていたのだろうが。
メアリー・リードは、静々と、アサシンさながらの足運びでトウマの背へと向かう。集中しているせいか、それともあくまで一般人のトウマには知覚できないか。恐らく両方の理由によって、トウマは背後からの闖入者を捕捉できなかった。
メアリーの表情はわからないが、それこそ獲物を前にした肉食獣のようだった。目の前に肉の塊を見せつけられた獅子か虎か。とは言え、肉食獣とは得てして慎重なものだ。目の前の肉に快く襲い掛かるのは、確実に獲物がしとめられると確信した時である。その時まで、粛々と獲物の動向を観察するものだ。
ソロリソロリ。トウマのすぐ後ろまでついたメアリーは、覗き込むようにトウマの肩口から顔を出していた。
それでも彼は気づいた様子がない。思春期の少年を子供に持つグラサン姿のダメ親父のように腕組みし、何か独語を漏らしている。
「戦術はそれしかない。間違いなく、クロはヘラクレスに対して有効打になる」
ほんの微か、トウマがクロを志向する。漫然としながら、にも関わらず明確な形へと収斂する志向。
「で、トウマ君はクロエを戦いに出したくないのかな」
「ぅおわぁ!?」
ギャグマンガみたいな悲鳴とともに転がり落ちるトウマ。巻き込まれたメアリー諸共に地面に転落すると、ドッタンバッタンした騒音が埃とともに立ち上がった。
「あ痛たたたた。大丈夫ですか、あの」
「あー少年クン。大胆だなぁ」
甲高い悲鳴は、トウマのものだった。再度転げるトウマを他所に、メアリーはちっとも気にしないように立ち上がると、服の埃を払った。
「何おっ立ててンのさ。別におっぱい揉むくらいよくあることじゃないか」
「いやそんなに頻繁にはないのです」
椅子の上に丁寧に正座して、妙に俯くトウマ。黒髪のつむじを見下ろしながら、メアリーはきょとんとした顔だ。
「クロエと週何回? 月何回ってこたないよね」
「え?」
「oh~少年クン。よもやよもやだ。 胸触るのも初めて?」
「ソッ、ソッスネ」
「わ~お。こりゃたまげた。ぶったまげるね」
言葉の内容とは裏腹に、口調は全然感情の抑揚がない。自分の胸を触りながら、メアリーはふらふらと小首を振っていた。
「初おっぱいだぞう。もっかい触る?」
「いや、その、それは」
「じゃあする? クロと3人で」
「は?」
「あーもうクロには伝えてるんだけどね。3人て結構大変なんだけど、ボクこれでも経験は結構あるし大丈夫。楽しいよ。あ、アンも呼ぼうか? アンのおっぱいねぇ、もうメロン峠の牛女って感じで」
「ステイステイ、待って待って、色々待って」
がたがたと椅子を軋ませ立ち上がったトウマは、ただただ整理のつかない感情のままにメアリーの肩に掴みかかった。
メアリーは行儀よく「待つけど」と言うと、いそいそとコートを脱ぎ始めた。
「いやですから」言いかけて、トウマはただ、声を喪った。表情は、ちょっとわからない。ただ漠然とわかるのは、痛まし気ということだ。「それは」
「バニースーツ?」
「いやその」トウマは、眉を寄せて肩を竦ませた。「まぁそういうことで」
「傷は勲章みたいなもん。生前最後の戦いのときの奴だから」
「あの、ジョン・ラカムの船団の」
そう、と応えるメアリー。彼女の表情も、上手く見えない。ただなんとなく、トウマとは対照的に嬉し気な気がした。
「ボクにとって“傷をちゃんと見せられる、可愛い恰好”って欲求の具現かなと思ったけど」
「なる、ほど?」
「触る?」
「いや、その」
「ごめんごめん」
ふらふらと椅子に座るトウマ。気まずさで言葉選びに迷っている様子とは対照的に、メアリーはほんのちょっとだけの嬉し気な感じを滲ませていた。トウマは、気づいていない。
「少年クン。君はあんまり頭が良くない」
ずぐりと、メアリーの声がトウマを刺した。ストレートな物言いに声を逸しながら、トウマはそれでも、メアリーの顔を、ちゃんと、向き直った。
トウマは、そんなに頭の回転が速い方ではない。リツカやライネス、クロの会話のテンポについていけないことの方が、多い。
「でも馬鹿じゃない。学校? だっけ。成績は?」
地元の先進校で、一応は成績上位だった。半分より上、という意味では。
「まぁ普通です」
「そ、普通。少年クンは馬鹿じゃあない。つまるところ、貴方はボクの言いたいことはもうわかる」
「楽しむことが、メアリーさんの基本?」
そうだよ、とメアリー。ぴょん、と椅子に座るトウマの膝の上に乗りかかると、赤面して顔を逸らそうとするトウマの顔をがちりと掴んだ。
「トウマ少年に触りたかったり、“粘膜接触”したかったりするのも欲求だけど。所詮ボクはサーヴァント。この特異点が消滅したら、消えるだけの存在。だけど貴方はこれから先も生きていくんだから、その先の人生が善くあれかし、と思うのもボクの欲求」
「そこで、葛藤はないんですか」
「楽しく気持ちよくなれれば一番じゃない。難しいこと考えても、あまりいい答えはでてこないよ」
トウマの頬から、手を離す。そのまま手を自分の太腿に手を置くと、少年クンは優しいね、と無表情の中に、小さな笑みを零した。
そうして、不意に、メアリーはくしゃりと表情を震わせた。惑乱と発露を綯い交ぜにした情動に、何より彼女自身が躊躇っているかのようだった。後頭部の髪をかき回して、言葉を探すように震える口唇。
結局、メアリーはただ困ったように表情を緩めただけだった。話す言葉はなく、ただ静かにトウマの膝の上から降りた。
「じゃあ、ガンバッテネ。それ」
はい、というトウマの返答を聞いていただろうか。いそいそとコートを着込んだメアリーは、入り口の布を持ち上げたところで、未練がましく―――むしろその対極の情動のまま、立ち止まった。
「傷を舐められるの、好きなんだ」
「え?」
「全部終わったら3人で遊ぶ約束。だからちゃんと、クロにも伝えといてね」
にへら、と、やっとメアリーは笑い顔を作る。何の頓着も拘泥もない、海のように底抜けの深度の自由さを惹起させたかのような、純朴な顔立ちだった。
入り口をくぐるメアリーを見送って、トウマはしばし、呆然としていた。行き場をなくした心情をどう放出すべきか、それとも堪えるか、ぶちまけるか、決めかねているようだった。
視線を落とす、自分の手。握ってはひらく動作を繰り返す手を見下ろす視線が揺れながらも、それでも一点に収斂していく。
立ち上がる少年の身振りは、凝固を始めていたようだった。何をすべきかは既に決め、あとはただ、行為の重さを、背負おうとする困難な意思を担うのみ、とでも言うように。
クロ、と名前を呼ぶ声は、ほとんど自分へ向けた独り言のよう。伸ばした手が身長133cmの小さな身体の肩に触れた。
接触する指先は頬を撫で、耳を擽り髪を梳く。じんわりと広がる感触の心地よさは、閾値すれすれに励起する化学反応のようだった。
「やるべきことは、わかってる。でも」独り言は、他の誰でもない、自分に言い聞かせるようなものだった。「弱くてもいい、って。キツイっすよ、ウェイバー・ベルベッド」
手が、離れる。最後に下唇を指先で擽るように撫でると、トウマは彼女の額に、自分の額を触れ合わせた。
舌先から滑り落ちる、少女の名前。少年の舌は痙攣発作を起こしながらも、懸命に、溢れる何かを溢さぬように、慎重に、控えめに、そうして確かに、彼女の名前を呼び掛けた。
※
「メアリー?」
近くの木陰から、アン・ボニーは声をかけた。
幕を潜って出てくる相棒。黒いロングコートのような出で立ちの、矮躯の女性は、アンの声にのんびりと手を挙げた。やぁ、と声を上げてはいないのだが、そんな呑気さも伝わってくる。
「振った」
「あら」
「振られた」
「まあ」
「やっぱり後でクロエと少年クンとで3Pすることにした」
「あらあらまあまあ」
それで、会話は終わりだ。全く会話の脈絡もないのだが、メアリーはいつもこんな風である。アンはそんなメアリーの在り方が理解不能で、とても興味深くて好きだなと思っている。愛しい、とも。思えば、そんな神秘的な少年さに惹かれたのだった。
「アンも混ざる?」
「私、別にあの少年クンとはなぁと思いませんけど」
「そっかぁ」
「メアリーとクロエならいいですよ。触ったら撃ち殺すってことでいいですか?」
「うーん。まぁいいんじゃないかな。撲殺の方が好みかもしれないけど」
「なら混ざります。楽しそうなので」
「過激だなぁ」
なんとも物騒で破廉恥な言葉を平然と羅列する。アンとメアリーは特に感情の起伏も見せはしない。今更そんな友達ごっこをする必要は、2人にはない。何をするのにも、2人は感情なんていう出来あいのものを漏出することはしない。ただ、不定の情動を互いに感じながら、言語化しえない強度の間身体性あるいは潜在性の弘原海を飄逸する様は、親友なんてそんな言葉では済まないものがある。
そんななので、手を伸ばしたタイミングは全く同じだった。指を絡める動きも同じ。だからといって顔を見合わせる初心さもないし、にやにや笑いを浮かべる饐えもない。
「私のところに来ます?」アンは周囲の林を見回した。
「リツカちゃんとマシュは?」
「2人でお散歩みたいですよ」
「外が好きなのかな、お2人」メアリーの表情はなんとも胡乱だ。多分、あの堕落したリツカが早朝に起きてるということが信じがたいようだ。
「ですかね」
「たまには外に行く?」メアリーはおどけたように肩を竦めた。「冗談」
アン・ボニーも同じように、肩を窄める。そうして互いににへら、と破顔すると、アンはメアリーの身体を軽々と抱き上げた。
メアリーは少しだけ、納得いかない様子だ。生前は、立場は逆だった。メアリーはもっとすらっとしていて精悍さすらあって、アンをお姫様みたいに抱き上げたものだ。
芸術家のサーヴァントは、全盛期の姿が子供であったりするらしい。要するに感性の豊かさの象徴が、子供らしさというわけだ。ならば、メアリーのその姿もそうなのだろう。メアリー・リード。私生児としてこの世に放り出されるように産み落とされ、軍人になって結婚し、海賊に転がり落ちて、恋人のために無慈悲さすら見せて、そうして苛烈さすら剥き出しにした。そんな実直さと天衣無縫の合いの子こそがメアリー・リードであり、その小さな姿がその象徴なのだ。
まぁ最も、アンも人のことは言えないのだが。とは言えアンの人生の結末は、結構普通なのだ。むしろ、幸せな結末というか。メアリーの末期とは、全く異なる……。
アンとメアリー。激烈さをこそ象徴とする2人の女海賊は、今この瞬間だけは、ある意味で彼女たちの自由な気風の本性を愉しんでいた。