fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
唐突に、烈日の旱魃に放り出されるような感覚……。
アタランテは顔をぐしゃぐしゃにしながら、呻くように目を覚ました。
サーヴァントにとって、“睡眠”とは奇異な現象である。短期間で終了する聖杯戦争であれば、本質的には不要な行為であろう。エーテルで構成される英霊は幽界に属するものであり、身体的疲労の回復という観点での睡眠は不要である。睡眠による魔力消費の抑制は、非効率的で基本的には良い手ではない。
他方、睡眠と呼ばれる行為の高次的機能である記憶の整理──継続する記憶を断絶させ、無意識の領域の中で整理するという行為──は、如何に英霊とて物質の世界に形を持つ以上、必要な行為だ。特異点における超長時間活動となると、その行為の必要性は顕著になる。さらに前者の効率という点でも、活動時間が長時間にわたり、且つ既に魔力供給減がある上でさらに魔力消費を抑えるという観点では、効果的とは言えないまでも、無駄とは言えない行為になる。
畢竟、特異点と呼ばれる人為的に、且つ歪に発生した擬制的な歴史での長時間活動に従事するサーヴァントたちには、睡眠は必要な行為であった。
アタランテが目を覚ました時、感じたのは頓に不快な感情だった。基本的にサーヴァントは夢を見ないが、活動が長時間になればなるほど、記憶の堆積とそれによる無意識領域の発生、そうして夢と呼ばれる人間的営為が生じ得る。今回の人理焼失という事件における異例中の異例、最強の使い魔たるサーヴァントが1か月ほどに及ぶ長時間の活動という出来事において、初めて見られた現象である。
……なお、
ともあれ、不快な感情とともに目を覚ましたアタランテは、まず木の枝から足を投げ出した。彼女は、普段からいい感じの木の枝の上で眠るのである。島の中央には雨風が防げる神殿があるが、アタランテにとって家の外こそが棲まう場所であった。
「居ないのか」
周囲を気づかわし気に見回す。普段なら、無垢な少女のようにポルクスが駆け寄ってきて、現代的な──あるいは未来的な人間の料理とやらをもってきてくれたりするのだが、今日はそういう日ではないらしい。あのサンドイッチとやらは旨かったな、と夢想して、彼女の中で、“ポルクス飯”のランキングを変動させた。それまでのトップはハンバーガーとやらだった。特に食事について頓着が無かっただけに、現代の料理はまさに魔的なまでにアタランテの心──といいより胃袋を鷲掴みにしてしまった。
と、彼女は不意に、下からの視線に気が付いた。
しーしー、と舌を震わせ、こちらを見上げる多数の眼差し。大蛇ほどにダウンジングされた蛇竜が、ふらふらと頭を揺らしていた。
ひょいうい、とアタランテは身軽な動作で地面に降り立つ。すかさず足に絡みついてきた蛇を抱き上げると、「なんだ、お前もか?」と目を覗き込んだ。
「ポルクスの作る食事は確かに旨いからな。昔は、そんなことなかったような気がするんだが」
もちろん、アタランテの言う昔とは“生前”という意味だ。アタランテとディオスクロイの関係は、アルゴー船だけでなく、カリュドーン狩りの際にもともに轡を並べた仲だが、その頃はスパルタの出身なだけに、ストイックな人物だったような気がする。
「そう言うな。私は料理なんてしないんだ。いいか、英霊が生前持っていなかった習慣を身に着けるというのはだな、そうそうないことなんだぞ。余程衝撃的な記録でもない限り、大抵の記憶は座で無価値になってしまうんだ」
あやすようにラドンの小さな身体を腕の中で上下させながら、アタランテは、今を以てまだ世界の裏側という高次世界に生きる神獣に、言って聞かせてみる。
思えば、英霊の座なんて御大層な名前だが、要するに人理とやらが物珍しさで英霊の記録をストックしているだけの、悪趣味なものだ。そんなものから呼び出され、クラスなどという枠で囲われるサーヴァントなど、その実美術品や何やらの鑑賞物と大差ない。最強の使い魔などといううたい文句で魔術師たちは崇め奉るが、言ってしまえばカルト集団が教祖を眺める視線と、違うところは何もあるまい―――少なくとも、アタランテはそう理解している。言ってみれば陳列物で、所詮それでしかないサーヴァントの事情など、神代より生きる神獣にはあまり想像しがたいものなのだろう。
「まぁ、でもお前もヘラクレスの宝具で呼び出されているのか。どういう原理なんだ? よもやサーヴァントの身で神獣を引っ張り出せるとは思えないんだが」
小首を傾げるアタランテ。同じようにたくさんの首を傾げる神獣。なんとも愛らしい仕草である。これであのテュホーンとエキドナの子であり、神代ギリシャに名高き幻想種を同胞に持つ竜種とは思えない。
「その話はよしてほしい。何にせよ、私は料理なんてできない」
するすると身体に巻き付いてくる竜種に、アタランテはただ、愛惜のような、ともあれ悲し気な表情を浮かべるしかなかった。野に生きてきたが故か、それとも獅子に変成した逸話の故か、アタランテは、【動物会話】のスキルを有している。
「もう、終わったことだ。いや、これから始めることか」
アタランテはそう言い、大蛇を地面に下ろした。不思議そうに見上げてくるラドンから、視線を逸らした。
「いや、すまない」アタランテは妙に言い訳がましく、肩を竦めた。「お前が悪い分けじゃない」
なおも何か気づかわし気に蛇は首を傾げた様子だったが、それ以上、何をするでもなかった。そろそろと地面に這い、呑気そうに叢の中へと消えていった。
アタランテはその姿を追おうともせず、ただ、途方に暮れたように佇むばかりだった。何をすればよかったか、彼女は今もってわからない。妙に空虚な掌を握っては掴んでから、アタランテは逃げるように、明後日へと走り出した。
あの時も、こんな森の中だった。
アタランテは、漠然と、質感の無い記録に埋没する。
自分でも、いつのことだったか不鮮明な思い出。思い出というにはあまりに手触りもなく、無味乾燥。にも拘らず、か弱い疚しさが心房の底で息づくようなその苦しさ。振り切ろうとしても振り切れない苦酷から逃れるように、アタランテは瞬く間に島の外縁へとたどり着いた。
凪いだ海原。低く唸るような沈黙がわだつみの底で蠕動しているかのような静謐。空の果てには黒雲が、分厚く跋扈している。近く、天候は荒れるだろう。それこそ、今日の夜にでも。
去来する思惟、錯綜する感情。手指神経に帯電する、残心。アルゴナウタイの1人を射殺した時の感覚は、まだ、残っている。
「先へ進むべきだ、なんて言われたって。私の気も、知らないで。お前は無責任だよ。メレアグロス」
あふれる。
何かが。
※
「どうした」
オデュッセウスがその幻想種を見かけたのは、意外にも海岸付近だった。
見上げる多頭の視線も、随分慣れたものだ。不思議そうに蜷局を巻く大蛇に手を伸ばすと、不機嫌そうに彼? は身を捩らせた。ヘラクレスの一件もあってか、テュホーンとエキドナの子らは人間が大嫌いだ。もともと幻想種は人間が嫌いだし、ヘラクレスの一件があればなおのこと、だろう。魔獣たちの指揮権をオデュッセウスが所有している以上、彼のことは毛嫌いしていないけれども、それでも過干渉はお断りというスタンスである。ポルクスは現代料理を提供しているせいか、なんとなく“ご飯を持ってきてくれる良い人”みたいな認識が魔獣全体で形成されているとかなんとか。確かに神代の食べ物などより、効用はともかく食事の味に関しては現代の方が優れていると言えよう。
……余談だが、実際時計塔でも伝承科と現代魔術科、創造科の共同論文で、『食事における現代の先進性と反-魔術性』などといった趣旨の論文が提出されたりもしている。最も、評判は奇抜なタイトルの割に堅実という評価に落ち着いているらしいが。当然、これはオデュッセウスには全く与り知らぬし、そもそも全く本筋と関係のない話である。つまるところ、閑話休題。
「心配か、アタランテが?」
オデュッセウスが一歩下がるのを認め、大蛇は緊張を解いたようにだらりと身体を地面に横たえた。だが、まだ気になるのか、多頭の頭は全て、崖の上に佇むアタランテへと向いていた。
「良い奴だな、お前は」
オデュッセウスは、そんな無邪気な蛇を、複雑な情動のままに見下ろした。
こちらの世界のオデュッセウスなら、なんと言ったことか。少なからず、今の彼には理解できない。ただ生き、殺すことを続けてきた彼に、豊かな情緒なんてものはない。
だが、その言葉が情緒と異なるものかと言うと、そうでもない。彼は彼なりに思考し、今の彼で言うべき言葉を漏らしただけだった。それはきっと、ペーネロペーを一筋に愛し続けた男の言葉というには、あまりにも朴訥としていたかもしれないが。異聞に生きたオデュッセウスには、わからない。知識でしか、
「だがお前はお前だ。お前はパルテノパイオスでもないし、奴もそこに同一視などしていないだろう。共感なんて求めるな。お前はお前の在り方で、奴と接してやればいい」
竜の表情など、もちろんオデュッセウスにはわからない。もともと表情の機微で他者を理解するなど、人間の論理だろう。なので、慮るべき感情がこの多頭の竜の中にあるかどうかなど、オデュッセウスにはわからない。
「守ってやれ。何かあったらな」
だから、そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。
当然と言うか、心のこもらない、ただ知識から引き出してきた言葉が通じるわけがない。はてな、と首を傾げる多頭の蛇に、「人間のフリさ」とオデュッセウスは自嘲気味に零した。
勇敢で誉れ高い守護の竜。りゅう座に召し上げられたラドンの見透かすような視線に、オデュッセウスも、視線を逃れた。
「今日は嵐だ」
それは、独り言のような独語。アタランテの肩越しに見える青い空の果てには、黒い暗雲が淀みのように滞留している。
踵を還すオデュッセウス。蛇竜の内、頭のいくつかは立ち去る鎧姿の男を視線で追う。残った頭は相変わらずにアタランテの弱弱しい背中を、ただただ眺めていた。