fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
黒い唸るような海原。
クイーン・アンズ・リベンジの悲鳴のように軋音が、ぼう、と虚空に膨れた。船体を構成する木材が裂けて粉砕される甲高い音が暴風の中で弾け、デッキの上で何かが数回瞬く。マズルフラッシュの閃きが咲いたと思うや、峻烈に迸る弦月の如き閃光が駆ける。
戦闘音があったのは、僅かに5秒。その激音も、猛烈な雨音に飲み込まれていった。
絶叫のような音が砕けたのは、その直後だった。たわむように船体が跳ねたかと思うと、
……記録上で言えば、この特異点においてレルネーのヒュドラを撃破したのは黒髭の船、このクイーン・アンズ・リベンジ号だったという。神獣に巨体に組み敷かれてなお沈まなかった大海賊の船をあっさりと海の藻屑に解体する現象など、およそ一つしか有り得まい。
水害の象徴たるヒュドラ退治の逸話か、それとも家畜小屋の逸話か。水神を組み伏せた逸話か、あるいは海を越えたという柱の伝承か。何にせよ、
沈没する船から、影1匹が飛び跳ねる。即座に近接防御の指示を出したが、タイミングが悪すぎた。砲弾は、再装填の最中だった。当然、装填する間などありはしなかった。1秒すら冗長に感じるほどの速度で、その巨体がゴールデンハインドの甲板に直撃した。
横殴りの衝撃だった。為すすべなく投げ出されたライネスは壁面に後頭部を殴打し、一瞬気絶した。時間にすればほんの1秒未満の出来事だったが、その1秒で全てが決していた。
スカイブルーの瞳を、あける。雨音が甲板を打ち、風が浚っていく音が耳朶を暴威的に爪弾く。亡霊たちの喧騒は既に死滅していた。この1秒弱で、全て、薙ぎ払われていた。
ただ、黒檀の巨躯が聳えていた。
雷が閃く。頭から被った神獣の裘をはためかせる黒い鋼の巨人。鋭く靭性に富むが如き肉体の威容に、ライネスは失禁しかけた。
というより、した。じわ、と滲んだ温い液体が、雨で冷えた下半身を不快に撫でていく。
だが、それも致し方なきことだった。純粋な畏怖が君臨する光景。ただの人間であれば、あるいはそれだけでショック死しかねない状況だった。そうして、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテという人間は、割と普通の人間に近い。畢竟、目の前の神威は、彼女の人生の許容量を遥かに超えていた。
英霊、ヘラクレス。槍持つ神代の英霊を前に、なまじ真っ当な魔術師であるライネスには、理外の存在だった。
「ここが強襲されることは想像してたけどね、まさか海の底からやってくるとは思わなかったよ。デカい癖に泳ぎ上手いじゃないか」
それでもよろよろ立ち上がって軽口を吐けたのは、ライネスの豪胆さの故だったか。
ヘラクレスは、この僅かな10秒の間で100回はライネスをあらゆる方法で殺せたはずだった。だがそれをしなかった理由を、ライネスはよくよく承知していた。
「コイツがお望みなんだろう、アルケイデス」
見せびらかすように、ライネスは懐から取り出した金の杯を見せびらかした。
ヘラクレスは、静かにその姿を認める。たじろぐでもなく、盛るでもなく、異様な静謐を以て金の杯を睨みつける。真贋を品定めするように。
「本物だよ。合ってるだろう? 君を召喚して果てたこの杯は、君のママみたいなものだ」
僅か、ヘラクレスの体躯が揺れた。ほんのわずかな動揺が、ヘラクレスの内で擡げたかのようだった。
「この杯を狙いに来た、ということはやはり推測通りかな。この金の杯を以て、ギリシアの大英雄を神の御子に仕立て上げるなんてトンチキ与太話が本当ってことかい。神話を題材にしたトンチキ創作物じゃないとそういう雑な解釈は赦されないと、思うんだけどね」
ヘラクレスは語らない。唸るように低く呻いて、ヘラクレスは1歩を刻んだ。
みちり、と甲板が歪む。ただ歩行しただけで、ゴールデンハインドが慄くように揺れた。心臓が飛び出しそうだ、失神で倒れそうだ。ライネスとかいうか細い人生をなんとか奮い立たせる。笑う膝を手で押さえ、彼女は精一杯、強がった。
「さぁ出番だよ皆。英霊ヘラクレスの死を以て、この特異点は打ち切りと行こうじゃないか!」
※
ゴールデンハインド 後部 船尾楼上部
トウマは、息を飲むようにその姿を見下ろした。
200cmを超える巨体。頭から被った布のせいで顔色は伺えないが、その奥から覗く鋭さは正しく射殺すようだった。トウマが身を竦ませただけだったのは、ある意味で彼の無知であるが故か、ヘラクレスという存在へのある種の知識の問題か。
だが、この敵は単にヘラクレスというのではない。ランサークラスのヘラクレス、という驚異。ヘラクレスに最も適したクラスはアーチャーだというが、何の慰めにもならない。原作であれほど猛威を振るったバーサーカーよりもなお凶悪であることは、疑いないのだから。
「大丈夫?」
トウマの手を、彼女の手先が触れる。指を絡めるように手を繋ぎ合わせるクロの顔を、ただ、正視することしかできなかった。
セプテムで出会った男の声が、内耳から鼓膜を打つ。弱くても良い、と言う長髪の男の、声。張り裂けそうな情動だけが、胎内をのたうっている。
「もう、私は大丈夫だから。ちょっとだけ、頑張ってくるね」
絡んだ指先が、解ける。触れ合う肌の感触、その残余が毒のように指先の腹に滲む。
「ごめん、代わりってわけじゃないけど。預かって」
「おい、ちょっと待てよ嬢ちゃん。それじゃあ予定が」
クロは、ただ、不可知の表情を浮かべただけった。柔く溶けるような柔和な顔、脱意味的な表情に、トウマは彼女の名前を呼び掛けるしかできなかった。
身を翻す、赤い礼装。風に靡いた外套がはためいていた。
「マシュ。防御、お願い」
「はい、守備はお任せください!」
縁へと足をかける。
クロエの身体が、宙に舞った。
※
「
クロエ・フォン・アインツベルンが作った武装は、あまりに似つかわしくなかった。
右手に現れる骨子の幻想を握りこむ。手に現出したのは、刃渡り15cmほどの
「ねぇ、居るんでしょ」
クロエ・フォン・アインツベルンは、一つ嘘をついている。
特異点Fでの出来事。ヘラクレスと演じた一騎打ちを、クロは勝利したと報告している。だが事実は違う。本当は押し負けて、でも特異点修正の完了によってヘラクレスが自然消滅しただけ。クロは、ヘラクレスに結局勝てなかったのだ。それでも勝ったと報告したのは、自分の戦果のためではない。トウマのほんのちょっぴりの無自覚な自尊心と、凡人めいた倫理性を、守りたかったからだった。
今回のヘラクレスは、さらにその上。勝てるのか、という疑問は尽きないし、正直言って、素朴に怖かった。
それでもクロがこの作戦──ヘラクレスをおびき出し、殺しきるという作戦を了承したのは、勝算があったからだった。
「どこのどなたか知らないけど。あの神獣の毛皮を貫けるのも、貴女のせいなんでしょう。英霊エミヤの反英雄性を推し進めている、のかしら」
あの時の、感触。自分の胎から何かが這い寄る感触。黒く深い樹海、その奥に潜む何かが自分の人格を塗りつぶしたかのような、感覚。
あの感覚を、クロは知っている気がした。この世界に着てから、どこかで得た感覚だった。
「使わせてあげるわ、私の身体、私の全部」
引き摺り出せ、その膂力、その力能。
「──同調、開始《アクセル・シンクロ》」
原理は知っている、動作も了解している。
魔術回路とは人間が魔的なものを運用するために疑似的に発現させた、神経回路。どれだけ膨大な魔力があろうとも、魔術回路の数が貧相では意味がない。
その意味でクロの魔術回路の数は、現代の魔術師の理外にある。アインツベルン最高傑作として生を受けた彼女は、太古の魔女にすら手が届くほどにサーキッドを有している。
だが、それでも足らない。ヘラクレスに拮抗するには、全然足らない。ならどうすればいいか、クロは、もう、知っている。
筋系、リンパ系、血管系、骨髄、その他魔術回路になりきっていない神経系を擬制的に魔術回路と認識させることで、運用し得る魔力量を跳ね上げる荒業。彼女は、かつてその眼で見た愚行を、再現する。
でも、それだけでもまだ足りない。使える魔術回路が増えたなら、次は使える魔力の質を底上げする。
魔術回路を奔るオドの速度を加速させ、オドの運動エネルギー量を跳ね上げる。体内時間を加速させるという、どこかの誰かの家系が継承し続けた固有結界の、それは模倣と応用。
「クロ、さん?」
じわ、と視界が赤くなった。血涙が流れていた。鼻血が出ていた。耳の奥から、出血していた。全身の孔から、体腔内から噴き出した血が出始めていた。
当然だ。魔術回路で魔力を引き上げるなんて、愚行も愚行。加速したオドの疾駆で、サーキッドが軋んでいく。ぎぎぎ、という音が、全身から漏れていた。
そして、それは、行程の最後。
持ち上げた短刀を、ゆらと掲げる。
掲げた、短刀を、胸へと突き立てる。いつかのように、ラバルトの言う死を潜る経験のよう、に。
「──『神秘轢断《ファンタズム・パニッシュメント》』!」
瞬、間。
来週は2話投稿目指します