fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
身体が、宙に浮く。ヘラクレスの手のひらから落ちる様は酷く遅く、甲板に堕ちた体躯が乾いた嫌な音を立てる。骨が折れた音か、何なのか。
だが、マシュはぎこちなくも立ち上がった。盾を構えようとする仕草は、とてもあの馬鹿力で圧し潰された様とは見えない。
ヘラクレスの挙動は、その時珍妙だった。千鳥足のようにふらつくのも束の間、ヘラクレスは不思議そうに、右の肩に刺さった何かに手を伸ばした。
矢、だった。オリオンはその様を、明確に捉えていた。
海面から飛来した矢が、ヘラクレスの肩口に突き刺さった。その数、実に4つ。その矢が刺さった瞬間、ヘラクレスは脱力しながら、踊るように身体を強張らせた。
神獣の毛皮の裏、どろりと血が滴る。ぼそりと筋肉が脱落し、緊張の直後脱力した手から木の枝が甲板に堕ちた。
「今ですクリス!」
「おうよ、『
甲板を貫く無数の鉄鎖。ヘラクレスの巨体を貫きながら縫い付ける様は磔のように見えた。
振りほどくようにヘラクレスが身を捩る。ぎぎ、と鈍い金属音が鋭く響き、忽ちに鎖が千切れていく。輪の直径、20cmに及ぶ巨大な鎖を易々と引き千切っていく。
だが時間にしては十分だった。2人の前に飛び込む騎影は2騎。メアリーがトウマを、コロンブスがマシュを抱きかかえ、一目散に散っていく。
月光が、不意に陰る。見上げる宙、天に浮かぶそれは巨大な船体だった。
「やっちまえ、黒髭ェ!」
「『
巨大な船体が墜落した。数千トンに及ぶアン女王の復讐号の直撃の瞬間、ヘラクレスが鎖全てを引き千切る。機械じみた挙動で上空からの質量攻撃に反射する顔を挙げたヘラクレスが執った行為は、ただ拳を握るという動作だけだった。握った拳を振るう動作には、何の武術も武芸もない。機械的に突き出した拳は当然なんの宝具の発動ですらなかっただろう。
だがそれで十二分だった。凄まじい膂力を以て放たれた拳の一突きで肋が砕け竜骨が微塵と化し、ただの木片にまで分解されていく。
「げぇー! オラオラすらされてないんですけどォ!?」
「あーもう、次は僕たちの番!」
「コンビネーションで!」
拳を振り抜く気勢を狙うように肉薄した2騎。剣構えるメアリー、ポルクスがヘラクレスを挟み込むような平面機動挟撃に滑り込む。
狙いは崩れ落ちた肉の隙間。同時のタイミングで放たれた剣戟2発を相手、ヘラクレスは上方向へと飛び去るように跳躍した。
落下するアン女王の復讐号の巨大な木片を担ぎ、両の手で振り上げる。ただの木片でさえ、その膂力のもとに振るわれれば一撃必殺の打撃になる。気勢、裂帛の如く。眼下のメアリー、ポルクスを撲殺せんと振り被ったそのモーションこそが、最後の隙だった。
砕けた船体から、漆黒の流線形が躍動する。古きは日本の物語に登場する若武者の五艘飛びか、それとも鵯越か。落下する無数のガレオンの破片を蹴り上げ、限界以上に加速した黒い刃がヘラクレスの頭上から強襲する。
「ヒュドラの毒の後は──炎に焼かれて消えなさい!」
踵の魔剣が発火する。加速した斬撃は一太刀でヘラクレスの頸椎から股まで切り裂き、忽ち伝播した炎が舌なめずりするように周辺の木片ごとヘラクレスの大木の如き巨躯を締め上げた。
──伝承において、ヘラクレスの死は焼死だった。謀によってヒュドラの毒が染みついた衣を着てしまったヘラクレスは、自らを焼き、苦しみから逃れるように焼死した。その、逸話の再現──。
「どう思う、ケイローン先生」藤丸立華は、いつの間にか船体後部、一時的に後退していた場所へと現れていた。
「倒していません」床に転がるトウマを見ながら、ケイローンの表情は、ただ険しい。「傷が癒えた形跡はありませんから『
「あくまでヒュドラの毒が致命傷になるのは英霊としてのヘラクレス、ってだけの話って言いたいわけかよ」
ゆら、と炎が掻き消える。冷たい機械のように身を現したヘラクレスは、自ら受けた傷をなんら苦にすらしていない。
およそ現状の戦力を最大限投入した攻撃だった。一部の隙も無く完璧に履行された必殺の連撃。にも拘わらず、神霊のヘラクレスは限定的な損傷しか与えられていない。
──ヘラクレスが、身を翻す。無機質な機械じみた硬い動きの速度は、正しく神速だった。
背後に炭化した棍棒を振り抜く。回避する猶予すらなく殴り潰されたメルトリリスは空中で二つに千切れ飛び、上半身は甲板にめり込みながら激突した。千切れた下半身が海面に堕ち、ぽつりと音を立てた。振り抜く勢いのまま、ヘラクレスが血まみれの炭木を投擲する。メアリーは躱す暇すらなく胴体を貫かれ、振り下ろされた拳が黒髭を甲板に埋め込んだ。
「メアリー、また!」
「ダメです、今行っても無駄死にになる!」
コンマ1秒すらない瞬間に、3騎死んだ。殺戮の余韻に浸るかのように沈黙するのも一瞬、ぎょろりと焼けた毛皮の裏から赤い目が覗いた。
一切何の感情も無い殺戮マシーン。こちらを見る姿は、敵を見つけたというより、排除すべき障害を捕捉したかのような色の無さだった。
「お、おい。どうすんだよ」
オリオンは、思わず、リツカを見上げた。いつもの、感情の見えない柔和な顔に僅かに浮かんだそれを、オリオンは、瞠目する他なかった。
「ライネスちゃん。ここは撤退するしかないと思うんだ」
「賛成。正直もう一度再編したからといって、勝てる気はしないけど。徒に戦力を浪費するよりは百倍マシだ。0%が0.01%になるくらいは勝算があるかもだけど」
応えたライネスの表情は、言いながら沈むようだった。だが、それは言葉の内容そのものの絶望に対してのもの、ではない。
「クリス、ポルクス、マシュ、私と前へ! クロエ、アン、お二人は後へ!」
ケイローンの叱咤が耳朶を打つ。
逡巡すら惜しいこの状況。ライネスはそれでも、その言葉の重さに耐えかねているようだった。そんなライネスに、いつもの柔和な顔のリツカは、ただ首を横に振るだけだった。
「私の仕事だから、それは」
「リツカ」
「いいから。ごめんケイローン先生、マシュ、こっちに来て!」
「あ、はい!」
酷く緩慢に歩を向けるヘラクレスから離れ、駆け寄るマシュ。歪んだ甲冑に露出した肌はどす黒い内出血が滲んでいた。
だが、リツカを見つめる表情は明るい。まるでこの奇術師の如き先輩が妙案を創出し、ヘラクレスを撃破する手段を思いつくに違いない、という期待に満ちた眼差しだ。そのマシュの期待を背負うリツカの表情は、変わらない。声色もいつもと変わらずに、リツカは、ごく当然のように―――。
「ごめん。ちょっとでいいから、一人でヘラクレスのこと、止めてきて。時間がちょっと、欲しい」
要するに、死んでくれ、と口にした。
だって、そうだ。メルトリリスとメアリー、黒髭3人を瞬間すら無く殺戮した神霊を相手に、1人で立ち向かえと言う。しかもただ時間を稼ぐ、それだけの為に。場合によっては完全な無駄死にになる──いや、十中八九、無為に死ぬだけの行為をしろ、と言ったのだ。
これまで、3つの特異点を修復してきた、という。マシュとリツカはその間──否、それ以前からの付き合いなのだ、という。リツカはマシュのことを好いていたし、マシュはまだ自覚こそ無いけれど、リツカという人物に憧憬にも似た情動を抱いている。そこにあるはずの親密圏はその言葉に一切なく、ただ、無味乾燥な口調だけが横たわっていた。
「時間稼ぎですね」
──応じたマシュの声も、いつも通りだった。尊敬する先輩の指示を健気に守ろうとする少女の、気弱そうだが同時に溌剌でもある声色が、オリオンの鼓膜に突き刺さった。
「任務、了解。マシュ・キリエライト、戦術行動に入ります!」
「ごめん、ありがとう──全員傾注! 今の話は聞いていたな、これより指示通りに動け!」
踵を返す動作に、一切の迷いはない。専心のまま駆けだすマシュ・キリエライトの背中に重なった姿は、誰だっただろう。
「後お願い。メルト、見てくる。ダメそうだったら置いてく」
「了解っと。ぐずぐずするな、マシュが稼ぐ1秒を無駄にするな!」
走り出す、リツカ。1人、ヘラクレスの絶殺を誓って突撃したクロ。大切な少女を守るために飛び出したトウマ。4つの影が、重なり像を結ぶ。
俺は、何を、しているんだろう。
「オリオン、こっちだ! ボート早く出せ!」
ふわ、とライネスに抱き上げられる感触の中、その問いが永劫回帰する。
何のために、この身は召喚されたのか。ギリシア随一の狩り人、その名を恣にするこの俺が、どうして、こんな目にあっているのか。
「ダメよ、マシュ1人じゃ死んじゃう! 死んじゃうわよ!」
「そんなことわかってる!」
「メアリーの仇なんですよアレは!」
「アンも落ち着いて!」
空を、見上げた。
制止した空の上。裂けた黒天から覗く、地球の衛星。蒼褪めた月。
「──アルテミス!」
射抜く視線。いつもそこに在る月が、ほんの僅か、幽れた。
※
「メルト、メルトリリス!」
駆け寄る声で、メルトリリスは一瞬だけ、意識を浮上させた。煩わしい、と思う声。遠慮なく手繰る手つきに、彼女はただ、不快感を惹起させた。
「見てわかるでしょう。私はもう無理よ、フジマルリツカ」
自嘲気味、というか自虐的──むしろ自罰的に、メルトリリスは自らの身体を顎でしゃくった。
へそから下が亡い。切断面からまろび出た大腸小腸からは消化液らしきものと血と屎尿が混じり、醜悪極まりない様相だった。ありていに言って、メルトリリスの唯美的な自意識とは乖離する状況だった。
「何言ってんの」
メルトリリスの上半身を抱え込もうとするリツカ。持ち上げられると、重力に囚われてぶらぶらと内臓が揺れている。あぁ、本当に、不愉快だ。リツカに、こんな姿を見られたくはなかった。
「ちょ、メルト」
「放しなさい。放しなさいったら」
リツカの手を振り払い、メルトリリスは床に墜落した。びちゃ、と血の海にまみれながら、メルトリリスは首を横に振った。
「ねえリツカ。私、これからどうしてもやらなければならないことがあるの。あなたの顔を見てると気分が悪くなって、やらなきゃいけないことのやる気が失せるの。だからさ、消えて」
逡巡は、なかった。わかった、と言った立ち上がったリツカの表情は、上手く見えなかった。下半身が亡いせいで、顔を挙げたりするのも一苦労するのだ。
「何か、言うことある」
「そうね」予想外の言葉で、メルトリリスはちょっと面喰った。
だが、メルトリリスは首を横に振った。咄嗟に出てくる遺言など思いつかなかったし、それになんだか、そんな枯れた人間味のある行為が、気恥ずかしかった。
それに、だって、仕方ない。恋人ならともかく、そういう関係じゃない相手には重すぎる、と思う。
「わかった。ごめん」
リツカが踵を還す。いいのよ、と応えた自分の顔は、いつも通りの嫣然をちゃんと象れていなかった。でも、リツカはきっとそれをそれとして受けと言っていただろう。
遠ざかる彼女の姿。皆の元へ帰る彼女の背。メルトリリスがその時表情筋を笑みに強張らせようとしたは、あまりに醜悪で勇敢な姿への不気味な同情と憐憫によるものだった。
「ねぇ、おバカなリップ。私たち、ホント何のために生まれてきたのかしら。別に、友達なんて欲しくなかったのだけれど」
くつくつと笑ったメルトリリスは、えいや、と手の重心移動で、身体を動かす。ごろんと体動して、仰向けになる。
「意地が、あるのよ。女の子には」
黒檀の、空。薄く晴れはじめた空、黒い雲の切れ間が赤く焼けている。朝が来ている。空に浮かぶ蒼褪めた月が、清廉な青に縁取られていく。ほとんど、意識がない。漠とした感覚は、自我と無意識が溶けあっているかのよう。
ずっと遠く、空に浮かぶ月には手が届きそうにない。
手を伸ばそうという気持ちはもう、ずっと前に終わった。
ここではないどこか、こことは違うどこか、ここでもあるどこかの月で目覚める素敵な誰を夢想して、メルトリリスは名前のない白紙のような感情だけを胸郭に押し広げた。
「行くわよ、メルトリリス。もう消えるけど──まだこの熱は止まっていない。私のレヴューは終わって、いない」
ふぃ、と息を吐く。目を閉じる。身体がエーテルに解体され、金の燐光が舞っている。閉じた視線の先に、艶やかな流線形が、困ったように佇んでいた。
「ねえ、感じているのでしょう女神サマ。
微かに徹ったパスを介し、消滅を防ごうとカルデアの炉心から火が通ってくる。
引き伸びる刹那の断末。
「人が嫌いなのはわかるわ。私も人間なんて、気持ち悪くて大嫌いだもの。それに、あの白い巨人の臭いが嫌だったんでしょう?」
星のような燐光が、舞っている。月光に照らされ舞い踊る光子が、白銀に煌めき飛び上がっていく。
「でも、貴女の大切な人が信じる皆を、どうか、信じて。越えてきて」
冷たい冬の湖面から優雅に飛び立つ、白銀の