fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
海面を割って、何かが飛び跳ねた。
白と黒の色味をした身体に、艶やかに銀光を照り返した姿。鯱だ。大きく開いた口に咥えられているのはイルカだろうか。いや、違う。尾部の形状が違う、図鑑で読んだ。あれは魚竜だ。2mほどのイクチオサウルがシャチの顎の中で痙攣しながら、断末魔のように血を吐いていた。
遠ざかる皆の姿。マシュ・キリエライトはただ、独りでヘラクレスの前に立ち竦んだ。
焼け落ちた神獣の毛皮の向こうから、覗く目が、マシュを観察している。脅威度判定は高くはない──だが低くもない。ヘラクレスは、先ほどの戦闘を覚えている。マシュ・キリエライトの勁さが、古代ギリシャの大英雄たちに決して見劣りしないことを、ヘラクレスは認識している。盾持つサーヴァントを、かの大英雄は正しく認識している。
踏み込む速度は、早かった。一歩ヘラクレスがデッキを踏む。みし、と木材が慄くように軋んだ。
手に持ったあの木片。大剣のように構えたその射程に入るまで、およそ3秒。防御しきることは多分無理。防戦に徹しても、多分5秒は持たない。
3秒。
マシュ・キリエライトの内面性は、凪いでいた。静かだな、と思った。これから死ぬことはわかっている。それは多分、避けられない運命。その事実に対する恐怖は、ないわけではないけれど。マシュ・キリエライトは、最も効率的に自分の命を消費する方法を考えている。多分、フジマルリツカがそうするように。
2秒。
英霊とは、人の祈りの結晶なのだという。人の夢によって成立し、自らを器にして人の命を形にするのが、英霊なのだという。
1秒。
ならば、この身も、そう。たとえデミ・サーヴァントという半端な身であったとしても、サーヴァントに変わりはない。
なら。
「シールダーは、伊達じゃない──!」
迫りくる撲殺の現実。盤踞と身を構えたマシュは掲げた盾を突き立てた。
激突する打撃と防御。相克する衝撃が二次元平面上に炸裂する爆破のように押し広がった。
その時、マシュがイメージしたのはウロボロスの輪、だった。永遠の象徴、止むことの無い円環。完結した世界の表徴。【憑依継承、魔力防御】がそのイメージを具現する。展開した力場はマシュの懐を起点に立ち上り、急激に巨大化してヘラクレスを飲み込んでいく。
視界が漂白された。物理的に、力場の中味が凍結している。急激に展開・巨大化した力場の内部は一挙に急減圧する。
止める、というマシュの意思の発現たる結界。原子運動にまで干渉し、あらゆる運動を零に還す彼女の意思の強固さを表すかのように、結界内部のあらゆる気体が-273.15度の絶対零度に凍てついていた。
零還氷獄結界、ウロボロスの如き内部は、完全に制止していた。
時間すら停止した世界の中、マシュ・キリエライトの意思だけが、微かに動いていた。どれだけの時間が経っただろう。主観的内部的時間すら、この静止した世界の中ではわからない。だが、確かに、あのヘラクレスすら止まっていた。
いや、正確には止まっていない。この時の果てまで結晶化した世界の中で、ただ一つヘラクレスだけが、動いている。結晶化した時間を壊しながら、足元に淀んだ時間を振り払いながら、ヘラクレスは身悶えしながら動いている。
異次元の存在だ。神霊に昇り果てたヘラクレスとは、それだけ理外にあるのだ。理屈もなければ理論もなく、ヘラクレスは絶対制止の中動いている。
でも、それだってわかっていたことだ。おそらく、世界で最も名を馳せた大英雄。神にまで登った英雄など、ローマの主神か、数えるほどしか居まい。なまじっか元より神として生れ落ちた者よりも、その偉業は凄まじい。
マシュ・キリエライトの任務は、あくまで時間を稼ぐことだ。一秒でも長く、二秒でも長く。それがたとえ不毛な結果になるかもしれなくても、それが無意味だったとしても。
託されたものがあるなら、それを全力で果たすのがサーヴァントの役目なのだから。
視界の先、ヘラクレスはもがくように木片を構えた。永遠にも見える。刹那にも見える。構えた木片が目前に迫る。マシュは目を閉じることすらできず、迫りくる死を観測していた。
悔いがあるかと言えばある。恐い気持ちがあるかと言えばある。本当は、マシュ・キリエライトは弱くて、誰かに守ってほしい、そんな女の子なのだから。本当は、戦うことなんてとても苦手な、ごくありふれた少女に過ぎないのだ。出自がどうあれ、彼女はどこまでも、普通の人でしかなかった。
でも、それ以上にマシュは普通であることを辞めることにしていた。あの日あの時、先輩に命を見放された時から、この命は先輩のために使うのだと決めたのだ。先輩の為に、盾となり剣となる。そう決めた彼女の実存的な決意は、自然的な論理性から破綻していても、倫理的な論理性には十分叶ったものだった。
だから、彼女は心の中で瞑目する。さようなら、と口にして、全てが制止した世界の中で、死を感受する、つもりだった。
──全てが制止した世界の中、何かが視界を過った。原子的・量子力学的に制止させられた世界を突き破った何かがマシュの前に躍り出るや、突き出された木の大剣をただ一打で弾き返した。
音すらなく、力場が砕けた。不意に崩れ落ちる浮遊感に抗えず、尻もちをついたマシュは、一挙に溢れた音に身体を竦めた。
落下した氷が甲板の上で跳ねる異様に甲高い音。凪ぎ、という無が僅かに軋ませる風のざわめく音。マシュはぞっとしながら目を開き、そうしてその姿に、当たり前のように目を見開いた。
「オリオン、さん?」
振り下ろされた木の大剣。宝具の武装すら叩き切る一撃を当たり前のように防いだのは―――あの、ぬいぐるみのような小さなクマなのだから。
「我が宿命、月女神に冀う」
小さなクマに過ぎないそれが、一歩を軋む。
「肉体に剛力を、精神に冷徹を」
ただそれだけなのにゴールデンハインドの船体が呻くように揺れ、竜骨がぎちぎちと音を立てた。神霊に至ったはずのヘラクレスが、踏鞴を踏む。
「抑止の代行者、冠位の宿命を此処に定めよう──『
ヘラクレスの巨躯が身動ぎする。これまで機械じみた挙動を行使していたその巨体が、まるで恐れるかのように怯みを見せる。
相、対する威容。勇気凛々たる雄姿、筋骨隆々たる体躯を以て降臨した志尊に冠絶たる英霊1騎。その隣、もう1騎、いた気がした。その姿がメルトリリスに見えた。
「充填完了! 俺たちの絆パワー、しっかり見せつけてやろうぜ──アルテミス!」
※
風が、吹いていた。切れ切れになった空には、明瞭に煌めく白銀の古月。遠く、禽の声が聞こえていた。
原初の夜は終わった。煌めく朝焼け、黄金の陽を照り返す、穏やかな海原。凪ぎを孕んだ蒼いわだつみの上。超人オリオンは、静かに笑った。
「いやさ、なんか昔思い出すよな。ほら、昔はよく一狩り行こうぜ、って遊んだ仲なわけじゃん」
にしし、と独り、笑う。自分の内側で居心地悪そうにする月の女神に、ただただオリオンは朗らかない笑うだけだった。
「あんなぁ、俺だって大人なわけよ。お前がイジワルするのはまぁしょうがねえっていうかよ。そもそもお前、人間嫌いじゃん。その上なんだっけ、お前ら神様の天敵と仲良くやってたわけだろ。ならまぁ、しょうがねえさ」
そうかしら。そう呟く内心は、自省的というよりも、柄に無く怯えているかのようだ。なんだかそんな仕草は彼女らしくなく、オリオンとしても興味深い。いつもは割と逆の立華だけに。
「そりゃそうさ。嫌いになりかけた。俺よりずーっと若い連中が死に物狂いで戦ってんだぜ? それを見てるだけって。“お嫌いな人間ども”に俺が取られるのが我慢ならなかったんだろ」
そうよ、とちょっとだけ、彼女は拗ねたように言う。なんというか可愛らしいというかいじらしい。彼女はもっと冷たくて、排他的で、慈悲などない。そんな奴だった、はずなのだ。
でも、と続けた彼女は、やっぱり自省的と言えばそうだったのかもしれない。身を縮めるようにしてから、彼女は少しだけ、苦笑いした。
”あの子たちを見てたら、ちゃんと手伝ってあげなくちゃって思ったから”
そんな風に、彼女は言う。そうだな、と思う。試練に立ち向かう者は、誰であれ美しいものに違いないのだから。手を取り合い困難に立ち向かおうとする人間には、誰だって、手を差し伸べたくなるものなのだから。
「……なぁ、アンタも案外、そうだったのか。ヘラクレス」
オリオンの問いに、ヘラクレスは応えない。数多の試練を踏破し尽し、その果てに神霊に至った英雄は黙して語らない。ただ、玉体へと光来したヘラクレスの在り方は、機神のそれに近しいとしても、毛皮の裏側から覗く獣の視線にオリオンが感じたのは、憐憫だった。痛ましいほどの優しさを感じて、オリオンはただ、僅かだが伏し目がちに目を閉じた。
だが、僅かだけだ。目を開けたオリオンの体躯が、沈み込み。
「じゃあ行くかァ!」
踏み砕く気勢で相対距離を零にする。突き出した拳がヘラクレスの腕にぶち当たり、甲高い乾燥した音が弾ける。一撃で腕を圧し折られたヘラクレスの視線にあるのは、明瞭な感情の動きだった。
「■■■■■■■!」
咆哮が爆ぜる。機械の如きであったはずのヘラクレスの激昂は、オリオンを倒すべき敵、と魂に刻んだ証だった。
返す刃とばかりに振り上げた拳がオリオンの胸を打ち、一撃だけで肋が折れて肺が潰れた。血を吐きながらもオリオンが繰り出したダブルスレッジハンマーがヘラクレスの頭蓋骨を砕き、眼球が破裂した。ふらつきながらもヘラクレスが繰り出した頭突きがオリオンの鼻頭で爆発し、仰け反った瞬間に砕けた肋に手刀が突き刺さる。突き出されたヘラクレスの手刀の腕に掴みかかるなり、捩じり上げるように折れた右腕をもぎ取る。もぎ取った腕でヘラクレスを殴りつけ、怯んだ瞬間にどてっぱらに空いた風穴からあらん限りの内臓を引き千切る。玄翁のように振り抜いたヘラクレスの踵がオリオンのこめかみに炸裂し、吹き飛ばされた巨塊が熊のように転がった。
「全く強えェ強えェ。本当は俺たちが狩らなきゃいけねぇ
ふらふらと立ち上がる血まみれの巨体。折れた歯を吐き捨てたオリオンの目はギリシャ一と謳われる狩り人の眼差しだった。
ヘラクレスの威容は変わらない。全身を砕かれてなお聳え立つ神木の絢爛には一切の翳りがない。機械ならば既に機能停止しているだろう。だが、英雄として屹立するヘラクレスは、決して膝を屈しない。何者にも屈することなき試練乗り越えし英雄立ち上がる。
故に、ヘラクレスは宝具を顕現させる。
巨大な弓。200cmを優に超える巨体をしてなお大弓と思わせる、巨大な黄金の弓。既にランサーというクラスが溶けたヘラクレスにとり、それこそが最強の宝具に他ならない。
「面白ェ! ギリシャ一の大英雄とギリシャ一の狩り人の腕比べと行こうじゃねぇか!」
対するオリオンが構えたのも、弓だった。スキル【三星の狩り人】、世界で最も優れた弓兵であることの証明を実証するように。
「『
大弓から放たれる矢。九つの流星となって迸る軌道。竜の如き波濤は怒涛と化してオリオンへと押し寄せる。
回避は不可能。ヘラクレスの戦闘技法の具現たる宝具のそれは、オリオンに回避できるものではない。下手に躱せば見越しの射で射殺されるが必定。
故に、オリオンは弓に矢を番える。ぎちり、と構える弦は強く、きっと、独りではその矢は引けない。
だが、独りじゃないのだ。矢を構える手を、誰かの手が抱握する。
決してオリオン1人では持ちえない宝具。名うての狩り人として名を馳せただけではたどり着けなかった、究極の射。狩猟の女神と共に野を駆け山を巡ったが故に、ともに辿り着いた矢の一撃。
ある異聞にて、オリオンは女神を撃ち落とすためだけに、絶世の一射を放った。冠位の名を返上してまで女神を天より撃ち落とした究極の一撃。これは、その対極。人理の守護者、最終兵器たる冠位の弓兵が冠位として振るう最強の一撃。狩猟の女神と共に放つ代行者の射は、撃ち落とすと見定めたものの絶殺鏖殺に至る。
「『恋煩いの流星矢(アルテミス・アーチ)』―――!」
矢の衝撃は飛来した九つの狙撃をまとめて射殺してなおその威力は止まず。亜光速で迸った閃きは、ヘラクレスの心臓を刳り貫いた。