fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
立華藤丸がこの世界にやってきてから、実に5度、月を跨いだ。
現在、12月半ば。こんな出来事がなければ、人生初めての高校生活の期末テストに戦々恐々としながら、そろそろ近づくクリスマスの気配にそわそわし、浮ついた乖離に身を委ねる日々を迎えていたはずである。そんな当たり前の日々があり得たのかな、と思うと、なんとも不思議な気持ちになるトウマであった。
ネガティブと言えばネガティブな心情ではある。いわゆる望郷、という情動であろう。身一つで異世界などに飛ばされた挙句、生きるか死ぬか──しかも個人の生死を超えて、地球そのものの存亡をかけた闘いに身を投じるなどと言う事態は、どう考えても高校一年生の男の子には荷が勝ちすぎている。狂乱してもおかしくない重圧の中で感じる望郷の念は、やはり拭い難い。友人はどうしているか、親はどんな風に過ごしているのか。兄弟も姉妹もいない一人っ子なだけに、身の回りの人たちへの影響を考えると陰鬱な気持ちにもなるというものだ。
──とは言え。この生活にも慣れていないわけでもないのが、正直なところでもあった。既に5か月、4つの特異点を踏破してきた。幾ばくかの驕りではあるけれど、その実績は少なからずの自信でもある。このままなんとか頑張れば、なんとかなる。そんな淡い期待が、ないでもない。
それに、何せこの世界はTYPE-MOONの世界そのものなのだ。友人と異なり、そんなに凝り性ではなかったけれど、それでも現代を舞台にした剣と魔法の世界に子供らしい憧憬を抱いていたのも事実だ。そんな世界に居て、しかも自分のサーヴァントはいわゆる“原作キャラ”で、しかも汎用性の高い戦闘技能を持つクロ。重責はあるとしても、それはそれとして……現状に楽しさを感じはじめているのも、事実だった。その余裕は周囲の人々の影日向の尽力のお陰でもたらされているものだ、ということにまではまだはっきりとは思い至らねど、そこまで16歳の高校生に求めるというのも酷な話であろう……。
畢竟、立華藤丸の精神状態は、良好な環境と、また生来の能天気さのお陰で安定傾向であった。元の生活に全く不満は無かった―――特筆すべきものはない平々凡々な人間として、かなり良質な生活は送れていたが、こちらの生活もそう悪いものではない、と捉え始めていた。
……まぁ。
「うーん、トウマくんは数学とか苦手?」
こうして、勉強だけ続いているのが、やや理不尽だな、と思うのだが。
人理保障機関フィニス・カルデアの施設の一室。“図書室”の一画で、ロマニに魔術の指南を受けていた。かれこれ2時間。控えめに言って出来の善くないトウマに対して、ロマニ・アーキマンは朗らかな様子をほとんど崩さぬままに根気強い授業を行っている。
「やっぱりさ、ルーンて便利だと思うんだよね。ボクは北欧の魔術系統は無知だから詳しくはわからないけど、シングルアクション以下の動作で起動する魔術の利便性って評価してもしきれないっていうかさ」
ひょい、とロマニが手を挙げる。それを合図に、どこからともなく本が飛来すると、ふぁさりと風のように軽くページが開いた。
なんとも幻想的で、如何にも“魔法”のような景色だ。真剣に頁をめくる仕草は、普段ののほほんとした佇まいとは違った人間味がある。たかだか4~5か月の付き合いで人間が見えてくるなんて道理はないけれど、この人は良い人なんだろうな、と素直に了解していた。
最も、実はいまの手品じみた“魔法”、もとい魔術も、実際はダ・ヴィンチちゃんの仕掛けなのだとか。本来カルデアのライブラリは全て電子データで保管されており、紙媒体などという時代遅れなメディアは使用しない。
という慣例──資料をわざわざ紙で印刷するのは資源的にも無駄が多いとの判断に理解を示しつつも、“本を手に取る”質感の善さを感じたいというダ・ヴィンチちゃんの要求によって成立した、妙に近未来的なライブラリルームがここだ。いわく、天才が心血を注いで構築した複雑怪奇な魔術式によって運営されているという。素人に毛が生えた程度のトウマには、当然理解の外にある技術の粋というわけだ。無駄な努力、と思わないでもなかったが。
「凄いよね。大神のルーンなんて、文字を起動キーにするだけでテンカウントを遥かに上回る神秘を再現できるわけだろう。まぁ魔術に単純な優劣はつけられないものだけど、戦闘に特化して考えるならこれほど優れた魔術系統はないんじゃあないかなぁ」
ほら、と喜々とした様子で本のページを見せびらかすロマニ。魔術である程度汎用的な言語翻訳を行っているのだが、とりあえず書かれたページはミミズが日向ぼっこでもしているかのような文字がびしりと 埋まっていただけだった。
「それにしても」読めないことをなんとなく言い出しにくく、トウマはごく自然に話題を変えることにした。「先生は、魔術とかやっぱり好きなんですね」
「え、なんで?」
幾ばくか照れたようにはにかみながら、ロマニは首を傾げた。多分、先生なんて呼ばれかたに慣れていないんだろう。
「いや、なんかすごく楽しそうだから」
ぽかん、と目を丸くしながらロマニは食い入るようにトウマを見返した。意外なことを言われた、とでもいうように自分の表情に手を当てて確かめると「そうかぁ」とロマニは天井を仰いだ。
釣られて、トウマもロマニの視線の先を一瞥する。清潔感のある、白い無地の天井。当然、ロマニが見ているのはその物理的な風景ではなく、その先―――あるいは繰り延べた過去、だろうか。虚空の先に浮かぶ幻想を懐かしむような、そんな様子だ。
放っておいたら、そのまま幻視する先に吸い込まれてしまいそうなほどの滞留。夢幻に続くかと思われたその望郷を破ったのは、妙に寝ぼけた声だった。
ウゥン、と地鳴りのような呻き声。聞きなれた声色に、思わずロマニとトウマは顔を見合わせた。
見合わせてから、入り口へと向く2人の視線。トウマは振り返りながら、ロマニは身体を横にして流し見た先には、案の定見知った顔があった。
ゾンビだな、と思ったのはおそらく2人同時だった。顔色は別に悪くないが、表情は至って険しい。眉間に刻まれた皺の深さは、何事か懊悩を示している―――ならいいんだけれど。
「また寝不足かい」
だいたい呆れでちょっとだけの同情を含んだロマニの声に、件の人物──リツカは、不満そうに首を傾げた。
「寝不足ではないです、8時間の睡眠を摂りました」
「フーン」さして本気に受け取っていない様子のロマニ。「まぁそういうこともあるさ」
穏やかだがにべもない物言いに、リツカはなおのこと不満そうに眉間に皺を寄せた。何か思慮深い様子に、一つ結びにした髪をかき回す様はなんとなく不真面目な秀才の知性を感じさせる。
「実際何も考えてないと思うけどね」
と辛辣に批評したのはクロだけれども、果たして真に受けていいのかどうかはわからない。とりあえず明らかなことは、面前で不機嫌面を野晒しにしているリツカは、あまり嬉しくない寝起きを経験しているらしかった。
「夢」
ぼそ、と嘔吐でもするように一単語を舌先に滑らせる。トウマの隣のソファに腰を下ろすと、難しい顔をしながら天井を仰いだ。
「夢見が悪かったと」
「悪いわけじゃあないんだけど」
難しい顔に、一瞬だけ別な感情が過る。それが何なのか、トウマにはよくわからなかった。ロマニはなんとなく察したのか、数秒ほどの逡巡を経た後、「夢と言えば」となんでもないことのように続けた。
「なんだっけ、あの。フッサール?」
「現象学と夢は関係ないと思うんですけど」小首を傾げるリツカ。「ないこともないかもしれませんけど」
「いや顔似てない? なんだっけ」
「フロイト?」
「えーと、何のお話を?」
「精神分析の話だよ。『夢判断』とか知らない?」
精神分析、という言葉はなんとなく聞いたことがある話だった。TRPGの技能にあっただろうか。正直なところ心理学とどう違うかよくわからないが、つまり、フロイト、なる人物が精神分析の専門家とか、そんなことなのだろうか。なるほど、と得心して、トウマはとりあえず頷くことにした。後で調べてみよう、という頷きも含めて。
「物凄くざっくり言うと、人間の精神活動には『自我』と『超自我』と『自我』があって、理性なりなんなりを司っている『自我』は所詮『超自我』と『無意識』が折り合いをつけるために後付けで作られた出先機関に過ぎない、みたいな話なんだよ」
そんなロマニの端折った説明も、トウマの後学を後押しするためのものだ。当然というかリツカはそんなことは理解しているのか、特になんらかのアクションも取らなかった。
「リツカちゃんはアドルノが好きなんだっけ」
「まぁ」一転、リツカは気恥ずかしそうに身を縮めた。「好きと言うほどのものではないんですけども」
「えーと、そのアーノルド? と言う人は」
「ターミネーターじゃないよ。ちなみに僕は1が好き」ちょっとばかりおどけるロマニ。「テオドール・アドルノ。フランクフルト学派を代表する……なんだろう、哲学者? 思想家? 音楽家? かな」
「音楽家?」
「そうだよ。アリストテレスの『詩学』とか知ってるとまあまあって感じだろうけど、最近の人には結びつかないよね」
ロマニは僅か、懐かしむような顔をした。その意味に触れるように探る前に、ロマニはさっと表情を仕舞うと、「一般に、社会学とか社会心理学にも深くかかわっててね」と続けた。
「いわゆる、マルクス主義とさっき言ったフロイトの理論の両立を図ろうとしていた、って感じの人なのかなぁ。まぁ他にも色々なんだろうけど」
マルクス、とかいう名前は聞いたことがある気がした。世界史の教科書に載っていた気がする。物凄い髭もじゃの、胡散臭そうな顔をした爺さんだった、ような気がする。
何か、漠然とした連関のようなものは感じる。トウマには知り得ない底で、ロマニ・アーキマンとリツカは互いに何かを探り合いながら諦観と交感による非対称なコンクリフトを軋ませている──そんなイメージは不意に沸き上がり、トウマは困惑した。そのイメージに感じたものは、なんだっただろう。反感か、それとも胡乱さか。どれでもあってどれでもないような曖昧な感情の手前の情動は、ただただ脱臼したように時宜をずれていた。
「何してたのん」
それで、薄く見える哲学談義は終わったのだろう。まだ眠そうな、淀むようなリツカの視線がするりとトウマを撫でた。
「あーいや」ちょっと気恥ずかしく、トウマは頬をかいた。「先生に、魔術を教えてもらってて」
「ロマンに?」
「ダ・ヴィンチちゃんに聞いたら、先生が一番良いって」
「いやーそんなことはないんだけどねぇ」
照れるようにはにかんで、ロマニはふらふらと身体を揺らした。やはり思うけれど、ロマニ・アーキマンはとても素直に情緒を表す人だ。人間的な温かさ、というのだろうか。ダ・ヴィンチちゃん曰くチキンで悲観的で実際は厭世的らしいけれど、やっぱりそれ含めても人間味がある、と思う。
なるほどぉ、と特に興味もなさげに言って、リツカはソファの背もたれに身体を預けた。何か思案するように虚空を眺めてから、リツカは「ふわぁ」と間の抜けたあくびを、敢えて漏らしたように見えた。
大口を開けて目を涙で濡らして、ばんざーいとでも言うように両手を挙げる動作。その動作が、妙に機械的に見えたのは何故なのだろう。機織り機ががたんごとん、と軋むかのような、ぎこちない、動作性だった。