fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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 曰く。

 フロイトの提唱した『超自我』とは、大まかに言えば文化という総体そのものと言って差し支えないだろう。あるいは、人間に内面化する社会の約束事と言い換えてもいいのかもしれない。

 人間は誰しも欲動を持つ。その在り方はおそらく無限の様態を持っているだろうが、形式的な話として、“欲動を持っている”という事実は普遍的なことと考えて異論はない。その欲動は本来的に不定形であり、常に八方へ、かつ無邪気に広がろうとする。時にそれは自他の破滅すらをも含み持つ。そうなっては、人間は生存そのものが困難になるであろう。

 故に、人間は規則を内面化する。我を超えた命法を受肉させ、欲動そのものの無法を取り締まる。ともすれば軽々に破滅に向かう欲動を、超自我は取り締まらんとする。だが、それでは欲動は文字通りに不満だろう。自らを見たそうとするために産まれた欲動が遍く規制されては、それも却って生存が阻害されることも想像に難くない。

 暗く蠢く夜のような欲動と、烈日となって降り注ぐ太陽のような超自我の軋轢。人間の精神活動の中で起きているそれらの闘争の中、自我の立ち位置を定めることは難儀なことだ。おおよそ、精神分析の中で、自我はさして役割を持てていない。欲動と超自我の板挟みになって、下界に適応するためにあくせく動き回るだけのネゴシエーター。もっと言えば、頼りない中間管理職。いないと困るが、居たからといって派手な動きはできない、人件費だけかかる人材のようなものでしかない。現代において『自我』という言葉が持ち出される時、大抵は超自我に虐げられ傷ついた欲動について言っていることがほとんどだろう。現代とは、自我を頻繁に語りながら、実は自我をより貧困化させている奇妙な時代なのかもしれない。自我なるものの勤勉さと哀惜は無視されがちである。

 だが、思い返せば、そもそも自我など貧困ではなかったか? 生半可に自我を擁護しようとしたとしても、かえって欲動の力──時に、それは文明そのもののアレンジメントを組み替える力を軽んじ、世界を硬直化させるだけの結果に至るのはなかった。

 では、自我の役割など皆無なのではないのか、元から?

 

 

 酷く、日が照っている。烈日の閃光が、紅蓮の穹窿から降り注いでいる。

 マリー・アントワネットは、陰なき世界に屹立していた。断頭台の上に、静謐とともに佇んでいた。周囲を取り巻く怒号のような絶叫にもかかわらず、白皙のかんばせをぴくりとも動かなさなかった。

 空色の目が、遠くを眺望する。来るべきものを捕捉した相貌が微かに濡れそぼり、能面のような白い肌が小さく軋んだ。

 嘆息だろうか。悲嘆、だろうか。流れる吐息。視界のはるか先で揺れる赤銅に、夢の中で見た銀色が混じる。

 歩みに、迷いはない。ためらいもない。照り付ける日を受けて背後に残影を背負う人の形は、まっすぐに歩を進めてくる。

 「やっぱり」

 小さな、声が漏れた。処刑台を囲む無貌の群衆の絶叫にも関わらず、しゃん、と響きながら。

 「来てしまったのね、あなたは」

 うん、と応えるように、彼女の首が上下する。この無時間の広場に、物理的な空間概念は意味をもたないにしても、彼女はマリーの声を、確かに受容したのだ。

 どうして、という問いは、声にすらならなかった。それでも彼女は「何を今さら」とでもいうように、ちょっとだけ肩を竦めた。

 「だって、マリア。あなた、」

 

 

 リツカが、何か口にした、ような、気がした。

 エリザベートにはそれが何なのか、よく聞こえなかった。

 「じゃあ行こうか、エリちゃん」

 はっとしたときには、既にそれが近くにいた。

 エリザベートにとってはやや目新しく、逆にこの世界にとっては古めかしい、黒衣の装いの何か。人間の形はしているが、認識がぶれるような感触がある。黒い粘着質がそのまま人の形をして歩いている。顔は、判然としない。靄がかかっているのか、顔そのものが坩堝と化して認識がずれるのか。それすらも不明。宇宙の井戸の底の底の堆積物を汲み取ってきたかのような、反現実性。そんななのだから当然表情などありはしない。表出するものはほとんどなく、ただ「ウウウ……」と猟犬の唸り声のような奇妙な音を、どこからともなく漏らしている。

 そんななりにも関わらず、不埒を働くわけではないらしい。エリザベートの両脇に並び立つと、礼儀正しくも両腕を掴んだ。連行、というには丁寧な物腰で──

 って。

 「ちょっと、なんでアナタは誰も付かないのよ」

 「え?」

 きょとん、としたリツカは、今さらのように周囲を振り仰いだ。

 黒い泥の人型は2体のみ。リツカを連行しようとするものは誰もおらず、また現れる様子もなかった。

 「あー、まぁそうか」頭をかこうとして、手枷を煩わし気に見下ろすリツカ。「うーん?」

 「貴女の頭の中の世界だから、ってことかしら?」

 エリザベートは、それはそれは不満そうに言った。それもそうである。本当にリツカの言う通りにここが彼女の頭の中の世界だというなら、この薄気味の悪い木偶の坊をなんとかできないものなのか。

 「万能ってわけじゃあないみたいだし」

 ほら、とリツカは腕を振った。手枷はがちりとはみ込んで、リツカの手では外せなそうだ。

 「でもエリちゃんなら外せるんじゃない? リンちゃんが言ってたけど」

 「信用できるのかしらね」

 かちゃ、と小さく手を振る。微かに両隣の泥人形が身動ぎしたような気がしたが、多分、気のせいではあるまい。

 エリザベートにとって、あの女。リン、と名乗っているあの女は、なんだか信用ならないのだ。いつの間にかこの世界に放り出されたこと、それは別にいい。あの子の手で処断されるのも、別に、いい。ただなんとなく、この世界に不自然に存在しているあの女が気に入らないのだ。この世界の中で、妙な不調和を醸し出しているあの女が、どうにも油断ならない。

 「ねえエリちゃん」

 それこそ今さらなのだけれど、リツカは当たり前のようにエリちゃん、と呼んでくる。そこに親しさを感じればいいのか、それとも隔絶を感じていいのかはわからない。

 「あの時、マリアをやったのはアナタなの?」

 多分、把握すべきは両方、なのだ。親近と排他の間。両極のそれらの間──だからといって多分、それは単なる半分ずつ含み持つという意味ではない──から発せられた、問いなのだ。丐眄してこちらを見やるリツカの表情は、烈日の逆光となって、うまく見えなかった。

 少しだけ身を縮めて、けれど胸を張って、でもやっぱり伏し目がちに、エリザベートは肯定の相槌を漏らした

 

 「マリア」一拍、リツカは吃るようにしながら、「笑ってた?」

 「え?」

 「アナタが、あの人を倒した時」

 不意にというべきか。それとも運命的だっただろうか。脳裏を掠めた情景に、エリザベートは鳥肌を立てた。

 ほんの一瞬の沈黙が応えで、それでリツカは満足していた。

 「だと思った」

 逆光の中、口角がぐにゃりと歪む。歪んだ唇の隙間から、酷く白い歯が覗いていた。

 「行くわよ、マスター」

 「うん。じゃあ、行こうか」 

 

 ※

 

 ざり、と足を地面が掴んだ。

 喧噪が止んだ。無貌の群衆がひたりと騒ぎを停止し、ぬらりとこちらを見やる。

 顔の無い顔が、無造作に並んでいる。天の底からかき出してきた泥を詰めた顔面が、こちらを覗き込んでいる。その昏さに、リツカは微かな戦きのようなものを感じた。不気味さとは異なる、奇妙な恐怖感。不気味ではなく未知の何かが臨在している、違和感。リツカは、眉を顰めた。

 この世界には、わからないことがある。というより、わかるものと未だ不明なものが混濁し、意味不明な様相になっている。果たして、これは一つの出来事なのか? それとも別種な何かが絡まり合った結果一つの結果に見えるだけの現象なのか? 不明だ。不明だが──まぁ、彼女には、どうでもいいことだった。

 相対距離、100mほど。にも拘らず、断頭台に昇る彼女の顔は、よく見えた。

 「ごめん」決まり悪く、リツカは側頭部の髪をかき回した。「遅れた」

 どうして、と蠢くように、口唇が動いた。

 当たり前でしょ、となんでもないように、リツカは肩を竦めた。

 「待っててって言ったの、私だし」

 ひた、と何かが滴った。雨だろうか。陽の逆光を受けた黒いミルクのような一滴の雨が、断頭台を濡らしていた。

 掛け声など不要。リツカの気勢を悟った1騎がだしぬけに猪突した。

 啓く翼膜、奮える翼撃。翼の動きだけで両脇の死神を突き飛ばし、地を翔けるように痩躯が飛ぶ。並みいる群衆を長い尾で薙ぎ払い、エリザベートはマリー・アントワネットの下へと迫った。

 ゆら、と白い肌が身動ぎした。するりと掲げられた病的なまでに細い、マリーの腕。糸繰の人形のような不格好さながらに天を志向した右腕は、これより下る裁きの号令だった。

 「『汝、真に罪あるものか(ギロチン・ブレイカー)』」

 言祝ぎのように、あるいは詩でも口遊むように。青白い口唇から漏れた声が、岩に染みるように喧噪の中に響いた。

 どろりと群衆が融解する。人型に押し固められていた泥が不定へと戻り、一面に黒土色が広がっていく。

 驚愕は、その次の瞬間だった。不定に戻ったはずの泥水が、再度形状を取り戻していく。細く長く、先端に延びる5指。ゆら、と動く姿はウミユリのようにも見えただろうか。無数の黒い腕───あるいは、紐のような何かが蠢く様は、原初的な生物の群体そのもののようだった。

 無数の腕が静かにゆらいでいたのは、けれど、僅かに数秒ほどの合間だった。

 不味い、と悟ったエリザベートが翼を広げ、跳躍する。周囲の腕を風で押しのけながら飛び上がったエリザベートは、異様な身体の重さに顔を顰めた。

 既に、翼を腕が掴みかかっていた。無理に引き剥がそうともがく合間にも、矢継ぎ早に地面から屹立する黒黒とした腕がエリザベートの躯体を鷲掴みにしていく。

 「エリちゃん!」

 リツカの声が、鼓膜の奥で反響する。既に無数の腕に捕捉され、地面に叩きつけられんとするエリザベートには、その表情を見る暇すらなかった。

 どろり、と何かが身体を覆った。あの泥だ、とは、考えるまでもなく感じられた。

 「ごきげんよう、エリザベート。貴女は確かに、罪ある人。そうよね、バートリィ・エルジェーベト」

 ひやり、と鼓膜を刺すような声だった。はっと視界が開けたエリザベートの目に飛び込んできたのは、ぎらりと閃く刃だった。

 「貴女は罪を犯した人。多くの人を手にかけた悪魔。擁護不可能の化け物。ねえ、そうよね」

 いつの間にか、エリザベートは処刑台に磔にされていた。あの黒い腕に手も足も翼も尾も何もかも縛り上げられ、虫のように処刑台に転がされている。

 「なら、貴女は裁かれないと。首を、落さないと!」

 はたして幻視か否か、脳裏に手を振り下ろす観念が惹起した。いや、手、だけではない。あの死に装束をした彼女──マリー・アントワネットの顔が、視界に焼き付いた。

 「そうね、確かにそう。私は無知だったけど、でも確かに人を弄んだ。それは、事実。裁きは受けるわ」

 彼女の、かんばせが。笑いかけて手を伸ばそうとした彼女の、顔が。

 「でもね、泣いてる貴女を放っておけないのよ!」

 落ちる刃。首を落とすギロチンが直撃する間際、エリザベートは雁字搦めの黒い腕を無理やりに引き千切った。

 エリザベートであれば、躱すこともできただろう。だが、そうしなかった。拘束が解け跳ね起きながらも、エリザベートは迫りくる刃めがけて相対した。

 「本当に大丈夫なんでしょうね!?」

 (大丈夫、エリちゃんなら)

 「うー、アンタも見たってことじゃない!」

 (お互い様ってことで。ほら、来るよ!)

 「わかってるわ!」

 パス越しに脳内で響くリツカの声に怒鳴り返しながら、エリザベートは身を捩った。

 尾が、唸る。尾そのものの可動に加え、全身の発条を使って振り抜かれたエリザベート渾身の打撃。首を落とすはずの刃は、その一撃だけで音を立ててへし折れた。

 明後日へと吹き飛ぶ刃。既にそれには目もくれず、エリザベートは、すぐ目の前に佇立する白い影を見据えた。

 「貴女は、もう、雪いだのね」

 抑揚のない機械的なマリーの声に、エリザベートは首を振った。罪の雪ぎなんて、そう簡単にできるものではない。それは。エリザベートもよく理解している。

 「やっと、一歩歩き出したところ。貴女たちみたいに、万人に手を差し伸べられるわけじゃないけど。でも最初なんだから、助けたい人を助けても、いいでしょ?」

 手を、伸ばした。能面のような表情のマリー・アントワネットに。能面の頬を雫で濡らしたマリーへと、エリザベートは手を伸ばした。

 くしゃりと、彼女の顔が軋んだ。笑おうとしたのだろうか、泣こうとしたのだろうか、それとも別な表情を作ろうとしたのか、あるいは全部が噴き出してどれでもない顔になったのか。

 「ごめんなさい、乗り越えて。アナタなら、大丈夫」

 再度、マリーが手を掲げる。ぞわ、と怖気を理解してエリザベートが動くまでの時間は僅かにミリセカンド。今度ばかりは迅速に動いたが、それでも僅かに一瞬だけ、宝具の開放が早かった。

 「『死は冷たく明日を閉ざす(ラモール・エスポワール)』」

 ぐらりと視界が転げた。再び視界を閉ざした暗黒は、さっきの腕の感触とは全く異質だった。もっとそれは無機的で、理不尽さすか感じるほどの冷淡が黒黒と張り付いていた。

 衝撃がきたのは、暗転とほぼ同時、だった。頚元、頸椎への重い一撃。多分、その衝撃と同時に、ギロチンの刃で己の頸が斬り飛ばされる情景が脳裏に焼き付いた。

 ごろり、ごろり。己の頸が、転がっていく。断面から血の飛沫を噴き上げながら、私の頸が、遊んでいる───。

 違う、ついている。頸は、切れていない。手で触ればわかることだ。

 リツカの、言う通りだ。アヴェンジャーと化したマリー・アントワネットには二段構えの宝具がある。ギロチンで首を落とす、彼女の死の逸話になぞらえた致死の宝具。だがそれにはある種の判定がある───ある種のカテゴリに属する対象にのみ働く宝具。逆に言えばそのカテゴリの外には働かない致死性こそが、彼女の第一の宝具。

 そして第二の宝具は、第一宝具の終了と同時に開始する。はじめの宝具で殺せない相手に対して発動し、再度致死に至る宝具がある───そう、リツカは言っていた。

 恐らく、と彼女は注釈をつけたものだ。最初の宝具は、“罪人”を処断するための宝具。罪人に裁きを与える宝具。そして次の宝具は、無実の罪人を処刑する宝具。冤罪を着せられた人間を容赦なく、仮借なく殺戮するための宝具。冷たく、慈悲なく、ギロチンの刃を堕とす、理不尽の具現。物理的に首を切り落とすのではなく、瑕疵なき死という理不尽により精神を斬殺するそれこそが、恐らく彼女の真骨頂。

 「ふざけないでよ」

 でも、だから、とリツカは最後に付け加えた。

 「どこの誰だか知らないけど、シャルルの刃は、そんな風に使うものじゃないわ!」

 きっと、今のエリちゃんなら超えられる。

 視界が、砕けた。

 黒い硝子が一挙に崩壊するように、ばらばらと裂けていく。首元に残る鋭角の疼痛は残ったままだが、エリザベートにとっては、ただ痒い、くらいの感覚だった。

 露わになった視界。天には烈日が閃く雲一つない蒼空。呻くような喧噪はなく、無音が静かに騒めいている。

 手に、絡みつく感触。手枷は既に外れていて、代わりに両手に握っていたのは槍だった。迷いなく、鋭く一閃した槍の一撃の突端に、白無垢のマリー・アントワネットが突き刺さっていた。

 ぎこちなく、彼女のかんばせが歪む。苦痛はもちろんあるのだろうけれど、でもそれは、彼女にとっては些末なことだったのだろう。

 咽頭に突き刺さった槍から、血のように黒い液体が流れている。マリーが自ら槍を引き抜こうとするたびに傷口が広がって、どろりと粘性の液体が噴き出してくる。それも構わずに槍を引き抜くと、彼女の身体は、どさりと断頭台の上に転がった。

 「マリア!」

 いつの間にか駆け寄ってきたリツカが、枯れた葦のように横たわるマリーを抱えた。

 「誰にやられたの。誰が、やったの」

 至って平静そうな声だったが、だからこそ、リツカの声色の底に堅い怒気があるのをエリザベートは感じた。

 マリーは覗き込むリツカに、ただ困ったように眉を寄せただけだった。わからない、と言うように首を振った。

 「何か、冷たくて、恐ろしいものだった気がするの。とても恐ろしいものが、貴女に」

 ふらふらと揺らいだマリーの手が、リツカの頬を撫でた。どろりと黒い膿のような蝋のような液体が肌に触れ、リツカは我知らずに怖気を奔らせた。

 そもそも、まだ、何も解決していない。そもそもこの世界はなんなのか──誰が作ったのか。マリー・アントワネットがある種の核だったとしても、彼女に特異点を作り出すだけの力は存在していない。聖杯のようなものがあればそれも可能かもしれないが、そう簡単に万能の願望機が転がっている道理はない。

 つまるところ、事態を起こした何者かは、一切不明のままだった。

 「マリア。どうしてアナタだったの」

 「逆よ、リツカ。貴女が私を呼んだのよ。誰にも気づかれないようにしているけど、貴女はとても優しい人だから。だから、私を選らんでしまったの」

 ね、とマリーは微笑を隣に向けた。そうかもね、とエリザベートは慣れないように、ぎこちなくも素直な笑みを返した。秘密の花園でともに戯れた少女たちが内緒話をするように。

 リツカは幾ばくか決まり悪そうに鼻頭をかきながら、「そんなことないけど」とまごまごと独り言ちるように呟いた。

 「ねえリツカ」

 マリーはちょっとだけ困ったように笑った。名を呼びかけること自体が既に苦痛であるほどに彼女の状態は悪化していたが、彼女は我慢強かった。

 「貴女の旅路は、きっと他のだれかのものだったかもしれないし、他のだれかの方がうまくできたものなのかもしれないけれど。でも、今は貴女が歩いているんだから。だから、自信をもって──ガンバって」

 どろり、と融解する。白無垢の肌が罅割れ、その合間から黝い汚泥のような何かが湧きだしていく。マリー・アントワネットの形が加速度的に崩壊していく。

 彼女の目が、彷徨うように宙を泳ぐ。エリザベートのもとに辿り着いた彼女の視線。強張るように蠢いた彼女の薄い桜色の口唇が、何かの形に強張りかけた。

 「それは、もういいわ」

 それより、先。エリザベートは、彼女らしく相好を崩して首を振った。はっとしたように目を見開いたマリーも彼女らしい穏やかな笑みを返した。強張ったはずの唇が、滑らかに一単語を滑らせた。

 そうして、マリー・アントワネットは消滅した。一瞬にして、彼女の白い百合のような身体は黒い汚泥へと溶けていった。

 リツカは、黒い泥の中から何かを取り出した。金色に光る、奇妙な欠片。アルミ缶のプルタブほどのサイズしかないそれが何なのか、リツカはよく理解していた。

 「本当だったのね」腰を曲げて覗き込んだエリザベートは、忌々し気に言った。「聖杯の欠片」

 聖杯の欠片──当初からマリー・アントワネットがこの世界の核なのでは、というリツカの検討は、やはり当たっていたのだ。でも何故彼女がこんなものを持たされたのか、という疑問への答えは、ない。誰に、という問いへの返答も。

 リツカが、空を仰いだ。雲一つない天の果てに、亀裂が走っていく。この世界の終末を告げるように。

 「それじゃ、お別れかしらね」

 ふん、と鼻を鳴らすエリザベート。そうだねえ、と呑気そうに応えたリツカの声に不満そうにしたエリザベートは、後ろ髪をかき回した。

 「あのねえ、マリーも言ってたけど」自分がリツカと同じような癖を行っていることに気づいて、エリザベートはさっさと手を離した。「別にいいじゃない。アナタでも」

 欠片を見落としたまま、リツカは身動ぎすらしなかった。聞いているのかどうかもわからなかったが、エリザベートは特に構わなかった。

 「Aチームだかなんだか知らないけど。今はアナタがマスターなんでしょ」

 微かに、リツカが身体を揺すった。彼女の手のひらの上で、聖杯の欠片が鈍く煌めいている。

 「時々思うんだけど」

 よろり、とリツカが立ち上がる。身長150センチと少し。どちらかと言えば、女性としても小柄な彼女の身体が、輪をかけて小さく見えた。

 「もっと適任の人がいたんじゃないか、とか思うんだ。Aチームのみんな以外にも、もっと」

 「まぁ、そんなこと言ってもしょうがないんだけど」と振り返ったリツカは、困ったような笑みを浮かべていた。大人びた、ともすれば厭世的にも見える世捨て人の顔。秘密の花園の光景が脳裏に惹起した。もう、リツカの手のひらの上には、金の欠片は存在していなかった。

 「それじゃあ、これまでみたいね」

 脳裏に浮かんだ景色を振り払い、エリザベートはさっぱりと言う。そうだね、と頷くリツカもそれ以上は、何も言わない。

 余計なお喋りなど不要だった。言葉などなくとも通じ合うほどの縁がある……などというわけではない。ただ、言語を発する煩わしさにかかずらっている暇は、互いになかったのだ。

 「なんかあったらよろしく」

 「それ、こっちの台詞」

 彼女と彼女の会話はそこで終い。言葉の終わりと同時に、世界が裂けた。

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