fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
(やあゴメンゴメン、遅くなった。じゃあ始めて)
宙に浮かんだ映像ウィンドウに映るダ・ヴィンチの顔に、ロマニ・アーキマンが感じたものは、ある種の重々しさだった。
西暦は2015年。
12月もそろそろ終わりにさしかかり、2016年を迎えようとしている。ハッピーニューイヤー、なんて気分では一切ないけれど、そんな浮かれを表して見せるのも、多分自分の仕事だろう。管制室最下部、コフィンの前の広間に目の前に並ぶ5人に、改めてそんなことを思ったり、する。
「あー、諸君」
とは言え、そもそもロマニ・アーキマンは、小気味良くおどけて見せる手法なんて知らないのである。言いかけたまま頭上に「?」を浮かべたロマニは、一度咳払いをしてお茶を濁した。
「ブリーフィングでもう話したと思うけど、次の舞台はロンドンだ」
結局、ロマニは特に奇も衒わなければ、万人を楽しませるわけでもない、平々凡々は会話を始めてしまっていた。
「時代は19世紀。これまで戦ってきた中でも、一番現代に近いね」
(近現代が舞台、っていうのも意外な気もするけど。タチバナ君、なんでこの時代だと思う?)
不意の質問に目を白黒させた、5人の内の1人──
が、そんなトウマの返答をこそ、ダ・ヴィンチは待っていたらしい。画面越しに、いかにもな身振りで指を鳴らしていた。
(そう。この年号、人類史のターニグポイントになるような出来事はね、特にないんだ。イギリス以外に目を向ければ第二次産業革命が起きてるけど)
「何故特異点になっているのか判然としない、ってわけだね」
わざとらしく気難しげに眉を寄せ、プラチナブロンドの少女が言う。そうなの? とでも言うようにきょとんとするトウマを他所に、「前と同じパターンもある、ということでしょうか」と応えたのはマシュだった。
「えーと、つまり時代そのものが変化してる、みたいなことですかね」
おずおず、とトウマが口にした。
前の時。
即ち大航海時代を舞台に神代の海を渡ったあの特異点の話だ。今までどの戦いでもギリギリだったが、最も追い詰められた特異点でもある。
トウマが何故か控えめに気落ちしているのは、前の特異点で大分参ったからだろう。それなのに、あれと似たようなことになる、と言われれば、正直陰鬱な気持ちにもなる。
というよりも、とロマニは思った。
(その可能性は排除できないね)
「人理定礎値も、前まで測定不能だったんでしょ?」
「そう。前までは測定そのものが不能、最近やっとシバの評価がでたって感じだ」
リツカの言質に返してから、ロマニは手元のコンソールを操作する。次いで空中投影された映像ウィンドウに、今回の特異点に関する情報がずらりと並んだ。
レンズシバが各特異点の人理定礎維持度の評価。つまりどれだけ元の時代と差異があるか評価する値が人理定礎値であり、端的に言ってしまえば攻略難易度のようなものだ。大まかにE~Aの5段階評価から始まるランク付けにおいて、Aランクに近づけば近づく程時代の乖離が大きくなり、時代を狂わせる要因が強大であることを示す、というわけだ。
「E-、ね」
胡乱げに、クロが呟く。
それが、第四特異点ロンドンに対してレンズシバが行った評価だった。最も時代の乖離が小さいことを示すE評価、しかもさらに詳細な三段階評価を含めた上でも最低値のE-。
「素直に理解すれば、一番楽ってことなんだろうけどねぇ」
側頭部の髪をかき回しながら、リツカは苦笑いをしていた。
これまでの特異点を思い返せば、そんな一筋縄でいくわけがない、と認識しているらしい。
「とは言え、現状一番取り掛かりやすい特異点なのも確かってわけね」
(もしかしたら、既に現地のサーヴァントたちが聖杯を回収してるなんてこともあり得得るかもだしね)
「それだったらいいんだけどねぇ、ホント。あの真っ黒肉棒と趣味の悪い黒いサーヴァントのことも、なんもわかってないしね」
苦笑いは変わらず。それでも若干の朗らかさを漂わせると、「じゃ、行こうか」とリツカはコフィンへと向かった。
ぞろぞろ、とその背に続く4人。その背を見送るロマニはかろうじて「頑張ってね」と口にしながらも、なるべく誰にも悟られないように重く息を吐いた。
この瞬間が、一番キツイ。年若い少年少女たちを死地に送り込むことの、この重さは何度経験しても慣れない。
もしかしたら、誰か死ぬんじゃないか、という不安。マスターの2人だけではない。マシュもそう。クロエだって、ライネスだって同じだ。サーヴァントだって、どれだけ人を超えた兵器だって、そこに感情があって人格があって尊厳を持っているなら、人間と変わらない。かけがえのない時間を共に過ごした他者が死ぬ、という怖気に、人もサーヴァントも変わりはない。
(ロマニ所長、こちら管制室、全員のフルバイタル測定完了。いつでも行けます)
不意に思考を遮る、現実の声。目の前に空中展開するHUDに映る管制官の顔にわかった、と首肯で応える。その声と表情は、硬くなかっただろうか。震えていなかっただろうか。多分ちゃんとできていたはずだ、と思い込んで、ただただ虚勢を張った。管制官を務めるアジア系のショートボブの女性の表情は、あまり変わらない。
「よし。やってくれ」
(管制室了解。レイシフト
心臓が、拍動する。鈍い音が鼓膜の奥で反響し、せり上がった心臓が喉元まで迫ってくるかのような不快が惹起する。
(あーそうだ、ロマン。報告)
そんなタイミングでの、何か不自然な声だった。一瞬の思考停止。よく見れば、念話の回線は秘匿扱いだ。
何故こんなタイミングで、という疑念が8割。だが残りの2割で、何か確信した。
(さっき00ユニットの処置は終わったよ。520時間後に意識転写が完了する。次は疑似魔術刻印と魔術回路の同調と、FCSの調整かな。廃棄個体の改良はこれからする)
音声だけの通信で、ダ・ヴィンチはそんなことを言った。
何を言わんとしているのか、ロマニはすぐに知れた。というより、先ほどの僅かな確信の通りだった、というべきだろうか。
ちょっとだけ、意地悪だな、と思った。このタイミングで言ってこなくてもいいのに、と思った。けれど、多分本当は違う。このタイミングだからこそ、ダ・ヴィンチは生まれることすら叶わなかった少女を、ロマニに伝えたはずだった。
「了解」
だから、ロマニの返答も、それだけだった。
いや、それだけにするつもりだったのだが。
「ありがとう」
最後に、そそくさとロマニは付け加えた。一拍の間の後、(はいよ)とたんぱくに応えたダ・ヴィンチの声が、耳朶を打った。
※
アンサモンプログラム スタート
霊子変換開始 します
レイシフト開始まで あと3、2、1……
……
全行程 完了
グランドオーダー 実証を 開始 します
※
一瞬のような、永遠のような延長。
高次元ストリングスである霊子に変換・分解された後、再構成されるその瞬間は、とにかく人間の言語で表現しにくい。自分の身体が偏在と局在の間隙でスピンするような、あまり心地よくない感触。それが延々と続いていくような気もするが、そうかと思えば、もう、終わっている。そんな、クラッシュ&ビルドを経て、マシュ・キリエライトは架空の時代で目を開けた。
彼女がまず目にしたのは、灰色、だった。
視界に淀むのは、霧だろうか。灰色の濃霧がのっぺりと広がり、視界の先はうまく見通せない。
そこかの路地だろうか。道幅はおよそ5m。狭くはないが、格闘戦をするには窮屈だろうか。
即座に状況を理解しつつ、マシュが感じたのは、幾ばくかの失望だった。
冬木の後、3度レイシフトを敢行した。その度に息を飲むような自然がまず出迎えてくれていた。“箱入り娘”のマシュにとって、その瞬間は、難業に挑むプレッシャーを幾分か和らげてくれたものなのだが。これでは、プレッシャーを緩和するどころではない。むしろ陰鬱な景色も相まって、気が滅入りそうである。
とは言え、そんなナイーブさばかりにかまけているほど、彼女は素人ではなかった。レイシフト完了を自覚すると同時、素早く周囲を確認。背後に残る4人の姿を見とめると、次いで視野投影されたマップを確認。正体不明の動体がいないことを確認して、最後に強化装備に装備されたセンサーが拾うバイタルデータをチェック。異常がないことを確認し、さらにそのデータがカルデアに送信されていることも併せて確認し終えると、これでレイシフト後の最終チェックは完了だ。
「先輩、大丈夫ですか?」
まず、マシュが声をかけたのはリツカだった。もちろんバイタルデータはローカルデータリンクで共有されているため、自分だけでなく5人全員に共有されている。自分のマスターに異常がないことは、データを一瞥すればわかることだ。
つまるところ、何か客観的に必要な行動、というわけではない。これは、マシュ自身とリツカの間で必要な、日常的で細やかな精神の交歓だった。
「大丈夫、マシュは?」
「はい、問題ありません」
「残念だね、あまりいい景色じゃあない」
肩を竦める、赤銅色の髪の彼女。リツカはぐるりと周囲を見てから、マシュに肩を竦めた。以前のような側頭部で一つ結びにする髪型からちょっと変えたせいなのか、なんだか落ち着いた印象がある。
「やれやれ。これじゃあ、観光もクソもないな」
腰に手を当て、ライナスは呆れたように言う。そう言えば、彼女はかなり現代に近い時計塔の名家に産まれたのだっただろうか。2、3悪態をついては剣呑な視線を周囲に向ける様は、名門の才女というよりは、その当主を思わせるけれども。
「悪いねマシュ」
「いえ、元々戦いに来たわけですし」
はあ、と呆れの嘆息を吐くライネス。レイシフト数日前、ロンドンが如何に素晴らしい街か、悪態と罵詈雑言を交えながら紹介してくれたのはライネスだった。
(あーこちらカルデア。みんな無事にレイシフトできてるみたいだね)
無線越しに耳朶を打ったのは、ロマニの声だ。柔らかな声に漂う、緊張から弛緩した安堵の声はいつものこと。なんだかんだ、技術的にまだ確立していないレイシフトを敢行するのは、緊張するらしい。
(バイタルもオッケー。トウマ君、クロちゃん大丈夫?)
「はい、大丈夫だと思います。だよね?」
応えながら、トウマは自分の隣に並ぶ小さな背格好の女の子に声をかける。そうね、と特になんでもないように返事をした赤い外套の少女、クロエは手足をぶらぶらと揺らしながら、体調を測っているらしかった。
「心配しすぎ。別に、試験でもなんでもなかったじゃない」
(そうは言っても。ってことさ。未知の力なんて、危なっかしいことこの上ない。そうだろ?)
ちょっと不満顔のクロエに、嗜めるようにダ・ヴィンチが言う。まぁそうだけど、と口にしながらも、唇を尖らせた素振りからして、納得はしていないようだ。
──前回の特異点で、クロが見せた新たな再臨形態の話、だ。基本的にサーヴァントは全盛期の姿で召喚され、スペック上成長することはない、とされている。だが、カルデアの召喚式の場合、サーヴァントの霊体を構成する霊基をなんらかの手法で強化・再編することで、より英霊に近しい姿として再召喚することが可能である、と考えられてきた。あくまで理論上の話にすぎず、また実証する方法もなかったことから「あくまでそんな可能性がある」と眉唾のように語られてきただけの話だったのだが、クロはそれを実証してしまったのだ。しかも、投影した宝具で自らの霊基を作り替える、などという荒業で。
素朴に考えれば戦力増強を喜べばいいのかもしれないけれど、話はそう単純ではない。そもそもどんなプロセスで、どんな理屈で霊基再臨を行ったのか、本人含めて誰にもわかっていないのだ。そもそも本当に霊基再臨なのかすら不明だし、しかも再臨以降、彼女の身体そのものがあらゆる検査を通さなくなってしまっていては何も調べようがない。戦闘能力は向上したのは間違いないが、果たしてただバージョンアップしただけなのか、それとも何か代償があるのか、何一つわからないのが、現状の彼女の状態だった。
そんなものは戦闘に耐え得るものではない、というロマニとダ・ヴィンチの判断は多分正しい。クロも理屈はわかっているので、やや強権的な命令に対しても渋々ながら納得しているのだろう。これまでと同じような姿での戦闘を基本とする、という命令に、素直に従っているらしい。
とは言え、いざとなったら、クロエは躊躇なくあの姿になるんだろう、とも思う。
「というか、アナタは大丈夫なワケ?」
「俺? まぁなんとも」
ずい、と己がマスターを見上げるクロ。癖のある杼色の毛を指先に絡めながら、トウマも改めて、強化戦闘服が計測するバイタルデータを確認しているようだ。
「ちょっと心拍数高めじゃない?」
「やっぱ慣れないよ、4回目でも。緊張する」
胃をさするようにしながら、随分しわしわした顔をするトウマ。呆れたように背を撫でるクロも、多分呆れは全然感じてなくて、もっと別なものを感じている。
なんというか、不思議な関係性だなぁ、と思う。サーヴァントとマスターは大抵、非対称な関係性にならざるを得ない。力関係が歴然としているのだから当たり前だ。故に、良好な関係、となると互いの人格を認め合う、そんな形になることが多いらしい。
クロとトウマの関係は、それとはちょっと異なる。もちろん互いにサーヴァントとマスターという関係性以上に人格を持った他者として関わり合っているのだけれど、それに尽きるのでもない。それよりもっと前意識的で、親密な関係性。上手く表現する術はないけれど、例えば学校の友達、みたいな雰囲気なんだろうか、と考えてみる。
「しっかりしなさいよね」
「おいっす」
多分、持ちつ持たれつ。もちろん戦力としてはクロに存在意義があって、客観的にはトウマの存在意義はマスターである以上でも以下でもない。でも、そんな非対称な関係だからこそ、そこに強固な責任感があって、それが何か精神的な支柱であったりするのだろう、と思う。
「えーと座標は」
「イズリントン地区かなここ。時計塔に近いが」
「残ってないんじゃないかしら、多分。どんな特異点か知らないけど、わざわざ残しておかないでしょ」
「そうだね」リツカの言に、うんうん、と頷くライネス。「だとすると、どこにいったものかね、レイラインの支流は少なくないし」
ごく自然と、クロとライネス、リツカが話を始めていた。こういう時、3人は思考が早い。特異点にレイシフトし、まず何をするか。どこに拠点を置くか、そういった戦略・戦術上の判断は3人に任せて、間違いない。逆に言えば、こういう時、マシュはちょっと蚊帳の外だ。歴史的な知識量は多いけれど、柔軟に思考することにかけては、3人に遠く及ばない。
そうして、蚊帳の外がもう一人。ぽかんとした顔で3人のやり取りを聞くトウマも、なんとなく手持無沙汰なようだった。なんとなく目が合って、2人して苦笑いなんてしてしまう。
「もう少し、マスターらしくしたいんだけどね」
癖のある毛に指を通しながら、小さく自虐なんてする。元は魔術なんて全く無縁の世界に生きてたのだから、今でも立派すぎるくらいマスターをしている、とマシュは思う。
「マシュは」ちょっと照れ臭そうに、トウマは言った。「誰がいると思う? この特異点」
ほら、やっぱりしっかりしている。自虐よりも建設的な話へと、すぐ切り替えている。
ある意味立場は自分に似ているけれど、自分よりずっと前にいる。それが、トウマに対するマシュの評価であり、ある意味でリツカよりも尊敬している部分だ。
「19世紀末のロンドンですから」
だから、マシュも真剣に、トウマの問いに思考を巡らせる。
追うべき背は1人だけではない。あの火焔の地獄の中、崩落する天蓋に圧し潰されたマシュに対し、迅速にトリアージを下して他の要救助者の助命に奔走した、リツカだけではない。ライネスも、クロも、そしてトウマも。ここにいる4人全員が、マシュ・キリエライトの先達で、追うべき背なのだ。
「やはりジャック・ザ・リッパーは高い蓋然性があるのでは、と思います」
「ジャックか」
一段、トウマの声が低くなった。
切裂きジャック。恐らく世界で最も名の知れたシリアルキラーの名。ローマでは彼女……というか彼というべきか、ジャックが味方として召喚されていた。これがロンドンを舞台に召喚されるなら、知名度補正は絶大なものになるだろう。ローマと同じように味方であれば信頼できる。逆に敵であれば、かなりの脅威になるだろう。
「後はシャーロック・ホームズもあり得そうですね。あるいはコナン・ドイルでしょうか。この時期はアメリカに渡っていますが、ニコラ・テスラなんかも」
神妙な面持ちのトウマに対し、ぽつぽつと頭に浮かぶ偉人・著名人の名を挙げていく。すらりすらりと記憶から抜き出していく様は、生き字引のようだ。マシュとしては当然の“機能”なので特にこだわりもないことで、頭の片隅だけでサーヴァント候補を絞りながら、油断なく周囲を警戒する。
「古い英雄が召喚されるかもしれませんね。これまでだって、時代に一致してたわけではありませんし」
「アーサー王伝説の円卓の騎士とか? モードレッド、とか」
なくはないと思います、と応えた時だった。
不意に──あるいは必然的に、マシュは宙の一点を正視した。
不意に、であったのは、特にその地点へ視線を向けたのは偶然でしかなかったからだった。
必然的に、であったのは、今自分がすべきことは、周囲への警戒であると理解しており、油断なく視線を配っていたからだった。
偶然であり、必然。とは言え、彼女が志向した視線の先に、明瞭な何かが形作られていたわけではなかった。
何か、宙が歪んでいるように見えた。水面に水滴が落ちたような波紋が、小さく宙に歪みを作っている。相対距離がどれほどなのか図ろうとしても、戦闘服の各種センサーはそもそも認識すらしていない。目測であれば10mほどの距離になるだろうか。光学的な気象現象にこんなものがあっただろうか、と考えたが、すぐそんな楽観は黙殺した。
敵、と判断してから、彼女は左手を腰の鞘へと伸ばした。
柄を、五指が握りしめる。堅い感触が手のひらから返ってくると同時、彼女は脳裏でイメージする。剣の刀身に、力を圧縮するイメージ。何かを切断するイメージ。彼女の戦闘の基幹を為す魔力防御の運用には、強固な想念を形成することが何より必要だ。
咄嗟のマシュの動作に全員が何かを察知したのと、それが飛び出したのは、同時だった。
歪みから、何かが射出された。サーヴァントの彼女ですら視認するのが精々な速度で放たれたそれは、槍にも、矢にも見えただろうか。鋭利な突端を持つ何かは音速すら遥かに超え、トウマの頭部に殺到した。
人間の頭部など、おそらく容易く破砕するであろう一撃。超速で飛来したそれは、だがトウマの頭部を遥か手前にして弾き飛ばされた。
切り結んだのは、跳躍した斬撃だった。マシュが鞘から剣を抜き放つのに合わせ、刀身に併せたパワーフィールドを打ち放ったのだ。鞘からの引き抜きしなに下段から掬い上げるように剣を振り抜いた直後、今度は上段の構えで第二撃を待ち構える。防御でありながら盾でなく剣を選択したのはその為で、場合によってはこのまま攻めに転じようという攻防どちらも兼ねた思考だった。
が、マシュのそんな思考は、どちらも実際には起こらなかった。
第二撃はそもそもなかった。奇妙な歪みから鎌首を擡げた何か──巨大な尾か触手のように不定形に蠢く奇妙な肉茎は、ずるずると地面を這いずるだけで次の攻撃には転じようとしなかったのだ。
では打撃に移ればよかったか。確かにそうかもしれないし、実際そうすることもできたかもしれない。だが、マシュはしなかった。というより、できなかった。何せ、目の前で生じた光景が、あまりに人間の常識の埒外だったからだ。
ひずみから、何かが這いずり出した。ゆっくりと緩慢な動作は、傲慢や驕慢さの表れか。蒼褪めた躯体が、のそり、のそり、と宙のひずみから乗り出してきていたのだ。
獣、という言葉がまず脳裏に浮かんだ。全長、およそ3m。脳裏を掠めたのは、幼少期……といっても生体培養されたマシュにとっては、数年前のことだが……に見た図鑑の写真。確かヒグマやホッキョクグマがこの程度の大きさだっただろうか。
だが、これはそんな文化圏の内側の言語で表現できるものなのか? 腐臭を撒き散らし、聞くに堪えない唸り声を喉で鳴らしながら顔を覗かせたそれは、果たして幻想種などという太古の神秘の具現ですらあるのか? 冒涜的なまでに醜悪な、こんな生物が存在するのか? のそりとひずみから姿を現した肢体は腐肉が蠢いているかのようで、ぎょろりと覗いた眼だけは、妙に悟性的にマシュを見定めた。
「jqbbt gquejap@……uyq@?q@;te.kt」
何か、呻いた。酷く金切りのようなそれが言語であるなどと、とても言えそうにない。ぶるぶる、と不快そうに身震いするのも束の間のことで、仁王立ちした獣は天を仰ぎ、咆哮を迸らせた。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
生命の原初を戦慄させるような叫喚。全身が痺れるように緊張し、嘔吐感が一挙に押し寄せる。視界が酩酊するかのように揺らいだと思ったときには天地の感覚が不良になって、後の瞬間には自分が立っているのか横になっているのかすら不明だった。自分の存在すらぐしゃぐしゃの原形質に淀んでいくようで、マシュ・キリエライトという存在者は存在の渦にそのまま飲み込まれて
「マシュ!」
「あっ」
慌てて、マシュは跳び起きた。
一切停止していた思考が猛烈に稼働して、マシュは現状を素早く把握した。自分に馬乗りになったトウマの表情は酷く強張っており、蒼褪めた顔は端的に言って病人めいていた。大丈夫です、と無意識に発話しながら起き上がったマシュは、遠く、剣戟の音に顔を向けた。
ほっと安堵したようにどけたトウマに代わり、今マシュの顔を覗き込んだのはリツカだった。
「精神汚染、みたいだけど」そう言うリツカの表情こそはいつも通りだが、額には脂汗が滲んでいた。「帰ってこれただけで良かった」
「先輩、私」
「今、クロが戦ってる」
くい、と顎をしゃくる。確かに硬質な何かが激しくぶつかり合う音が、肌を叩いている。
さっきの怪物の姿が、視界を掠めた。ぞっとしたマシュは僅かに身震いしたが、すぐに「行きます」と口腔内に溜まった鈍い唾液を嚥下した。
「オッケー。ただし前衛はクロ、後衛がマシュね」
「でも」
「でもじゃない」ぴしゃり、とライネスがマシュの声を遮る。「そんな体たらくで戦っていい相手じゃない、あれは」
「それに、どういう理屈か知らないけどクロはあの精神汚染に耐性があるみたいだし。適材適所だよ」
了解、と応えるマシュの声は、絞り出すようだった。精神汚染のせいもあるが、それだけではない。ふ、と息を振り絞ったマシュは、戦闘音の方向。路地を抜けた広場へと足を向けた。