fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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Ⅰ-5

 「ここよ」

 首都ロンドンの中央からソーホーへと続く道すがらの狭い路地で、エリザベス女王は立ち止まった。

 何の変哲もない、どこともしれない暗い路地。濃霧はこんな街並みの隙間にも侵入し、我が物顔で膨れ上がっている。

 「全然わからないね」

 呆気にとられたように、リツカが手を伸ばす。何かまさぐるように延びた手は、何も掴むことなく空を切るばかりだ。ライネスも不思議そうに周囲を見回しているが、要領を得ないように首を傾げていた。無論、2人がそんな調子である。少し勉強を始めたとは言え、ずぶの素人であるトウマに、すぐ目の前に固有結界があるなど、知覚できるはずもなかった。

 「クロはわかる?」ふらふらと手を振り回しながら、トウマはすぐ脇で難しい顔をしている自らの相棒に言った。「固有結界って、こんなにわかりにくいもんなの?」

 他方、うーん、と眉を潜めるクロ。ためし、とでも言うように地面に手を触れて何か魔術を発動したらしいが、彼女も首を横に振った。「全然ダメ」

 果たして、4人はさっぱりわからず、マシュも手持無沙汰のように立ち竦みながら眺める路地裏に、エリザベス女王ら3人、ひいては彼女ら3人を率いる“魔法使い”の本拠地があるらしい。しかもそれは固有結界の形を執っており、且つ、極めて巧妙に隠匿されているという。

 「しかし、やっぱすげえんだな大将の“魔法”って奴は」

 喜劇か何かでも演じるようにふらつく4人に、金髪の大男はごく素直な感想を述べていた。坂田金時、もっとわかりやすく言えば“金太郎”のサーヴァントは、豪胆磊落な見た目通りに、質朴な男らしい。

 「金時さん、魔法ではなく魔術です、一応」

 澄ましたように、もう一人が嗜める。ひょこひょこ、とケモミミを動かす玉藻の前に、金時はただただ難しそうな顔をするだけだった。まるで算数の問題に悩む小学生のような困り顔である。

 「ちょっと待ってて、今入るから」

 そう言って手をかざすと、何やら始める遠坂凛。もとい、エリザベス女王。巧妙に隠匿された固有結界に入るには、何らかの下準備が必要、というわけだ。

 さて──。

 トウマは、この瞬間、ただただ無限の情動の波に圧倒されていた。

 「そう言えばクロエさん、お怪我の方は大丈夫ですか? いやー役に立たねえポンコツ宝具なもので、ちゃんと効いてますかどうか」

 「見た目通りよ、なんともないわ。 っていうか宝具がポンコツって」

 「なんか、声似てねえか?」

 「オッケー、あとは向こうで承認するまで待って」

 「あ、あぁ。わかったよ」

 「ライネスちゃん、そろそろ慣れたら?」

 「君は慣れすぎじゃないか」

 ……なんというか、情報量がすごい。見知った顔がわちゃわちゃ群れている。プリヤのクロにextraの玉藻がいて、中身は違えど本家staynightの凛がいて、Apocryphaのライネスがいる、というこの状況。スーパーFate大戦でも始まるのだろうか、と問いたくもなる。真面目な話、実はここもそういうゲームの世界なのではないだろうかと疑いたくなるくらいには、とんでもない情報量だった。いずれ別な型月から参戦キャラがいるんではなかろうか。

 「あの、タチバナ先輩?」

 恐る恐る、といったようにマシュが見上げてきた。相変わらず不思議そうに見やる視線の先には、旧来の知り合いのように言葉を交わすエリザベスとリツカの姿があった。

 「先輩は、あの方はご存知でしたか?」

 「いや全然」溌剌としゃべる“遠坂凛”の姿に妙な感慨を抱きながら、トウマは首を横に振った。「初めて」

 「先輩は、どこでお知り合いになったのでしょう」

 ここで言う先輩、とはリツカのことを指すのだろう。目を丸くする彼女の視線の意味は測りかねるところがあるけれど、なんとなく、無自覚ながらも薄暗いものがあるように思えた。

 マシュ・キリエライト。彼女は通常のサーヴァントではない。デミ・サーヴァントと呼ばれる、生身の人間とサーヴァントの融合体であるという。そんな特異的な在り方をする彼女とリツカの関係性については、トウマもあまりよく知らない。情報としてマスター・サーヴァントの契約を交わした経緯は聞いているけれど、その瞬間にどんな主観的体験があったかまでは、与り知らぬことだった。

 結局、「どうだろうね」とあやふやなことしか応えられないトウマである。ですよね、と反すマシュもなんというか平凡で、それこそ学校で顔を知っているだけの知り合いと喋ったみたいな会話になってしまっていた。コミュ力の低さを呪いつつ、そんな平々凡々な会話ですら、ちょっと楽し気なマシュの表情が、なんとなく印象深い。

 「来たわ」

 エリザベスはそう言うと、そのままずんずん、と歩き始めた。目の前は壁。もろに直撃するか、という間際、ふにゃりと空間が歪んだ。

 まるで水面に石でも跳ねたかのよう。いくつもの同心円が重なり波紋を描き、その中心部へとエリザベスの姿が吸い込まれていく。

 「ささ、早く行きましょう」

 ほらほら、とリツカとライネスの尻を押す玉藻。あ、と言う間もなく押された2人も、どぷりと空中に浮かんだ水面に飲み込まれていった。

 呆気にとられる残る3人を他所に、金時も「そら、来いよタチバナのあんちゃん」とからりと笑って空に飲まれていく。

 「固有結界、本当に?」

 慎重な素振りで、クロは空に手をかざした。途端、ふよん、と綿菓子みたいに大気が歪み、綺麗な円形の波紋が広がっていく。

 マジだ、と言わんばかりに真顔になるクロ。けれどもそれも一瞬、ロジックがわかれば大したことはないとばかりに、彼女も飛び込んでいく。

 残る2人。どちらかと言えば常識人に近い方の2人であったが、同時に、既に4つもの特異点を踏破したマスターとサーヴァントなのだ。ひとしきり不思議そうにしてから、えいや、と飛びこんだ。

 その見た目に反して、触れた感触は水というよりももっと冷たく、撫でつけるような感触だった。直観的には、秋冬に山間を駆け抜ける颪とでも言おうか。控えめに言って、歓迎されてるとは思えない感触である。

 体感時間にしてだいたい1秒。ともすれば突風が吹いたかのような感触に目を細め、再び開けた時だった。

 わ、と声を上げたのは多分マシュだ。いや、自分だろうか。というか、2人も目の前の光景に、質朴な感動を覚えていた。

 いつの間にか、門をくぐっていた。近代的なコンクリートで舗装された路面の脇には、針葉樹が黒々と茂っている。その森の先に、秘めやかに、それでいて堂々とその建物はうずくまっていた。

 洋館、だろうか。古式ゆかしく佇む有り様は、人の住む住居というよりは魔女の館を思わせる。それこそ、古い童話に見る、狡猾で快哉な魔女が住まう、古き館とでも言おうか。図書館で見かける、大分黄ばんだ小難しい小説の挿絵をそのまま切り抜いてきたかのような光景は、どうしようもないノスタルジーを惹起させる。もちろん、こんな別荘の持ち合わせはないし、実家は一戸建てとはいえ築20年程度の安物件だが。

 その他、印象的といえば庭の有り様だろうか。いかにも山の中に潜む家の割に、庭はよく草が毟られ、植え込みも剪定が行き届いている。住人という魔法使いは、さぞ綺麗好きなんだなと思わされる。

 純粋に、素朴な感想を漏らすマシュ、トウマ。2人とは対照的に、3人は全く別な好奇の視線で周囲をじろじろ見ていた。固有結界、なんてそうそう見られるものではない。好奇の目を惜しげもなく振りまく様は、ある意味で質朴に感動するマシュやトウマよりも子供らしい。

 「ほーら、あんまり人様の心の中をじろじろ見るものじゃないでしょ」

 早く来なさい、とエリザベス。慌てて玄関口へと続く通路を向かうリツカたちの背を見ながら、「まあわかりますねえ、あのリアクション」と玉藻はしみじみとしている。

 「魔法に最も近い大魔術。ある意味、魔法以上に劣化しにくい魔術なわけですし」

 「そうなんですか?」

 なんとなく、魔法と魔術の区別を思い返す。そんなに型月設定に詳しいわけではないが、簡単に言えば人の手で再現し得るか否か、みたいな区別だった気がする。魔術は魔力が無くても科学で再現できるものだが、魔法は再現不能なもの。そんなところか。

 「確かに、宇宙科学の文脈では並行世界……というか、多次元宇宙論とか、ありますね」

 「そうそう。きっと人間は遠い未来、外なる宇宙へも旅立つのですよ。並行世界への旅も、時間旅行も、全く以て理解不能な出来事ではないということです。ほら、そう考えれば、固有結界の方が再現性悪いと思いません? 個々人で、心象なんてバラバラなわけですし」

 ちょっとした玉藻の前の魔術講義に、素直に頷く2名。トウマもそうだけれど、マシュも基本的に魔術には長じない。基礎的な部分は修めているらしいが、戦闘に耐え得るものではないらしい。

 そう言えば、クロも『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』は発動できないと言っていた気がする。あくまで衛宮士郎の内面性の具現であるからして、自然と言えば自然だが。

 「ま、そもそも固有結界なんて、悪魔の手法ですからねえ。人様がやるものではないかもしれませんね」

 そうして、玉藻は小気味良い音を立てて手を叩いた。これで講義はお終い、ということだろう。ひょんひょんと歩き始める狐耳のサーヴァントは、誘うようにちらとこちらを丐眄した。

 何故か、その時の視線が奇妙だった。射抜く、というと鋭すぎるが、何か探るような眼差しがトウマを掠める。とは言え敵意的というわけでもないそれに一番ふさわしい感触は、好奇心、だろうか。

 「気をつけるんだぜ、兄ちゃんよ。マシュ、お前もな」

 のし、と分厚い手が肩に触れる。坂田金時は図体に似合わない真面目くさった顔つきで、ひょこひょこ尻尾を揺らす玉藻の背を眺めている。

 「フォックスはまあいいヤツなんだけどな。なんつーか……やべー奴でもあるからよ」

 神妙な面持ちで、ひそひそと金時は耳打ちした。耳打ちするのはいいが、なんというか語彙がざっくりすぎてよくわからない。

 とは言え、金時が言わんとしていることはわかる。その大本は日本神話体系の主神とも言うべきもので、玉藻の前自身も九尾を備えればその本性は恐るべき大化生とも言うべきもので、

 「聞こえてますよ?」

 にこりと笑みさえ浮かべて振り返る玉藻の前。明るささえ感じる雰囲気なものだから、怖さは五割増しである。「ゴメンナサイ」と平謝りする金時に、なんだかトウマも頭を下げた。

 「淫乱だとか大化生とか、全く人聞きの悪い」

 「いやそこまで言ってねえ」

 「言ってますー実質言ったようなもんですー。マシュ様もトウマ様もこの筋肉達磨にはお気を付けくださいませ? 良い人面してますけど……いやコイツ中身も良い奴だわ」

 「玉藻さん、貶せてません……」

 ……そんなこんなで上手いこと玉藻に誘導されながら、遅れて入り口に到着した2名。エリザベスは、早くしろと言わんばかりの表情ながら、ドアにぶら下がる鈍い金色のノッカーを2回打ち当てた。

 「入るわよ」

 中からの応答も待たず、エリザベスは問答無用に扉を開け、ずかずかと踏み込んでいく。勝手知ったる他人の家、と言うよりは道場破りでもするかの如きの足取りである。

 「あ、靴は脱いでね」

 そこは丁寧である。ローファーを脱いで「来たわよ~」と呑気で、且つよく通る声で言うエリザベスを後目に、リツカはきちんと静かに、且つ礼を失さない素振りでドアを潜った。

 まず、入り口には広いロビーが広がっている。左手は応接間だろうか、右手に続く通路の先には、微かにキッチンらしきものが覗く。中央ロビーには階段が伸び、折り返して2階へと続いていく。

 「わーすっげ」

 リツカは、なんかもっと相応しい感想はないのだろうか、という貧困な語彙で感想を述べた。

 「君、実家はこのくらいじゃないか?」

 「ド田舎の駄馬の家系なもので」

 「没落貴族に底辺魔術師。安物ライトノベルのタイトルみたいだね」

 「魔術なんて金にならないですわよ」

 しみじみ、と呟くライネスとリツカ。なんだか前を歩く2人の背も、自然とおっさん臭い気がする。そんな2人を不思議そうに見やるクロは、この屋敷を前に、特に感慨深い様子はないらしい。まぁ、アインツベルンの城に比べたら……だろうか。

 リビングへと向かう中、ふと、階段下にぽつねんとたたずむ何かを見かけた。一見トウマにはそれがよくわからなかったが、じい、と見つめて、ようやく電話だと知れた。木造りの台に、花瓶に刺さった薔薇と一緒に鎮座している。古い海外ドラマにでも出てきそうな、古式ゆかしい電話だ。かろうじて“ガラケー”を知る程度のトウマにとって、そもそも据え置き型の電話自体が珍しいものだった。

 とは言え、その程度の興味ではあった。珍しいな、と思った程度で、トウマも皆の後に続いて、リビングへ向かう。

 リビングは、逆になんとも庶民的だった。確かにソファを含めた調度品は、そこいらのホームセンターやらで見かけるのとはなんとも違った重厚感がある。厳かさを否が応もなく感じさせる空間ではあるのだが、ただ1点だけ、トンチキなものがあった。

 何あれ、と思ったのは約2名。マシュとトウマは、台の上に鎮座する黒い箱のようなものが何なのか判然としなかった。いわゆる“薄型テレビ”が既に市場に台頭した時代に生きるトウマにとっては、その図体のデカい箱が、テレビだという発想があんまりなかった。ブラウン管のテレビなど、既に歴史的遺物というか、そういう産物になりつつあった。奇妙な空間の中、鮮やかな青い薔薇が、花瓶の上で咲いていた。

 歴史的な雰囲気と言えばそう。だが、若干近代的なものがあるせいで不調和になりながら、その不調和すら調和しているかのような奇妙なリビング。古いソファに、その人物は堂々と座っていた。

 「やあ、待っていたよキミたち」

 慇懃な素振りで言いながら、その人物は湯気立っているカップをソーサーに置いた。音もなく置く身振りは、とても礼儀正しく見える。英国紳士……そんな言葉が、思い浮かんだ。

 白いストラップのシャツに黒のパンツにブラウンのベスト。艶のいい白髪に、同じく白い髭は綺麗に整えられ、老生を感じさせることはない。

 サーヴァントだ。マスターたるトウマは、感覚的ながらも確かに目の前にいる人物が英霊の座から呼び出された人物だと理解した。

 「クラスはキャスター。真名はホームズ、シャーロック・ホームズだ」

 さらりと、当たり前のように老人は真名を名乗った。

 しじまのような驚きが、俄かに伝播した。

 シャーロック・ホームズ。その名前を知らぬものは、そうはいまい。1887年にコナン・ドイルによって発表された第一作『緋色の研究』から始まる、世界で最も有名な探偵小説シリーズの主人公その人だ。歴史や神話の習熟がメインで、流石に近現代史や文学にまでは手が及んでいないトウマですらも知っている名前だ。

 なるほど、そう言われるとそう見えるなぁ、とトウマは男の風采を見やる。よく整容された身なりに、如何にも理知的な佇まいは、世界で最も著名な探偵という風評に一致している気がする。架空の人物がサーヴァントになるか、というのは意外と言えば意外だけれど、中にはそういうサーヴァントも例にある。

 「確かに頭良さそう」

 「そうだろう?」

 ふふん、得意げな顔のホームズ(?)。不躾ともとれるほどにじろじろ見やるリツカにも特に何も言わず、男はゆったりとした動作でソファに腰を下ろそうとして、

 「ゲ!?」

 ぎくりと痙攣した。

 中腰のまま、ぴくぴく震え出した男の額にはだらだらと冷や汗が噴き出ていた。同時に顔を青くしたり赤くしたりしながら何か言おうとしているが、ただ口をパクパクさせているだけだった。

 「なぁ、ホームズってなんだ?」

 「ちょ、金時クン?」

 「しょうもない小芝居はいいから」

 べし。呆れ顔のエリザベスが、男の腰をしたたかに叩いた。

 アポカリスプスはそこで極まった。声にならない悲鳴を上げた男は中腰の姿勢のままカーペットの上に転がると、その姿勢で硬直したまま、ただただ呻いていた。

 さっきまでの大物感というか、そういう知性さは跡形もなく粉砕されていた。今ただそこにいるのは、サーヴァントの癖にぎっくり腰に悶絶する憐れな老人に過ぎなかった。

 「あのね、コイツ、ホームズじゃないから」

 ジト目で惨劇を見下ろすエリザベス。どかりとソファに腰を下ろし、嘆息を吐いていた。

 「良かった、ホームズさんではないんですね」

 ほっと胸を撫で下ろすマシュ。「そうなの?」と聞き返すエリザベスに、マシュは幾ばくか申し訳なさそうな微笑を浮かべた。

 「あの、はい。ちょっと、解釈違いです」

 「なにそれ?」

 「イメージと違うってことですヨ」

 ひいこら悲鳴を漏らしながら、ホームズ(?)はやっとのことで立ち上がった。腰を抑えながら、エリザベスが少し横にずれてスペースにゆっくりと腰を下ろした。

 「座って」5人にソファを勧めながら、改めて、エリザベスは隣に座るひ弱な老人を一瞥した。「悪戯好きな爺さんなのは知ってるけど、なんでわざわざ?」

 「そりゃあ女王陛下、私の名前はちょっとアレですし」

 「有名なんです?」

 遠慮なく座るリツカに、ちょっと言いにくそうにする老人。とは言え今更ということか、咳払いすると、「ジェームズ」と名前を口にした。

 「ジェームズ・モリアーティ。それが私の名前だヨ」

 再度、静かな何かがリビングに広がる。ジェームズ・モリアーティ。何か荘重な響きを持った名前を耳にして、トウマは、思わず口にしていた。

 「……誰?」

 「ほらー! 私はマイナーキャラだから普通の人は知らないんだー! ウワーン!」

 がっくり、とモリアーティはうなだれていた。おいおい泣き始めた老人の姿はなんともみすぼらしく、トウマは我知らず憐憫のような気持になっていた。

 が、その名前にぴんときていない顔の方が大部分だったのだ。リツカも口にこそ出していないが、多分何もわかっていない顔をしている。クロも同じ、ライネスは僅かに「あー」みたいな顔である。唯一、マシュだけは目を見開いて、小さくその名前を口にしていた。

 「解説のマシュさん、さわりだけお願いしてもよろしいですか?」

 「はい、もちろんです」

 リツカにそんなことを言われたのが嬉しかったのか、鼻息荒く応えると、マシュは数秒ほど思考していた。どんな風に紹介したものか、と文章を頭の中で取り纏め終えると、得意げに眼鏡をくいっとした。

 というか、どこから眼鏡を取り出してきたのだろう? あ、クロが投影したものか。

 「ジェームズ・モリアーティ。物凄く端的に表現するとですね、ホームズシリーズのラスボスのような方です」

 「ラスボスってなんだい?」

 紹介された方がわかっていない。何それ、と言いたげなモリアーティに対して、現代っ子4人はその一言で全容を理解して、「おー」とか「ヤバ」とか「草」とか「マジか」とか、思い思いに感嘆を漏らしていた。

 「宿敵、みたいなものです」何故かモリアーティその人にモリアーティの解説の注釈を入れながら、マシュは続けた。

 「自身は大学の数学教授でありながら、ホームズがかかわった多くの事件に裏で糸を引いていた“犯罪界のナポレオン”。自らは悪事を行わず、それでいてすべての悪事に通ずる大物。それがモリアーティ教授です。詳しくはカルデアのライブラリを参照いただければ」

 一気にまくしたてるように言うと、マシュは今更恥ずかしそうに頭を下げた。ぱちぱち、とその場にいる全員が拍手なんかするものだから、なおさら顔を赤くしながらマシュは引き下がっていった。

 「っていうか、それ結構アブない人なんでは」

 マシュのざっくり解説を聞いたトウマの感想は、まさにそれだった。というか説明を聞く限り、善人である部分が少ない。

 「そうね、反英雄に近いんじゃないかしら」

 「うーむ」

 ちょっと、身構えてしまう。大航海時代に跳んだ際のコロンブスもそうだけれど、トウマ自身、割と現代的な理性と良識を持ち合わせた少年だ。過度に反倫理的なものに対して、やや反応を伺うのは自然といえば自然な反応であろう。

 が。

 「いやでもラスボスってカッコいいすね」

 「あ、マジですか」

 彼は現代人で、アニメや漫画がごく身近にある世界の人間だった。

 創作物において、悪役とは打倒すべき敵であると同時に、何事か魅力的な人物であることが少なくない。むしろ、そうした悪役の持つ独自の美学が熱狂的なファンを集めたりすることも稀ではないだろう。元が創作の人物というだけあって、むしろトウマの意識としてはこちらの方が強かった。

 「しかもそれが味方ってめちゃめちゃアツい」

 「わかる。特撮で悪の怪人が正義の心を持つみたいな」

 「いや特撮はちょっとわかんないんすけど、多分そう」

 「あっそうですか」

……やや齟齬があったものの、リツカも似たような感想らしい。

 全然予想していなかった反応なのか、モリアーティはちょっと偉そうにしながら、柄になく照れているらしい。隣でジト目を向けてくるエリザベスの視線が痛そうだが。

 「でも意外。アナタ、自分の所業には誇りがあるタイプかと思ったけど」

 「もちろんありますよ、誇りとか。でもねぇ、若い子に嫌われるっていうのはあんまり気持ちはよくないからねえ」

 「そうかもね」

 ちょっと、苦い顔のエリザベス。いやいや、と振り切るように顔を振ると、壁掛けの時計を一瞥してから「もう本題に入りましょうか」

 「現在の特異点のあり方、だよね」

 「そう。そもそもなんだけど」言いながらエリザベスが玉藻の前に目配せしたところで、トウマは慌てて立ち上がった。「あの」

 「何かしら?」

 「あの、トイレをお借りしても」

 「そうね」一瞬、エリザベスは言葉を区切った。「話も長くなるでしょうし。ゴールデン、ご案内してあげて?」

 「おいっす。よし、連れションと行こうぜ。俺っちもこの後仕事だしな」

 何もそこまで、と言いかけたけれど、素直に甘えることにした。というか、断る前に、金時に肩を押されて連れ出されてしまっていた。

 ほらほら、と押し出されたのは玄関前のロビーだ。その階段裏の通路の先、と指さしながら言うと、金時はぽん、と肩を叩いた。

 「ここは静かだ」演技っぽく、金時が天井を仰ぐ。「ここの主サマも、静かなのが好きみたいだしな」

 トウマの返答も待たず、金時は身を翻して、ふらふら身体を揺すりながらとリビングへと向かう。トウマが咄嗟にありがとう、と口にすると、トウマより一回りも二回りも大きな身体の男は振り返りもせず、手を振って返した。

 ぱたん、とリビングと通路を隔てる扉が、閉じる。シン、と無音が張り詰め、トウマは、大きく息を吐いた。

 ふらりと足元が怪しくなったが、あわやで踏みとどまる。もう一度、今度は大きく息を吸い込むと、額から噴き出し始めた脂汗を拭った。

 まだまだだな、と天井を仰ぐ。もう半年もこんな戦いをしているのに、こんなことで一杯一杯になってしまっている。殺されかけたからなんだ、というのだ。これまでだって、死を意識したことはあったではないか。ただ今回は不意打ちのように死をぶつけられただけで、本質的には何も、いつもと変わらないはずではないか。

 と、理知的に分析しつつも、あの時の光景は思い返すだけで身の毛がよだつようだった。目前に迫った獣の奇妙な攻撃。マシュがもしあの時鋭敏に迎撃してくれていなければ、間違いなく頭を吹き飛ばされていた。名状しがたい不定の怪物。眩暈がする。何か、奇妙な力がこちらを捕食せんと迫るあの感触は、一体なんだったのだろう。

頭を振る。そんなことはどうでもいい。

 もっと、やりようはなかったか。考えるべきことはそれで、自分の死の切迫なんて、どうでもいいことのはずだ。

 令呪を切るべきだった。それは、多分そうだ。無理やりにでも空間転移で呼び出せばよかった。それか、何か宝具を無理やりにでも投影させて、的確に迎撃させるべきだったか。あるいは別か? あの状況、何かもっと適当なことはなかったか?

 ぐるりぐるりと思考が輪廻しはじめた、時だった。

 チチ、と微かな声が耳朶を打った。ぎょっとしたトウマは、咄嗟に魔術礼装を起動させた。戦闘服にプリセットされたシングルアクションの魔術を起動。魔術回路も励起させ同時に自らの右腕を突き出し、指先に意識を集中させる。魔獣程度であれば一撃で射殺し得る魔術……物理的破壊すら可能にする規模のガンドは、あとはトウマが打ち出すイメージさえすれば、すぐにでも撃ち放てる状況だった。火力管制システムに誘導された魔術の砲弾の着弾精度は、トウマの技倆の如何に関わらず、凄腕の狙撃手のそれに比肩する。

 すぐに撃たなかったのは、基本的にはトウマの努力の成果だろう。カルデアで過ごす日々のほとんどは頭か魔術のトレーニングにあてられるが、模擬戦闘もその一環だ。身体化した思考が、撃つ必要はないと判断していた。

 だが、本当は別だったのかもしれない。トウマが撃たなかったのは、もっと感性的で、芸術的な理由だった、かもしれない。

 ──かつ、と音が耳朶を打つ。

 階段の、先。天井の窓から差し込む淡い陽の光を背にして、彼女は立っていた。

 手すりに手を乗せ、音もなく一段を降りる影。修道服を思わせる黒い服と同じくらい、澄んだ漆色の髪がさらりと揺れた。

 空気が、息を潜めている。ざわざわ、と蠢く静寂の中、青い鳥がひらひらと彼女の肩に止まった。チチ、と小さく啼く声が、非難がましく響いている。

 息を飲む。見惚れたわけではない。圧倒されたわけでもない。ただ、何故か、階段を歩むその姿が異様に痛ましく見えた。

 トウマが身体を硬直させるうち、彼女は階段を下りきっていた。

 無言のまま、彼女は探るようにトウマを流し見た。非難の色はない、純粋な好奇の視線。今更に射撃体勢の構えを解いたトウマは、さりとて何を話していいかわからなかった。

 そうして、互いに沈黙して眺め合うという奇怪な時間を過ごすこと、1分か2分ほど。ようやっと口を開いたのは、トウマだった。

 「あの。トイレ、どこですか」

 躊躇いがちに言ったのは、何故かそんな言葉だった。な

 ──言ってから、猛烈に後悔した。なんでやねん? もっとマシな言葉はなかったんか? 自分のコミュ力は生ゴミ以下なのか?

 後悔しまくり自己嫌悪に陥るトウマに対し、黒髪の少女は考え込むように顎に手を当てた。珍生物でも観察するようにじろじろとトウマを眺めること一瞬、じろりと肩の小鳥を見やる。びくりと震えた青い小鳥は、さも厭そうに飛び立つと、廊下の裏手へと飛んで行った。

 「あっち」

 「あ、はい」

 「どういたしまして」

 なんか道を尋ねたみたいな会話ではないだろうか。何か運命的なことが始まりそうな出会いからは全く想像できない会話をこなしてしまったトウマは、改めて己のコミュ力を呪った。別に尿意も便意もなかったのだ、本当は。

 なんとも居たたまれなくなったトウマは、彼女の脇を通って、そそくさとトイレへと向かいかけたところで、

 「──待って」

 彼女の声が、呼び止めていた。

 振り返ったところで、彼女はすぐ目の前にいた。わ、と思う間もなく、至近で穴が空くほどに見つめる彼女の黒い目。激闘を潜り抜けはしたけれど、こういう経験だけは全然慣れない。意図もわからず勝手にどぎまぎしていると、彼女の小さな口唇が、薔薇の花のようにほどけた。

 「何故」

 訝るような、鋭い視線。それでいて何かの確信に満ちた、勁い眼差しがトウマを射抜いた。

 「何故、あなたは、戦うの?」

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