fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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Ⅱ-2

(こちらSG(スターゲイザー)よりSSリーダー、BSリーダー。目的地にはついたかな?)

 聞きなれた男の声が耳朶を打つ。ロマニ、ではない。前職では、アメリカ海軍で戦闘機の後部座席に座っていた、という肌の浅黒いスタッフの声だ。(SSリーダー、現着完了)とリツカが端的に返答するのにワンテンポ遅れ、「BSリーダー、こっちも着きました」と後に続いた。

 現在地、ロンドンの一画オールドストリートの広場。人の姿は相変わらずなく、陰鬱な風が濃霧を運んでいる。

 時間にすれば、およそ50時間は前。この地にレイシフトするなり遭遇した、あの奇妙な化け物と戦った場所がここだ。なんとなく薄気味悪く感じるのは、ただ主観的な気まぐれなのか、それとも真実何かそう感じさせる要因があるのかは、現状では不明だ。

 そんな薄気味悪さは此処にいる全員が感じているのか。クロはどこか鋭い視線で、ライネスも油断なく周囲を見回している。そうして凛……ではなくエリザベス女王も、平素な素振りでこそあるものの、表情には油断ないものが漂っている。

 とは言え、そこまで緊張が張り詰めているわけでも、ない。何せ明確な手掛かりがあるわけでもないし、言ってしまえば今回は“ワンチャンス”を狙っての作戦行動なのだ。最初から、そう多くを求めた行動ではない。

 「アナタ、ちゃんと持ってきたでしょうね」

 そんな、ほんの微かな気の緩みを察したかのように、エリザベス女王が厳しい言葉を向ける。とは言え、今さらそういったものに狼狽えるトウマでもなかった。もちろん、と頷きを返すと、トウマは懐に入れた硬い感触を自覚した。

 護身用、とのことでエリザベス女王に渡されたものだ。トウマだけでなくリツカも受け取っていたもので、曰く一度くらいサーヴァントに襲われてもなんとかなる代物ではあるらしい。

 「さて、じゃあ予定通りに動こうかね」

 腰に手を当て、ライネスはやや物憂げなように言った。そうね、と明るく応えたエリザベスがライネスを引きずりながら、広場の反対側へと歩いていく。恨めし気にこちらを睨みつけるライネスの空色の目からは、ちょっと視線を逸らした。

 「ライネスも本人だけだとねえ」

 ご愁傷様、というように、やや引き気味のクロ。こちらは視線をこそ逸らしていないが、手を振る姿には何とも言えない哀愁がある。

 「遠坂凛、知ってるんでしょ?」

 「まぁ一応」

 あくまで一応、とトウマは応えた。確かに知っていることは知っている。ステイナイトのアニメ、DEEN版もufo版も見たわけで、当然どちらにも遠坂凛は登場人物としている。プリヤにももちろん居るわけで、クロは直接凛と顔見知りというわけだ。その濃さから言えば、トウマの「知ってる」はあくまで情報として知っているだけに過ぎない。

 「なんていうか」ちょっと面映ゆいように、クロは頬をかいた。「良い人なのよ、凛。面倒見はいいしね。ただ、ちょっとねえ?」

 そうして、苦笑い。「あーはいはい、わかる」と応えるトウマも、ぼんやりと、遠坂凛の人物像を思い浮かべる。

 間違いなく善人の類ではある。人倫と言う言葉を一切軽視する魔術師の界隈にあって、最後の最後まで倫理性を損なわない類まれな女性だ。志は気高く、その視野は多分広い。それでいてリアリストで、それでもやっぱり理想主義を棄てない。ある意味中途半端とも言えるけれど、逆に言えばすべてを為そうとする偉人の気風を持っている。そんな人物だ。間違いなく頼りにはなるのだろうけど、まぁそれはそれとして、我が強く、且つ頑固なところは或る意味とっつきにくい。多分、実際に同じ学校にいたとしても「関わらんとこ」ってなるタイプではないだろうか。猫かぶりをして、どうにかそれを隠しているのかもしれないが。

 「あくまで彼女は凛じゃなくて、エリザベス女王様、なんでしょうけどね」

 ずんずん、と前に進む赤いドレスの後ろ姿。右手に宝石の剣を、左手にプラチナブロンドの髪を揺らした少女を携え進む姿は、ある意味凛以上の“我の強さ”を感じさせる。エリザベス女王について、マシュから史実の姿について簡単なレクチャーは受けた。信仰心に篤いエリザベス女王と遠坂凛は、一見、似通うところがない……ように、思える。

 「じゃ、こっちも始めましょっか」

 ね、と小首を傾げて促すように言うクロ。頷き一つを返したトウマは、改めて、決然と空を見上げた。

 分厚く宙に鎮座する、黒い濃霧。その遥か先、微かに閃く光軸が空を横断している。

 「ほーら、早く」

 ちょこちょこと駆けだしたクロを追う。小さなその背を追いながら、もう一度だけ、トウマは空を見上げた。

 何故だろう。ただの印象だろうか。

 その空に浮かぶ光軸が、なんだか、細くなっているような。

 

 ※

 

 同時刻

 ロンドン某所 繁華街裏手の路地

 

 「ここ、ですよね」

 リツカがカルデアからの定時連絡を終えるに合わせ、マシュは目の前の屋敷を見上げた。

 リージェントパークにほど近い広場は、繁華街の近くにしてはどこか寂れた雰囲気がある。元より人の姿がほとんどないことだけではない、妙な陰鬱さとでも言おうか。正体不明の特異点、という懸念がそうさせるのだろう、とマシュはとりあえず割り切る。

 とは言え、目の前に鎮座する屋敷は、どうもそういった空気と無縁に見える。厳かな佇まいは、一目でこの建物の持ち主の社会的地位や賞賛を感じさせるものだった。

 「おう。ここがジキルの家だな」

 同じく見上げるようにしながら、金時はどこか険しい顔で言う。ジキルと連絡が取れない、と最初に報告を挙げたのは彼だったらしい。

 それにしても、生前のヘンリー・ジキルとは恐れ入る。何せ19世紀末に起きた怪事件の被害者であり、且つ犯人としてとても有名な人物だ。

 (まあ正確には、彼の研究棟はこの裏手なんだけどね)

 無線で言ってきたのは、今はナーサリーライムが位相差のある世界に展開した固有結界の奥で何やら研究に勤しむジェームズ・モリアーティだ。

 「こっちは居住区画、ということでしょうか?」

 (区画……)マシュの語彙に疑問符を浮かべつつ、モリアーティは応えた。(まぁその理解で大丈夫かな?)

 「裏手から入っても良かったと思いますけどね。直接研究棟なわけですし」

 「まぁあくまで友人枠として来たわけですしね。アスタン氏のように」

 「斧でカチコミませんでした、あの弁護士。執事でしたっけ?」

 「斧は使用人じゃなかったかな」

 「お、じゃあ宝具(ゴルスパ)、ブッパしちまうか?」

 「Mr.ゴールデン、屋敷が吹っ飛んじゃうと思わないですか?」

 「玉藻の前もそうだそうだと言っています」

 なんだか物騒な話をする玉藻の前とリツカ。金時に至っては何故か鉞を担ぎ出しているが、まぁ流石に冗談なんだろうけれど、あまりユーモラスが豊かではないマシュはちょっとはらはらしてしまう。

 ちぇ、と渋面の金時を他所に、さっそくと言うようにドアの前に立つと、玉藻の前は貞淑な素振りでノッカーを重く叩いた。

 「ごめんくださいまし。ジキル様ー?」

 伸びのある、よく通る声だ。特別大きいわけではないが、この屋敷のどこにいても聞こえるであろう、そんな声だ。

 が、中からは返答はない、念のため、と玉藻の前はもう一度ノッカーを叩いたが、やはり返答はない。

 「ジキルさーん?」

 「やっぱり研究棟の裏口に行こうか」

 マシュは、屋敷を見上げる。厳かな佇まい、それは相違ないはずなのに、何故か急速に、ただ蒼古としただけのぼろ屋敷に見えてきた。

 と、玉藻の前とリツカが相談する後ろで、金時が空を見上げていることに気づいた。なんとなくその視線を、追ってみる。

 分厚い霧。灰色と暗闇がまだらになった霧の先、仄光する光の帯が閃いている。

 特異点に見られる現象。およそ衛星軌道上付近に展開していると思しき、超高出力の魔力が束になった何か。おそらく、この旅の根幹にかかわるであろう、何かだ。

 「あぁ、あれな」そんなマシュの視線に気づいてか、坂田金時は決まり悪そうに眉を寄せた。「厭な気分になるよな、アレ」

 そうですね、と応えながらも、マシュは金時の表情が、妙に印象的だった。やるせないような、それでいて煮え切らない、そんな顔。その表情に名前があるなら、多分、“憐憫”ではなかったか。

 直感的に抱いたそんな想像に、マシュは当惑した。何故? わからない。自分のような薄い人生経験しかないものが、そのように人を測ってしまったことが、何か重大なことのように思えた。

 ただ、その横顔はそうとしか言えなかったのだ。日本人離れした鼻筋通った顔立ちに差す、灰のような影。切実に軋む眉。やるせなく結ばれた口唇。そのどれもが、ただ、何かを憐れんでいるように見えた。

 微かな、それでいて遥かに延長した逡巡の惑い。マシュは、ただその惑乱を、しっかりと胸郭の底に仕舞い込んだ。

 そんな闃然は、けれど、狙い澄ましたように裂けた。

 「ホワチャー!」

 奇声一発、玉藻の前は思い切りドアへ向かって飛び蹴りをかましていた。キャスタークラスとはいえ、十二分に呪術で強化された跳び蹴りの火力たるや惨憺たるものがある。重く格式のあるドアは襤褸雑巾のようにぶち壊れ、ロビーへと吹っ飛んで行った。

 ……なんでこうなるのさ?

 「ヒッキーと化したジキル氏に突撃するなら、カチコミするしかありませんから」

 何故か自慢げな玉藻の前。呆然とするマシュを他所に、リツカは特に動じた様子もなく屋敷の中を覗いている。むしろ扇動した側の人間に違いない。

 「結局こうなるんじゃねえか」

 「たまには押し入りも悪くないかなって」

 「野蛮過ぎません? 私、これでもお淑やかな良妻志望なのですけども」

 「随分武闘派な良妻ですね」

 「旦那様の危機とあらばフレアもかくやといった飛び蹴りでお助けする。それが良き妻の嗜みかと」

 「物凄い偏向のある思想を堂々と仰りますね、タマちゃんは」

 どかどかと入っていく3人。押し入り強盗だってこんな堂々としていないと思う。バイタリティ溢れる3人に、マシュはおどおどしながらついていった。自分はまだまだだ、と若干誤った人間観を抱きながら。

 紆余曲折はあったものの、とりあえず屋敷に入った感想は“静か”だ。物音ひとつせず、暗い沈黙が唖のように佇んでいる。気配もない。ただ、微かな刺激臭が漂っていた。その臭気はほんの僅かだというのに、何か気分が悪くなるものだ。

 恐らく、その場にいた全員がその刺激臭を感じ取っていただろう。閉口して、戸惑うようにロビーで躊躇していた。先へ、歩くのを。

 「ジキルさん」声を張り上げたのは、リツカだった「いらっしゃいますか」

 無論、帰ってきたのは沈黙だけだった。互いに顔を見合わせた4人は、しずしずと屋敷を探し回り始めた。

 とにかく、広かった。ゲストルームはいくつもあり、ダイニングも広い。というか何もかも広い。元は研究者で、且つ研究棟に缶詰になる学生や弟子を預かってもいたというジキル氏の屋敷は、そういった人たちが一時暮らす場所でもあったのだろう。とても立派なことだが、何せ広いので時間がかかる。使用人用の倉庫やら何やら調べ尽くして、結局得た結論は、こちらの屋敷には居ない、ということだ。

 「やっぱり変だな」

 念のため、とキッチンを調べ終わった後、金時は難しい顔をしていた。見下ろす流し台には、数日前に使ったと思しき食器が雑然と積み重なっている。皿の上の残渣物は変色し、どうやら動物性たんぱく質であることだけがかろうじて伺い知れてる。ぶよぶよになった茶褐色のゼリーは、レタスだろうか。

 「これ、刑事ドラマだともうジキル様はお死にになっていらっしゃいますよねぇ?」

 鼻を摘まんでシンクを見下ろす玉藻の前。出自と自らの形質もあるのだろうか、目の前の腐臭に素朴な不快感を示している。かく言うマシュも、吐き気を感じさせる臭気に閉口したが、先ほどから屋敷全体を漂う刺激臭とは、違う。

 「どう見ても、良からぬことにはなってそうだね」

 リツカはあまり、表情変化なくその光景を眺めている。元々粗雑な人間なので、多分も気にしないのだと思う。なんというか、彼女の個室の汚さはこれに近しい。

 結局、居住スペースには何もない、と結論付けると、腐臭漂うキッチンを足早に後にした。

 向かうは研究棟。ヘンリー・ジキルの屋敷の裏手に増設された別棟は、中庭を挟んで向かいにある。ピロティを隔てた先に鎮座する研究棟の見取り図は、網膜投影されたマップを切り替えれば表示される。1階は講堂が2部屋あり、2階にはかつて有力な弟子のために設えられた研究室がちらほら。その中にジキルの書斎もある。マップによれば書斎の広さは20㎡ほどと、ちょっとした談話室を思わせる。あるいは、事実そう機能していたか。そうしてだだっ広い地下室があることが、マップからは読み取れる。生体反応を示す光点はない。

 「どうします? 2手に分かれます?」

 「いや」玉藻の前に、リツカは首を横に振った。「今は、そんなに急いでないから」

 「では2階から?」

 「そうしよう。いるなら、もう死体になってると思うけど」

 さらりと言いながら、リツカは研究棟のドアを蹴り壊して侵入した。けたたましい音をたてて弾け飛ぶ木片は気にも留めず、彼女は睨むように周囲を見回していた。

 誰も居ないがらんどう。湿度の高い静寂が漂う空間。机の上に薄く積もった埃から、長らく使われていないことが伺い知れる。講壇の背後に大きく掲げられたブラックボードの下に積もった粉末は、書き散らしたチョークの破片だろうか。講壇の上には、長いチョークが数本散らばっている。まだ出したばかりと思しい。1つは突端がすり減っているが、残る数本は新品同然だ。地面には砕けているものもあるが、どれも真新しい白亜を閃かせている。

 「こんなの、前には無かった気がするんですけど」

 不可解、というように、玉藻の前が黒板を見上げる。びっしりと描かれていたはずの白い文字や記号はすっかり黒板消しに吹き散らされ、ただ白い粉になって黒い板にへばりついている。端の方に、僅かに消しきれなかった文字や数字を僅かに認めるだけだ。

 玉藻の声には応えず、リツカは僅かに残った文字を見ていた。マシュもそれに倣ってみたが、たかだか数文字程度では、何が書いてあったのかは不明だった。かろうじて、何か数式のようなものだろうか、と見当がついただけだった。

微かに小首を傾げてから、「行こっか」

 隣の講堂も似たようなものだった。古寂びたがらんどうは長年使われた形跡がなく、こちらは人の出入りの痕跡すらない。早々に見切りをつけると、次は2階へ。行動を隔てた向こうの階段を上がると部屋は3室。手前の2室はもぬけの殻で、ドアの小窓から中を覗く限り、こちらも人の出入りは感じない。

 一番奥が、ヘンリー・ジキルの書斎のはずだ。赤い粗ラシャで設えられた品のいい作りのドアも、静脈血を思わせる赤さに思えた。

 マップに生体反応はない。4人して顔を見合わせて状況を理解すると、玉藻の前は遠慮なく宙を跳ねた。

 緩やかな巫女衣装から繰り出されるドロップキック。両足の打撃が、(シン)とした静けさごとドアを粉砕した。

 勢い、飛びこむ2人。金時は鉞ではなく腰の太刀に手をかけ、マシュも鞘に収まった剣の柄に手をかける。

 はたして死体か何かを期待したマシュは、猪突の気勢をすかされたようにたじろいだ。何せ何もない。20㎡の広い書斎は、他の部屋と変わらない静けさを、

 「何かな、あれ」

 異変に気付いたのは、マシュの肩越しに部屋を覗き込んだリツカだった。マシュより背が低いせいで、肩に手をかけて背伸びをしながら部屋を見回している。

 リツカが肩越しに指さす先に、視線を添わせる。場所は部屋の中央、床。カーペットの敷かれた床の上に、何かが散らばっている。青緑色の膿のような、何か。その何かが脳漿のように見えたのは、気まぐれだろうか?

 「コマンドポスト、SG及びBSリーダー、こちらSSリーダー。書斎に到着したがジキル氏の姿を認めず。部屋も荒らされた形式は見られない」

 (こちらコマンドポスト、となると地下研究室かな?)

 (地下には走査範囲が届きにくい。生体反応の有無は不明)

 (あ、えーと。了解)

 念話でやり取りしながら、リツカは部屋の中央へと足を向ける。妙な色のヘドロの近くまで近寄ると、膝を曲げてまじまじと眺め始めた。

 「タマちゃん?」

 「うーんちょっとわかりませんねえ。リツカ様も?」

 「なんだろうね。伝承科(ブリシサン)にいたころ研究室で見たことがあるような気もするけど」

 顔顰めて、床にぶちまけた何かを見下ろす玉藻の前。屋敷全体に漂う不気味な刺激臭の発生源は、どうやらこの奇妙な原形質めいた何からしい。口元を袖口で覆いながら、それでもリツカと同じようにその何かを観察していた。

 マシュはその姿を、後ろから眺めていた。今、マシュにできることはないし、またその役割でもないことは理解している。自分の役目は、端的に言えば戦闘単位なのだから。

 とは言え、マシュ・キリエライトは、フジマルリツカという存在者に対して、何事か貢献したいという想いが、どうにも強い。彼女自身も自覚している。それ故、マシュは周囲へ警戒を広げる意味も兼ね、部屋そのものの観察を始めることにした。

 部屋の構成は、モリアーティ教授に教わっていた通りだ。暖炉が一つ。壁にずらりと並ぶ古書は、宗教書や自然科学、特に化学の本が多いだろうか。例のヘドロの隣あたりに椅子とテーブルがセットで並んでいるところを見ると、談話室、という言葉が自然と想起される。テーブルの上にはコップが1つ。開いた薬包紙には、僅かに白い粉末が残っている。

 「先輩、これ」

 リツカが、顔を上げる。いつになく真面目そうな顔のリツカは、マシュが手にした薬包紙を一瞥すると、手を伸ばした。「ドクターに見てもらおうか」

 髪を差し出したマシュの手の指先とリツカの指先が触れあう。薬をウェストポーチから取り出したビニールのパックに仕舞い込み、付箋にボールペンで書きこむリツカの頭頂部からうなじを、たくさん眺める。「周り見てもらっていい?」と顔を挙げたリツカに、マシュは勢い頷いた。

 とは言え、部屋そのものはそう特筆したものではない。特徴があるとすれば、何故か書斎に置かれた大きな姿見か。部屋の隅に置かれた姿見は、ひび割れが稲妻のように走っている。床には欠けた硝子の破片が微かに散らばり、ちらちらと光っている。

 と、マシュはその姿見に移りこんだ書棚に目が映った。

 振り返る。そうして、その本を認める。やや高い位置に、押し込まれるようにして背表紙を見せる黒い本。薬学や化学の本が整然と並ぶ中、その黒い本のタイトルはどうしようもなく目を惹いた。

 手を伸ばす。やはり無理やりねじ込んだのか、引き出そうとすると他の本まで一緒にまろび出ようとする。慎重に周囲を抑えながらやっとのことで黒い本を抜き出すと、ぱたぱたと表紙を手で撫でた。

 

 ──“決戦術式-冠位英霊召喚の技術的転用の可能性と発展性について-Ⅱ”

 ──“著:マキリ・ゾォルケン”

 

 硬い紙の表紙を開く。数ページの修辞の後、目次のページが並ぶ。

 

 ・決戦術式の規模縮小

 ・想定エネルギーについての展望

 ・英霊の座への接続への技術的方法

 ・候補地

 

 

 なんで、こんなものがこの部屋にあるのだろう? 微かに浮かんだ疑問符。ヘンリー・ジキルが英霊召喚に関心を持っていた? いや、ありえないことではないが、それにしても何故?

 取り立てて言うべきなのかもわからず、ページをめくった時だった。

 繰る手が、止まる。古ぼけた本に挟まった真新しい紙を手に取る。色彩鮮やかなそれは、この部屋にあってなお異様だった。子供がクーピーで書きとったかのような絵が3枚。1枚は雪景色を書き取ったものだろうか。もう2枚も氷の世界は変わらない。ただ、牧歌的な村や氷の内に覗く草花が、鮮やかだ。最後の一枚は奇妙だ。天に漂う、巨大な何かを描いたものだろうか。なんとなく、気球のよう。

 そして、その全てに描かれた影のような人物。赤銅色の髪を揺らす小さな人影は、なんとなく、

 「先輩?」

 彼女に、似ていた。

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