fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
「ここで最後ですね」
繁華街裏手、広場の一画。
ヘンリー・ジキル邸の研究棟、1F講堂奥のドアの前で、マシュたちは最後の部屋の前に居た。
地下へと続く階段前のドア。南京錠は腐食し、床の上に転がっている。長い時間、誰も立ち入ることの無かった部屋であることが伺い知れる。
「ですが、これ自体は最近壊されたものみたいですね」
屈んで拾い上げた玉藻の前は、まじまじと掌の上で壊れた錠前を眺める。彼女から受け取ったリツカも指先に摘まんだそれを十分に検分すると、確かに、と頷いた。
「ってことは、此処にいる可能性が高いってことか?」
「ありそうだね」
ドアに手を振れるリツカ。軽くノックすると、軽い音が深く、底まで抜けていくようだ。
蝶番がドアの手前にあることを確認すると、リツカは背後の2人、金時とマシュを一瞥した。ドアノブに手を触れながら、軽く頷き一つ。互いに得物の柄に手をかけるのを確認するなり、リツカはドアを手前に明けながらドアの背後に滑り込む。柄を握る手に自然に力が入ったが、抜くことはなかった。ドアの向こうに、何かがいる気配がない。それでも握った力が抜けなかったのは、そのドアの向こうに続く空間の異様さに気圧されたからだった。
急角度で下がっていく石の階段は、妙に古い。近代的なフローリングの床を隔て、そこだけ人類史より遥か昔に設えられたかのよう。壁面には、鈍い暖色のランプが淡い光を溜息のように漏らしている。階段がおり切った先は薄暗く、僅かに朽ちた木のドアが伺い知れるだけだった。
微かな、それでいて硬い怖気。臓腑の内側、柔毛の隙間に産み付けられた卵が一斉に付加し、身体の中を両生類が這い回っているような感触。その感触はマシュだけでなく、並んでその地下への道を見下ろした金時も味わっているらしい。張りと艶のある血色の善い顔は、この時ばかりは幾ばくか蒼褪めている。
怨霊の類とも違う、と玉藻の前。顰めた顔を金時の脇から出しながら、不快な表情を隠しもしない。リツカも表情自体は変わらないが、僅かにバイタルデータが変動するのをマシュは見とめた。
何か根拠があるわけでもなく、それでもマシュははっきりと自覚した。ここが本命である、という直観が眼球の底で明滅する。顔を見合わせた4人ともがその直観を得たらしく、視線を合わせて、無言のまま頷きあった。
「マシュ、先頭に。金時君は最後尾に。タマちゃん、私の傍いて」
見下ろしながら、リツカは素早く指示を出した。ギリギリ、通路は盾を展開できる広さである。了解、と力強く首肯して、マシュは石の階段、一段目を降りた。
ざり、と靴底が砂粒を咬む。ほんの微細な揺れが、背筋を駆け上っていく。奥歯で振動を噛み殺し、マシュは背後にマスターの存在を感じながら、階段を下る。
「こちらSSリーダー、これより研究棟地下に侵入する」
(SG了解)無線の男の声は、少しだけ聞き取りにくい。(中継器の敷設を忘れるな。地下での連絡は取りにくい)
「了解」
耳道に響く声を聴きながら、一段、二段と下っていく。妙な重圧を首すじに背負いながら、マシュは背後から聞こえるリツカの吐息に歯を噛みしめる。じんわりと胸郭に広がる淡い呼気を感じ、マシュは足取り確かに、石段の感触を踏みしめる。
ゆらゆら、と祭事の踊りのようにランプが揺れる。不定の怪物が乱痴気騒ぎを起こすようにゆらゆら、ゆらゆら。ざらざらと神経が苛立つような気分のまま、マシュは、古い木質のドアの前に立った。
ところどころ朽ちているのか、床面にはぼろぼろと崩れた木片が散らばっている。蝶番は外れかかり、金メッキがはがれた銅のドアノブは黒々とくすんでいる。僅かに啓いたドアの隙間からは、ただただ闇暗がこちらを覗いていた。
ドアは空いている。鍵の類はかかっていない、ということだ。背後を振り返ると、石段が一段上にいるリツカが、無言のまま両手を前に押し出す仕草をしていた。マシュも小さく首肯すると、重い盾を正面に構えた。
両ひざを下げ、力を腰に溜める。えい、と掛け声を内心に響かせ、マシュは盾ごと扉に突進した。
サーヴァントの膂力を推力にしたタックルの威力たるや、古い立て付けのドアなど木っ端も同然だった。真ん中から拉げて折れて微塵と化したドアの内、蝶番がほぼ外れていたドアは毬のように吹き飛んでいく。真ん中から下のほう、まだ蝶番がしっかりしていた方は、番の可動域限界まで開いてから、金属部分が折れて鈍い音をたてた。
騒音冷めやらぬまま、マシュは盾の内から中を覗いた。
広い地下室だった。カルデアの地下3階にある短水路プールほどはあろうか。だだっ広い空間は、研究棟だけでなく、屋敷の地下にまで広がっている。壁の周囲にはやはりあの暖色のランプが明滅しており、妙に視界が開けている。
壁一面の書棚にびっしりと並ぶ本。
本。
本。
ある意味で書斎に近しいが、蔵書の種類はがらりと変わる。こちらは宗教書や古代の哲学書、魔導書などが陰鬱な背表紙をしっかり並べている。さらに小瓶に入った薬品らしきものが硝子棚に並び、妖しい色彩を放っていた。
ぐるりと視界を回したマシュは、部屋の中央、テーブルと椅子のセットの傍に何かが横たわっているのを認めた。丁度ランプの灯が届かない陰になっており、上手く見れない。盾裏のポーチから携帯用ライトを取り出したマシュは、ゴムカバーのされたスイッチを押し込み、鮮烈な光が蒙を啓いた。
そうして、マシュはゲロを盛大に吐いた。胃に溜まっていたものを一挙に全部吐き出して飽き足らず、胃液やら何やらまでも枯れるほどに吐いた。胃が咽頭を焼く苦しみに、思わず目元に滴が滲む。半ば痙攣しながら口腔内に拡がる酸性の吐物に再び嘔気を催す無限ループに巻き込まれながら、マシュは今しがた目に入った光景が瞼の裏にぼんやりを浮かぶのを感じた。
こんな悪意に満ちたものは見たことがなかったのだ。これまで凄惨な遺体や傷は目にしてきて、それは悲惨なことだったけれど、戦いの結果生み出された末路のようなものだから、まだ理解可能だったのだ。だがそれは違う。そこに転がっていたものは、そうしたものではない。
唾液と吐物が混交したものを口一杯に広げながら、マシュは恐る恐る瞼を開けて、そいつを正視した。
端的に言えば、そこで人が死んでいた。問題はその死に方である。
首から下だけの死体のちょうど胸元あたりに、胴から千切られた生首が丁寧に置かれていた。凄まじい力でもぎ取られたらしい。刃物でずたずたにされているせいで表情は一切読み取れないが、かろうじて零れず残った左目には恐怖と狂気が満ち満ちている。そんな猟奇的な死体だというのに、何故か血は一滴も零れていなかった。代わりにというべきかやはりと言うべきか、妙な刺激臭を放つ脳漿のような、膿のような奇妙な原形質じみたものが遺体から床にまで、広範に撒き散らされている。
「なんだろうね、これ」
げーげー嘔吐するマシュを他所に、ごく自然に近寄ると、リツカは屈んでその様子を眺めている。「というかこれ、ジキルさんなの?」
「確か左わき腹にホクロがあったかと」
そういう玉藻の前は流石に近寄りがたいのか、口元を袖で覆って険しい顔をしている。なるほど、と頷いたリツカは、念のため、とディスポ手袋をウェストポーチから取り出し装着。ぐい、と死体の左腕を持ち上げた。
「あるね」覗き込みながら一言。「まだ硬い。ちょっと解け始めかな」
「大分経ってる、ってことですね」
そう、と相槌を打ちながら、リツカは無線に声をかけた。「こちらSSリーダー。遺体を発見した。損壊の程度が酷く判別が難しいが、身体的特徴からジキル氏と考えられる。これより室内の調査を行う」
(SG了解、慎重にやってくれ)
やはり、ざらざらとした男の声が耳朶を打つ。中継器は地下入り口に敷設したはずだが、それでも感度は悪いらしい。
「うーん、しかし探偵じゃないんだけどな私は。鑑識の知識とか流石にない」
一旦立ち上がったリツカは、平静な素振りで死体を見下ろしている。実際平静らしく、彼女のバイタルデータには顕著な変化はない。金時に背中を摩られながら、マシュはようやく呼吸を落ち着かせ始めていた。
「大丈夫?」
上半身だけを逸らして、リツカが言う。はい、としっかり応えるマシュに満足したように、リツカは死体に視線を戻した。
「どうやって死んだのか、いつ死んだのか、この緑っぽいのはなんなのか。わからないことだらけだけど」
「あの犬っころがやった可能性は高そうだな」
しゃがんだ金時の声に、リツカも同意するように身動ぎする。恐る恐るリツカの肩越しに死体を見下ろしたマシュの目に飛び込んだのは、オブジェのように胴体の上に置かれた傷だらけの生首だった。
「この傷痕は獣とか、化け物がやったものだ。人間でここまでやれるのはそう居ない」
いつになく、金時は真面目な表情だ。断言はできないがな、と続ける口ぶりも、どこか理知的な識者を思わせる。
「マシュ様」
死体を検分するリツカと金時の傍で、玉藻の前が手招きする。テーブルの上に無造作に置かれた本を指さしているようだ。そそくさと逃げるように死体から離れると、マシュは玉藻の前が手に取った本を覗き込んだ。
「何の本だかわかります?」
汚物でも触るように、本を摘まみ上げる玉藻の前。マシュは持ち上げられた本の表紙の文字を、食い入るように見つめた。
……『秘密を見守る者たち』
それが、その著書のタイトルだった。
タイトルを読み上げながら、マシュは、ぱらぱらとページをめくった。
“もしわれわれの知る生命と並行して、われわれの生命を破滅させる要素を持たず、死ぬことのないべつの生命があるとしたらどうだろう。おそらく異次元にはわれわれの生命を生み出したのとはちがう力が存在するのだ──それは奇怪な湾曲、驚くべき角度を過って動いていた。いつの日か、わたしは時間を旅して、それと顔をつきあわせるだろう”
H・チャーマーズ。それが筆者の名前だ。小冊子、と言うべき小さく薄い本は、その他は絵空事というか少々気を違えてる文章が延々と続いている。
「なんでしょう、小説でしょうか」
「ですかねえ。宗教書や神秘書というにはちょっと突飛が過ぎますし」
取るに足らない妄言を書き連ねた冊子を、マシュは何故か重要な何かに思い、シールド裏のポーチに押し込んだ。次いで手に取ったのは、キリスト教神秘主義に関するドイツ語の本らしいが、どのページもセンテンスの上から冒涜的な言葉がぐちゃぐちゃと書きなぐられていて、ほぼ判読できそうもない。
「あら」
同じように宗教書を開いていた玉藻の前は、ページの間から滑り落ちた黄ばんだ紙を拾い上げた。
“私はとんでもないものを見てしまった。あれはなんとしても止めねばならない。ソーホーの別邸にある資料を渡さなければ”
裏面を見ると、やはり何かの数式が慌てて記されている。綺麗な理路整然とした書き味は、自然とヘンリー・ジキルという紳士の佇まいを思わせる。
「うーん」
メモ紙らしきものを一瞥しながら、玉藻の前はちょっと首を捻っていた。何か違和感がある、と小さく呟きながらも、玉藻の前自身もその違和感の正体を理解できていない様子だった。
「ソーホーにジキルさんのお家があるって、聞いたことないんですけど」
「ハイドに変身した際に使用する借り上げの住居があったと思います」
へえ、と感心したように玉藻の前。勉強の成果がでたことを内心で喜びながら、流石にそれを表出するのは憚られるマシュだった。
不意に、しゃがんで死体を見ていたリツカが立ち上がった。死体を跨ぐように一目散に歩いていくと、広い本棚の前で立ち止まった。
迷いなく延びていく手。探るように差し出された手は、本棚の一画の空間を掠めた。
空間。そう、そこには奇妙な空間が空いていた。びっちりと隙間なく本が並ぶ棚のど真ん中に、ぽっかりと本を抜き取った形跡がある。
抜き取られた空の本棚を、指で撫でる。ふむ、と思案気に呟いてから、「そこの本、ジャンルは」
「宗教書です。信仰心に厚いお方でしたから」
「あと空想小説、のようなものが」
「空想小説」
マシュの言葉を耳朶に、リツカは小さく食いついた。抜き出された箇所の周囲の本を何冊か手に取って、タイトルを一読しては戻しながら、いつになく思案気な顔だった。
「Why done it」
「なんだ?」
「魔術的事件の場合、本質は動機にあるってことらしいよ」
頭に疑問符を浮かべる金時に対し、実はリツカも「さっぱりわからん」と言いたいように肩を竦めた。
「ただ、当初の目標は一応達成されたわけだね」
「死んじゃってますけども」
「一応ね、一応」
眉を寄せて、リツカは床に転がるオブジェを見下ろす。胴体の上に丁寧に置かれた生首は、却ってこのオブジェの猟奇性を際立たせているように見える。
「それに、あの人狼もどきがやはり事件の鍵を握ってるらしい、ってのもわかったことだし」
「先輩、それならこの」
さっき玉藻の前が見つけたメモをポーチから取り出しかけたところで、全く不意に、鈍い打撃音じみた音が響いた。
ぎょっとしながら、咄嗟に盾を構えたのは鍛錬の賜物か。リツカを背にしつつ音の方向を見たマシュは、けれどすぐに安堵した。
なんのことはない。さっき破壊したドアの内、まだ蝶番にひっかかっていたドアが脱落したのだ。埃を巻き上げながら地面に落ちたドアは、真っ二つに裂けて、
「タマちゃん!」
「ビンゴ! 呪層・黒天洞!」
影が擦過した。