fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
坂田金時は平素、屋敷の外で過ごしている。山育ちの彼にとって、近代的な屋敷での生活は、ちょっと肩身が狭く感じるのだ。幸い、この固有結界は屋敷を中心に、割に広く広がっている。遠くに行けばいくほど森林と霧が濃くなり、ある一定の場所まで行くと屋敷の玄関前に強制的に移動させられるが、そこまで行くのには山と野に育った金時ですら苦慮するほどである。1人、飄々と野に寝起きするには十分すぎる広さがある。
要するに、金時はあんまり大人数で居るのを好まないのである。隠遁を好むほど厭世的ではないが、大人数の中で黄色い声に囲まれることを好む道化気質でもない。時に人の世にあり、時に野に生きる。そのくらいが、彼には丁度いい。
「つまり、この嬢ちゃんは頼光サンと酒呑を倒したってわけだ」
丸太をベンチ代わりに座るクロは、そうね、と地面に寝転がる白髪の少女を見下ろす。マシュ・キリエライトは、寝袋にすっぽり入って、すやすやと小さく寝息を立てている。
「そっか。坂田金時、と言えば頼光四天王の1人」
「あんま四天王、ってのは慣れないけどな」
気の抜けたように言いながら、金時は丸太から立ち上がる。円形に配された丸太の中央部、焚火に炙るように吊るした鉄瓶を取ると、そろそろと湯飲みに注ぐ。お湯にふやかされるなり、湯飲みに入れたティーパックから濁り気味の液体が爽やかな香りとともに沸き上がった。
「未来だと、こんな茶があるんだな」ふうふう湯飲みの縁を吹いてみる。「いい香りだ」
「そうね、みんな普通に飲めるし」
「未来ってのは良い時代だ。お偉いさんしか飲めなかったぜ」
そろそろかな、と見計らい、湯飲みを呷る。じんわりと口腔から食道へ、そうして胃へと温かい液体が通っていく。自然と気が和らぐのは、果たしてこの「煎茶」なるものが日本人に本質的に合っているからなのかなんなのかは、ちょっとわからない。わからないが、悪くないな、と思った。少なからず、アリスの屋敷で飲む紅茶よりも好きだな、と思った。
「アンタは何呑んでるんだ?」
「インスタントコーヒー」ステンレスカップの縁にドリップバッグをひっかけ、クロはちょろちょろとお湯を注いでいる。小難しそうに、眉間に皺を寄せている。「アナタにはあんまり合わないかもね。ニガイし」
「どういうことだよ?」
「オトナの味ってこと」
つんと澄ましたようにしながら、ちょっとからかい気味に笑みを浮かべるクロ。傍目にはどう見ても金時の方が年上に見えるのだが、サーヴァントに外見年齢を言っても詮のないことである。それに、自分の精神構造が素直であることを、彼はそれなりに自覚していた。
「頼光さん、強かったわよ。なんでそれ回避できるの? って感じだった。オルレアンで戦ったランスロットもヤバって思ったケド」
「それを倒したんだから大したもんだよ、マシュは」
三角錐状のパックから沁みだす煎茶を啜りながら、金時は、未だに寝袋ですやすやするマシュを感心して見下ろした。
野に育った金時を、武士として引き入れたのは源頼光その人だ。親として、厳しく、また優しく育ててくれた彼女には感謝してもしきれぬものがある。そう簡単に言い尽くせない親子関係だが、そこに暖かな感情があるのは間違いない。
「酒呑はどうだったよ。おっかないヤツだったろ」
「んー、どうかな。私はあんまり戦わなかったから。でもジークフリートのバルムンク、圧し折ったって言ってたかな……」
「あー」
腕組みして、灰色になった薄曇りの空を仰ぐ。「あー」の意味は昔を顧みて、しみじみした際に漏れた声だ。
英霊の座においても、有名な英霊の知識は多く知れ渡るものである。ジークフリートと言えば、それこそギリシャ神話のヘラクレスとまではいかずとも、アーサー王物語の騎士王以上には知名度があると言えよう。そんな大英雄が振るう名剣を圧し折るなんて、正直与太話もいいところだ。だが、酒呑童子なら、そんなおとぎ話めいたこともやってしまうだろう。遊び半分で、それに全力で。
「マシュは『負けない』、って気持ちさえしっかりあれば誰にも負けないわ。それは間違いない」
ぽたぽた、とこげ茶色の液体が滴るのを頬杖ついて眺めるクロ。つまらなそうな表情を見ていると、「何が大人の味なんだ?」と言いたくなるというものである。最も、言わないけれど。
「でも、ちょっと気になることがあって」
「おう、なんだ?」
「マシュは、リツカが居ないと頑張れないのよ」
ちょっとだけ、クロは言いにくそうに顔を顰めた。寝息を立てるマシュを、見やる視線は、平易に言って、優し気だ。
「リツカの背を追おう、って気持ちがあるから精神を奮い立たせられる。時間制御しちゃうくらい、頑張っちゃう。そんなこの子の純粋さが、ちょっと怖いのよ」
淡々と、静かに喋るクロの口調は、一見して酷く冷静さを感じさせる。だが、そうではない。深い呼気。伏し目がちな眼差し。両の頬杖をついたまま微動だにしない静謐な在り方。己の母親の姿がこの小さな少女に重なったのは、恐らく無関係ではない。それと、自分にも。
金時は、ほんの少しだけ、にがっぽい気分になった。眼球の底で疼いた酒呑童子の表情に、指先が痙攣する。
「自分の意思で善きことをしよう、って選んでるならいいんだけど」
「アンタ、良い奴だな」
「茶化さないでよ」
「茶化してねえさ」ぐい、と茶を一飲み。ようやっとコップにコーヒーがたまったらしく、クロもバッグをビニール袋に包むと、しずしずとドリップコーヒーを口にする。「他人を心配できるヤツってのは、良い奴だろ?」
「案外、マシュはちゃんとわかってるのかもしれないぜ? 無自覚なだけでな」
「そうかしら」コーヒーを口にしたクロは、ちょっと渋面だ。
「案外、子どもってのはよくわかってるもんだ。親が何考えてるとか、世の中の善し悪しとかな」
押し黙り、ちびりちびりとコーヒーを嗜むクロ。にがっぽい顔は変わらず、きつく寄せた眉は、眉同士が何か相談しているように見える。釈然としない表情は変わらず、だから、金時も独り言みたいに続けた。
「ただ、初心だけで戦い続けられるかって言ったら、微妙だよな。俺っちたちは、おとぎ話の登場人物じゃあねえんだ。精神を奮い立たせられる何かを、もっと自覚した方が良いってのは、あるかもな」
言い切ってから、金時は一息に残った茶を飲み干した。既に冷め始めたお茶は、若干苦みが強い。似合わないことはするものではない、と思った。苦い顔のまま、金時は再び鉄瓶から使い古しのティーパックのまま湯を注いだ。
「あれ」
「おはよう、マシュ」
「はい、クロさん」ふわ、と大きなあくびを一つ、小さくあくびをもう一つ。もぞもぞと寝袋から這い出したマシュは、不安そうに周囲を見回した。「金時さんも、おはようございます」
どうした、と言いつつ、金時も周囲を見やる。特に変わり映えのない、静かな森が横たわっている。
いえ、と口ごもったマシュは、そのまま寝袋の上に、ちょこなんと座り込む。寝ぼけ眼を手で擦ると、ぽかんとしたまま周囲を見回した。
「うわ!?」
「なんだなんだ」
「いや、だってもう10時!」
素っ頓狂な奇声をあげながら、マシュは慌てて寝袋から這い出してきた。慌ててるもんだから完全に脱しきれず、半人半蛇の化け物みたいになっていた。そんな状態で慌てているのだから、つんのめって情けなく倒れるのは当たり前でもあった。もす、という鈍い音は、衝撃音を寝袋が 吸収したが故か。眼鏡をしていなかったのは不幸中の幸いだが、おでこを赤くして起き上がったマシュの顔は、泣きだしそうにふにゃふにゃだった。
「10時ね」ステンレスマグカップを口にしつつ、クロはわざとらしく不機嫌そうな顔をする。「マシュの代わりに2時間も付き合わされたのよ、チャンバラ」
「よく言うぜ。あのあんちゃんと考えた闘い方を試したい、って言ったのはアンタだろ?」
「こんなにガチンコでやるなんて聞いてない」
むすっとするクロ。余裕そうな朗らかな笑みを浮かべた金時は、ほれ、と湯飲みを差し出す。横たわったまま、マシュはぽこぽこ音を立てて鉄瓶から注がれる熱湯をぽかんとしながら眺めていた。
「今は休憩中。今日は軽めだから、これで終わりだ」
そろそろと寝袋から這い出すと、マシュは失望したように湯飲みを手に取った。無論、失望とは他者に向けたものではなく、自分の堕落に向けたものであろう。
「でも珍しいわね。マシュがお寝坊さんなんて」
「そうなのか?」
「たまには、じっくり休んだ方が良いのよ。防御したとはいえ。宝具を受けたわけだし」
はいこれ、とクロがチョコ菓子を差し出す。渋々に受け取ると、マシュは困惑するように視線を彷徨わせた。
金時が、視線を挙げる。クロが半瞬早く金時と視線を合わせると、やはり彼女の方が僅かに早く「どうしたの?」とマシュと視線も併せずに言った。
「いえ、その。夢を」
言いにくそうにしながら声を絞り出すと、マシュは粘着質の嘆息を吐いた。よく見れば、額に浮かんでいるのは脂汗か?
一転、クロは丸太から立ち上がると、マシュの目の前にしゃがんだ。どんな夢、と無言で問う眼差しに、幾分か気圧されながらも、マシュは「暖かい、夢でした」
「印象論がかなり強い夢です。物凄く大勢の人に囲まれて、それで生暖かい感触に包まれているのに妙に悪寒がするような。安らかなのに、その安らかさがとても孤独なような。とても、暗い夢でした」
言って、マシュは空を見上げた。固有結界内部の太陽は、あくまで心象に過ぎない。そんな太陽をまぶし気に見上げる彼女の顔は、何かに怯えているよう。
立ち上がったクロは、思案気に眉を寄せた。夢、などと聞くと何やら胡散臭さが漂うが、魔術世界において、夢は様々な意味を持つ、人間の内の未踏の地として重要な立ち位置を占めてきた。時に、形而上学的な存在者と巡り合う場所ですらある夢なるものに、金時も強く心当たりがある。
「調子が悪いところある?」
「いえ、特には」
「バイタルに問題はないし。とりあえず様子見で良いと思う」
それでも、夢が学問上大きな位置を占めてこなかった理由は玉石混交が甚だしいことによる。要するに、肝要な意味を持つ夢と、そうでない夢を判別する手段が確立していないため、魔術的意味があるかないか不明なのだ。中には精神分析を取り込もうとした学派もあるが、あくまで傍流の中の傍流という域を出ない。
つまるところ、クロも無難に“保留”という判断を下さざるを得なかった。
「リツカには報告しておいて。ロマンには私から」
「はい、すみません」
「そんなに急がなくていいから。今はとりあえず休んでなさい」
立ち上がりかけるマシュを制して、クロは呑気そうにコーヒーを飲んでいる。もう一度同じ言葉を繰り返すと、マシュは寝袋の上にぺたんと座り込んだ。
──曰く、マシュ・キリエライトは現実に生きる生身の肉体に、サーヴァントを憑依させた特異なサーヴァントであるという。今を生きるサーヴァント、というわけだ。基本的にステータス上成長が止まっているサーヴァントに対し、彼女はまだ、これから成長していくのだろう。さながら、クロは師匠というところか。見た目は幼い少女然としているが、目端は効くし腕もいいのだから、適任ではあるのだろう。
忸怩たる表情のマシュは、やはり沈んだ表情である。あの瞬間、ヘンリー・ジキルの屋敷で敵に襲われた際のあの瞬間が、それだけショックだったのだろう。何せ、正体不明の敵はマスターであるリツカではなく、いの一番にマシュを狙い、マシュも宝具を発動しこそすれ、その威力の大半は玉藻の前の呪術によって減殺させたのだから。盾のサーヴァントにとって、これほど不名誉なことはない。
金時は、座ったまま、空を仰いだ。厄介なことになりそうだな、と思った。ぱち、と炭が弾け、火種が焦れるように飛び出した。
※
「リツカ君の方は、流石に情報の量は多いね」
空中投影された映像ディスプレイへの感想に対し、リツカはさして満足している様子はなかった。
デブリーフィングの再開とともに、リツカはまず、ジキル邸で得てきた有用と思しき情報をとりあえずずらりと並べた形だ。情報の種類は映像・画像データに加え、書斎で発見した薬品やら書斎など、種類・量は多岐にわたる。元からそちらが本命と理解していても、ちょっとへこむトウマであった。
「まず、ジキル君を始末した犯人についてだが」
モリアーティが言うと、空中投影されるディスプレイの1つが拡大された。地下室で発見された、屋敷の主の遺骸だ。猟奇的、としか言いようのないその死体の有り様に対して、トウマは思いのほか耐えられた。凄惨なものに見慣れてしまったからだろうか。それとも、あくまで画像データだからだろうか。とは言え、流石にまじまじと見つめる気は起きなかった。
「最初に言うけど」右側頭部に結んだ髪の房を指に絡ませながら、リツカは気難しそうな顔で言う。「現時点では、あの人狼ないしそれに類似するものによって殺害されたと考えてる」
「根拠は2つ。まずこの遺体の頸部切断痕について。切断面の画像データをカルデアの法医学科に解析してもらったけど、鋭利な刀剣の類で切断したものじゃなくて、動物の牙や爪などによって引き千切ったものに近しい、って報告だった。金時君の見立て通りだね。
2つめはこの、遺体及び書斎に残っていた粘性の物質。こちらの物質から採取された染色体の解析は今現在カルデアで行っている最中だから、正確なところはまだ不明。でも、現時点での報告だと、幻想種のものに類似しているって言ってた。
以上2点から、恐らくあの人狼ないしそれに類似する生物の仕業ではないか、ってところかな。そちらで4日前に発見された斬殺死体の損傷痕とも一致するしね」
「保留付きなのは、新たに現れた敵の可能性を捨てきれない、というところカナ?」
「そうだね。何せ、その敵の正体が一切不明だし」
珍しく煮え切らないように、リツカは顔を顰めた。
彼女らしからぬ曖昧な表現をされた“敵”こそ、新たに増えた悩みの種だった。ヘンリー・ジキルの屋敷の探索中に全く不意に襲ってきた敵に対し、ほぼ満足いくレベルで応戦・撃退したものの、戦いが終わってみれば誰も記憶になく、また戦闘服の記録にすら残っていなかったのである。しかも、リツカたちの班とは通信途絶していたはずなのに、彼女たちは彼女たちで普通に連絡をとっていたというのだから、なおのこと謎は深まるばかりである。
「記憶抹消に通信傍受、妨害。それと、タマちゃんにはアサシンを警戒してもらってて上手く迎撃できたから、アサシンないし気配遮断に類する何か。これが、今のところ判明してる敵の能力、ってところかな。それと、タマちゃん曰く、敵は怨霊に近い反英雄のようなもの、って言ってたかな。あの屋敷に潜んでたわけだし、こちらの可能性もあるんじゃないかなって感じ。あと、対毒術式が起動してる記録がBDUにあった。通信阻害のタイミングとほぼ同時だったから、こっちも関係あるかも」
何もわからなかったよ、と肩を竦めるリツカ。飄々としているはずの表情が、いつになく不愉快そうにかしこまっている。彼女は基本的に自分を無能だと思っているが、実際無能を曝すのはそれはそれで不愉快らしい。
とは言え、トウマからすれば、その劣悪な条件から可能な限り敵の情報を引き出している彼女は、やっぱり凄いと思うのである。自分だったら、多分、こんがらがって何もわからないままであろう。
そして何より、リツカの引き出してきた情報は、答えに辿り着くに十分過ぎた。
情報抹消スキルに通信妨害。さらにはアサシンと思われる気配遮断。そこから導き出される答えは、即ち、
「それ、ジャック・ザ・リッパーだと思うよ。だから、ジキル氏殺害の犯人は別なんじゃあないかなあ」
虚を突かれたように、トウマはソファにもたれかかる老人を見やった。白髪白髭の男は難しいことを考えるように顔を強張らせ、右手の人差し指で右のこめかみを摩りながら言った。
「合理的推論によるものではなく、経験的事実をもとにした推測でしかないんだけどね。切り裂きジャックとは数多の追跡の手を振り切って行方をくらませた、正体不明無形のサイコキラーの通称であって本名ではない。アサシンに近しい在り方をし、そういったスキルを有するサーヴァントとして召喚される、という妄想はとりあえず無理のあるものではないと思わないかい?」
相変わらず思考を続けながら、モリアーティは特に取るに足らない話でもするみたいに言う。呆気にとられるトウマを他所に、リツカも難しい顔をしている。アリスは相変わらず、澄ました表情のまま静かに座り込んでいる
「ジャックちゃんか。確かにアサシンとして優秀だったけど」
訝るような顔のリツカ。モリアーティの言葉に高い蓋然性を感じていない、というところだろう。モリアーティもその自覚はあるらしく、気楽そうに肩を竦めた。
「無論、今のはただの妄想に近い。重要なのは経験的事実で、それは即ち、私は切り裂きジャックの事件を首謀してたからまあ色々わかるって感じなんだよね」
さも当然、というようにモリアーティはさらさらと言う。歴史的にとんでもないことを暴露している気がするのだが、気のせいだろうか。いや、気のせいではない。リツカも目を丸くしてから、気分悪そうに嘆息を吐いた。
「理性と良識がない人は人であれ神であれ、あまり好きではないんだけどねぇ」
「誉められたと思っておこう。悪は理性と良識を踏みにじってこそだからね」
陰鬱に嘆息を吐くリツカ。あくまで爽やかに肩を竦めるモリアーティに、悪びれるところは一切ない。まぁいいや、と言うように苦笑いしたリツカは、髪をかき回しながら、もう一度嘆息を吐いた。
「正確には、当時私が主導していた、いくつか別々な事件があってね。貧民街の浮浪児を育て上げた殺し屋に、手術だけでは愉悦が満たされなくなった三流の医者。そういった輩を使嗾して、ちょっとばかり殺人事件をおこさせていたところだったんだがね」
そこまで言ってから、モリアーティは一転して不機嫌そうに顔を顰めた。
「いつの間にか、全部、『切り裂きジャック』とかいうシリアルキラーが起こした殺人事件扱いにされててね。しかも、その中には私が全然与り知らない事件まで含まれてるときた。正直、困ったものだよ。たまったもんじゃないですよ?」
憤懣やるかたない、と鼻息荒く口にしてから、モリアーティは不快そうに胸元に手を入れた。途端、ぎろりとアリスの視線が嗜めるようにモリアーティを一瞥した。視線に気づいたモリアーティは、おっと、と肩を竦めた。「煙草はダメだったね」
「『切り裂きジャック』は所詮、いくつかの殺人犯を雑にひとまとめにした低能な抽象物にすぎないのさ。それがサーヴァントとして召喚される、ってことは私には度し難い。もし召喚されることがあるなら、その『切り裂きジャック』とかいう抽象物の総体か、それか私が関わらず……また、私の捜索網を以てしても“亡霊”とかいう訳の分からん答えしか出なかった『本物』しかないのではないか、と思っていてね。ちょうど、今聞いた話はそれを強く思い起こさせたのだよ」
じろり、虚空を睨みつける。壮年の面持ちに浮かぶ鋭利な眼差しは、今まさに得物を撃たんとする猟銃の銃口を想起させる。冷たく、どこまでも黒々とした金属質の銃口の質感とモリアーティの眼光が重なり、トウマは睨まれていないにも関わらず肌を粟立てた。つい先日、冗談交じりにラスボスだのなんだのと言ったことが思い起こされる。この老人が、ただ頭のいい老人ではないことを、改めて思い知らされるようだった。
しかも、その思考の鋭さたるや、舌を巻くほかない。
ジャック・ザ・リッパーがサーヴァントとして召喚される事例は、トウマが知るに2例ある。Apocryphaに登場したアサシンに加え、第2特異点で出会ったバーサーカーだ。モリアーティの推論は、見事にその2例を言い当てている。前者はバーサーカーを、後者はアサシンそのものではないか。
ジェームズ・モリアーティ。最も有名な探偵の終生の宿敵の、その底知れない知悉をまざまざと見せつけるようだった。
「要するに、自分の手柄を横取りしたヤツを相手に、探偵ごっこがしたいと」
「大義名分がついてればいいだろう? ついでついで」
その鋭い眼光を前に、特に気圧されるでもなく言うリツカに対し、モリアーティの口ぶりは普段の剽軽な老人へと戻っていた。「それに、今のもあくまでまだ妄想の域に過ぎないしね」
「その妄想を推論にする手がある、と理解していいのかな」
「もし真名がわかれば、そこから色々推測することもできるだろう。私の妄想が誤っている可能性もあるし、誤った先入観のまま戦えば却って余計な危険もあるしね」
手慰みに口ひげを撫でてから、モリアーティはずい、と身を乗り出した。何事か提案がある、というように翠色に煌めく目は、いたずらを企む悪ガキにも見えたし、悪辣を思惟する謀略家にも見えた。どちらかと言えば、前者だろうか。その邪気に満ち満ちた無邪気な顔が、却って不気味だった。
だが、先に口を開いたのはリツカだった。
「ソーホーのハイド邸探索を優先事項から外して」リツカが言うと、ディスプレイの1つが拡大された。ジキル邸で発見されたという、ダイイングメッセージともとれる一枚だ。「まず資料の精査と、森教授の言う“探偵ごっこ”から進める。ってことでどうかな」
「三方を同時に進めた方が効率的ではないですかな?」
浮かんだ顔は、意外さへの驚きというよりも、望み通りの答えが出てきたことへの愉悦だろうか。口ひげを撫でるモリアーティの顔は、素直に楽し気だ。
「流石に三方にまで戦力を分散するのは、ちょっと避けたい。今必要なのは、拙速ではなく確かな一歩だと思う」
それで満足だったのだろう。なるほど、とわざとらしく頷くと、モリアーティの興味は次に移っていた。
「人員の選定だけどね、こっちで資料の探索をするのは私とリツカ君、それとライネス君の3人で行おうと思うが、どうかね」
モリアーティの言葉に、リツカは無言で頷いた。そうしてから、トウマを一瞥した。それでいいか、という確認だ。トウマも異論はなく、頷き返した。単純な話、知性に長ける3人が膨大な資料の検分を行うのは益があるだろう。ヴィトゲンシュタインは“3人のアホが集まるより1人の天才の方が善い結論を導ける”と述べたものだが、要するに3人の天才がいればなお善い結論が導けるものだろう。
「それで、“ホームズごっこ”のイレギュラーズとして動いて欲しいのが、君だ。タチバナ君」
それも、想定の範囲内。一方に前線指揮官が配せられるのなら、もう一方にもう一人の前線指揮官が配せられるのが道理であろう。
「行き先は、イーストエンドのホワイトチャペルだ。そこに宿を取るから、1週間ほど滞在し、ある人物に会ってもらいたい。そうして、マシュ・キリエライト君をその人物に会わせるのが君の仕事だ」
「マシュはあの時、宝具らしき攻撃を受けた。それを手掛かりに、あの敵の正体に迫れる誰かが居る。そういう理解で良い?」
「そういうこと。ここが19世紀末のロンドンなら、その人物はロンドンにいるはずだ」
「1週間っていうのは、その人を探すのにかかる時間でしょうか」
「半分正解だ」そう言って、モリアーティは幾ばくか悩まし気に唸った。「その人物は、色々な人から追われていてね。信頼できると見做した人間にしか会わないのだ」
「その人物へのアクセスは、私がやろう。ロンドンの人脈を使えば、こちらが会いたい旨は伝わるはずだ。そこから、君たちの様子を観察し、会っても大丈夫と向こうが認識するまでの期間。それが1週間だ」
こればかりはどうにもならない、というように、モリアーティはソファに身体を預けた。犯罪界を席巻する大物でさえ自由にならない人物、という想像図に我知らず緊張を覚えたが、トウマはすぐに思考を切り替えた。
1週間の長期滞在となれば、当然自衛のための戦力がある程度必要になる。マシュ1人は当然として、残り2人は欲しいところである。1人はクロとして、もう1人を誰にするか。はて、と志向を始めたところで、不意に視界で何かが動いた。
「わ」
アリスが、手を挙げていた。相変わらず無表情なまま、じい、とトウマを眺めている。孔が開くほどに見つめてくる視線に、流石に居心地が悪く、トウマはほんのちょっぴりだけ苦笑いになった困惑顔を浮かべた。
「アリスちゃんも行くの?」
“わ”の一言で大意を理解したらしいリツカに、アリスは同意するように頷いた。珍しい、と目を丸くするモリアーティは意に介さず、彼女は呟くように言った。「ホワイトチャペルに、用事」
言い終えると、それで満足したとでも言うように、アリスの興味関心はすぐに失せていく。静謐のヴェールを纏うように目を瞑り、澄ましたようにローズティーを飲み始めた。どんな用事なのか、と探るような3人の視線を全く気にせずに本を読み始めるその胆力ぶりは、ちょっと凄い。
「3人の選定は追々やるとして。こっちの期限も1週間って考えていい?」
モリアーティはリツカに首肯を返しながらも、表情は明らかに窶れている。1週間でこなす作業量ではない、と今更に自覚して、幾分かうんざりしているらしい。リツカも心なしか……というか、明らかに「ウワッ」って顔をしている。
とは言え、だった。やれやれ、と綺麗なグレイヘアをかきあげ、既に疲労感を滲ませているモリアーティの表情の翠色の目には、剃刀のような光が閃いている。
「そうと決まれば、旅の準備だね。金時君は即応待機で欲しいし……」