fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
イーストエンド、ホワイトチャペル。
19世紀末のこの地区を端的に表現するなら、どうしようもないほどの『貧民街』としか言いようがなかった。産業革命の完成と時を同じくして多くの移民が流入し、数多の民族が集積した掃き溜め。不衛生な食生活、住居どころか親すら不鮮明な子供たち。大人たちもボロボロになった服を着ており、ただ搾取されるだけの労働に勤しんでいる。社会主義と呼ばれる発想が生まれる前夜であり、またその思想の母胎ともなった街並み。それが19世紀末、ホワイトチャペルの特徴だった。
ぼろの建物が犇めくように林立し、その合間を身汚い人間たちが駆け抜けていく。道端でやつれ気味になった女性は陰鬱な視線を振りまいているのに対し、子どもたちが無邪気に薄汚れて遊びまわっている。却って痛ましい、と思うのは、偶然ではないだろう。自分にぶつかりながらストリートを奔っていく少年少女たちが、不思議そうにこちらを振り返っているのは、多分、衣類の珍奇さというよりはその真新しさ故、だろう。
「ソーホーもですけど、いわゆる貧民街は他の地区より人出がありますね」
「ほかの地区だと、人出、ありませんよね」
「理由は知らねーですけどね」
不思議そうに街並みを観察するマシュに、玉藻の前は何の気なしに街を眺めている。買い出しだなんだ、とアリスの固有結界の外に出かける玉藻の前にとって、ロンドンは既に見知った土地といったところなのだろう。
「ハイストリートは大分マシですけどねえ。ちょっと路地に入ると危ないですよ」
内緒話をするように、ひっそりした声で玉藻の前が言う。釣られて暗い路地を一瞥したトウマは、薄暗く延びていく小径にぞっとした。
もちろん、ある程度の戦闘訓練を受け、且つ魔術にある程度習熟するトウマであれば、ごろつきの4~5人に囲まれたところで反撃できる。が、反撃できる力があるからとて、そういった暗い場所に飛び込んでいく趣味もないし、そんな蛮勇の持ち合わせもない。端的に言って、タチバナトウマはごく平凡な│良識《ボンサンス》の持ち主だった。そっと逃げるように視線を動かした先は、腕に巻いたG-SHOCKだった。
網膜投影されたマップから距離から逆算するに、目的地までは残り10分ほどだ。予定時間までは残り15分。ゆっくり行っても十分間に合うな、と思い直した。
今回、新居に越して早々クロとアリスに掃除を任せ、3人でホワイトチャペルの街並みに繰り出したのは、何も観光のためではない。例の人物を探すにあたり、まず会うべき人物がいる、とモリアーティから指示を受けての行動だ。その人物が待つのは、このハイストリートを教会の方へ向かった先にある酒場であり、そこがこのホワイトチャペル観光の最初の目的というわけである。
というか、この酒場とかいう場所。マップで確認する限り、明らかにメインストリートから外れた路地ではないだろうか。
「大丈夫ですよう。マシュ様も、それに私もいるわけですし」
ともすれば楽観的な感じのする、ふにゃふにゃした表情の玉藻の前。彼女の在り方は、なんとなく、居るだけで気分が楽になる。多分、熾烈な殺し合いの中でこういう人格が在ることは、ありがたいことだろう。彼女の柔い顔立ちに安堵しつつ、この先に必ず待っているであろう凄絶な闘争を思い起こし、トウマは否が応もなく身震いした。
「女の子に守ってもらう男、ってのも情けないですけどね。アニメやゲームの主人公なら、絶対顰蹙モノですよ」
そんなわけだったので、その自虐は自分の不安を悟られまいとして、情けない姿を見せる小賢しい身振りでしかなかった。自分でもわざとらしいな、と思ったほどである。真面目なマシュは「そんなことありません」と懸命に言っているけれど、意味深長な笑みを浮かべる玉藻の前は、多分自虐の裏手に隠した小心まで見抜いている。
「ただの人間なんて、どれだけ頑張ってもサーヴァントの足元にも及ばないんですから。守ってもらって当然! くらい大らかな気持ちでいましょ」
「モリアーティ教授はどうなんすかね」
「多分タチバナ様でも十分殺せるかと思います」
清々しい手のひら返しである。近現代のサーヴァント、且つ作家や発明家などというサーヴァントは基本弱いらしい。中でもモリアーティは特別で、サーヴァント特有の頑丈さとその頭脳を覗けば、スペックは60台後半の老人以上でも以下でもないのだから、玉藻の前の発言も間違ってはいないというわけだ。玉藻の前、というか古い時代のキャスターなら話は別で、魔術による身体強化だけで高位の魔術師を殴り殺せるくらいのことはできるだろう。
人間のトウマからしたらまさしく化け物のようなものなのだが、こうして喋っている分には、それこそ普通の人のようだ。というか、カルデアの制服に身を包み、特徴的な狐耳と尻尾を隠しているこの姿、カルデアのスタッフと言われたらそのまま信じてしまいそうな自然さである。
「ここですね」
とりとめもなく会話していると、マシュが足を止める。マップに表示された中央の光点から目標地点まで残り1分ほど。目標地点を示す黄色いマーカーは、丁度目の前の路地へと続く細い道の先を示している。
「ささ、異界をかける勇者らしく、堂々と行きましょ」
さあさあ、と玉藻の前に背中を押され、転げるようにトウマは路地裏へと足を踏み入れた。
ひや、と微風が額を撫でた。ただでさえスモッグが立ち込めるロンドンの街並みの中、林立する建物に僅かな太陽光さえ遮られるせいで一層暗い。夜の帳が降り始めた薄暮のようだ。それとも、物理的に暗い以上に、何か心理的な要因なのか。
「マシュ、お願い。玉藻さんはバックアップに」
「了解」「はいはい」と各々特徴のある返事をしながら、マシュはトウマの半身一歩前に、玉藻の前はその後方に位置取る。サーヴァントとしての2人の性能を鑑みれば、当然の采配ではある。多分、リツカもそうするだろう。
「どうしました?」
「いや」
振り返ったマシュに、トウマはぎこちない表情で言った。マシュの身長は、トウマより一回りは小さかった。
考えても詮のないこと。
頭を振ったトウマは、「なんでもないよ」よくせ毛に指を絡めた。
はあ、と不思議そうなマシュ。なんとなく、後ろでは玉藻の前がニヤニヤしている気がする。一層くせ毛を弄りまわして、トウマは「フーン」と大きく嘆息をからはいた。凡夫には、凡夫の悩みがあるものだ。路地裏でたむろする浮浪者らしき男たちに、男と“商談”の話をする薄汚れた身なりの女の陰鬱な視線は、真新しい衣類を着込む3人へのある意味敵意的な眼差しを別な意味に解しかけるのも、まぁ無理はないか。
とは言え、そればかりにかまけてもいられない。両の手で頬を打ち、己の立場を思い返したところで、不意に、あるいは偶有的に、道端に座り込む人物が目に入った。
お世辞にも綺麗とは言い難い、土にまみれて薄汚れた人型。果たして女なのか男なのか、異様に延びた白髪からは伺い知れない。どこか中東風を思わせる薄手の衣類は、移民が多い当時のロンドンならではの風景……なのだろうか。袖口から伸びた細い腕が、貧困、という言葉を、ただ概念以上のものとしてトウマの脳裏に惹起させた。中学時代、近所であまり流行っていない商店を営む家庭の友人は、遊んでいる時もあまり買い食いなどしなかったな、と思い出した。
ふと、その薄汚れた人型が顔を上げる。胸元まで伸びる長い前髪の隙間から、赤黒い目が覗き込んでいる。鋭利な眼差しだったが、敵意的というわけではない。その鋭利さは、多分天性のものというだけなのだろう。鋭いが、どこか物静かさを感じさせる赤い視線は、なんとなく賢者の眼差しを想起させた。
実際にして、ほんの僅かな視線の行き交いだった。体感にせよ物理的にせよ、1秒程度の交錯。強い印象が残ったわけでもなかったが、ほんのわずかな残余のような印象が、何か、既視感があった。
ただ、そんな既視感はあまり持続しなかった。薄い印象だったし、玉藻の前の「酷いですねえ」という声に意識を持っていかれたからだった。
「パブとは聞いていましたケド」
辟易したように、玉藻の前はその建物の入り口を見やっている。マシュは素直に目新しいものに感心しているが、純粋に楽しんでいるわけではないらしい。煤やら何やらで薄汚れている入り口には、そこいらにカピカピに乾燥した吐瀉物らしきものが薄く散らばっている。周囲一帯に鬱勃と漂う汚臭は、油断しているとこちらまで嘔吐感を催してしまいそうである。入口上部に掲げられた看板の店名も併せて確認すると、このパブであるのは間違いないらしい。
では、と一言。恐る恐るドアを開けると、マシュが敷居を潜った。
彼女の背に続く。雪を思わせる白い髪の向こう、トウマは思わず顔を顰めた。
端的に言って、狭かった。カウンターが5席のみという狭さで、テーブル席はない。猫の額のような狭さだ。その5席は既に汚らしいシャツにズボンの男で埋まっている。若くて20代後半、上はおそらく60いくらに見える。ビールを浴びるように……というか文字通り浴びたのか、酷くびしゃびしゃになった男が一番奥で伸びている。カウンターの向こうでは、髪がボサボサになった太り気味の女店主があくせくと働いていた。
カウンターの向こうの調理場は、なお狭い。その狭いスペースでせっせと働く女店主は、入店してきた3人に一切気づいていない様子だ。店の客もまだ昼間だというのに前後不覚になるほど酔っているらしく、誰一人として気づいていない。マシュが店主に声をかけているが、濁声で罵倒し合う客と店主に、品の善い彼女の声が届く気配はない。トウマがすみません、と罵声に負けない大きさで声を張り上げたのは、だいたい10秒くらいしてからだった。途方に暮れるマシュの肩に手を置いて、あらん限りに声を響かせる。それでも濁声に飲まれそうだったが、流石に一番手前の客は気づいたらしい。手前に居た締まりのない身体の中年の男が振り返ると、客だぜ、と店主に声をかけた。
忙しい中で呼び止められ、女店主は機嫌悪そうにこちらを一瞥した。侮蔑的な一瞥から、品定めにするような目つきに代わり、最後はまた別な眼差しに代わると、上に行きな、と顎をしゃくった。
彼女が指示したのは、飲んだくれの男の向こう側に続く階段だ。ありがとう、と丁寧に返事をすると、一度マシュがこちらを振り返ってから歩き始めた。女店主は店を横断する3人を不躾なまでの態度でじろじろと見ていた。街中で見かけた、敵意的なものを卑屈さで包み込んだ眼差しとも違う。さっき、最後に変転した視線。多分あれは、畏怖というものではなかったか。
おおい一緒に酒を飲まないか、と呑気そうにへつらいの声を上げる飲んだくれに形ばかりの愛想を返し、実際はほとんど無視するみたいに階段を上がっていく。一階から今呑気な声を上げた男を りつける女店主の声が響いていた。
ぎぎ、ぎぎ、と頼りなく階段の木が軋む。手狭な建物に設えられたせいか、階段は異様に急だ。ほとんど梯子ではないかと思う階段を上がっていくと、しかし、2階の空間は思いのほか広かった。
2部屋をぶち抜きにしたらしい空間は、20畳ほどはあろうか。部屋の奥に大テーブルがあり、5人ほどがカードゲームに興じている。まず印象に残るのは、全員が綺麗な身なりをしていることだ。一階にいた貧相な労働者と比べると一目瞭然。髪は綺麗に整えられ、口ひげも品よく切りそろえられている。時に罵倒を交わしながらも、口ぶりは丁寧ですらある。直観的に、此処にいる人間は富裕層なのだろう、と思わされる景色だった。
と、一番奥に座っていた恰幅のいい男が顔を挙げた。カードゲームでは勝ちに乗っているらしく、悪辣さを感じさせながらも品よく笑っていた顔が途端に引き締まる。その様子の変化に気づいた他4人も振り返ると、カードゲームなどほっぽり出して即座に立ち上がった。
「初めまして、お三方」一番奥にいた男が、重厚な声を漏らした。上下ストライプの入った灰色のスーツ姿は、ただ佇むだけで威圧感がある。「あのお方の遣いの方ですね?」
「はい、あの、教授から言われて」
格式を感じさせる男の口調に対し、トウマの口調はどうしてもどこか垢抜けなかった。とは言えそれを見とがめることもせず、男はどうぞこちらに、とさらに奥を指示した。そうしながら、鋭い目配せが4人を見回す。ほんのわずかに頷きを返すと、屈強そうな4人の男は音もなく階段を降りていった。
大テーブルのさらに奥。仕切りで遮られた奥は、どう見ても壁だ。が、男が軽く壁を押すと、分厚い手が隠し扉を押し込んでいった。
広さにすれば、僅かに5畳あるかないかという広さの個室に、テーブルが1つ。合計4脚の椅子の一つに男が座った後、続くように座ったのは、玉藻の前とトウマだった。
「私は外で」
軽く一礼し、マシュは大部屋の方へと戻っていく。使節としてのトウマに加え、場慣れしている玉藻の前に居るべきという判断だろう。マシュは万が一に備え、外での護衛につく形だ。トウマは特に止めず、隠し扉の向こうへと戻っていくマシュの背を見送った。
「さて」
あらかじめテーブルの上に置いてあったワイングラスに、赤ワインを優雅な素振りで注ぐ。グラスの1/3ほど注いだ後、くるくると液体をグラスの内で回すと、威厳たっぷりに薫りを鼻腔に吸い込んでいる。
「改めて挨拶としましょう。私の名前はセバスチャン・モラン。非力ながら、あのお方にご助力していました」
深々と一礼する男。モラン、と名乗った男の身振りに慇懃なところは一切ない。純粋に、目の前にいる人物に敬意を払う身振りだった。きちんとした教育を受けた人物の、礼節のこもった素振りである。思いのほか丁重な振舞にちょっとびっくりしていると、すかさず無線のクリック音が耳朶を打つ。マシュからだ。察するに、このモランという人物。シャーロック・ホームズシリーズの人物、ということだろう。
(タチバナ先輩、一つお耳に)うん、と念話で声を返すと、マシュは続けた。(セバスチャン・モラン。ホームズシリーズではモラン大佐と呼ばれる、モリアーティ教授の懐刀とも呼ぶべき人物です。ホームズ曰く、“ロンドンで2番目に危険な男”とも)
ロンドンで2番目に危険な男、それに懐刀。俄然、緊張感の増す言葉に、トウマはちょっとひやりとする。そんな内心が身振りに出てやしないか。印象論だが、何かそういう甘さを見せると舐められるのではないか、と思ったりするものだ。最も、モランはワインの香を楽しむのに気を取られ、特に気にしている様子はない。
「えーと、立華です。立華藤丸。あ、後ろが名前で」
「玉藻です。身分卑しき者ですが、タチバナ様の御身をお守りしております」
やはり垢抜けないトウマに対し、静々と口にする玉藻の素振りは流石に板についている。元は公達として生活していただけあって、なんとも演技が巧いものだ。
「向こうに居らっしゃるのが、マシュ・キリエライト様で間違いありませんな」
「そうですね」軽く、隠し扉の方を一瞥する。「護衛の1人、と思っていただければ」
なるほど、とモランは深く頷いた。分厚い口ひげを指先で撫でながら、不躾とも見える視線をじろりと向けてくる。値踏みするようにトウマを見やってから、「例のものはいただけますかな」
「あ、はい。こちらに」
ウエストポーチから封書を取り出すと、テーブルの上へと差し出した。赤い
「間違いなく教授のものとお見受け致しました」
「わかるんですか」
「教授は大変重大な事件を起こすとき、この場所を指定し、あの印を使うものですから」
声にならない感嘆が漏れた。アニメや漫画でよくある設定だ。大悪党が秘密の場所で大事件を画策する……しかも舞台装置として、昔のヨーロッパで使われていたの蝋を固めた印がでてくるのもなんというかアニメチックだ。場違いな感動をしながら、トウマはつとめて生真面目にしていた。
「さっそく、承っていた件についてですが」モランは懐に手を入れると、葉巻を1本取り出した。「コンタクトは取れました。協力するにやぶさかではない、との回答です」
モランが、小さなナイフを取り出す。思わず身構えるトウマに対し、玉藻の前は泰然としていた。泰然としていたが、表情はやや不快な様子だ。そんな玉藻の前の機微を感じたらしく、モランは「失礼」と葉巻を懐に仕舞い直した。
「意外ですな。てっきり、チャイニーズの呪術師か曲芸師の類かと思いましたが」
「護摩とか、そういうものに厭な思い出がありまして」努めて、玉藻の前の表情は笑顔である。「それと、私もタチバナ様もジャパニーズでございます」
「これは失礼。もう年ですかな。正直なところ、黄色人種の方々は見分けがつかぬものでしてな」
「いえいえ。私めもモラン様の身なりの善さ、アメリカ人かと思っていましたから」
ほんの幾分かの嘲りを滲ませながら、鋭く言い合う2人。互いに笑顔なところがなお恐ろしい。ひやひやするトウマを他所に、2人ともにこやかである。そう言えば、イングランドの人々は結構皮肉屋と聞いた気がする。玉藻の前は確か、生まれとしては京都なんだろうか。
コワイ。そんなことを思いつつ、ここにライネスがいたら、どれだけ品よく罵倒が飛び交っていたのだろうか、などと考えても居るトウマであった。
「ただ」こうして、すぐ舌戦を収めるところも、ある意味慣れているのだろう。玉藻の前も、既に澄ました様子だ。「向こう様も慎重な方でしてな。あなた方が信のおける人物か否か、まだ測りかねているようでして」
「あーはい。教授から聞いてます。それで、こちらとして何をすれば?」
「1週間。あなた方の生活ぶりを観察させてほしい、とのことです」
「はぁ。ええと、つまり何を?」
「このホワイトチャペルで、普段通りに暮らしていただければ結構だそうで。何分、向こう様も教授に勝るとも劣らぬ大悪党ですからな。あなた方の生活ぶりを見れば、悪党かどうかもわかるというのでしょう」
「同じ穴のむじな、というわけですね」
左様、と頷くとモランは前のめりになって、別な封書を差し、出した。
「1週間後、教会前のカフェの奥の席でお待ちいただきたい」
モリアーティの封書とは打って変わって、素っ気なく差し出されたそれに対し、トウマは酷く恭しく手に取った。中学校時代の卒業式の際、校長先生から証書をもらったときみたいな動作である。両手でテーブルの上のそれを手に取り、深々頭を下げようにもテーブルで下げられず、結果へっぴり腰のように不格好に頭を下げた。何らかの魔術攻撃で身体的苦痛でも味わっているのか、と玉藻の前が訝り、周囲を気にしたほどである。へこへこと頭を下げるトウマの素振りを見て概ね理解した玉藻の前は、失望したようにしながら、ちょっと安堵した。
他方、モラン大佐はそんな素振りがおかしかったのか、声を挙げて笑っていた。陰湿でも皮肉的でもない、快活は笑い方だ。
「いや失礼」すっかり顔を赤くするトウマに、モランは笑いをこらえようとしながらも、くつくつと身を揺すっていた。「教授の懐刀がどのような人物かと思っていたら、思いのほか愉快でしてな」
「はい?」
「非力ながら教授のお傍で働かせてもらっていましたがね、あなた方のような人物を囲っているとは、とんと聞いたことがありませんでな。久方ぶりに教授から重要な命令が来たと思えば、この私を伝書鳩替わりだ。しかも、年端も行かぬ女子供という。イレギュラーズとかいう汚らしいガキどもの真似事かとも思いましたが、こうして会ってみれば身綺麗な方々だ。一体全体どういった方で、またどんな経緯で教授に見いだされたのか、大変興味があるところですよ」
不躾なまでに値踏みする視線を向けながらも、モランはトウマが何か言おうとすると、首を横に振った。人のよさそうな笑いはもう失せ、椅子に身体を預ける男は先ごろまでの厳かさを取り戻していた。
「余計な詮索は無用、それが掟でしょう。悪党同士、手の内見せて下手に繋がりを持つもんじゃあありませんからね。蜘蛛糸が下手に絡まれば、大本がバレかねないですからね」
無言で同意を求める視線に、トウマは軽く頷きを返した。間違いなくモランは誤解している、というかモリアーティのなんらかの計らいで“モリアーティ・イレギュラーズ”か何かだと誤解させられているのだろう。多分、このロンドンで動きやすいようにだ。先ほどの女店主のよそよそしさを含んだ畏敬は、ロンドンに巣食う巨悪の手下を見やる視線だったのだ。正直気持ちがいい話ではないが、邪魔者扱いされるよりはいいだろう。
「それでは、教授のご名誉のためにも、よろしく頼ましたよ。探偵殿」
すっくと立ちあがったモランに対し、慌てて立ち上がったトウマはちょっとよたついた。しげしげとトウマの身振りを見ながらも、モランは気分よく手を差し出した。
「教授によろしくお伝えください。またひと騒動やりましょう、と」
「はい、伝えておきます」
互いに、手を握り合わせた。酷く分厚い手の感触に、男の生きてきた歳月を感じたような気がした。
相手が何を感じたはわからない。固く握り合わせた手の感触だけが、酷く印象的だった。
「厄介ですねえ、それにしても」
階段を降りていくモランの姿を見送りながら、玉藻の前がぼやくように呟いた。1週間、とりあえず普段通りに暮らせと言われても、どう暮らしたものかという話だ。
「とりあえず報告かなぁ。それからあとは」
「あとは?」
「帰ってから、考えますか」
なんとも頼りない指示に、玉藻の前はちょっと拍子抜けしてから、そうですねえ、としみじみと応えた。なんとなくその腑抜け方が、もう一人のマスターっぽいな、とちょっと思った。どうでしたか、と後から入ってきたマシュにも同じように応える様に、玉藻の前も、地に足の着いた落ち着きを感じていた。最もトウマ本人は、やることがなく途方に暮れていたのだが。
先ほどと同じように、階段を降りていく。まだ飲んだくれたちはカウンター席で泥濘に取られたように突っ伏したり、相手を非難する耳心地の悪い言葉を投げ合ったりしている。トウマは特に目くじらも立てず、またこそこそと、それでいてじろじろとこちらを観察する女店主の視線にも特に応じず、饐えた匂いが充満するパブを後にした。
入り口から出た時、ふと、トウマは立ち止まった。どうしました、と振り返るマシュになんでもない、と返して路地を歩き出しながら、トウマは、軽く振り返った。もう、あの白髪頭の老人は居なかった。