fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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Ⅲ-6

 レオナルド・ダ・ヴィンチのこの日の始まりは、まずカルデア施設内の各ブロックにおける電力消費のチェックから始まる。

 個人用に特別に設えさせた研究室の椅子に座り、頬杖をついてモニターに表示させた報告書に目を通す。一週間分の消費ログのグラフを一瞥し、今度は先週のものと比較する。ちょっと気になったところは報告書の個別ページをチラ見して、納得できる理由ならそれでよしだ。

 「あー、ムニエル君? 食料プラントの件なんだけど、なんでここ減ってるわけ?」

 問題があるときは、報告書作成担当のスタッフに連絡して確認だ。モニターに映る、プラチナブロンドしか美的取り柄のない男の言い訳を聞いて、満足できたところはそこでスルー。まだ納得できない点については、問題があった区画の担当者に確認だ。

 「ニナちゃん、食料プラントの件なんだけどさぁ」

 補給担当のスタッフに連絡を入れて、事実確認。最終的に問題ない、と確認し終えると、既に20分経過だ。グリニッジ標準時に設定された時計を確認し、ちょっと慌てて他のログも確認すると、最終的には30分ほどかかっていた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチほどの才能をこんなことに30分も費やすのは正直無駄なのだが、現在のカルデアにおいてはエネルギー問題と食糧問題は死活問題だ。元から無補給での長期滞在、しかも膨大な人数の食事を賄うことを目的とされていただけあって、備蓄食料には十分あるし、新鮮な野菜を生産する食料プラントも十分な広さがある。人の排泄物までフル活用するカルデアの食糧事情はとりあえず安定しているし、エネルギー事情にしても、半永久的にマナを生成するカルデアの炉心があるだけ、まだ安定している。安定しているが、ちょっとでもどこかに不調が出れば、すぐにでも瓦解する危うい安定であるのも事実だった。

 それに、非戦闘状態であれば問題ないが、サーヴァントが戦闘に入れば炉心からの魔力供給の大部分をサーヴァントに回すことになる。炉心は半永久的に魔力を生成するが、だからといって、一度に供給できる魔力量には限度がある。プールしてある魔力が枯渇すれば、それこそ死だ。細かい話だが、カルデアの命運がかかる物事であるだけに、ダ・ヴィンチが神経質になるのも致し方ないことではあった。その点、リツカもそうだが、トウマも過度に戦闘をしたがらない方針なのはとても助かることだ。令呪作成による魔力のストックも、ある程度捗るというものだ。

 今度は別な報告書へ。所長代理を務めるロマニ・アーキマンからのものだ。といっても、内容は所長代理としてのものではなく、医療科のものだ。執筆もロマニのものになっているが、実際は連名している医療科を実質的に取り仕切っている看護部長のものだろう。内容は、かつての爆破事件以来意識不明に陥っていた何名かが意識を取り戻したことと、何名かはそのままヒュプノスに囚われ、ハデスの館に連れられてしまった、という内容だ。思わず深いため息が漏れるに任せ、生存者を長期休眠カプセルに行く内容にサインをする。お役所仕事の煩わしさも、こういう時だけは助かるものだ。前述したが、今のカルデアに、これ以上の人員を増やす余裕はないのだ。

 そうこうして1時間。天才の貴重な1時間を消費してから、ダ・ヴィンチは予定の時間まで10分あることを確認すると、一度席を立った。

 研究室裏手にある、工房へと足を運ぶ。BDUをはじめとした、特異点での戦闘の際に使用する礼装などの開発・改良を主に行う工房は、正直言って雑然とものが散らばっている。一見秩序なくものが散らばっているが、実はある種の秩序があって、探し物があるとすぐに見つけられたりする。秩序ある無秩序の中、ダ・ヴィンチの目的の場所は、他とは違ってちょっと片付いていた。

 横倒しになった筒状のカプセルの脇に、動物の脳髄と脊椎を思わせる白い構造物が並列して横たわっている。ちかちかとカプセルのライトが明滅しては、次いで、白い構造物に血脈のような光が灯る。ともすれば魔術刻印にも見えるそれが光るたび、カプセルに設置されたパネルのカウンターが減少していく。

 「君のお陰で、クロエ君の方もなんとかなったよ」

 ダ・ヴィンチが言うのと、青い血脈が明滅したのは同時だった。口角を僅かに上げたダ・ヴィンチは肩を叩くようにカプセルに触れると、踵を返した。今日はこれで終いだ。

 再度、研究室へ。椅子に座り、デスクの上に立ちあげたディスプレイに向かい合うと、予定時間まであと40秒。モニターを点灯させると、ダ・ヴィンチはモニターに映った男に「やあ」と気の抜けた挨拶をした。

 (やあ、レオナルド君。今日もご機嫌麗しゅう)

 「君も……いや、君はちょっと体調が悪そうだね」画面に映った老人の顔色は、正直言って良くない。「モリアーティ教授、ちょっとは休んだかい」

 画面に映った老人、ジェームズ・モリアーティは明らかに目元が青くなっていた。睡眠不足の兆候がありありと浮かび上がっている。

 (いやーそれが、昨日は23時まで起きてしまっていてね。今日は8時まで寝てしまったよ)

 ふわあ、とあくびをして見せるモリアーティ。十分しっかり寝ている気がするが、多分問題はそこではないのだろう。ご苦労さま、と端的に労いつつ、「成果のほどは?」とダ・ヴィンチはデスクに肘をついた。

 (今のところ、成果がないのが成果だネ)

 お手上げ、というようにモリアーティが肩を竦める。ただ1日しか経っていないのだからわからない方が当たり前なのだが、その口ぶりはそんな陳腐な意味ではあるまい。

 (多分、数学の話じゃあないんだよね、これ。化学なのか物理学なのかわからないけど)

 「それで、私の出番というわけかい」

 (分業だヨ。物理はちょっと齧ってるけど、化学とかはちょっと守備範囲外すぎてね)

 「私も別に専門じゃあないんだけども」言いながら、ダ・ヴィンチは乗り気だった。「データはいただけるかな」

 (もちろんさ。世紀の天才のお知恵、貸していただきたい)

 ふふん、とダ・ヴィンチは鼻を鳴らした。褒めそやされて嬉しいのは、知恵者であろうがなかろうが、共通したことであろう。もちろん、と返答しながらも、ダ・ヴィンチは付け加えた。

 「でも、私もこちらの運営があってね。そう協力できるわけじゃあないんだが」

 (構わないよ。手掛かりさえつかんでもらえれば、あとは私がなんとかしよう)

データ譲渡の日程を聞いた後、ダ・ヴィンチは興味本位で与太話を振ることにした。純粋に、ジェームズ・モリアーティという人物への興味だった。

 「『|小惑星の力学《ザ・ダイナミクス・オブ・アン・アステロイド》』、読ませてもらったよ」お、とモリアーティが身を乗り出すのを、ダ・ヴィンチは見逃さなかった。少年のような表情なのは、当然だろう。「面白かったよ。アシモフの予想とは異なっていたけどね」

 (終局的犯罪だっけ? 悪くないけどさ、私への理解が足りないよね。赤い彗星じゃあないんだから。核の冬がくるぞってね)

 「それはそうさ。君が善行に走るなんてね」

 ダ・ヴィンチの物言いに、モリアーティはちょっと拗ねた。もちろんダ・ヴィンチのその言い方はある種の皮肉だったから、彼のリアクションは予想の範囲だ。加えて言うなら、彼のそのリアクションがある意味で演技なのも、もちろん見抜いている。

 「だってそうだろ? アステロイドベルトにある小惑星をどう地球圏に持ってくるか、なんて話だ。しかもその目的が、宇宙科学の発展ときた。これが人類への貢献と言わずなんと言う」

 (きちんとした研究論文だからねえ。まかさ人類滅亡のための内容、書けるわけないでしょ。金出してるのは英国王室だよ? さんざん国教会から批判されたけどね。旧教徒の人らも全ギレですよ)

 そりゃそうだ、と思う。学問は自由であるべき、という理念は当然ある。ある一部のイデオロギーに支配された学問が健康的であるわけがない。権力者が学問を統率するのは、間違いなく批判されなければならない事態だ。

 ……という理念とは別に、実際金を出しているのは政府であったり、他人であったりするのだ。研究ができる代わりに、ある程度彼らに、ひいては国や政府という総体に貢献し得る研究もしなければならないという現実も、無視できない話であろう。畢竟、ロンドンを支配した悪逆皇帝とて、そういった些末事に頭を痛めていたというわけだ。途端に小悪党じみてくる話である。

 (それと一個訂正。私は善行を為したいわけではないのでね、そこだけはよろしく)

 「はいはい、わかってますよ」真剣な表情のモリアーティに、ダ・ヴィンチも苦笑いした。研究者とは、得てして偏屈だ。自分も含めて。「あくまで悪のため。そうだろ?」

 その通り、と胸を張るモリアーティ。とりあえず納得したらしい。

 要するに、モリアーティがそんな研究を始めた真意は、本当に人類の反映を願っており、けれどもそれはあくまで手段でしかない、ということだ。人類が行き詰まり、貧困に陥れば、芳醇な悪行は起こせない。貧困から生まれる悪はいつだって矮小であり、不快であり、見るに堪えないものであるという。モリアーティが求める悪はもっとスケールが大きく、多くの人間に非業をもたらし、哀しみを広げるものでなければならない、と確信している。人間の健やかさを大きく損ねる悪こそ素晴らしく、自由な悪、というわけだ。

 彼の性的趣向からすれば、人類が滅亡するなんて悪はくだらないというわけだ。だって、そんなことをしてしまったらもう悪事はなせないではないか。それが、彼の論調だ。最も、最後の最後には人類滅亡という悪を以て人類史を終わらせることにはある程度の美質を感じるらしい。スケールがデカいからだ。

 もっと推し進めれば、それが、モリアーティがカルデアに協力する理由、というわけだ。どこの誰だか知らぬが、勝手に人類を燃やす蛮行を働き、楽しみを減らした間抜けを赦さぬ。人類を滅ぼすのはまだ当分先で良いだろう。そんな子供じみた理論で、モリアーティはカルデアに協力しているのだ。

 「刑事ドラマだとよくあるけどね。やむにやまれぬ事情で人を殺しちゃうって」

 (ダメダメ。悪を根拠にしない殺人なんて、殺人のフリした人情話だ。そういうんじゃないかな)

 こういうわけらしい。カラカラと笑いながら言うあたり、この老人はとんでもない悪魔だろう。

 最も、どんな動機にせよ、ホームズが褒めそやした頭脳が味方してくれるのはありがたい。こうして、本来であれば、自分とロマニあたりで数十時間ぶっ続けて調査しなければならない事態が避けられるのだから、文句などあろうはずもない。

(教授? お紅茶、持ってきたわ)

 不意にとんできた声は、モリアーティにものではなかった。視線をモニターと別なところに向けると、(ちょ、ノックを)と慌てて口にしていた。

 (あら、これ、カルデアとの通信て奴?)

 制止の声は遅かったらしい。ひょこ、とモリアーティの背後に現れた黒髪の女性は、いつになく快活そうな表情をしていた。

 「女王陛下。ご壮健そうで」

 (まぁ、稀代の天才様ね。お会いできて嬉しいわ)

 満面の笑みを浮かべるエリザベス女王は、物珍し気にモニターを眺めている。はたしてモニターそのものが珍しいのか、レオナルド・ダ・ヴィンチという人物が珍しいのか、どっちだろうか。多分どっちもか。

 (うちの悪ガキがお世話になっていますね)

 「いやいや、とてもありがたいですよ」

 画面の向こうで深々と頭を下げるエリザベスに、ダ・ヴィンチもちょっと恐縮する。心根からの貴人を前にすると、なんとも畏縮するものだ。

 ちなみに、彼女の言う『悪ガキ』とはモリアーティのことだ。外見上はモリアーティの方が年上だけれど、歴史を振り返れば、エリザベス女王の方が遥かに年上だろう。いや、それだけではない。正しくイギリスという国を偉大な国にしたエリザベス女王は、モリアーティの理論からすれば頭の上がらない人物なのだ。他方、エリザベス女王からすれば、未来とは言えロンドンで犯罪皇帝とか僭称する輩なわけで。

 イケオジとお嬢様、という取り合わせに見えて、実態はショタジジイとロリお姉さんというCPなわけだ。人類の可能性というべきか、無茶苦茶というべきか。何が何だかわからない……ダ・ヴィンチも人のことは言えないのだが。

 それから十数分ほどエリザベス女王と話をしたあと、ダ・ヴィンチは手短に分かれの挨拶をした。居心地の悪そうなモリアーティはなお居心地悪そうに、エリザベス女王はにこにこと手を振って挨拶を返してくれた。

 空中投影されたディスプレイを閉じる。時計を確認。今度は別なディスプレイを立ち上げ、自分にあがってきた報告書を一瞥する。別に急ぎのものはない、と確認しかけたとkろで、ふとダ・ヴィンチはスクロールを止めた。

 「あーアキちゃん?」素早く連絡用のスイッチを押し込んだ。なんでしょう、と驚いたように声を返してきた看護部長をする女性に、ダ・ヴィンチは声を続けた。「16時からの、私も出るから。あとロマンも出させる」

 「責任者のけじめだよ。君らばっかに押し付けて良いことじゃあないでしょ。その代わり、何人か休ませてやりなさい」

 看護部長からの了承の返答を耳にしてから、ダ・ヴィンチは報告書の最後に記載された名簿を見た。約4名。その名前をしっかり己の魂に刻んでから、ダ・ヴィンチは立ち上がった。

 「ムニエル君、16時からの予定明日にずらしといて。悪いね。明後日? おけ」

 スケジュール変更の連絡を入れてから、ダ・ヴィンチは工房へと足を向けた。もう少し頑張るぞう、と自分に言い聞かせて。

 

 

 翌日、AM10:00

 日課の朝食づくりと掃除を終えたところで、エリザベス女王はテラスの一席に腰かけた。屋敷から突き出るように設えられたテラスの壁面はガラス張りで、庭一面を見渡せる。テーブルが1つ。花瓶には青い薔薇が挿してある。庭では金時がせっせと草むしりをしていた。アリスの言いつけを、生真面目に守っているらしい。

 「英霊にさせることじゃあないと思うんだけど」

 紅茶を一口。スモークサーモンとクリームチーズを挟んだベーグルをむしゃり。玉藻の前が作り置きしていった食べ物は、基本どれも美味だし、彼女のレシピ通りに作ると大抵美味しくなる。今日の朝食づくりも、エリザベス女王がしたことと言えば、ベーグルを輪切りにしてロックスとチーズを挟んだだけである。屋敷の管理をするぞ、と息巻いていたものの、食事に関してはほとんど玉藻の前の下準備の通りに動いているだけだった。

 まぁ、それはそれでいいのだけれど。ちょっとだけ肩透かし感を味わいながらも、家事と呼ばれる仕事の大変さを日々味わう女王陛下なのである。

 ぼけー、っと金時の草むしりを眺めていると、テラス入り口をノックする軽い音が耳朶を打った。はぁい、と呑気に返事をすると、一拍ほど間があった。

 「や、やぁ」ぎい、と酷く重くドアが開くと、プラチナブロンドの髪が覗いた。「今日もご機嫌麗しゅう」

 ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、明らかに気まずそうな顔をしてテラスに入ってきた。ソーサーにティーカップを載せてやってきた彼女の顔は、なんとなく疲れ気味だ。

 どうぞ、と視線で自分の前の席を一瞥する。彼女も同意するように頷くと、静々と席に着いた。2人を挟んだテーブルの中央には、青い薔薇が花瓶の上で微かに揺れた。

 「こんなことを言うのも今更だけど」やはり静かに、ライネスはティーカップに口を衝けた。「女王陛下が、女中の真似事とはね」

 「結構楽しいものよ」もう一口、ベーグルをぱくり。風味の強いスモークサーモンとまろやかで口当たりのいいクリームチーズが溶け合い、結構おいしい。「それに、私やることないし」

 ベーグルの味の残った舌先に紅茶を躍らせながら、エリザベス女王はさもありなん、と口にした。

 疑似サーヴァントとして召喚された彼女の本分は、大別して3つある。生前の彼女を由来とする、他者の力を見抜く慧眼とそれを使嗾する力。2つ目が偶然とはいえ依り代になってくれた女性の特質を由来とする、高い戦闘能力。3つ目は、サーヴァントとして召喚されたが故に獲得する宝具による、高い魔力供給能力。およそサーヴァントとしては、トップサーヴァントにこそ並ばねど、オールラウンダーに活躍し得る極めて優秀なサーヴァントと言えよう。

 だが、今この屋敷で求められている能力は他者の力量を見抜く慧眼でもなければ、また肉体を由来とする武力でもなく、半永久的にマナを流用する宝具でもない。人間の人間たる所以、頭脳こそが今は求められているとなると、彼女の出番ではなくなるのだ。もちろん彼女は暗愚な王女ではなかったし、また並大抵の人々よりは賢く決断力に長じるが、知性だけで英霊の座に昇りつめる知性派と比べると、どうしても劣るのが現実だ。

 まぁ、そうなると、彼女にできることはあんまり多くないわけで。自然、今まさに知性を武器に戦っている3人を裏で支える役回りになる、というわけだ。

 「それで」ライネスがちょっと気まずそうなことは気づいていたが、エリザベス女王は構わず話かけた。「順調なの、調査は?」

 桜色の口唇をカップに触れ合わせていたライネスは、小さく眉を顰めた。「あぁごめんなさい」エリザベスは手を振ると、前髪を摘まんだ。「別にいいの、休みですものね」

 幾ばくかの逡巡。ふむ、と手慰みのように顎に手を当てたライネスは、「いや、構わないよ」と応えた。

 「ブレーンストーミングじゃあないけどね。張り詰めた議論では生まれないものも、弛緩した空気の中で却って生まれるっていうからね。ほら、アリストテレスのことを逍遥学派なんて言うだろう?」

 ニスの艶が閃くテーブルの上にソーサーとカップを置くと、ライネスは大儀そうに立ち上がった。一面ガラス張りの傍によると、ライネスは憂鬱そうに冬を思わせる薄曇りの空を見上げた。

 「現状は、カテゴリ分けが完了した段階だね。ジキル氏の書斎には、おおむね4種の本があった。

 1つは化学の本。元々そっちの研究をしていたわけだから、これは自然だ。

 2つめは宗教書。元々信仰心に厚いと聞くし、そう驚くことじゃあない。

 3つめは宇宙物理学の本だ。彼がその分野に感心を持っていた、というのは今回初めて判明したことらしい。

 4つめは……幻想小説、とでも言おうか。それとも妄想の駄文とでも言おうか。へんちきりんなことをひたすら綴った怪文書のようなものが、異様にあった」

 4つめを話すにあたって、ライネスは酷く当惑した様子だ。というより、呆れているとでも言おうか。その他は特にジャンルに括りはないよ、と付け加えたライネスは、前髪をかきあげた。

 カテゴリ分けでおよそ5時間近くかかった計算というわけだ。蔵書が膨大なだけに、ただ大まかなジャンル分けだけでも時間がかかったのであろう。

 「宗教書も、何冊かはメモみたいなのがあったのでしょう?」半分ほどベーグルを食べ終えると、エリザベスはナプキンで口元を拭った。「それは何があったの?」

 外を眺めるライネスが身動ぎする。横顔を見る限り、にがっぽく渋面を作っている。

 「信仰心に厚いあなたには、少々胸がむかむかする駄文が書きなぐってあったよ。あらん限りの語彙を使って涜神の限りを尽くしていた」

 小休憩するように紅茶を嗜んでいたエリザベスは、特に身じろぎもせずにライネスの発言を聞いていた。宗教の形にこそ囚われなかったが、彼女は主の導きや運命を、篤く信じていた。

 「気になるのは3つめと4つめだね。何故、宇宙のことなど気にしていたのか。そして4つめ。正直気を違えた妄想としか思えない戯けた小説など、とてもうわさに聞くジキル氏の趣味とは一致しない。一冊や二冊ならわかるがね、それも100冊近くもあるとなると流石に気になるよ」

 やれやれ、と肩を竦めてから、ライネスは踵を返した。もう一度椅子に座ると、くさくさしたように頭頂部を掻きむしった。

 「それ、どんなもの書いてあるの」なんとなく、エリザベスは自分の役割を理解し始めた。彼女の役目は、ワトソンだ。「その怪文書とやら」

 「まだ全て目を通したわけではないから、現段階での評価だが」

 そう前置きしてから、ライネスは頭痛に悩むように眉間に皺を寄せた。

 「今のところ読んだもの全てに共通するのは、何か超自然的な生物に人間が襲われる、というものだ。時に両生類のごとき生物であったり、雪に閉ざされた山脈に浮かぶ奇妙な臓物のような生物であったり。あるいは人知を遥かに超えた、神の如きものが現れたり……原始宗教について記した、シャーマンの覚書のようなものがあったりもするな。どれも正気で書いたとは思えないものばかりだ。アメリカのオカルティストなら取り合ってくれるだろうがね」

 気が滅入るとばかりに目頭を押さえると、深い嘆息とともに背もたれに身体を預けた。身体中が怠いとでも言うように、脱力したライネスは天を仰いでいた。単純な労働時間の長さではなく、労働の中味が酷いものでやつれたと言わんばかりだ。

 終始、エリザベスは静かに話を聞いていた。彼女としては、文化が花開いた結果、そういった珍奇な小説が世に出るようになったことは、なんとなく嬉しくもある気もする。とはいえ、そのせいで調べものが難航していると思うと複雑な気分でもある。残り一口になったベーグルを放り込むと、やはりあまり役に立てないかなぁと渋い気分のまま、外を一瞥した。

 あら、と一瞥を外に留めた。いつの間にか、草むしりをしていた金時と赤銅色の髪の少女が何やら話し込んでいる。金時は休憩も兼ねて、だろう。壁際に積んであった薪に腰かけ、2人して何を話しているのか。ぼけっとしながら眺めること5分、のんびり眺めていると、ふとすやすやとした音が耳朶に触れた。

 「まぁ、まぁ」

 ライネスの小さい頭が、こくこくと頭を上下させている。さらさらと流れるプラチナブロンドの髪は、山際に吸い込まれていく夕日を浴びて黄金に煌めく小川のよう。

すっくと音もたてず立ち上がると、エリザベスは隣のリネン室へと向かった。薄手の毛布を手狭な小部屋から持ってくると、ライネスの身体に薄く被せた。まだ、起きる気配はない。

 すやすやと寝息をたてるライネスの可愛らしいつむじを、エリザベスは見下ろしていた。彼女は、ロンドンの生まれだという。彼女の作り上げた偉大なるイギリスの遥か300年先に生を受け、そうして今、さらに未来の為に戦っている。エリザベス1世という女王として在る彼女が、そこにあまたの情動を抱くのは自然だった。例えば愛しさであったり、例えば誇りでったり、例えば憐憫であったり。人間的な自然的感情を胸に、エリザベスは、その小さな頭を軽やかに撫でた。きっと、彼女を育てた人間は一角の人物であろう、と思った。

 よし、と胸を張ったエリザベスは、足取りも軽やかにテラスを出た。向かうは一室、リビングである。ライネスとリツカが2人で作業する一室は、キッチン奥のテラスから歩いて20秒とかからない。ドアをノックしてからドアを開けると、エリザベスは素直に「ウワ」と厭そうな声を漏らした。

 何せ本が散らかっている。しかも無数に浮かび上がった映像枠も、なんだか散らかっている印象を増大させている。どう贔屓目に見ても、片付いているとは言い難い。なんとなく、アリスが外へ出た理由がわかるような気がする。綺麗好きで保守的な彼女がこの光景を見ていたら、不機嫌になること間違いなしである。というか、実際あまりにリツカが乱雑にリビングを使った結果半殺しにしたりしていた。つい数日前の出来事である。

 調査に必要と言えば引き下がるが、それはそれとして直視に堪えないものを見ていると我慢できなくなりそう。そんな葛藤の結果、アリスは外へ出ることにしたのだろう。

 ちゃんと仕事が終わったら片付けしないとな、と思いながら、エリザベスはテーブルの上に山積みされた本を眺めた。

 一見ただ山積みされているが、きちんとジャンル分けされているらしい。先ほどライネスが言っていたジャンル分けを思い起こしたエリザベスは、漫然と一番上に積まれた本の表題を眺める。

 化学の本に宗教書、宇宙の本に妙な幻想小説。どれにも分類されない本は、部屋の隅の方に平積みされていた。

 最初に手を伸ばしたのは、宗教書だった。何べんも読んだらしく、硬い表紙がすり減っている信仰告白の本だ。

 最初から熟読するつもりもなく、ぱらぱらとページをめくる。ドイツ神秘主義のマイスター・エックハルトが記した本だったが、酷く毒々しい赤い文字が書きなぐってあった。

 

 “奴らがこの次元にやってくる。あの数式だ、あの数式を唱えよう。そうすれば奴

 らは……あぁ奴がくる。奴が、

 鏡から”

 

 エリザベスは本を閉じた。何か異様な寒気を感じたからだ。恐怖とも違う、悍ましい感情。身震いして本を元の場所に置いた……正確には投げやると、それでもエリザベスは、別な本を手に取ることにした。

 こちらは奇妙な幻想小説を積み上げた棚から手に取った。真っ黒な表紙の本には、表題らしきものがない。というより、表題のあった場所は何故か削り取られ、ぼろになった茶色い厚紙がけばけばと露出していた。全体的に古い本に見えるが、状態が良いだけに、削り取られた部分が異様だった。背表紙も同じようにタイトルが削り取られている。1ページ目を開いてみても、タイトル部分は黒く塗りつぶされていた。

 無名の黒き書物。漠然と思い浮かんだ言葉に、何故かエリザベスは怖気を感じた。このままページを開くことが極めて不快なことを惹き起こすかのような予感がした。 

 だが、彼女の強靭な精神はそんな弱音を踏みつけて、彼女は果敢にページを開いた。

 

 “外なる神々について”

 “地球の理とは全く外なる宇宙に、彼らは君臨する。窮極の宙の彼方より来る 

  闇黒の神は、この常世全てを治める邪悪なる不浄のものどもである”

 “分けても、銀の鍵の門の先に鎮座するかの者は、神々の中でも最も力強く、 

  恐るべきものである。儕輩にして番たる黒山羊の産み落としたる鍵の仔に

  よって、かの魔神は呼び出されるだろう”

 “時間の最果て、宇宙が晴れ渡る前に時間の外に現れた嵐の王に対抗し得るのは、  

  かの最極の空虚以外にない”

 

 エリザベス女王は一度、ページを閉じた。逡巡というには長すぎ、かつ長考というには短すぎる思惟を巡らせた彼女は、もう一度、同じページを開いた。何事かを、呟きながら。

 

 

 “汝、黒山羊の器たる鍵の仔を探すべし。武を以て黒山羊の巫女たらんとするもの

 に、かの蕃神は溢れんばかりの呪いを与えるであろう”

 

 【以下、恐らくジキル氏のものと思われるメモ】

 夫とは、妻の尻に敷かれるものである。アスタンが言っていた。

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