fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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Ⅲ-9

 マシュ・キリエライトにとって、その時間はちょっと、何をしていいのか不明だった。煉瓦の建物が立ち並ぶストリートのただ中、ちょっと前を歩くアリスは、無言のまま黙然と歩いていく。普段の修道服めいた礼服とは異なる、白いセーターに黒いミニのフレアスカートという出で立ちは、シックでありながら華やかさもあり、素朴に綺麗だな、と思った。なんとなく、水玉模様のワンピースという背格好は幼すぎたかな、と仄かな羞恥を感じるマシュである。

 定期的にロンドンの市街に繰り出しているらしいアリスに付いていくことにして、はや1時間。終始無言のまま行進するアリスと並んで、マシュもこの一時間はずっと無言だった。そもそも、コミュ力がカンストしていようとアリスと楽し気な会話をするのは中々難解である。ましてマシュでは、どれだけ気を回したとても徒労であろう。散策を始めて10分でそれを悟ったマシュ・キリエライトは、街並みを眺めて楽しむことにしていた。

 それに、マシュにしてみれば、それだけで十分と言えば十分ではあった。出生が出生なので、眼に入るものは全て目新しいものだ。珍しく晴れているお陰で、陰鬱な街並みもどこか輝いて見える。何故か人通りに乏しいのは残念だけれど。

 ある意味で無邪気に街並みを観察するマシュに対し、アリスはやはり黙々と歩き続けている。途中、生花店で薔薇の花を束で買ってから、さらに30分。広々とした公園に出ると、アリスはちらとマシュを瞥見した。

 が、無言。アリスの鋭い視線にしどろもどろに戸惑うマシュも、どうしていいかわからず、アリスにただただ丸い視線だけを返した。互いに視線だけを交わし、肝心の意思の疎通ができていない不毛な時間は3分で終わった。小首を傾げ、傾げた小顔をさせるように顎に手を当ててから、アリスはなるほど、と得心したように小さく頷いた。

 「待ってて」

 ぼそりと蚊の鳴くように声を発すると、アリスはきびきびと公園の芝生を歩いていった。風に揺れる赤色のケープの鮮烈さに目を奪われながらも、なんとなく置いてけぼりになったマシュは、手近にあった、人の座っているベンチの隣に腰掛けることにした。デミ・サーヴァントとして頑健な身体ではあるものの、それはそれとして疲労しないわけではない。ベンチの上にハンドタオルを敷いて……この水玉模様のワンピースは、クロが投影したものだった。わざわざ!……座ると、ふわぁ、と深いため息をして、今度は肺一杯に息を吸い込んだ。

 シティ・オブ・ロンドン。世界で最も早く近代化を遂げた都市。そう聞くと何事か魅力を感じるが、実態はあまり褒められたものではない──なんとなく、マシュが抱いた感想がそれだ。何か文明が興る時、そこには必ず食い物にされる労働力があるというのが歴史上の必然なのだろう。とは言え、いざ食い物にされる労働力にさらされる人々はたまったものではない、と思う。今マシュの隣に座る初老の男はとてもみすぼらしい恰好で、うつらうつらと頭を前後左右に振っている。ベンチに座っている彼はまだ良い方で、公園の芝生を見やると、そこかしこに両手両足を放り投げる人々の姿が目に付いた。誰もかれも身なりはお世辞にも綺麗とは言い難く、起きているものたちは酷く粗野な言葉で言い合っていた。

──漠然と、マシュはこれまでの旅を思い返していた。オルレアンで戦った酒呑童子のこと。ローマで戦った源頼光のこと。大海で戦ったカイニスやヘラクレスのこと。

 「いいかいマシュ」おそらくは必然的な連鎖として、リツカの声が鼓膜の裏を擽る。「マシュにはなるべくは善き事を選んで欲しいし、それに、生きたいと思う生き方をするんだよ。善く生きることが、人の生の本質なんだからね。それは、人生が長かろうが短かろうが変わらないことだ」

 フジマル・リツカが言っていたことは、多分、真理であろうと思う。思いながら、マシュはただただ困惑のまま、隣で酷く疲れた様子で眠る老人を眺めていた。年齢はいくつくらいだろうか。どうして、独りでいるのだろう。家族は居ないのだろうか。何故、公園で寝ているのだろうか。もちろん答えは赤貧……年老いた人々は、搾取される労働単位ですらなくなり、ただただ搾り取られた残りカス故に、ただただ生を繰り延べることしかできなくなっているのだろうか。

 と、老人が目を覚ました。分厚い口ひげの奥からあくびを漏らし、老いた四肢でもって恐々と伸びをすると、ようやっとマシュの存在に気づいた。どうも、と卑屈そうに伏し目がちの挨拶をしてから、「見ない顔だね」と口にした。

 「外国から来たもので」

 「アメリカあたりかね。向こうは景気がいいだろう?」

 じろじろと不躾にマシュの身なりを認めると、老人は懐かしむように口にした。多分、自分がきちんとした身なりで、好景気の恩恵に浴していた頃を思い出していたに違いない。19世紀末、既に善いイギリス人はアメリカに渡り、残された人々はおおむね()()()()()であった、という知識はマシュにもあった。

 「うーむ? それにしてはアメリカ訛りがないようだね」

 ちょっとだけ訝るように口にすると、老人は奇妙な眼差しを向けた。大胆なさもしさと、厳かな卑屈さをありありと示した眼差しだった。己に向けられた眼差しの意味も分からなかったけれど、マシュは、直観的に何事かを感じた。畏れのような感情だったが、それは厳かなものや貴きものに出会ってしまったときの、尊重すべき感情ではなかった。その畏怖を端的に言えば、人間性というものの、恥知らずなまでの底知れない堕落に眩暈を覚えたのだった。

 だが、老人は寸で口を閉ざした。小動物のようにびくびくしながら顔を挙げる老人につられ顔を上げると、蝋人形を思わせるかんばせの少女がこちらを見ていた。

 「キリエライト」冷酷なまでに犀利な眼差しが、老人を貫く。「行きましょう。疲れたでしょう、喫茶店にでも」

 アリスの声は、鈴の音のように流暢だった。びっくりしたマシュはちょっとだけ反応が遅れてしまい、慌てて立ち上がった。「はい、是非」

 「ありがとうございました、すみません」

 「いやいや結構」

 ベンチに座る老人は、酷く年老いて見えた。マシュは異様な疚しさのようなものが身体のどこかで疼いた気がした。マシュはもう一度深々と頭を下げると、悠然と赤いケープを靡かせて歩くアリスの背を追った。

 「ありがとうございます、私どうしたらいいのか」

 マシュが隣に並ぶと、アリスはちらっとだけ一瞥をくれた。澄ました表情のまま、アリスは「ここは地獄よ」と色もなく呟いた。

 「アレはまだ紳士的なほうよ。覚えておきなさい」

 マシュは振り返った。ベンチの上には、もう誰も居なかった。

 「お腹が鳴っていました」マシュは、彼が何か言いかけた時に耳にしたことについて、口にしていた、「その、物乞いをされようと」

 「大局的に見て。ここはあくまで、特異点。ここにいる人間たちは、所詮は過去の人間たちの再現よ。彼らの空腹が満たされることにはなんら価値がない。キリエライト、あなたの空腹が満たされることの方が遥かに価値がある」

 静かに言いながら、アリスの口調には取り付く島もない。残酷なまでの真理を前に、マシュは押し黙ってしまった。その真理の真理たる所以を理解して、マシュは顔色を悪くした。

 「ウエストエンドの方に行きましょう。イーストエンドよりはまともな喫茶店があるから」

 マシュの顔色を伺ったアリスはいつものように小首を傾げて思案すると、マシュの頬に手を当てた。

 またびっくりしたマシュが素っ頓狂な声をあげて飛び退くと、また、いつものように小首を傾げて思案した。沈思とは言えない秒未満の思案だった。ぼそ、と何か呟くと、普段のツンとした表情に戻った。

 「マンボウって、知っている?」

 怒ったような、あるいは哀れむような、それでいて得心に満ちた顔でアリスは言った。知っている、と伝え、図鑑で見たことを伝えると、そう、とアリスは苦し気に声を漏らした。

 「優しいのに、傷だらけなの。それとも逆なのかしら」

 「え?」

 「優しいから傷ついてしまうのか。傷つくことを知っているから、優しいのか」

 うわ言のように言ってから、アリスは首を横に振った。なんでもない、とマシュに行ったアリスは、空を盗み見るように仰いだ。横から見るアリスの顔は、何か痛ましく懐かしんでいるように見えた。思わず、マシュは立ち止まってしまった。

 「勁いのね、マシュ・キリエライト」やはりうわ言を漏らしてから、アリスは「さ、いきましょう。混む前に」

 振り返る日本人形のような彼女。なんとなくその姿が戸口でマザーグースを嘯く老魔女のように見えた。

 先を行くアリスについていくこと、はや5分とちょっと。ウェストエンドの某広場から入った小径に入ると、目的らしい喫茶店はすぐそこだった。

 煉瓦の壁から下がる立て看板には、喫茶店というよりはパブめいた名前がついている。気にせずに戸口をあけるアリスに戸惑いながら……今日は戸惑うことが多いな、などと思いながら入ると、マシュは小さく感嘆の声をあげた。

 古いパブ、といった様相であるが、却ってそれが味を増している。カウンターに4席、4人がけのテーブル席2つに2人がけのテーブル席1つの手狭な空間だが、暖色の照明に照らされ、優しい闇暗が風味善く漂っているかのよう。戸を開けた時の秘めやかな鐘の音も相まって、洒落た秘密基地とでも言えそうだ。

 「やあクオンジくん」店の奥からのっそりと顔を出したのは、口ひげも豊かで高身長の、いかにもイギリス紳士といった風貌の老人だった。「1週間ぶりかな?」

 アリスはそれに声では応えず、無言のまま小さく頷いた。それだけでいいらしい。対して深く頷いてから、品の善い老人は気さくそうにマシュを見やった。「君は初めてだね、お嬢さん」

 綺麗なイギリス調の英語だ。はい、と顔を赤くして頷くマシュが気に入った様子で、老人はにこにことしていた。

 「君がご友人とは珍しいじゃあないですかね?」早速、老人はカウンターの裏手に回るといそいそと準備を始めた。「いつもので構いませんか?」

 「それと何かお腹に溜まるものを」

 カウンター席につくと、アリスは無表情のまま言った。そうして、マシュを一瞥した。

 「いや、私は」

 「よく食べること、それが健康な人生の秘訣だよ」

 わたわたと手を振るマシュに、老人は相変わらず快哉の表情だ。多分、素朴に良い人なんだろうと思わされる。それはそれでいいけれど、なんだか大食いの女の子みたいに言われるのはちょっと恥ずかしい気もするマシュである。肉体年齢16歳の彼女は、いわゆる思春期の感傷を気にする年頃なのだ。

 「元はパブらしいのだけれど」

 店の奥に店主が消えていった段階で、アリスが言った。チョコナン、と椅子に座り、行儀よく膝の上に手を置く様子が、言いようもない育ちの良さを感じさせた。それと、なんか、ちょっと可愛らしい。

 「紅茶の淹れ方が巧くて。昼は喫茶店として開けているの」

 「よく来るんですか?」

 「()()で外に出るときは」

 アリスは気だるげに言いながら、ぼーっとカウンターの奥を眺めている。種々の酒がずらずらと並ぶ煌びやかな棚は、ここがパブ……夜は紳士淑女が集い、品よく“お酒”を嗜んでいることをよく証明している。

 マシュたちがこの特異点に来て、アリスたちに匿われてからはや1週間ほど。その期間、アリスはおよそ2日に1回は用事で外へ出ている。早朝に出て、およそ夕方。皆が夕食を食べたくらいの頃合いでやってくるのが常だ。その間、彼女が何をしているのか知っているものはいないし、また聞くものもいない。魔術師の行為に対し、そもそも根掘り葉掘り質問すること自体が無礼極りないことである。まして、相手がかの“マインスターの魔女”ともなれば、無礼打ちでは済まされないものだ。

──マインスターの魔女。在り方はおおまかには人形師であり、系統的にはウィッチクラフトに分類されるというが、マインスターの魔女の魔術系統は元の系統からほぼ別物に発展・進化したという。人の夢想幻想を形になす使い魔、プロイキッシャーによって具現される神秘の濃度は、近現代に近しい魔術師にしては破格である。ましてサーヴァントとして形を得ている彼女の強さは、神代の魔術師にも近しい──と言っていたのは、まさしく神代の魔術の担い手であった玉藻の前であった。

 魔法以上に魔法に近しい魔術。寡黙で鋭い眼差しの横顔からは、荘重且つ峻厳さが言いようもなく沸き立っている。魔術の世界には疎いマシュでも、アリスという人間がどれだけ異様なものなのかは、どうしようもなく知れた。それでいて、静謐さとともにそこに実存する存在は、深窓の令嬢という言葉を思い起こさせる。

 どうぞ、と店主が差し出した1パイント(約550ml)の紅茶が入ったティーポッドをしげしげと眺めると、併せて差し出されたティーカップにそろそろと注いでいく。ソーサーごとカップを持ち上げ、静々とカップの縁に口唇を触れ合わせる。ほう、と零す溜息まで、極めて甘美な一枚の絵画のようだ。清潔さの奥に一擲だけ妖艶さを垂らしたかのような瑰麗たるかんばせは、同性のマシュでも見惚れるほどだった。

 マシュの前に運ばれてきたのは、ふんわりと楕円形に形作られた黄色いたんぱく質の塊……要するにオムレツと、深皿にもりもりと盛られたのはクリームシチューに、パンが1つ。1人で食べるにはやや量が多いだろう。

 「アリスさんは召し上がらないんですか」

 目の前で馥郁たる香を湯気とともに立ち昇らせる食事を前に、マシュはちょっと伺うように横顔を見る。アリスは紅茶を飲んだまま、澄ましたようにしている。

 「あぁ、彼女は彼女用のものがあってね」奥から顔を出した壮年の店主は、額に汗を浮かべている。「だから大丈夫。遠慮なくお食べ」

 今一度、マシュは隣に座るアリスを伺った。ティーポッドからカップに注ぐアリスは、そんなマシュの気遣いなど全く気にしていないご様子だ。

 勢い、マシュはむしゃむしゃし始めた。オムレツ用のスプーンとクリームシチュー用のスプーンを使い分ける品の良さもなく、ただただ目の前で馨しく湯気を立てる食事を咀嚼しては食塊形成して嚥下して胃を温める、という一連の動作に奔走した。

 マシュには、例えばオリーブの風味とバターの味わいをしっかり感じながら油きれがしっかりしていて、且つ濃厚な卵の味わいと口当たりのいい焼き上がりのオムレツの旨さであったり、あえて小麦粉を多めにしたホワイトソースと大きめに乱切りしたジャガによって腹持ちよく作られたクリームシチューの気の利いた仕上がりであったりまで、理解できるほどに舌が肥えていなかった。が、そんな賢しらな舌の感度など、そもそも料理には不要だった。マシュはただただ若さのままにたらふくになるまで腹ごしらえし、満足気な顔をしていた。そうして、店主はまだまだ若い子供が、善い表情をしているだけで満足なのだ。

 「見たところ、外からの方のようだけれど。どちらから?」

 「アメリカから」口の中にオムレツの塊を押し込めたまま、マシュがもごもごと口にした。ある種のはしたなさも、若者の特権であろう。「今はホワイトチャペルの方に宿を」

 「なんとまあ、あんなところに?」

 老人は、信じがたい、というように大仰な身振りをした。ありありと浮かんだ軽蔑の眼差しは、もちろんマシュに向けられたものではない。明瞭な軽蔑と不快感を露わにしつつも、老人は心配げに肩を竦めた。「またどうして」

 「ちょっとその、仕事で」

 ちょっと苦し気な言い訳になった。マシュは16歳だが、彼女は割と童顔なこともあってさらに幼く見える。そんな彼女が仕事で外国に来て貧民街で暮らしている、というのは、どう見ても無鉄砲が過ぎると思う。もちろん、マシュは見た目以上に頑健な肉体の持ち主なので、不届きな人間が乱暴を働こうものなら返り討ちにできるのだが。

 「こりゃ逞しいことだ。アメリカも旺盛な国だからねえ」

 目を丸くしながらも、老人は奇異と感嘆の表情を浮かべていた。

 「先進国だなんだと言われてるけどね、もう世界の中心はアメリカさ。若い活力はみんな、海の向こう。この島国に残ってるのは、その力のない畸形児や老人ばかりさ」

 皮肉っぽく、老人は大いに肩を竦めた。そんなに悪いんですか、というマシュの素朴とも言える質問に、老人は芝居がかった頷きを返した。

 「ウエスト・エンドだって、成熟した文化が花開いているように見えるけどね。ちょっと脇道に入ると、ここいらだって浮浪者ばかりさ」

 マシュは、覚えず先ほどベンチで寝ていた老人を思い出した。よれよれの衣類に不健康そうに伸ばし放題になった髭、よれよれの肌に濁った眼球。卑屈そうな佇まいと、目の前の気持ちのいいイギリス紳士とは驚くほど対照的だった。マシュは、口に運びかけていたクリームシチューを一度止めてから、やはり口にかきこんだ。老人が作るシチューは、とても旨かった。

 「僕は政治家じゃあないし、経済も知らないからねえ。社会主義者でもないし。どうたったら浮浪者たちがちゃんとした職を得られて、きちんとした人生を送れるようになるかわからないけども。少なからず、老人がウジ虫に食われながら死んだり、年若い女性が誰が親かわからない子供を産んでは死なせてを繰り返している社会は、とても健康とは言えないだろうね」

 何か調理しながら、老人は深い嘆息を吐いた。どこでイギリスは間違えたのか、とでも言いたげな物憂げな顔は、事実この社会的状況を憂いている善人の顔だった。この老人が浮浪者の生活保護施設に細やかな援助を行っていることを知るのは、しばし後になってからのことだ。

 マシュは、ただ沈鬱にその言葉を聞くことしかできなかった。未熟でとても幼いマシュには、どうしていいか不明な巨大すぎる問題だった。明確な悪しき敵がいるなら、それを打倒すればいい。言ってしまえば、彼女たちの旅とはそういうものだ。過酷極まりない旅だが、何をすればいいか明確なだけに、ある意味単純な戦いである。だが、目の前に横たわっている問題は、そんな端的な問題とは趣を異にしすぎている。複雑な問題が絡まり、正義と不正義が分かちがたく絡み合っている。イギリスという国そのものは、既に世界の中心から脱している時期であるものの、やはり裕福であるに違いはない。が、その裕福さの影で、さっき見た老人や公園で寝そべっていた身汚い人々、あるいはあの酒場で汚らしくビールに溺れていた浮浪者たちが山盛りにいるのだ。

 ──特異点での出来事は、ある意味で過去の再現に過ぎない。既に終わったことであり、この特異点にある社会的な問題を解決することに意味など無い。が、多分、この箱庭で起きていることはこの時代だけの特殊的な問題ではなく、人間社会に普遍的に生じる問題ではないか。

 ──神妙に思案するマシュだが、当然、何事かの解決策のようなものが頭に浮かんでいるわけではない。現代の学者が頭を悩ませながら解決策を模索している事象である。まして、マシュになにがしかの妙案があるわけがない。のだが、それはそれとして、真面目なのでそういう問題の大仰さに、真剣に悩んでしまう質であった。端的に言うと、マシュ・キリエライトは真面目で善良で、良識を備えた健気な少女なのだ。加えて、言うならば。

 グゥ~。「あっ!」

 「おや」

 「……」

 彼女の齢は16、育ち盛りで食べ盛りだった。

 唸るような空腹の音に顔を真っ赤にするマシュに、老人は愉快そうな顔をしながら「前から失礼」と身を乗り出した。深皿……というよりどんぶりといった見た目の器には、並々と澄んだ琥珀色のスープが注がれ、練った細い小麦粉が龍のように揺蕩っている。

 ……どっからどう見てもラーメンである。メンマやらチャーシューやらもしっかり添えられて。

 「えーと」

 なんでこんなのあるの、と困惑しながら横を見て、マシュはなおのこと目を丸くした。いつの間にか、アリスはシルバーのフォークでくるくる麺を巻いては小さな口でラーメンを食べていた。

 「うっ」

 音もなく麺を咀嚼していたアリスは、もごもごと口の中を動かしながら、マスターに「うっ」とかいう言葉だけを伝えた。ぽかんとするマシュに対し、老人は「それは善かった」と素直に言った。

 「ライムハウスに行った甲斐があったよ」

 マシュは、色んな雑多な感情とともにそのラーメンを見下ろした。もうもうと湯気を立てる、馥郁たる香のなんとまあ旨そうなこと。さっきあれほど食べたのに、マシュは早々と空腹を抱いていた。と同時、マシュはフォークを手にしたまま、そのいかにも美味しそうな食事をに手を着けるのが、とても疾しいことのように思えた。うっ、と喉を詰まらせたように声を漏らすアリスの素振りが、このヌードルが非凡な美味しいさであることを伺わせる。それだけに、その空気のようにうっすらと漂う疚しさが痛々しくもあった。

 アリスが「食べないの?」と言わんばかりにマシュを見たのは、半ば必然だった。アリスの器の中は既に残り5割を切っており、マシュはまだ一口も手に着けていなかった。逡巡というには長く、長考というには短い葛藤の後、マシュはスープの中にフォークを突き入れ、やや手間取りながら巻き付けた。

 酷く、旨かった。酷く──。

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