fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
目を覚ますと、トウマはいつも通り健やかな寝起きで身体を起こした。
ベッド上の窓からは、朝の薄暗い仄光が射している。相変わらず、今日もロンドンは闇暗の霧が立ち込めているらしい。陰鬱、とまではいかずとも晴れがましさも感じない、そんな表情で窓を眺めると、上体を起こしたまま、部屋を見回した。
モリアーティが手配した部屋は、大雑把に言えば1LDKほどの賃貸という形になる。その中に5人で暮らしている、という状況なので、当然ベッドで寝ているものもあれば、ソファで寝ているものもいる。ちょうどそこのソファではクロがまだ寝ていたし、玉藻の前に関してはサーヴァントらしく、夜間は霊体化して睡眠を摂らないことにしている。
当然、理性と良識に照らし合わせれば、自分がベッドを優先的に使わせてもらっていることについて呵責なり疚しさなりを感じるわけで。決まり悪く眉を顰めながら、トウマは鼻頭を撫でた。マスターであるトウマに良い暮らしをさせるののもやはり当然、という理性的判断もあるだけに、葛藤の溝はある意味で埋めがたい。
トウマは毎朝のように気分悪げな顔をしながら、バイタルデータをチェック。問題ないことを了解すると、そそくさと布団をかきわけてベッドから抜け出した。
じとりと身体に湿気が纏わりついている。自分の汗によるものか、濃霧が立ち込めるロンドンという気候のせいなのか、判断はつきかねる。手近にあったタオルを手に取ったものの、水の節約が脳裏を過ったトウマはタオルから手を離した。特異点のロンドンにせよ補給が絶無になったカルデアにせよ、水は貴重品なのだ。
トウマは既にしわしわのタオルを畳み直して、テーブルの上においた。ソファで寝息をたてているクロは、小さく何か寝言を漏らしている。「ケバブに……ヨ……トソース」
チリソースだって美味しいぞ、と思いつつ、トウマはクロにかかっていたタオルケットを直した。サーヴァントだから風邪を引いたりすることはないだろうけれど、下着姿で寝ているのはちょっと寒そうだった。
幾ばくかの空腹を覚えつつ、トウマはとりあえず身なりを整えることとする。もう一方のソファに投げ出してあった極地戦闘用礼装の袖を通し、パンツを履く。一度ソファに座ってみる。既にクッションが硬くなり始めたソファは、寝心地は当然、座り心地もあまりよくはない。すやすやと熟睡を続けるクロを一瞥した後、トウマは抜き足差し足でキッチンへと向かった。多分、玉藻の前はもう朝食を作り始めているだろう、と思ったからだった。
実際、玉藻の前はキッチンで料理をしていた。ガスコンロはあるが、ホワイトチャペル地区にはろくすっぽガスの供給はなく、調理の途中で止まる始末である。追加の金を手元のコイン入れに入れると追加のガスが供給されるという課金制だが、継続時間は僅か数分という阿漕さは目を見張るものがある。もちろん玉藻の前はそんなものは使わずに、得意の呪術【呪相・炎天】により、彼女は悠々と調理していた。
「あら、タチバナ様今日もお早いですね」
ふりふりと狐の尻尾を揺らしつつ、玉藻の前は綻ぶような笑顔を見せる。山ブドウのような艶やかな瞳は、彼女が人ならざる野生に起源を持つことを、ありありと感じさせる。
「アリスさんは?」
「今日は特に、ご予定などはないようですね」
そっか、とトウマは返した。アリスは屋敷に居た頃から、結構頻回に外出してはなにがしかの用事をこなしている。なんらかの魔術を行っているらしい、というところまでは皆知っているが、その内容までは杳として知れないことだった。
「タチバナ様は続きですか。皆さまもいらっしゃることですし」
玉藻の前が言わんとしていることは、例の映像の分析のことだろう。今のところさして進展がない事業だけに、早く成果を出さなければ、という焦燥もある。
鼻頭を撫でながら、そうだな、とトウマは自問する。特に予定がないなら、普通に考えればそこに専念すべきだろう。
だが、念頭にあったのはあのモラン大佐の言葉だ。努めて、普段通りの生活をしろという指示を思い返せば、分析に専念するのはやや矛盾する。
それに、ずっとここで箱詰めされているというのも窮屈だ。急がないわけではないが、24時間缶詰になってまでやるほどの任務内容ではない、という対自的な自覚もあった。
改めて、頭の中で仕事の工数と日程を考える。あのアメリカ海軍あがりで、アトラス院に起源を持つ黒人から教わったことだが、仕事のできる社会人とは、スケジュールを自覚して、自分が受け持っている仕事の工数も自覚して、如何にサボりながら全体性を以て自分で仕事をコントロールできる人のことを言うそうな。16歳高校生のトウマにはまだまだ実感はないけれど、要するに夏休みの宿題はちゃんと前もって終わらせておけということだろう。どちらかというとコツコツ宿題をしてきたタイプなので、不慣れではない。
結果、今日はそんなに根を詰める必要はないな、とトウマは判断した。判断してから、視界に網膜投影で表示されるデジタル表示の時計を一瞥。まだカルデアと連絡を取る時間ではないな、と確認する。正直、まだまだタチバナトウマ少年は高度に判断できるだけの経験値がないという自覚がある。リツカと別行動する際は、定時連絡に併せてカルデアに報告を送ることにしていた。
「今日はほどほどにして」とは言え、割とダ・ヴィンチは放任主義なので、トウマの判断がそのまま通ることの方が多い。「休みメインで行こうかと」
「あら、そうですか? じゃあたくさん作り置きでもしましょうかね」
ひょこひょこ、と蠱惑的に狐の尾が揺れる。なんというか、その柔らかそうなこと柔らかそうなこと。なるほどケモとは性癖を刺激されるのだな、と彼はしみじみと思った。なんとなく思い出していたのは、昔近所の牧場で放し飼いされていた黒い山羊の朴訥とした佇まいだった。
「お触りになります?」
トウマの視線に気づいたらしく、悪戯っぽい視線でトウマを舐めまわした。ひょこひょこ、と揺れる馥郁たる芳醇な尻尾が手招きするように揺れる。心地よい悪寒のような不定の情動を惹起させたトウマは、仰々しく表情を強張らせながら「いや、大丈夫です」と声を漏らしていた。
「多分帰ってこれなくなる気がしたので」
「なるほど~」
残念、とでも言うように、玉藻の前は肩を竦めて舌を出した。ただ、なんとなくその身振りは芝居がかっているようにも見え、山ブドウみたいな目を丸くしているのが、内心の意外さを表出しているように見えた。それがなんの意外さを感じているのかは、トウマには与り知らぬことだが。
「それにアレでしょう、触って良いのはお一人だけと申しますか」
「あーはいはい、そうですね」
にこにこと頷いてから、玉藻の前はコンロの火を調整すると、「不思議なこともあるものですねぇ」
「ケースCCCはどの事象にも記録されていないことなのに、別な世界では遊戯の一貫となっているのでしょう? なんだか癪に障るような、愉快なような」
玉藻の前の言葉も、確かにな、と思った。
例えば今自分が行っている
さてと、と玉藻の前は割烹着の前掛けで手を拭いた。コンロの火はとろ火。あとはじっくり煮込んで完成、ということだろう。玉藻の前も、今日の仕事も一つ終わりということだ。一服でもするように別なコンロに置いてあった
「いただきます」飲め、ということだろう。素直に従うことにする。「ほうじ茶ですか?」
「麦茶ですね。そちらからの補給品にありました」
「熱い麦茶……?」
「このパック、煮ださないと色出ない奴ですよ」
こぽこぽと無骨な湯飲みに麦茶を注ぐと、玉藻の前は何か探るようにトウマの顔色を伺った。もうもうと湯気を立てる濃い麦茶は、なんとなく、傍目にはコーヒーにも見える。麦茶というと、夏場に出てくる薄い飴色の液体を想像するけれども。カルデアでも、元から調理師として採用されて働いているスタッフが冷蔵室に作り置きしているけれども、わざわざ煮だしてはストックしているのだろうか。そう思うと、なんとも申し訳ないような気分にもなる。確か、2人いる調理師も元は魔術の家系なんだそうな。バリュエ出身で食べることが大好きなイタリア人の女性に、ミスティール出身にも関わらず、自分の魔術の家系には一切興味がなく食事の研究ばかりしている変人のブラジル人男性の2人。控えめな女性のスタッフもラテン系らしい快活な男性スタッフどちらも親しみやすい人物で、なんとなく2人の顔が頭をよぎる。
2人とも立ったまま湯飲みを呷る。特にどちらも用事がないので、なんとなく無言のまま、ちびりちびりと熱い麦茶を舌の上に転がしていく。なんとなく、口当たりはコーヒーに近いだろうか。酷く苦い。
「タチバナ様は」ふうふう、とコップの口に吹きかけながら、玉藻の前が言う。「帰りたい、とか思わないんですか?」
「何と言いますか、結構落ち着いてらっしゃるように見えまして」
「大分経ちますから。もう、半年近くは居ますよ」
トウマもちびちびと熱い麦茶を口にする。視線は湯気が立っている麦茶の水面を目指しているが、視線の先は縹緲と広がる虚空を眺めているようだった。
いや、トウマだけでもない。玉藻の前も、ぼけーっとしているように湯飲みを飲んでは呑気そうに熱気を吐息として吐き出している彼女の仕草も、まるでさして重要でもなんでもない井戸端会議といった様子で聞いている。もちろん、彼女はこの話題が些末事ではないことも理解しているのだろう。他人事と割り切りながら、その割り切りの中で最大限寄り添おう、という細やかな気遣いの現れなのだろう。ともすれば諧謔とも言える調子で「良妻狐になります」と言っているけれど、その言葉の内実は真に血肉の通ったものなのだ。改めて、玉藻の前というキャラクター……否、人物像の淵に、触れたような気分だった。
「正直、自分でもよくわからないですね」
なので、トウマも特に考えてない素振りで応えることとした。
「帰りたいかって言われれば帰りたいですけど、ホームシックになるかと言われるとそうでもないですからね。そんなこと、考えてる暇もなかったのかもしれないですけど」
ようやく冷め始めた茶を、少し多めに口腔内に注ぎ込む。が、思ったより熱くて、トウマは思わず顔を顰めた。もう少し冷めてからだな、と思った。
なんとなく、思考は過去へと飛んでいく。
この世界に初めて来た特異点、冬木。フランス、ローマ、海洋、と転戦して、今度はイギリスの首都ロンドンだ。どの特異点でも生半可な敵は居なかったし、戦いが続けば続くほどに感じるのは己の非力だ。そうしてその度に思うのは、さらなる向上だ。その無限の反復に気を取られて、とても元の世界に帰るどころではなかったのだろうか。
「もしなんですけどね、もし」玉藻の前は、まだちびちびと麦茶を飲んでいる。猫舌なのか、ちろちろ舐めるようだ。「今すぐ帰れるとしたら、帰ります?」
こくん、とトウマは麦茶を飲み込んだ。熱い感触が咽頭を熱心に摘まみ上げ、食道を爛れさせるようだ。げほ、とむせながら、トウマは上目遣いで玉藻の前を見やった。
玉藻の前の瞳とぶつかる。あの、山ブドウの目は変わらない。だがその艶は大きく異なる。人間の賢しらさを感じないという点では変わらないが、それは動物的な無知故の滑らかな眼差しなのではなく、より上位存在故の知性的判断を思わせる目だった。端的にって、それは摂理(プロヴィデンス)を担う大いなるものが、小さく矮小な現存在を閲する眼差しだった。
“何故、あなたは戦うの?”
いつか聞いた、アリスの言葉が脳内で残響する。射抜くようなアリスの勁い視線と玉藻の前の視線はまったく別種のものであはあったが、問うている内容は同じものだ。立華藤丸、という存在者の存在、存在の淵源、個体性そのものへの審問なのだ、それは。
トウマは、言葉に窮した。かつてと同じように、彼は何と答えるべきか不明だった。戦う必然は、ないのだから。そして同じように、望郷というほどの強力な主観的動機もない、という宙ぶらりんな状態だった。
何故か、脳裏を過ったのは、オルレアンで出会った復讐者のサーヴァントの目だった。復讐者、という名前にそぐわずに、且つ彼の来歴を思えば人徳を感じさせる慈悲深い大人の双眸が、窮迫的で雄々しさすら伴う疚しさを惹起させた。アリスに問われた時と、同じように。
トウマは、何事かを口にしかけた。口にしかけたが、思うように言語化できなかった。泡立つように想起した過去から今への出来事の連続が、安易な言語化を阻むように。それでも何か言いかけたものの、トウマは、不意に足元を震わせた鈍い音で我に返った。
「あ」
振り返ると、普段の礼服姿のアリスがいつになく呆然と立ち尽くしていた。床に転がっているのは、何か古い書物だ。ハードカバーの黒い本は、縁がボロボロになっている。
㷀然と視線を迷わせていたアリスは、ようやっと腰を曲げて本を手に取った。ぎぎ、と音でもしそうなくらいのぎこちなさである。そうして本を取り上げてからも、数瞬ほどうろうろと視線を惑わせる。たっぷり5秒。短いようで長い5秒の間たっぷり思案を重ねたアリスは、「お」と歯切れ悪く声を漏らした。
「あぁはい、承知しました」
「あの、俺」
「いえいえ大丈夫ですよ。こちらこそ不躾でございました、ご容赦を」
深々と、玉藻の前は頭を下げた。それでは、と忙し気にペットボトルからミネラルウォーターを注ぎ始める玉藻の前。怪訝且つ諦観の滲んだ顔したアリスだったが、抗議の主張は行わなかった。
なるほど、「お」とは「お茶が飲みたい」という意味だったらしい。流石に数か月もともに暮らしていると、流暢な意思の疎通ができるということか。
なんとなく、トウマは手持無沙汰になった。玉藻の前は既に料理を再開していた。アリスも要件を満たして満足したのか、もう部屋に引き下がっている。何をするでもなく佇立していたトウマにとって、耳朶を打った無線のクリック音はちょっとした救いだった。
網膜投影された映像のステータスボードの中に、カルデアからの無線を知らせるポップアップが立ち上がる。モナ・リザをコミカルに模したアイコンだから、相手はダ・ヴィンチちゃんだろう。
「すみません、ありがとうございました」
「いえいえ」
やや小走りに玉藻の前に声をかけてから、トウマは自室へと向かった。別に聞かれてもいい会話ではあるけれど、漠然とした決まり悪さから逃れる口実にしてしまっていた。ベッドとソファが並んでいるだけの、およそ6畳の広さの部屋にすごすごと引き下がると、トウマは柔らかいとも清潔とも言い難いベッドに腰を掛けると、無線の応答に応えた。
(やあタチバナ君、おはよう)視界の中に投影された映像ウィンドウの向こうで、にこやかな笑みが浮かんだ。(早いね、まだ7時だけれど。いや、君にしては遅い方かな?)
「なんだか気が緩んでしまって」
(生活リズムは維持するように。気を付けてね)
軽く嗜めるように言うダ・ヴィンチに、トウマはほんの微かに肩を竦めた。さて、と素早く話題を切り替えたダ・ヴィンチの気持ちの善さが、ちょっと救いである。
(こちらからいいかな?)
「あ、はい」普段の定時連絡では、基本的にトウマが喋ってダ・ヴィンチは聞いた上で判断を指示するのが常だ。「大丈夫です」
(昨日の報告にあった君の情報、実験に移すことにした。日付は明後日の予定、時間はまだだ)
「えーと、あの俺」一旦、声を切った。「僕を狙っているかも、という話ですか?」
(そう。さっき、出現予測地点の割り出しが可能になるかもしれない、とわかってね。君にはまだそっちに居てもらわなきゃだから、まずはリツカ君に囮をやってもらおうかと。君個人を狙っているのか、いわゆる“弱い個体”を狙っているのかは不明だろう?)
ぞっと泡立った肌の感触は、一体何を含み持ったものだっただろう。いつの間にか、モリアーティとダ・ヴィンチは既に敵の尻尾に手を掴みかけている。それへの素朴な驚嘆と、自分の立場への仄かににがっぽい感情を、トウマは自覚的に理解した。
(あとでこっちのデータ送るから、目通しておいて。明後日の実験までには大丈夫? 一応、検証の際はそっちでもモニターして欲しいんだけど)
トウマは、頑張って思考を切り替えた。自分の仕事を思い起こしてから、「大丈夫です」と応えることにした。
(ごめんごめん、こっちの要件はこれで終わり。何かある?)
「いや大丈夫です、特には」
(オッケー、じゃあお願い)
「今日は、午前は休みにしようかと。15時~19時の間くらいは分析に時間あてようかと思います」
(了解。一応だけど、午前は仕事しちゃダメだよ君)
「はい」
ちょっとぎくりとする。トウマは内心の感情を表に出さないように努めたが、もちろん顔に出ていた。むー、と口を結みながら、ダ・ヴィンチは画面の向こうで腕組みをした。よい仕事はよい生活の中から生まれるものである。それが彼の信条で、劣悪な生活から善いものが生まれることは稀だと信じている。確かに、寝不足で学校に行っても眠くて授業どころではない。柄になく昔のことを思い出したトウマは、気を紛らわせるように「大丈夫です」と肩を竦めた。
(じゃ、よろしく。あまり焦らず仕事をすることさ)
あくまで素っ気ない様子で口にすると、ダ・ヴィンチの画面が空中に折りたたまれるように消えていく。微かな余韻に戸惑いながら、トウマは所在なくベッドに寝転んだ。
天井を仰ぐ。取り止めもなく心情が並んでいく。玉藻の前の言葉。帰りたくないのか、という彼女の言葉が、脳みその底の方に沈殿していく。やはり、強烈な望郷のようなものは、ない。だが、別に、元の世界に未練がないわけではない。親は何をしているのだろうか、友人はどうしているだろうか、と心配になるのも事実だ。一人っ子なだけに、親は色々心配しているだろう。
それに、小説とかでありがちだけれど、やはり元の世界に嫌気がさしたりしているわけでもない。善い教育を施され、善い友人もいて、生活に困ることもない。2010年代日本の中流家庭で健やかに育った少年なのだ。
でも、じゃあ、何故帰りたくないのだろう。いや、帰りたくない、というのも違うのだろうか。自分でも判然としない情動が倦怠にも似た痺れになって肢体を巡り、トウマは、漠と天井を見上げていた。
だから、にゅ、と視界に入ってきた赤い影に気づくのに、ちょっと遅れた。胸郭の上に伸し掛かる重さにびっくりしながらも、特に押しのけることもしなかった。軽く灰を圧迫する質感は、心地よさすらある。ふわ、と広がった馥郁たる香は、古い森の奥に萌えた新芽のようだった。クロエ・フォン・アインツベルンはそのままトウマを敷布団にしながら、「おはよ」と小さく呟いた。
「連絡、終わり?」
なんでもない、当たり前の会話だった。ふわあ、とあくびをするクロは、眠たげにトウマの胸元に顔を埋めている。じんわりと肌に滲む体温と淡い体臭が混交し、彼女と触れ合う肌の境界面が曖昧に溶けるような感触だった。
「終わり。今日はちょっと、休みかな」
トウマも、特に差しさわりのない会話を返した。そう、と応えると、クロはのそのそとトウマの身体の上からずり落ちる。そうして身体を起こすと、にへら、と彼女は笑った。
「変な顔」
うりうり、とトウマの頬を突っつくクロ。トウマは為されるがままにされていると、くしゃりと彼女の小さな手がくせ毛をかき分けた。柔らかい指先の感触が頭皮を擽る。くすぐったいような心地よさだ。慈愛に満ちた手付きだった。トウマはちょっとだけ身を捩った。羞恥のような照れだった。
「今日、外でも行ってみる?」クロは、くしゃくしゃと髪を触り続けている。「気分転換くらい、した方がいいでしょ」
うーん、と口腔内で声をくぐもらせる。思案するようにうーん、と続けながら、トウマはなんとなく、頭をさわさわするクロの手を取った。
指を絡めながら、ぼんやりと思考する。どうせなら身体を休めた方が良いだろうか、という自堕落且つ保守的な考えがやんわりと浮かぶ。自堕落でこそあるけれど、生活にメリハリをつけるべきという考えは正当で、そう非難されるべきことではない。完全に休養にあてるべし、とまず考えてみる。
だが、多分、それはうまくない。モラン大佐を通して“件の人物”が要求したのは、トウマたちが危険ではない人物であることを証明することだ。何事か後ろ暗い人物であるなら、信用がおける人物でなければ会いたがらないのは道理だ。多分、アジトにこそこそ隠れ回るような人物ではないだろう。むしろ、ちゃんと自分が如何なる人物かアピールすべしと考えた方が良い。それでいて、モラン大佐の物言いは「普段通り」であることを要求していた。生半に演技をしては、それこそ良くない結果になる。
畢竟。
「そうしようか」
指を絡めながら、トウマはぼんやりと応えた。応えてから、どこに行こうか、とやはりぼんやり考える。正直に言って、ホワイトチャペルを始めとしたイーストエンドは、お世辞にも観光地とは言い難い。大英図書館が近いと言えば近いが、多分あそこに行くと仕事になってしまう気がする。
「散歩するだけでもいいんじゃない?」トウマの指先をふにふにとしながら、クロもぼんやりと言った。「カルデアに居る時だって係活動でなんだかんだ忙しいし。ちょっとくらい、なーんもしない時間があっても良いと思うわ」
すん、と鼻息を吐く。要するに、彼女は、自分に休んでほしい、と思っているのだ。特異点での生活もそうだけれど、カルデアでの生活だって、気楽で過ごしていればいいわけではない。基本、他業務を兼任で請け負う設備管理スタッフと違って、マスターの2人は休養が義務付けられている。特異点攻略従事中に服用される種々の薬物の後遺症の確認やら栄養・体調管理やらで、休みとは言え完全に気が休まらないのがカルデアでの生活……というわけだ。模擬戦闘や何やらを行う際は、その都度エネルギー担当を請け負うスタッフと所長代行のロマニ双方からの許可が必要になってきたりする。
そういう仕事としての休養ではなく、完全に気抜けして休もうよ、と彼女は言っている。そう、トウマは理解した。
気を緩めるとつい思考を始めてしまいそうな自分の脳みそを散漫にさせながら、トウマは身体を起こした。壁に背中を預けて脱力すると、ちょうど自分の手をにぎにぎしているクロと目が合う位置だった。
ほんのりと、数瞬ほど目が合う。ほんの僅かだけ彼女が身動ぎするたび、さわりさわりと銀の髪が小さく揺れる。タンクトップにミニスカという出で立ちのせいで露出した四肢は、なんだか細い。かといって感じる印象は繊弱さというよりは、靭性に富んだしなやかさを思わせる。
──黒山羊の脚。
そんな言葉がふわりと頭をよぎった。
幾ばくか見つめ合ってから、クロの身体が緩慢に揺れた。うんしょ、と伸ばしたトウマの両足の上……大腿部の上にぺたんと座り込むと、手を広げて「ん」と催促とねだりの中間みたいな声を漏らした。
「だっこ」
次いでにこの一言である。羞恥も何もなく、蠱惑的をありありと秘めたクールな口ぶりは、どう考えても小学生の外見で言っていいことではないと思う。小賢しい思考などたちまちに霧散するのを感じながら、トウマはむず痒いように口角を緩めつつ、ころりんと小さく頷いた。
ぽすん、と小さな感触が胸にのしかかる。ふわりと咲いた馥郁たる薫りは、どうしようもなく黒い森の奥にひっそり開く山百合のものを感じさせる。
トウマも寝起きの軽装で、クロもやっぱり薄手の衣類である。じんわりとした体温が柔い感触と一緒に肌を伝って、我知らず、心臓の拍動が早くなる。肺胞がメープルシロップに浸されるような窒息感に、呼吸が浅くなる。トウマは恐る恐る、と手を伸ばして、華奢な彼女の身体を淡く包んだ。
「んー」
ひょこ、と顔を上げるクロ。目と鼻の先、という日本語の慣用句があるけれど、この距離感はまさにそんな感じだ。鼻の先と先、その間の距離は僅かに定規一つ分、15cmほどしかない。ちいちゃな鼻息まで聞こえてくる距離に、ぞわぞわしたと蟻走感が脊索を駆け上がった。
と、不意にクロの頬にさっと赤みが挿した。一文字に強く口唇を結ぶと、眉間に皺を寄せて難しい顔をした。羞恥やら何やらがぐるぐると渦巻いた表情のまま、クロはまた無言でトウマの胸元に顔を埋めた。むぎゅう、とさっきよりも強い力で抱きしめながら。
トウマは、ちょっとおかしくて笑った。銀の髪に手櫛をすると、毛繕いでもするように、彼女の髪を鼻先で撫でた。
今一時だけ、やんわりと、思索が解けていく。